悲劇の志士・窪田真吉列伝(1)~与津地屋跡と土佐西街道~ | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

[窪田真吉(真田四郎)邸跡と坂本龍馬の西街道]

過去、何度か触れた、山口市の浪士隊屯所で無実の罪により、後に海援隊士になる浪士たちに見殺しにされた変名・真田四郎、通称・与津地屋清次こと本名・窪田真吉は現在の高知県四万十町与津地に天保3年、生を受けた。

与津地は現在でも窪田姓が多いが、真吉の生家は窪田宗家だったと言われる。しかし残念ながら、生家跡は地元の古老でも分からない。

 

真吉が幼少の頃、一家は柿の木村、現在の四万十町仁井田のJR土讃線仁井田駅南東に転居した(上と下の写真が跡地)。転居した理由は家の西方に土佐四大街道の一つ、土佐西街道が走っており、与津地村よりも人口が多かったことが考えられる。ここで窪田家は魚行商・与津地屋を始めた。

因みにこれまで何度も述べてきたように、嘉永3年、坂本龍馬は四万十市の四万十川堤普請のための出張時、この土佐西街道を歩いている。

 

真吉も父・助次の行商を手伝っていたが、父の死後は行商の傍ら、土佐各地の相撲大会に「岩ヶ嶽」という四股名で出かけて参加し、怪力で名を馳せた。

相撲だけでなく、剣術にも興味があり、行商中でも郷士らが剣術の稽古をしているのを見かけると、それに加わった。これは勤王の志があったからでもある。

 

そんな頃の真吉の人柄が偲ばれるエピソードがある。真吉はある日、地元村内で、子供嫌いで有名なある男が道端で子供をいじめている所に出くわした。真吉は無言で男の襟首を掴み、殴り飛ばした。そして何事もなかったかのように、スタスタと自宅(上の地図)へ帰って行った。

 

男は怒って一旦自宅に帰ると火縄銃を持ち出し、真吉邸に乗り込んできた。そして玄関先(上の写真左側)で「こらぁ!真吉、出てこい!!」と怒鳴った。真吉はおもむろに家の中から出てくると、男の前に立って睨みつけ、「ちゃんと狙うて(狙って)撃てぇよ!絶対外すなよ!」と二度、凄んだ。するとその気迫に恐れをなした男は銃を下ろし、謝罪したという。

 

文久3年、真吉は交流していた郷士らのつてで藩の夫卒となり、上京することになる。真吉は家を出る際、お国のため、身を捧げる覚悟を妻・セイに伝え、離縁を申し渡した。これに対してセイは泣きながら引き留めようとしたが、真吉の意志は固かった。

 

セイは泣きながら乳飲み子の政恵を背負ったまま、久礼坂の登り口まで真吉の後を追ってきたが、真吉は「そればぁ(それ位)別れが辛い言うがじゃったら(言うのなら)、門出の血祭りに政恵から。」と、政恵の首に短刀を突き立てた。

セイは涙にくれながら、真吉の背中を見送るしかなかった。が、真吉を京で待ち受けていたのは、「八月十八日の政変」だったのである。

 

真吉の住居、与津地屋跡には昭和50年代まで、それを示す看板が建っていたが、跡地に建つ家が新築される際、地面がコンクリートで固められたため、看板は撤去され、真吉の存在は忘れ去られていった。しかし今年春に解説したように、四万十町観光協会では今年から真吉の顕彰を行うようになった。その一助に拙著「長州・龍馬脱藩道」がなったことは以前も述べた。

 

真吉や龍馬が通った与津地屋跡周辺の土佐西街道は今でも残っている。まず、仁井田の神有バス停の十字路を東に折れる。すぐ道路は南に向きを変え、田の中に突入して野良道に変わる。道端には地蔵も残っている(4枚目の写真とその下方の地図)。

 

ほどなく、古道は一旦また車道に変わり、国道56号に吸収されるが、JRの第四神有踏切を渡るとまた狭い車道となって道筋が蘇り、その後、仁井田小学校に阻まれる。そこで一旦国道に回って仁井田駅ホームに上がった後、校庭の南沿いを東西に走る水路沿いを歩き、校庭から南下する街道(コンクリート歩道)に出る(上の地図とその上の写真)。

ここからまた畑の中を通るが、ほどなくコンクリート舗装は終わり、刈り分け道となった後、JRの線路に吸収される。

 

高杉晋作が募った決死隊に入り、長州の佐幕派と戦う真吉の活躍に期待する、という方は次のバナーをプリーズクリック。