『光る君へ』第13回が放送されましたね。
待ちに待った中宮定子の登場に胸熱でした。
藤原伊周(コレッチ)は11回から登場していました。
今回は弟の隆家も少し大きくなって出てきました。
昔のブログで、定子は今田美桜に演じて欲しい、と書いたことがありまして、それはかないませんでしたが、高畑充希の定子がこれからどうなっていくか、楽しみですね。
お茶目で天真爛漫な定子様をきっと素敵に演じてくれるでしょう。
お茶目な定子が伊周の恋文を奪って持ってきたシーン。
いやあ、解析に苦労しました
ほんと、ミミズ文字の勉強を疎かにしてきたツケですわ。
で、何とか解析した結果、この歌は『拾遺和歌集』恋一・627番(詠み人知らず)だと分かりました。
おとにきく人にこころをつくはねのみねとこひしききみにもあるかな
と書かれていると思われます。
漢字交じりの表記に変換すると次のようになります。
音に聞く人に心をつくばねのみねど恋しき君にもあるかな
〔まだ噂に聞いただけの人なのに、こんなにも心がひきつけられ、筑波嶺の峰ではないが、まだ会ってもいないのにあなたが恋しくてたまらないのです〕
「心を付く」の「つく」に、「筑波嶺」の「つく」が掛かっています。
また、「筑波嶺の峰」の「みね」に、「見ねど」の「みね」が掛かっています。
定子が出てきた影響で、過去に書いた記事へのアクセスが急増しました。
頑張って調べてまとめた力作なので、読んでくださる方が多くて嬉しく思います。
定子の登場は目出度かったのですが、どうやら嫁姑バトルが展開されるようです。
バトルというか、詮子の一方的な冷たい目かもしれませんが。
今までお母さん一辺倒だったのに、その愛が半分嫁に向いてしまったことへの嫉妬でしょう。
プラス、道長びいきの詮子は道隆が好きではないというのもあるでしょう。
永祚えいそ二年(990年)
●一条天皇 11歳
●藤原詮子 29歳 皇太后
●藤原定子 14歳 女御
●藤原兼家 62歳 摂政&太政大臣
●藤原道隆 38歳 内大臣&左近衛大将
●藤原道兼 30歳 権大納言
●藤原道長 25歳 権中納言&右衛門督
●源雅信 71歳 左大臣
●藤原穆子 60歳
●源倫子 27歳
●藤原頼忠
●藤原公任 25歳 蔵人頭
●源俊賢 31歳 右少弁&讃岐権介&五位蔵人
●源明子 26歳
●藤原実資 34歳 参議&美作権守
●藤原伊周 17歳 右中弁&右近衛少将
●藤原隆家 12歳 従五位下
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●円融法皇 32歳
●花山法皇 23歳
セリフで処理されましたが、太政大臣だった藤原頼忠が前年に亡くなっています。
兼家が、摂政兼太政大臣になっています。
ちなみに、兼家は摂政になった後に右大臣を辞めており、後任の右大臣は藤原為光です。
ドラマではまったく存在感がありませんが、斉信の父親です。
太政大臣:藤原兼家
左大臣:源雅信
右大臣:藤原為光
内大臣:藤原道隆
という構成になっており、Wikipediaによると四大臣制というのは史上初だったそうで、円融院に反対されたものの、兼家が強引に押し切って道隆を内大臣にしたのだそうな。
一条天皇の初冠(元服)の儀が執り行われたというところ、ものものしく不穏なオルガンが鳴り響きました。
『さらば宇宙戦艦ヤマト』の「白色彗星」みたいな雰囲気でした。
オルガンの威圧感て凄いですよね。
一条天皇は幼いので、女院詮子の威圧感(覇気)のようでした。
悲しいのは公任。
前回、父の頼忠が「道兼についていけ」と遺言のように言い聞かせていたのをそのまま実行していました。
義懐ごときが退場した今、「ごとき」を継承するのは道兼なのに・・・
乱暴しか取り柄がない道兼ごとき、兼家に頼りにされているのではなく、危ない役(失敗したら責任を追及される役)を押しつけられているだけなのに。
まひろの母(ちやは)を刺殺した事件が完璧に隠蔽されており、そのことを知らない頼忠は勘違いしてしまったのですね。
まあ、道隆に従ったところで凄まじい出世を遂げることはない公任なので、大勢に影響はなかったと言ってよいかもしれません。
『枕草子』〜あはれなるもの〜
テーマ:しみじみするもの
親孝行な子。
若くて身分の良い男が御嶽詣でのために精進潔斎をしているの。
締め切った部屋に籠もって勤行している暁ごろ、額づいて礼拝している姿が想像されてたいそうしみじみとした気持ちになる。
また、近しい人などがその音を目を覚まして聞いているのだろうと想像される。
いざ詣でる時のありさまはどんなだろう、などと残された近親者らは気持ちを引き締め心配しているところに、無事に参着したのはたいそう素晴らしい。
ただ、烏帽子の様子などは少々みっともない。
やはり、身分のある人と申しても、御嶽にはこのうえなく質素にして参詣するものだと聞き及んでいる。
右衛門佐宣孝といった人は、
「つまらないことである。ただ清浄な衣を着て詣でさえすれば、別にどうということはない。絶対に、まさか『卑しい姿で参詣せよ』とは御嶽も決しておっしゃるまい」
といって、三月末に、とても濃い紫の指貫に白い狩襖、その上には山吹色の非常におおげさなものなどを着て、主殿亮である子の隆光には、青い狩襖に紅の袿、まだら模様に摺った水干という袴を着せて、引き連れて参詣したらしく、帰る人もこれから詣でる人も、珍しく奇妙なこととして、
「まったく、昔からこの山を詣でる人の中にこんな姿の人は目にしたことがなかった」と驚き呆れていたが、四月の初頭に帰ってきて六月十日ごろに筑前の守が辞任した、その後任に任命されたのは、「なるほど、言ったとおりだな」と評判だった。
これはしみじみするようなことではないが、御嶽詣でに触れたついでに書いたのである。
ドラマで、後にまひろと結婚する宣孝くんの奇行が描かれ、為時も呆れ気味、まひろも苦笑している感じでした。
御嶽詣でとは、奈良県の吉野郡の金峰山きんぷせんに詣でることです。
金峯山寺にもいつか行ってみなければ。
この件は上記のように『枕草子』に書かれており、当時かなり噂になったのでしょう。
宣孝は傾奇者だったんでしょうかね?
「烏帽子がみっともない」と書かれているのはよく分かっていないようです。
御嶽詣での時は特別な烏帽子をかぶることになっており、それが少し変だったという説。
長旅で烏帽子がくたびれてヨレヨレになり、それがみっともないという説。
いずれにせよ、これは宣孝の話とは違う一般論の中に書かれています。
ただし、その次に「御嶽詣では身分の高い人でも質素な身なりで行くものだ」と清少納言は書いており、やはりその後の宣孝の奇行についてはいかがなものかと思っているようです。
あまり強い批判ではないと思いますけど。
【原文】
あはれなるもの。
孝ある人の子。
よき男の若きが、御嶽の精進したる。
たてへだてゐてうちおこなひたる暁の額、いみじうあはれなり。
むつましき人などの、目さまして聞くらむ、思ひやる。
詣づるほどのありさま、いかならむなどつつしみおぢたるに、たひらかに詣で着きたるこそいとめでたけれ。
烏帽子のさまなどぞ、すこし人わろき。
なほいみじき人と聞こゆれど、こよなくやつれてこそ詣づと知りたれ。
右衛門佐宣孝といひたる人は、
「あぢきなきことなり。ただ清き衣を着て詣でむに、なでふことかあらむ。必ず、よも『あやしうて詣でよ』と御嶽さらにのたまはじ」
とて、三月つごもりに、紫のいと濃き指貫、白き襖、山吹のいみじおどろおどろしきなど着て隆光が主殿亮なるには、青色の襖、紅の衣、摺りもどろかしたる水干といふ袴を着せて、うちつづき詣でたりけるを、帰る人も今詣づるも、めづらしうあやしき事に、
「すべて昔よりこの山にかかる姿の人見えざりつ」とあさましがりしを、四月ついたちに帰りて、六月十日のほどに、筑前守の辞せしになりたりしこそ、「げに言ひけるにたがはずも」と聞こえしか。
これはあはれなることにはあらねど、御嶽のついでなり。
という感じで今回はここまで。