≪伊能忠敬の測量時の宿所≫
天満神社参道口に戻ると、北西のY字路を歩道の方へ右折する。この道は三軒過ぎると十字路に出る。ここから西方の後述する旧柴屋住宅までは、よく観光ガイド書等の写真で写る場所であり、道の両側には旧家がずらっと並んでいる。もしかしたら「ももへの手紙」や「旅の贈りもの」にも一部、登場したかも知れない。
十字路北東隅の北川家住宅(醤油醸造所とは別家)は、入
母屋造本瓦葺、妻入りの町屋。表側の部分は宝暦9年(1759)の大火直後の建設で、それ以外の大半は藩政時代後期、奥座敷は明治後期の建築。
その西向かいの高田家住宅は安永6年(1777)建築の町屋。その西隣が、豊町観光協会が入る潮待ち館。この建物は近代のものか。観光協会は電話では驚くほどの無愛想だったが、実際に訪ねると 愛想は悪くなかった。営業の仕事をしていた時も、このような経験は何度かあった。
館内では島の特産品が販売されているが、ももの家のモデルとなった飛彈家住宅が記載された史跡パンフレットも置いている。
潮待ち館の対角線にある川崎家住宅は天保年間(1830~44)の建築。主屋と蔵が連続した珍しい構造。
その二軒西の突き当たりにある旧柴屋住宅(菊本家住宅)は、文化3年(1806)2月30日より3月3日まで、伊能忠敬がとびしま
海道の各島を測量時、滞在した旧柴屋本宅。柴屋の高橋家は御手洗の初代町年寄で、文化7年には、広島藩8代藩主・浅野斎賢公の本陣にもなっていた。当時は東隣の家や南向かいの家、前述の川崎家も家地だった。
しかし高橋氏は文化6年に大崎上島で開始した製塩業が失敗、家屋は全て差し押さえられ、没落した。
屋敷は幕末、大長出身の菊本伝助が買い取り、米問屋を営み、大正期は船具・金物店に転じ、昭和50年代後期まで続いた。
現在の家屋は文化年間初期位の建物で、
奥座敷は藩政時代後期に増築されている。内部は資料館のようになっており、近代の生活道具等が展示され、無料で見学できる。
蔵のような建物は伊能忠敬のミニ資料館になっており、藩政期から近代の測量関係の道具等が展示されている。
柴屋西隣の今崎家住宅は18世紀前半の町屋。切妻造平入りで本瓦葺屋根の厨子二階をもった二軒長屋。
今崎家西の三差路は右折し、一軒過ぎた先の三差路も右折して海岸沿いの県道に出るとまた右折する。そこからほどなくして、「ももへの手紙」や「旅の贈りもの」で描かれた風景が広がってくる。
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