吉村虎太郎・庄屋転任道(1) | 次世代に遺したい自然や史跡

次世代に遺したい自然や史跡

毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

去年春、高知県津野町教育委員会が拙著「龍馬が辿った道」を参考にして、船戸トンネル周辺と当別峠西方の「真・脱藩道」の一部を整備したことは以前、述べましたが、同時に坂本龍馬の脱藩の、直接的きっかけを作った天誅組総裁・吉村虎太郎生家周辺の古道も、約七割方整備していたのです。

自然、戦跡、ときどき龍馬-吉村虎太郎も休んだ力石茶堂


虎太郎は土佐勤王四天王の一人で、あまりにも有名で且つ、略歴は前述書に記しているので、ここでは詳細は語りません。


龍馬の脱藩のきっかけを作ったことも有名ですが、虎太郎自身、土佐の勤王志士の中では最も多く脱藩を繰り返しており、あの薩摩藩同士の斬り合いになった寺田屋騒動時も京に向い、薩摩藩に身柄を拘束され、土佐に送還・投獄されています。


その寺田屋騒動に先立つ文久二年三月十五日、後に坂本龍馬の脱藩道の終点にもなる下関の清末藩(下関の竹崎浦は清末藩領)豪商・白石正一郎邸に虎太郎以下、久坂玄瑞、沢村惣之丞他、久留米や薩摩藩の志士らが集結し、挙兵の決議を行います。


その決議の内容を武市瑞山ら土佐勤王党に伝えるため、惣之丞は単身土佐に帰り、報告すると共に龍馬の道案内をして、共に脱藩したことはこれまで、何度も述べました。


翌年八月、中山忠光卿を擁して天誅組を組織し、全国初の倒幕挙兵をした後、「八月十八日の政変」によって追討され、壮絶な最期を遂げたことは歴史ファンなら周知のこと。自然、戦跡、ときどき龍馬-無名の切通しの峠


津野町教委が虎太郎生家周辺の往還を整備したのは、昨年の「龍馬伝」を見込んでのことかも知れませんが、結局ドラマには登場しませんでした。


しかし町では昔から続く「高野農村歌舞伎」に虎太郎の演目を加え、県立坂本龍馬記念館の主催で町外のホールでも公演しています。


私自身も、もっと虎太郎のことが評価されてしかるべきと思っていたこともあり、新刊の「長州・龍馬脱藩道」に、津野町教委が整備した区間と、未整備の三割の区間を踏査し、コース図も自ら作図して、詳細ガイドと共に収録したのです。


古道の東の起点は力石(ちからいし)集会所西の国道197号の力石橋を渡ったところ。ここで龍馬の脱藩道と分かれるのです。


尚、ここから虎太郎生家跡までは虎太郎が須崎の庄屋として赴任する際に歩いた道でもあるので、新刊では「須崎庄屋転任道」として紹介しています。


国道北側の擁壁上の民家に上がる道路があるのですが、それを上がります。尚、藩政期はもっと手前から道は分岐して上り坂になっていました。

自然、戦跡、ときどき龍馬-西方の自然林の中の往還


奥の民家手前に地蔵群と立て石、小堂が並んでいます(一枚目画像)が、その小堂が力石茶堂です。今は祠のようになっていますが、藩政期は地蔵の前に通常の規模の茶堂が建っていて、旅人の休憩所になっていました。当然虎太郎も幾度となく休憩したことでしょう。


茶堂の左横に建つ碑のようなものは、この集落名の由来でもある、その名も「力石」。


長宗我部時代末のある日、茶堂背後の斜面からこの石が滑り落ちて道を塞ぎ、困っていたところ、越知面在住の与門三郎が軽々と持ち上げ、放り投げたところ、地面に立ったのです。


三郎は新しい土佐国の領主・山内一豊公の御前相撲時にも津野山郷代表として参加し、他者を寄せ付けない強さだったと言います。


私道終点の民家手前から左折する草道が、虎太郎が何度も行き来した藩政期からの道です


最初は見晴らしのいい草道は向きを反転させると樹林の中に入り、「いかにも街道」という雰囲気の道になります。


やがて道は急登になり、標高520mの無名の切通しの峠に達します(二枚目画像)。これだけの急坂ですから、いくら虎太郎や那須信吾と言えども、必ずここで一息ついたことでしょう。


下りもくねくねと進み、地形図に未記載の林道を二度ほど横断しますが、三枚目画像のように、明るい自然林の区間もあり、軽やかに下って行けます。


これ以降の道程では囲炉裏付の茶堂がある峠もあるのですが、それは次回。

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