今回もまず、坂本龍馬の無名史跡から紹介します。
前回、龍馬が薩長同盟締結に向けて奔走していた時、長州の志士たちと会談した暁天楼を紹介しましたが、今回はその暁天楼が幕末にあった場所、つまり、実際に龍馬が訪れた地を紹介しましょう。
暁天楼は旅籠・藤村屋の施設の一つだったことは前回述べましたが、楼や本館は、防府天満宮参道口の十字路の東方、「雑貨とカフェの店・ローマ」の西隣の駐車場(一枚目画像)にありました。ここに坂本龍馬が訪れたのです。
龍馬関係の記録には藤村屋の名は出てきませんが、この旅籠がある地名「宮市」については、記録にあります。
慶応元年十月三日付の、長州萩藩士、小田村素太郎が桂小五郎に宛てた書簡の中に「坂本龍馬、老兄を指付け宮市迄来着」とあるのです。
龍馬は半年前、西郷隆盛が桂小五郎との下関での会談をすっぽかして京に向ったのを追いかけ、向こうで西郷に話をつけ、再び下関へ戻っていく途中だったのです。
防府市西部から下関の白石正一郎邸までの道筋は、脱藩道と同じ山陽道です。
暁天楼では素太郎ほか数人の長州藩士と会談したのでしょう。
ところで、マイマイ新子についてですが、映画に出てくる場所は大半が旧山陽道から北側なので、私はあまり探訪していないのですが、JR防府駅(旧国鉄三田尻駅)近辺は描かれているので、その近くの鉄道廃線跡を少しだけ解説しましょう。
現在、駅西方のベルコシティホールの駐車場西に、ある機関車と客車がレールと共に保存されています。
大正八年から昭和三十九年まで、国鉄三田尻駅から北方の堀まで走っていた防石鉄道のドイツ・クラウス社製Bタンク2号車と「ハ6」「ハニフ1」型車です。
廃線跡は殆どが舗装道になっている模様ですが、防府駅の西方が少しの区間は細長い公園になっています。
しかしできることなら舗装せず、岡山の下津井電鉄のように、未舗装道として整備して貰いたかったものです。
ベルコシティ北のクリニックが廃線跡で、そこから西へ現在の車道の南に並行しており、県道185号を横断してからは、「新橋赤間緑道」という公園道(三枚目画像)になり、県道187号を横断すると、対面一方通行道に変わります。
尤も、私は防府は坂本龍馬の脱藩道の踏査で来ていた訳なので、それ以上は探訪していません。
尚、山口県防府市域の脱藩道は、佐波川に至るまでは旧山陽道とは異なる往還であることは、以前述べました。
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