終戦翌日に全滅した第128震洋隊の概要 | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

私が剣山に出かけて留守にしていた三日間に、「128震洋隊」での検索による訪問が12件、「震洋」による検索訪問が18件あったので、改めて128震洋隊についての記事を投稿することにしました。

 

昭和208月16日、誤報による出撃準備中、住吉海岸に並べていた水上特攻艇・震洋の全てが爆発し、隊員111名が爆死し、部隊が全滅したことは去年の8/15に投稿したので、今回は隊のあらましを紹介しましょう。


 

《海軍第23突撃隊配属第128震洋隊の概要》自然、戦跡、ときどき龍馬-震洋

部隊編成日=昭和2055日、長崎県川棚基地にて。

 

編成=総員(補充員4名を含む)171名(士官7名、搭乗員48名、本部付14名、整備員31名、基地隊員71名)。


配備艇=震洋五型25隻(記録上の数)

 

日、鉄道にて(基地の最寄駅は土佐電鉄安芸線10520=昭和手結基地への進出住吉駅→昭和49年廃線。現在、安芸線を踏襲する形自然、戦跡、ときどき龍馬-第128震洋隊搭乗員 で土佐くろしお鉄道御免・奈半利線が運行)。

 

手結基地の場所=高知県香南市夜須町手結山住吉


基地の概要

兵舎:手結山1557番地周辺(跡地に民宿住吉荘や手結山老人憩いの家等が建つ)

 

竹中隊長の宿舎2番壕北側のY田氏宅二階

 

震洋格納等の壕:住吉神社参道口北側に1~2番壕、夜須消防団手結山部屯所東の道周辺に3~6番号、屯所周辺に7~8番壕、手結山898番地から905番地周辺に9~10番壕(燃料庫壕の可能性大)、西分漁港北西の民家西辺りに11番壕。自然、戦跡、ときどき龍馬-手結港

 

128震洋隊関連基地=魚雷艇隊手結基地

震洋や回天出撃時、魚雷艇もその援護のため出撃するにつき、震洋や回天の基地の近くには、魚雷艇隊基地がある。

 

魚雷艇は3隻手結港に係留しており、魚雷や爆雷等の格納壕は、手結港可動橋南袂から南の道路の山際に数本あった。

また、手結港北東の国道から旧国道へ入った所の山際に二本の燃料庫壕が掘られていた。

 

8月16日の爆発の前兆=最初の爆発が起こる半時間ほど前、三浦清重少年兵が一隻の震洋艇のテスト用タンクからガソリンが漏れていることを自然、戦跡、ときどき龍馬-掘り起こされた壕跡 発見、整備員に報告したが「何を生意気なことを言うか!」と一蹴された。

 

一回目の爆発=上記艇の燃料に引火して炎上、横田、又場、国田隊員らが消火作業にあたったが、タンクが爆発、三人は火達磨となり、井戸に飛び込んだ。

 

但し、国田隊員は地面を転げ回っていたところ、青野少尉に担がれ、井戸へ浸けられている。

 

その十数分後、再びその艇の艇首炸薬が爆発、次々と他の艇も誘爆し、搭乗員全員と青野少尉を含む111名が一瞬にして爆死した。

 

敵艦発見の誤報について=第23突撃隊司令本部にもたらされた「土佐沖に敵艦群見ゆ」の報については、今日に至るまで、発信源や発信者自然、戦跡、ときどき龍馬-震洋搭乗員像 等、一切判明していない。

 

一説には漁業を再開した漁船を見間違ったとか、横須賀に向う米国艦隊だったとか、諸説あるが、推測の域を出ない。

 

戦後慰霊=町では戦死者の永代供養を手結の真行寺に依頼、命日には地元民らが寄り合い、追悼式が執り行われるようになった。

 

昭和31年、奉賛会が結成され、浄財を集め、住吉神社参道口に慰霊塔を建立。

昭和56年、元隊員らにより、慰霊塔そばに震洋搭乗員像を建立。

昭和60年代初頭、元隊員の一人が町による厳戒態勢の下、1~2番壕を重機で掘り起こし、爆発時に生き埋めになった隊員の遺骨や震洋艇台車の残骸等を掘り出した。

 

今日も住吉神社参道口の慰霊塔前では慰霊祭が行われました。塔のそばに建つ搭乗員像は、生きて帰ることのできなかった故郷に思いを馳せているようでした。

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