昨日「樋口真吉墓」と、その場所に関することで当方ブログを訪問された方があったようですが、幡多(高知県西部)勤王派の首領・樋口真吉の墓は、案内板等一切なく、非常に分り辛く、私も二回目にしてやっと発見することができました。
しかし、いざ発見してみると、本来、その道順は非常に分かり易いもので した。
真吉のことは高知県下の坂本龍馬ファンなら知らない者はいないほどで、数年前、龍馬記念館で企画展が開催され、去年は真吉の地元にある四万十市中村の四万十市立郷土資料館でも特別展が開催されました。
真吉は龍馬より20歳年上で、足軽の家の生まれですが、九州の柳川藩に出向いて「大石新陰流」の剣術免許皆伝を受け、帰国後は自宅に道場を開き、学問や剣術を教え、門弟は1,000人にも及びました。
文久元年には高知城下の奉行所の下役となり、武市瑞山その他の勤王志士とも交流し、土佐勤王党には門弟から何人も加入しています。また、真吉の思想は龍馬にも影響を与えたとされています。
その他、佐久間象山、西郷隆盛等とも交流し、長崎では帰国したジョン万次郎とも会っています。
龍馬との関りで記録が残っているものでは、龍馬が脱藩後、関西で会い、路銀に困っていた龍馬に一両を与えたことや、暗殺される一ヶ月前、龍馬は土佐勤王党員の望月清平宛の手紙の中で、近江屋は危険故、それに替わる宿所を真吉に周旋してくれるよう、依頼しています。それだけ、真吉と龍馬は昵懇の仲だったのでしょう。
四万十市では近年、真吉人気のため、真吉のミニリーフレットを作り、屋敷跡にも碑を建てているのですが、どうしたことか、リーフレットにも記載している、墓所については全く案内板を設置せず、場所の問合せについても、的確な回答をしていないのです。
私は墓所が市役所南方の羽生山にあることは分かっていたのですが、一回目の探訪時には発見できず、その足で市の教育委員会を訪ねたところ、「墓の場所は口で言っても分からない」と言われ、地図を手渡されただけでした。
その地図にはマークがされていたのですが、そのマークの箇所には何百もの墓があります。
そこで再度、そのマークの辺りをしらみ潰しに探し、ようやく発見することができました。しかし発見してみれば、その場所は本来、分かりよい場 所だったのです。
誰もが分かる、その道順を解説すると、まず、南西角にパチンコの「パーラー平和大橋通り店」のある中村大橋通五丁目の交差点を南に入ります。
すぐ現われるY字路は左折し、その先の三叉路は右折。そして右手の民家とその南のグリーンマンションとの間にあるコンクリート歩道(一枚目画像)に入ります。
この道は羽生山の山際に突き当たると、右に折れます。
途中の分岐は無視し、真っ直ぐ進み、道が未舗装の自然の道になると、「泰作さん(土佐の昔話に登場するどくれもんですが実在の人物)の墓」と一つの墓地道を挟み、遠近鶴鳴(真吉も門人となっていた学者)の墓へ向う道との三方向に道は分かれます。実際は南側に上がる墓地道もあったと思うので、五叉路ということになります。
ここを、泰作さんの墓への道と遠近の墓所に向う道との間の墓地道に取ります。つまり、直進する訳です。
この道は共同墓地に上がるとすぐ、左にカーブするのですが、そうするとすぐ右手の北方向に目をやって下さい。
某宗教団体の「世界人類が幸せでありますように」と記された白い宣伝ポールが墓地の中に見えます。そこが真吉の墓所で、「樋口家之墓」の側に真吉の墓があります。
カーブを描く墓地道が反転して北側に回りこんだ辺りの右手に遠近の墓があり、そのまま南東に進んで墓地を抜けるとさきほどの五叉路に戻ります。
因みに五叉路を南に上がって行き、頂上のやや下方から尾根の西直下を南下して行くと、陸軍の素掘り壕(三枚目画像)がいくつかあります。
帰路は元来た道を帰ってもいいのですが、五叉路から引き返す途中の三叉路から北に下り、石段を下り、住宅街に出ると左折し、国道439号を横断、先日紹介したお徳の家跡を巡った後、北の天神橋アーケードに出て左折し、突き当たりを北に折れ、更に三叉路に突き当たると右折し、その先の真吉邸跡(四枚目画像)に寄る等の街歩きをするのもいいでしょう。
更に北方には真吉も勤務したことのある幡多郡奉行所跡や地元の志士の屋敷跡が点在しています。
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