[八幡宮常夜燈~大崎の渡し]
八幡宮常夜燈から左手に五軒過ぎた所のT字路南東角辺りは、高札場跡であると言われている。その東には正方形の広い田が広がっているが、ここの地名を「風呂屋」という。ここでは、旧円応寺(風呂屋の東方にあった)が庶民への施しとして、風呂屋を運営 していた。
そして寺の道を挟んだ北には藩の御米蔵が明治10年まであった。幕末の絵図にも建物らしきものが描かれている。
脱藩の道は北へと 進むが、ほどなく大きく左カーブを描いた後、すぐまた向きを北に戻してJR山陽本線を抜ける。このカーブは幕末の絵図や明治期の地形図にも描かれており、歩道から車道に変わり、若干幅員が広がったものの、ルートは全く変わっていないことが分かる。
そこから数分も経ず、ルートは県道187号と交差する三叉路の南西部を通って、合流・横断するが、県道を越えた地点から再びアスファルト歩道に戻る。道は左に右にと、緩いカーブを描くが、当然このカーブも絵図や地形図旧図に表現されている。
五差路を越えると未舗装車道に変わる。そして左手に久々に往還の名残、法界地蔵が佇んでいる。
2分ほどで東西に走る二車線道路に合流するが、この道路が以前触れた頓蔵主(とんどす)土手跡で、佐波川沿いを走る山陽 道に並行している。その時述べたように、北進して山陽道に出てから西に折れて進むより、頓蔵主土手を西進し、大崎の渡しへ向かった方が近道で、土手は絵図にも赤線道として描かれている。
この土手は度重なる佐波川の氾濫による洪水被害を防ぐために造成された二重堤で、旧植松八幡宮跡から開出西までの1.3kmに亘って築かれていた。この土手の築立法は頓蔵主という僧が考案したものだが、造成以降、この土手も決壊した記録がある。
近代に入ると治水も進歩し、大正7年、土手は 役目を終えて底から削り取られ、広い道になった。
昭和期まで頓蔵主土手跡道路の突き当たり付近に植松八幡があり、八幡東で頓蔵主土手と山陽道は合流していた。そこから下関まで、脱藩の道は山陽道と重なる。山陽道は八幡の南側を迂回し、大崎の渡しに達していた。渡し跡は現在の八幡の北西方向辺りになる。
車道の大崎橋西に歩道の橋が架かっているので、これで佐波川を渡る。
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