明王寺から数分南下すると宮谷第一号橋袂に到りますが、地形図(図名=新田)を見ると、ここから宮谷川の西沿いを南下する車道が描かれています。
その車道は現在、下草が生え茂り、とても車が通行できる状 態ではないのですが、これが往還跡なのです。道幅は軽四一台が通れるほど。藩政期と比べても、あまり道幅の拡幅は行われていないのではないでしょうか。
蛇行する宮谷川の道下には石垣が築かれ、往時の風情があります。
左カーブが終ると三叉路になり、その先に農機具倉庫がありますが、ここが前回解説した、つべかえり地蔵が安置されていた宮木茶堂跡。吉村虎太郎も幾度となく、腰掛けて休憩したことでしょう。
その倉庫周辺だけは下草が刈られ、軽四も 通行できる状態ですが、右カーブを越えると再び草道になり、樹林の中に突入します。もはやここから先は、とてもこの 道が車道であるとは思えない状態。鬱蒼とした中を進みます。
一旦、路面状態がきれいになり、切通しを抜けて右にカーブすると、今までにない藪となり、夏場は藪漕ぎを強いられます。
ここから先は「真実の龍馬脱藩道」の津野町編で解説しました。終点の梼原庄屋跡までは坂本龍馬の「真・脱藩道」と同じです。
虎太郎が梼原庄屋に転任したのは安政六年(1859)。それまでの梼原庄屋は悪政を敷き、農民らの積立金をも横領する始末でした。
そこで虎太郎は石造金庫(現存)を造り、絶対、何人(なんびと)とも勝手に積立金を流用しないよう、管理を徹底し、村民の信頼を得るようになります。
その二年後には藩を抜け、長州や九州の志士らと攘夷について会談。
その年、文久二年二月に帰国。武市瑞山に脱藩を促すものの、瑞山は挙藩一致に拘っていたため、同郷の宮地宜蔵と大洲藩長浜の冨屋金兵衛邸で会う約束をし、九十九曲峠から脱藩。
一旦長州下関・白石正一郎邸に滞在。その後薩摩藩軍の上京に合流すべく京へ向うものの、逆に薩摩側に捕らえられ、土佐に護送、投獄。
が、年末、間崎滄浪らの働きかけによって、恩赦で出獄。翌年二月、藩に偽りの届けを出し、上京。多くの志士や公卿らと交わり、八月十四日、倒幕を掲げ、天誅組総裁として大和に旅立ち、壮絶な最期を遂げることになるのです。
虎太郎の活躍と最期については、拙著「龍馬が辿った道」を、庄屋転任道については「長州・龍馬脱藩道」を参照下さい。
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