吉村虎太郎・庄屋転任道(5・完)天誅組への胎動 | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

明王寺から数分南下すると宮谷第一号橋袂に到りますが、地形図(図名=新田)を見ると、ここから宮谷川の西沿いを南下する車道が描かれています。



その車道は現在、下草が生え茂り、とても車が通行できる状自然、戦跡、ときどき龍馬-宮谷川沿いの往還 態ではないのですが、これが往還跡なのです。道幅は軽四一台が通れるほど。藩政期と比べても、あまり道幅の拡幅は行われていないのではないでしょうか。



蛇行する宮谷川の道下には石垣が築かれ、往時の風情があります。

左カーブが終ると三叉路になり、その先に農機具倉庫がありますが、ここが前回解説した、つべかえり地蔵が安置されていた宮木茶堂跡吉村虎太郎も幾度となく、腰掛けて休憩したことでしょう。



その倉庫周辺だけは下草が刈られ、軽四も 通行できる状態ですが、右カーブを越えると再び草道になり、樹林の中に突入します。もはやここから先は、とてもこの自然、戦跡、ときどき龍馬-宮木茶堂跡 道が車道であるとは思えない状態。鬱蒼とした中を進みます。



一旦、路面状態がきれいになり、切通しを抜けて右にカーブすると、今までにない藪となり、夏場は藪漕ぎを強いられます。


ここから先は「真実の龍馬脱藩道」の津野町編で解説しました。終点の梼原庄屋跡までは坂本龍馬の「真・脱藩道」と同じです。



虎太郎が梼原庄屋に転任したのは安政六年(1859)。それまでの梼原庄屋は悪政を敷き、農民らの積立金をも横領する始末でした。


そこで虎太郎は石造金庫(現存)を造り、絶対、何人(なんびと)とも勝手に積立金を流用しないよう、管理を徹底し、村民の信頼を得るようになります。自然、戦跡、ときどき龍馬-往還の切通し部



その二年後には藩を抜け、長州や九州の志士らと攘夷について会談。


その年、文久二年二月に帰国。武市瑞山に脱藩を促すものの、瑞山は挙藩一致に拘っていたため、同郷の宮地宜蔵と大洲藩長浜の冨屋金兵衛邸で会う約束をし、九十九曲峠から脱藩



一旦長州下関・白石正一郎邸に滞在。その後薩摩藩軍の上京に合流すべく京へ向うものの、逆に薩摩側に捕らえられ、土佐に護送、投獄



が、年末、間崎滄浪らの働きかけによって、恩赦で出獄。翌年二月、藩に偽りの届けを出し、上京。多くの志士や公卿らと交わり、八月十四日、倒幕を掲げ、天誅組総裁として大和に旅立ち、壮絶な最期を遂げることになるのです。



虎太郎の活躍と最期については、拙著「龍馬が辿った道」を、庄屋転任道については「長州・龍馬脱藩道」を参照下さい。

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