≪お馬、自分が主人公の芝居を観る≫
池ノ内の土居家には連日、お馬見たさに大勢の者が押し掛けたという。そんな土居家をよく訪れる若い男がいた。土居家の屋敷の修繕をしていた大工の寺崎米之助である。彼はお馬より9歳年上だったが、お馬を好奇の目で見るようなことはせず、普通の女性と変わらず接していた。二人が惹かれあうのに時間はかからなかった。
翌年、二人は結婚した。住まいは同じ 池ノ内で、土居家の親戚筋にあたる森家の南下に、米之助自ら新居を建設した。森家は農家で楮を栽培していたが、繁忙期はお馬も手伝っていたという。また、森家の娘、お市とは仲が良く、互いの家を頻繁に行き来していた。
この近所には直径五尺の共同井戸があり、お馬は毎朝水面に顔を映し、髪型を整えていたという。その「お馬姿見の井戸」は残念ながら平成初期、撤去されてしまい、前述の森家とは別の親類の森家の未舗装駐車場になってしまった。
結婚の翌年、安政5年には長男、徳太郎が誕生し、以後、他に三人の子を儲ける。その徳太郎が10代前半時、須崎中心街 に旅一座が廻って来て、純信とお馬の舞台を始めた。須崎の街ではかなり話題となり、徳太郎もお馬に小遣いを貰って観に行った。しかし徳太郎は芝居が終わる前に芝居小屋を後にして帰路に着いた。お馬がその訳を聞くと徳太郎は
「あんな芝居はよう観ん(観ていられない)。坊さんとおなん(関西弁の「オカン」と同義か?)が抱きおうて、舐め合(お)う たり、吸い付いたりして、しまいに屏風の陰へ入った。もうこれ以上よう観んき(観ていられないから)、もんて(戻って)来た。」と言った。お馬は
「馬鹿言いな(言うな)!なんぼ言うたち(いくらなんでも)、あたしゃあ、そんなこたぁせんぞね!そらぁ、金儲けのための芝居屋の作り話よ!」と憤慨し、事実を確かめるべく、翌日芝居を見に行った。
お馬が芝居を観て帰って来ると、隣人に感想を聞かれ、
「なまじ似いた(似た)ことをするもん よのうし。」と答えたという。
米之助は、家族が増えてくると、仕事ももっと多くこなさなくてはと、一家で須崎の街中へ移った。以後、街中を二回ほど転居する。最後の転居先が、現在の須崎小学校敷地南西隅のプールのある地である。
明治18年、徳太郎は東京鴻台陸軍教導団施設建設の大工として採用され、東京へと旅立った。その数ヶ月後、お馬一家も後を追って上京することになるのだが、その直前、お馬は森家に行き、「お別れの印に」と銀のかんざしをお市に渡した。残念ながらそのかんざしは森邸の建て替え時、紛失している。
お馬は東京へ転居して18年後の明治35年、次男夫婦に見守られながら息を引き取った。享年66歳、恋多き美少女は、純信が国外追放後、自分に宛ててしたためた恋文の存在を知ることなく、一生を終えた。その恋文を隠蔽したのは、坂本龍馬とも親交が深かったある人物なのだが、それは次回の最終回で。
[史跡ガイド]
① 森家(須崎市池ノ内325番地)
幕末時の森家の家も米之助が建てた。子孫健在。
② 最初のお馬一家邸跡(森家の南下)
現地に木製の「お馬さん屋敷跡」標柱が建っているが、公道沿いに道標はない。跡地にはビニールハウスが建っている。たまによさこいファンが訪れるらしい。
③ お馬姿見の井戸跡(池ノ内292番地)
井戸はないが、石積みの水路跡が残る。
④ 最後のお馬一家邸跡(須崎市東糺町2-9)
市立須崎小学校のプールのある場所。
※①~③の場所は文章では説明し辛いため、拙著「龍馬が辿った道」(お馬の津野町と須崎市、高知市五台山麓の各伝承地及び、土佐市の純信伝承地を図入りで解説)を参照のこと。
※貼付写真の川村君は現在の土佐おもてなし勤王隊の中岡慎太郎役。その舞台「純信・お馬」は’03年、かるぽーと開館記念公演として開催されたもの。私は思案橋番所役人役。
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