病院の薬を待つ間に龍馬関係者宅跡を探訪・前編 | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

一昨日、一年ぶりにぶり返した頻尿(去年時より症状が悪化)治療のため、高知市大川筋の近森病院へ行った。去年2月の救急搬送時の対応が悪かったため、行きたくない病院だったが、検査データがあるため、通院せざるを得ない。



そんな忌々しい病院だが、いいことと言えば、専用駐車場を終日無料で利用できる点。故に診察が終わってから近くの薬局で薬を渡されるまでの間(調剤時間中)近くの坂本龍馬関係者宅跡を回ることにした。



病院に一番近い所と言えば、大川筋一丁目1-10の岡田以蔵宅跡。跡地は「高知病院」の敷地に含まれていると言われている。その辺りは戦国期位まで、七軒の家しかなかったため、自然、戦跡、ときどき龍馬-岡田以蔵宅跡 藩政期、「七軒町」と呼ばれていた。



以蔵はあまりにも有名過ぎるため、ここで解説するまでもないが、ご存知の通り、「土佐勤王党の獄」で投獄された際、拷問に耐え切れず、勤王党の罪を吐露してしまったことにより、明治期になっても贈位されなかった。但し一説には、以蔵のことを信用していなかった仲間の勤王党員が、以蔵を獄中で毒殺しようとしていたことを以蔵が勘づき、復讐の意味で吐露したと言われている。



次は反対方向に引き返し、同じく勤王党の獄で投獄され、切腹した間崎滄浪(哲馬)邸跡。以前も解説したように、拙宅の近所に間崎一族子孫が居住していたことを知ってから、より興味を持つようになった。屋敷跡は北本町一丁目4-26、龍馬学園南東の自然、戦跡、ときどき龍馬-間崎滄浪宅跡 十字路南西角に石柱が建っている。



滄浪も土佐の幕末歴史ファンなら知らない者がいないほど有名。遠祖は一條氏の家臣。間崎家の本拠は四万十市間崎で、庄屋等を務めていた。滄浪は嘉永2年、江戸に遊学して安積艮斎の門人となり、塾頭に選出される。帰国後は現在の石柱が建っている地で塾を開き、塾生は300名を越え、それが藩に認められ、徒士格に登用されている。それからは各地の役人として転々としたが、須崎での活動はよく知られている。



文久2年には再び江戸へ上がり、時勢分析や情報収集活動、政治工作等を行っていたが、12月には龍馬や近藤長次郎と共に松平春嶽に謁見している。

が、同年末、藩政を完璧な尊攘思想にすべく、京で平井収二郎らと謀って青蓮院宮の令旨を受けたことが山内容堂公の逆鱗に触れ、翌年6月、切腹させられている。



そこから西に歩いてすぐの所が、脱藩の道須崎ルート説根源の・・・「後編」へ続く。

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