お龍、土佐和食(わじき)へ(2) | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

土佐東街道(藩政期の呼称は阿波路)は香南市の旧赤岡町に於いて、国道55号の東から北側に並行して南下・東進しており、赤岡の商店街を通って、以前紹介した土佐勤王党結成の謀議を行った佐田屋のやや西方で旧香我美町岸本に入る。


 

藩政期の赤岡村は商業のまちとして発展していたが、その反面、土佐有数の賤民部落として現代まで暗い影を落としてきた。以前紹介した逸話、高松順蔵が村の不良に野良犬をけしかけられたのも、そ須留田八幡宮御旅所 ういう土地柄だったからだろう。ただ、勝手に穢多に指定された地域住民には罪はないため、犬をけしかけたのは非人身分の者だろう。


 

現在、赤岡の町は「絵金のまち」として絵金蔵(えきんぐら)と弁天座を拠点に地域活性がなされており、まち歩きの簡易マップも作成され、藩政期の各史跡には看板も設置されている。

尚、今回の赤岡中心部の探訪は、以前解説した佐田屋跡探訪のついでに短時間で行ったものであり、特に資料収集は行っていないため、龍馬と交流した人物(須藤楠吉)関連地の写真も撮影していない。


 

赤岡商店街の起点は香宗川に架かる赤岡橋で、橋の北袂濱五郎兵衛屋敷跡 西方には茶屋や下街馬車立場があった。

南下する商店街は菓子店・西川屋前で二手に分かれる。藩政時代前期、土佐東街道が参勤交代道だった頃、西川屋がケンピを参勤時の藩主に献上したところ、たいそう喜び、以後、度々藩主から注文書が届くようになった。


 

西川屋から東に分岐する商店街は「弁天通り」というが、東街道はそのまま南下し、T字路に突き当たった所で東に折れる。この通りを「本町通り」と言う。

最初の十字路(歩道を含む)は「札場の辻」と言い、南東角には藩の御触書を掲げる高札場があった。そこを南に折れた東側にはつるべ落としの井戸があるが、かつては公共の地だったため、藩政期よりここに井戸があったのかも知れない。

その南は須留田八幡宮の御旅所で、大神宮とえびす社を祭っている。


 

数軒東の次の十字路を北に折れると絵金蔵(まち歩きマップが置昭和の日和佐城 かれている)と弁天座があるが、絵金蔵南隣のJA赤岡支所・図書館の建つ地には赤岡浦大庄屋・濱五郎兵衛屋敷跡の看板が立っている。


 

濱氏の始祖は阿波・日和佐城主・日和佐権守正儀だが、主家・細川家の没落により、所領を失い、大坂で浪人生活を送っていた。その時、秀吉に会いに行っていた長宗我部元親と出会った。元親とは昵懇の間柄で、元親から土佐で希望の領地を与えると言われ、慶長元年(1596)、赤岡を選んで移り住んだ。


 

長宗我部元親死去後の慶長5年、山内康菊水楼跡一角か 豊が浦戸城に入城した際、長宗我部遺臣の一領具足一揆が起こると山内氏の命により、これを鎮めた。その功により濱家は赤岡浦大庄屋を拝命、代々世襲されることとなる。


 

十字路に戻ると東街道の東進を続ける。右手に二軒過ぎ、東角に駐車場がある歩道のT字路かその南に「菊水楼と検番」の看板が立っていたと思う。菊水楼は赤岡屈指の遊郭で近代、高知市から人力車に乗って来る客もいたという。尚、菊水楼主人の子孫は歴史小説家の鏡川伊一郎氏ではないかと思われる。


 

看板には菊水楼と事務所である検番が残っている旨、記されていたが、見たところ、それらしき建物は分からなかった。跡地はマルサン電器駐車場、国吉工業、川村自転車店、野島氏宅、北村氏宅、植田氏宅辺りではないかと思われるが、まち歩きマップでは植田氏宅辺りになっている。しかしその家屋は通りに面していない。

 

PS:その後の調査で、菊水楼本館は川村自転車店で、検番は前述の通り、植田氏邸であることが判明した。

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