速報!坂本龍馬が徳島県東部にも滞在していた | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

≪上京途次の海路にて≫

以前、現代龍馬学会にて発表した「四国龍馬街道」に関する論文を画像で紹介したが、その最後の方で、龍馬記念館初代学芸員との質疑について触れた箇所があったのを覚えているだろうか。


学会総会にて、当方が論文を発表した後、その元学芸員から質問があった。自分は徳島県東部に於いて、龍馬が海路にて大時化に遭い、船を避難させた地で宿泊した、という伝承地を調査したが、記録もなく、気象協会に問い合わせてみても、そんな大時化は起こってなかった、という回答があった。なのになぜ、春野先生は記録にもない鎌村熊太のことや、その時、龍馬が歩いた街道を、これほどまで熱心に調査されたのか、という趣旨の内容である。


それに対し当方は、「大事なのは記録ではない。記録と称する日記等にしても、誤り自然、戦跡、ときどき龍馬-写真左から右奥へと龍馬の船が は多々見受けられる。瀬戸内海を航行する現代の船でも、例え大時化でなくとも欠航することが多々あることは私自身が経験済である。

記録の誤りを正すため、当該地での伝承や古老の口碑を参考にすることがある。つまり、ある意味、伝承というものは、記録よりも正確であるとも言える。その伝承の正否を調べるため、古文献等を参照する。


それに大切なのは記録があるか否かではなく、当該事象の背景を探ることにより、そこに龍馬が[存在した]ことの可能性を見極め、より多くの龍馬の事績を発掘して広く紹介し、龍馬の功績を称え、地域の誇りとする、そういうことの方が意義あるのではないだろうか。」と答えた。そうすると会場から拍手が起こった。当方が史跡や街道に拘る理由はそこにある。


さて、その元学芸員が過去、調査したという徳島県東部の龍馬滞在所跡だが、先日、地元教育委員会の協力を得て、地図上で同定することができた。

尤も、その龍馬の伝承地が目当てでその地へ行く訳ではない。その北方の市町村に、某島(全島企業の所有)の海軍特攻基地の銃座が移設されている、という情報を得て、更にそことは別の島には、今でも別の部隊の海軍基地跡が残っている、という情報を掴んだので、そこへ行く道中に立ち寄るのである。以前も述べたように、帝国海軍の前身は海援隊であるから(そのため、桂浜の龍馬像は供出を免れた)、海軍の戦跡を巡る意義はある。


その龍馬滞在所跡の存在はネットでは公開されていないのだが、調べてみると旧町史に記載されていることが分かった。龍馬滞在時、龍馬と会話した者から直接聞いた、という口碑である。町史の記載文章は、学芸員(一般的な)が記述する企画展の解説文章以上に重みがある。故に記録がないからと言って軽んじることはできない。


前述の海軍の基地跡が残る島への定期船は、毎週のように欠航便があるため、当方が行く時も欠航するかも知れない。しかし無事出航すれば、また記事を投稿したい。

欠航しないことを祈る、という方は次のバナーをプリーズ・クリック

ブログランキング