お龍、土佐和食(わじき)へ(11) | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

[絵金宅隣りの俳人と遊郭]

解説板の見出し「絵金画房蔵跡」の横には「俳人・徳弘梅左(ばいさ)屋敷跡」とも記されていることから、これを見た者は、絵金画房跡(跡地の畑の西寄り)の東の宮谷邸跡(南北の小径側)と梅左邸跡は同一だと思うかも知れないが、赤岡町史旧版には、宮谷邸と梅左邸は前述の南北の小径を挟んで向かい合っていた旨、記述されており、写真も掲徳弘邸跡(左)と宮谷邸跡(右) 載されている。恐らく小径の東側の住民が解説板設置を拒んだのだろう。


 

梅左は天保14(1843)、香美郡山田村(現、香美市土佐山田町)に美濃派俳人・徳弘其舟(きしゅう)の子として生まれた。

梅左も俳人として父と共に子弟の指導にあたっていたが、幕末には藩の下級役人、明治期は赤岡町役場の書記としても出仕していた。

明治13(1880)には、俳友の中沢得治(松風)の追善句集で序文執筆や選句を担当した。


徳弘梅左邸跡

宮谷家の東の家に引っ越してきたのは明治21年で、その家も小松与右衛門の家作だった。

有名な句の一つ「秋の山海を隔てて暮にけり」は、その居宅南側の座敷から赤岡海岸を望んだ時、作ったものだと言われている。


 

小径を北上すると東側に(2)で触れた「菊水楼と検番」の解説板が建っている。(2)の記事を投稿した時は、このシリーズを三回以上、続けようとは思ってなかったので、菊水楼と検番の具体的な跡地は分か検番跡 らなかったが、その後、郷土書を買い求め、市の教育委員会に出向く等して聞き取り調査を行い、同定できた。


 

解説板は民家の小さな裏庭沿いに建っていることから、菊水楼と検番の建物がどれか分からないと思うが、裏庭のように見える(?)所を通らせて貰うと、通路の扉の奥に検番の二階建ての建物が見えている。

検番は地域の芸妓や娼妓の組合的存在で、客席への手配や玉代の清算業務等を行う施設である。


 

小径に戻って北進するとまた土佐東街道に合流する。菊水楼跡 そこの三叉路を東に折れて右手に二軒目の川村自転車店が遊郭・菊水楼跡である。側面の外壁には水切り瓦も設けられているが、街道に面した二階部分を見ると「如何にも」という雰囲気が残っている。

ここの遊郭は人気があったようで、高知市で宴会を行った後、人力車を連ねてくる客もいたという。


 

龍馬も高松順蔵邸や須藤楠吉が住職を務めていた正福寺へ行く際は寄ったかも知れない。

戦後は当然、「遊郭」から純粋な「料亭」へと変わったことと思うが、昭和30年頃まで営業していた。


 

ところで(2)で触れたように、歴史小説家・鏡川伊一郎氏は実家が菊水楼跡であることを以前、ブログで述べていたが、公表されていた父親の苗字は検番建物の住人の姓でも川村姓でもなかったように思う。いや、私の記憶違いか・・・?

正確な記憶でシリーズを完結してほしい、という方は下のバナーを

にほんブログ村 歴史ブログ 坂本龍馬へ
にほんブログ村