[戦争遺跡と城跡と神櫛王の甕]
昭和19年1月24日、香川県の林村、川島村、多肥村、三谷村(いずれも現、高松市)に陸軍林飛行場(高松陸軍飛行場)の設置発表があり、328戸の民家と14戸の公共施設が強制的に移転させられた。
そして8月に滑走路が完成し、翌月には三重県の明野陸軍飛行隊が飛来、10月、飛行場施設は完成した。
当初は海軍航空隊同様、明野飛行師団による教育課程があったが、昭和20年3月末、教育課程は終了し、実戦部隊が展開する飛行場となった。
飛行場への米軍機による爆撃が度重なり行われるようになると7月25日、第六対空無線隊が編成され、由良山(120.3m)の南側に通信関係の壕や隧道を掘った。この壕群が残っているのである。
整備された登山道沿いに確認できるものは横穴壕が3本。但し、1本は掘削途中で終戦を迎えたかのように短い。
それ以外では全長25~30mほどの素掘りU字隧道(出入口が二ヶ所ある地下壕)があり、見応えがある。
横穴壕は各種物資保管壕で、隧道の方は中央部がかなり広いことから、通信所壕であろうと思われる。また、香南市の鬼ヶ岩屋洞穴にあるような、防護石積みのある陣地ようなものも見られる。
戦後、飛行場跡は高松空港になったが、空港が旧香南町に移転して以降、滑走路跡には香川大学工学部、県立図書館、サンメッセ香川臨時駐車場、香川県科学技術研究センター、香川産業頭脳化センター、産業技術研究所四国センター、タダノ技術研究所等が建設された。
由良山山頂は中世の由良山城跡でもある。王佐山城主・三谷景久の弟、兼光が由良を領することなり、由良伊豆守と名乗り、由良山城主となった。しかし伊豆守の子、遠江守景広の時代の永正5年(1508)、香西元定に攻められ、落城した。
また、戦時中は高射砲台もあったというが、城跡と共に遺構は殆ど確認できない。
登山口は東麓の清水神社になるが、この社は文献では元々由良山頂にあった旨、記述されている。しかし実際は山頂ではなく、その東方の尾根上であろうと思われる。
登山口付近の案内板には、清水神社の駐車場が登山時の駐車場のように描かれているが、飽くまで参拝客用駐車場であるため、長時間の駐車はできない。
そこからは地形図(高松南部)に記載されている破線道路(墓参等以外の一般車両通行禁止)を登るが、この道路は戦前、由良山の由良石を採石するために造られた道。
由良石は柱状節理の雲母安山岩で、藩政時代初期に採掘が始まった。昭和41年には皇居東庭の敷石としても利用された。昭和末には由良山の埋蔵量の約90%まで採掘されていた。
その後、土木工事の近代化や貿易自由化、自然保護等の観点により、’00年代に入り、採掘は終了、閉山となった。それから採石のための道路と山頂に到る道が整備され、回遊ハイキングコースが完成した。
往路は「由良山案内図」が建つ所から前述の採石道路を登るのが一般的。
連続するヘアピンカーブを過ぎるとほどなく、右手奥に一つ目の採石場跡が現れる。見上げるほどの柱状節理は迫力があるが、元々その前の地面は池状になっていたため、近づき過ぎると足首まで地面にズボッと入ってしまう。
そこから1分足らずの場所に、一番景観のいい採石場跡が現れる。こちらは「睡蓮の池」と名付けられた池に水が湛えられており、採石場の規模も大きい。
そこから2分足らずで一基目の横穴壕が現れる。全長は10mほどで、奥は左に少しカーブした地点で終わっている。
このすぐ先にも同様の規模の横穴壕が現れる。こちらは奥、右に少しカーブして終わっている。まるでさきほどの壕と地下で繋げてU字隧道とする予定だったかのよう。
道路の向きが西から北、そして東に変わると、入口に石仏が置かれた三基目の壕に達するが、これは3mほどで終わっているため、掘削途中で終戦を迎えたことが分かる。
このやや先に現れるのが最大規模の地下壕でU字隧道になっている通信所壕(上の地図)。ここは入口に石柱が建てられている。当然、入口から出口まで通り抜けるのなら懐中電灯がいる。
入口から10m位進んだ所で隧道は左に曲がり、右手に二つ連続する広間が現れる。一つ目は狭く、二つ目が広いので、後者に通信機が設置されていたものと思われる。
その一角に円形に積まれた石積みがあるが、これが蛸壺壕的防衛陣地ではないかと思われる。
中を見ると何かを燃やした跡があり、外側には鍋が放置されているが、これは戦後、恐らく昭和後期以降のものなので、本来の用途とは違う。
出口から道路に出て、先を進むと由良山頂へと登る登山道が現れるが、それを見送って道路を更に進むとまた左手に不動明王の石仏が現れる。これは大雨時、落石により死亡した採石作業員を供養するためのもので、死亡した者の親族が今でも供え物を供えている。
道路の終点が最も大規模な採石場跡で、小屋跡の土台も残る。斜面だけでなく、地下も採掘しており、そこが深い池となっている。
そこからは少し引き返し、山頂へと登る。
山頂は城跡だけに真っ平で、隅に龍王神社と石鎚神社の祠がある。三角点も山上の端の方にある。
展望は’00年代まで180度に開けていたはずだが、現在は茅が少し伸びているため、若干背伸びして展望を楽しむ。
展望は浄願寺山から鬼ヶ島、豊島、屋島、小豆島、五剣山、前田山とグルリと見渡すことができる。高松市街地のランドマーク、サンポートもはっきり分かる。
復路は東の尾根を下りるが、山頂のすぐ先は下が採石で切れ落ちているため、背が低い者でも抜群の眺望が得られる。
中腹で横道を横断するが、この横道沿いにも複数の採石場跡がある。
そこから下方にはミニ四国霊場や親鸞聖人二十四輩ミニ霊場の石仏、約130基が次々と現れる。
下り切った所は清水神社境内。境内には景行天皇の皇子・神櫛王が奉納した甕を埋めた甕塚がある。神櫛王の兄には有名な日本武尊がいるから四国屈指の古い時代のもの。
因みに景行天皇が紀元前13年から紀元130年の人物(享年143歳)で、その第四皇子である成務天皇は西暦84年から190年(享年107歳)の人。つまり、神櫛王は卑弥呼より古い時代の人物。
承和8年(841)の干ばつ時、空海の弟・真雅がこの甕を使用して祈雨(雨乞い祈祷)を行って以降、これを定式として請雨祈祷が行われるようになった。
平成24年の神事の際、塚を掘り起こすと竪穴の石室の中から、7世紀の須恵器と共に甕が出土したという(下の地図)。
現代から近代、中世、古代の各史跡を巡ることができるこのハイキングコースと絶景を是非堪能あれ。
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