下関市白石正一郎邸での桂小五郎との会談をすっぽかして、京に向った西郷隆盛を追って、坂本龍馬と中岡慎太郎は慶応元年閏五月二十九日夜半、下関を出航しますが、隆盛が小五郎との会談をドタキャンした理由は、大河ドラマ「龍馬伝」で語られた、幕府の隠密が船中に潜んでいたから、という理由ではなく、幕府が朝廷から第二次長州征討の令旨を受けようと工作していたことを察知したため、それを阻止しようと京に向ったのだとされています。
隆盛は幕府の第一次長州征討を押し留めるためにも尽力しており、常に長州のことを気にかけていたので、実際はドラマとは随分違っていたのです。
下関港を出航した龍馬たちでしたが、その時の天候は不順続きで、しばしば航路上の港に寄港し、なかなか京に近づけないので、六月十四日、航路を諦め、備前西大寺に上陸し、京まで陸路、つまり山陽道を行くことを決め、翌日、西大寺から数キロほどの地の藤井で投宿します。
さて、その山陽道ですが、播磨藩領境界(岡山・兵庫県境)までの殆どが車道化されるか或いは開発等で消滅しており、古道が残されている区間は、県境付近を含め、二箇所ほどしかありません。
が、古道が消滅した区間でも藩政期の遺物をいくつか見つけることができます。
私はかつて備前市坂根の熊山道道しるべから、県境まで、掻い摘んで踏査したのですが、坂根の東の「香登西」地区には、複数の常夜燈や旧家が残っています。
常夜燈は国道2号の香登西交差点の北方の山陽道跡道路と、その東方の石長姫神社入口(一枚目画像)に、同じ形状の重厚な自然石のものが建てられています。
この地区は藤井宿と片上宿の中間に位置し、その途中の川が増水して渡れない時等には滞留客が沢山投宿しました。
現在でも所々、商家が残っています。
その東の「香登本」地区には香登一里塚跡(二枚目画像)があります。大内神社入口です。
塚は街道を挟んで両側にあったのですが、北側のものは車道化により、南部分が削られ、南側の塚は明治二十年に撤去され、その塚石を利用して共同井戸が造られました。今に残る「東町用心井」(三枚目画像)です。
やはり、龍馬伝ファンなら、ドラマの進行に沿って、坂本龍馬の街道を追う追体験をするべきでしょう?
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