くファーストサマーウイカ演じる清少納言の初登場となりました!

ご存じかもしれませんが、「初夏」と書いて「ウイカ」、それを英単語に置換して「ファーストサマー」という芸名の成り立ちです。

確か、初夏ウイカは本名だったはず。

歌が上手いんですよね、この人。

原曲を歌うAdoもめっちゃ歌上手いし、日本の音楽界にも逸材がけっこういると思う。

 

 

●清少納言

 

寛和かんわ/かんな元年(985年)

 

●藤原為時 36歳~37歳  式部丞&六位蔵人

●藤原為信女(ちやは)

●藤原宣孝 ??歳 左衛門尉&六位蔵人

●紫式部 16~20歳前後

●藤原惟規 11~12歳?

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●清原元輔 78歳 従五位上

●清少納言 20歳前後

 

清少納言は、歌人・清原元輔の娘です。

元輔は2番目の勅撰和歌集『後撰和歌集』の撰者であり、『万葉集』の研究をした人でもあります。

 

さて、清少納言と紫式部は宮中に出仕している時期が重なっていないことは割と広く知られていることです。

清少納言が宮仕えを辞したのが1001年頃とされており、紫式部が宮仕えを開始したのが1006年または1007年とされているので。

 

ただし。

 

それは内裏で顔を合わせていないことを意味しているだけで、内裏の外で繋がりがあった可能性を否定するものではありません

 

2人とも身分が高いわけではありませんが、庶民ではないので、貴族と交流する機会はそれなりにありました。

ドラマでは、宮仕えをする前のまひろが左大臣家に出入りしていますね。

 

「それはドラマ、フィクションでしょ?」という人もいるでしょうか?

では『枕草子』の中にある清少納言が宮仕えを始める前の記述を紹介しましょう。

 

三巻本『枕草子』の第33段前後に「小白川といふ所は」という章段があります。

これは寛和二年(986年)の出来事を記したもので、大河ドラマの物語時間にかなり近い時期の記事です。

6月10日過ぎであることが『枕草子』の本文に書かれていて、花山天皇が出家する直前の、かなりきわどい時期のお話です。

 

小白川といふ所は、小一条大将殿の御家ぞかし。

小白川という所は、小一条大将殿こと藤原済時様の御邸宅だよ。

そこにて上達部、結縁の八講し給ふ。

そこで、上達部が結縁の八講をしなさる。

 

このように始まります。

小一条大将=藤原済時なりときは、関白・藤原頼忠の従兄弟です。

この時の済時は大将&大納言で、彼の邸宅で「法華八講」を開催したのだそうです。

『法華経』八巻を4日間で講義する法会で、これにより仏道と縁を結ぶので「結縁けちえんの八講」と呼ばれます。

 

この法会を聞きに、まだ宮仕えをする前の清少納言も出かけており、見物人がいかに多かったかを次のように書いています。

 

「遅からむ車などは立つべきやうもなし」といへば、露とともに起きて、げにぞひまなかりける。

「到着の遅い車などは停めるところもない」というので、私は朝露が降りるとともに起きて行ってみたのだけれど、なるほど本当に隙間がなかった。

 

この法会には、左大臣・源雅信と右大臣・藤原兼家を除き、上達部は全員参加していたと書かれています。

そして貴族たちの姿が立派だった様子を具体的に書き記し、次にドラマでも馴染みの人物が出てきます。

 

少し日たくるほどに、三位中将とは関白殿をぞ聞こえし、唐の薄物の二藍の御直衣、二藍の織物の指貫、濃蘇芳の下の御袴に、はりたる白き単衣のいみじうあざやかなるを着給ひて歩み入り給へる、さばかりかろび涼しげなる御中に、暑かはしげなるべけれど、いといみじうめでたしとぞ見え給ふ。

少し日が高くなったころ、三位中将とは今の関白・道隆様のことを当時はそう申し上げたのだけれど、唐綾の薄物の二藍の御直衣、二藍の織物の指貫、濃い蘇芳色の御下袴に、糊が効いてビシッと張りのある白い単衣の非常に鮮やかなのをお召しになって、歩いてお入りになったお姿は、あれほど軽やかで涼しげな装いの方々の中で、暑苦しそうなのに、とても立派にお見えになる。

 

兼家の長男であり中宮定子の父であり、道兼&道長の兄でもある、藤原道隆の姿が美しく立派だったと褒めちぎっています。

清少納言の服装描写の細かさには辟易することが多い(笑)のですが、それは僕が文字からイメージできないからで、これがパッとイメージできる人は尊敬します。

 

義懐の中納言の御さま常よりもまさりておはするぞ限りなきや。

義懐中納言様のお姿も、いつにもまして立派でいらっしゃる様子がこの上ないことだ。

 

義懐ごときが!」でお馴染み(笑)、花山天皇の最側近である藤原義懐ですが、985年の暮れに中納言になっていました。

ドラマの義懐もイケメンですが、ここでの義懐の姿も立派だったとのこと。

そんな中納言義懐が清少納言とやり取りをしたこともこの続きに記されています。

 

そして、この章段の最後。

 

さてその二十日あまりに、中納言法師になり給ひにしこそあはれなりしか。

そうして、その月の二十日過ぎに、中納言義懐様が出家して法師におなりになってしまったことは、しみじみ悲しかった。

 

義懐は、花山天皇が出家したことを知ると、後を追って自身も出家してしまうのです。

ちなみに、将来清少納言が結婚する橘則光の母である右近尼という人は、花山天皇の乳母だったそうなので、則光は花山天皇の乳母子ということになります。

 

さて、上の引用でも明らかなように、宮中に出仕していなくても貴族と関わる機会はあったのです。

それなら清少納言と紫式部が顔を合わせる機会だってあったかもしれないという設定に無理はないですし、この時代のドラマを描こうというのに2人がまったく面識がなかったという設定などあり得ぬ。

糞つまらん。

 

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四月二十七日、藤原道隆が主催する漢詩の会が開かれていました。

妻の高階貴子による提案で。

なお、貴子を演じる板谷由夏さんはチョコラBBのCMでお母さん役を演じている方です。

 

 

円融帝の時代に内侍として仕えていたことから「高内侍こうのないし」とも呼ばれました。

また、『百人一首』では「儀同三司の母」となっています。

 

藤原道隆と妻・貴子が酒を酌み交わすシーンは重要。

 

道隆と言えば大酒飲みで名高く、これまで酒を呑むシーンはありませんでしたが、今回かなり印象的に描かれました。

スマートに(寝そべっていましたが笑)酒を呑む道隆に対し、だらしなく酒に溺れる義懐ごときの対比が鮮やかでしたね。

酒に強い道隆でしたが、それに油断したためか、呑みすぎて早死にすることになります。

 

さて、漢詩の会に参加したのは、藤原公任・藤原道長・藤原斉信・藤原行成の4名。

講師として招かれたのが清原元輔と藤原為時で、それぞれ娘を連れてきており、まひろ(紫式部)とききょう(清少納言)が初めて対面しました。

これは胸熱でした!ラブ

 

清少納言の溌剌としたイメージを、そのままファッサマが演じていました。

公任の漢詩の感想を求められたまひろが「白楽天のようでした」と述べたところ、ききょうが「いいえ、私は元微之(元槇)のようだと思いました」と、聞かれてもいないのにシャシャっていたのがかわいかった。笑

 

利発で物怖じしない感じのききょう(清少納言)に、貴子が目を付けていました。

この時、定子の側仕えをさせようと心に決めたのかも知れません。

そんなききょうも、中宮定子のもとに初めて参上した時はモジモジと恥ずかしそうにしていたというのだから信じられぬ。笑

というか、そこをどう描いてくるのか、非常に楽しみです。

 

そして、早くも斉信と惹かれ合うききょうでしたが、これぞまさしく『枕草子』の世界。

ワクワクしました。

 

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散楽師・直秀に「をかしきものこそめでたけれ」と言われたまひろは、「をかしさとは何か」を追い求めているようでした。

それまでの自分にはあまりない感性だったのでしょう。

代筆仕事をしていた時は楽しそうでしたが、それも和歌を詠じるという貴族的な所業。

そういう高尚な世界ではない、庶民的感覚の「をかしさ」を求めているのです。

 

思ったことを素直に口に出して楽しそうに笑う源倫子や、歯に衣着せぬ物言いで豪快に生きるききょうに「をかしさ」のヒントを見出しているようにも思えました。

 

●紫式部の清少納言評

 

『紫式部日記』には有名な清少納言批評があります。

 

清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。
清少納言は得意顔がひどい人です。

さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見ればまだいと足らぬこと多かり。
あれほどに才女ぶって、漢字を書き散らしていますが、よく見るとまだまだ不十分なところも多いのです。

かく人に異ならんと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみ侍れば。
このように人と違う存在であろうと思い、そういうことを好む人は、必ず見劣りがして行く末がみじめになるばかりですから。

艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし。
優美を気取った人は、とても寒々としてつまらない時でも、そこに無理やり情趣を見出だそうとし、
趣あることを見過ごすまいとするうちに、いつの間にかあってはならない、中身のない有り様にもなるのでしょう。
そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよく侍らん。

その中身がなくなってしまった人のなれの果てが、どうして良いことがありましょうか。

 

これを表面的に受け取ることに、僕は賛成できません。

紫式部には紫式部の、清少納言には清少納言の立場があるからです。

言うまでもなく、道長の娘・彰子に仕えた紫式部の立場道隆の娘・定子に仕えた清少納言の立場です。

 

『紫式部日記』にせよ『枕草子』にせよ、「主家のために」書いているのです。

好きなように書ける「自費出版」とは書物の性質が違うのです。

「日記」だからといって、単純な個人の記録ではありません。

日記というのは、もともと男性貴族がつけていた業務の記録で、人に見せることも当たり前でした。

「女である私も真似して日記を書いてみた」というのが紀貫之の『土佐日記』です。

少なくとも、女性たちが書いた日記も人に見せるのが前提となっており、私事を書いて引出しに仕舞っておくものではありません。

 

それを踏まえて考えたいのですが、まず『枕草子』も多分に日記的性格を帯びていることは確認しておきます。

 

清少納言は紫式部より先に出仕して定子に仕え、『枕草子』という傑作を残しました。

不幸にも道隆が早世して定子もろとも家が没落し、清少納言も表舞台から姿を消します。

やがて道長&彰子の時代が到来し、清少納言と入れ替わって表舞台に登場する紫式部。

 

道長&彰子の世の素晴らしさを世に認めさせようにも、一条天皇の寵愛がめでたかった定子サロンの華々しさが伝説のようにこびりついており、それが邪魔で仕方がなかったことでしょう。

となれば「清少納言とかいう1軍気取りのタカビー女子が『枕草子』なんて書いて調子に乗っちゃってたみたいだけど、私に言わせればイマイチすぎて超うけるんですけど」っていうスタンスにならざるを得ないでしょう?

本心が混じっている可能性もありますが、何をおいてもまず主家のために書く、という書き手のスタンスを忘れてはいけません。

 

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今回のまひろは「肩の力を抜いて自分らしく生きているききょうさんが羨ましい」という感じなんじゃないかと思いました。

肩の力を抜いて、とは源倫子に言われた言葉です。

まひろと似たような出自でありながら、肩の力を抜いて闊達に生きているききょう。

同時に「うっわマウント取ってきた。でも悪気はなさそうだし、何?こいつ」とも思ってそう。笑

 

●道長とまひろ


まず第六話の冒頭。

手水に映る満月の横に道長の面影を見るまひろという画が映し出されました。

 

この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたるものもなしと思へば

〔この世は完全に私のものだと思う。満月のように、欠けたところがひとつもないと思うから〕

 

この世の全てを掌握した道長が詠んだ歌として、藤原実資が書いた『小右記』に記されています。

今の時点の道長とは程遠いですが、後の道長を暗示しているのかな、と思いました。

「満月+道長」とくれば多くの人がこの歌を想起するのではないでしょうか。

 

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そして、最後に道長がまひろに和歌を送っていましたが、こちらの方が重要。

 

ちはやぶる神の忌垣もこえぬべしこひしき人のみまくほしさに

〔神聖で越えることが許されない忌垣も越えてしまいたい。恋しいあなたに会いたくてたまらないから〕

 

まひろとの恋の障壁を「忌垣いがき」と表現しています。

斎垣とも書き、神聖で越えることが許されない垣根を指します。

そんな垣根も越えてしまいたいほどお前を欲しているのだ、という道長らしからぬ情熱的な和歌ですね。

なお「ちはやぶる」は有名な枕詞で、「神」を導きます。

 

道長が月を見て歌を思いつき、まひろに送ります。

その時、まひろも月を眺めてぼんやりしていました。

 

:

 

離れた所にいる男と女が月を見て互いを思い合うシーン。

僕は『源氏物語』の「須磨」巻のシーンを思い出しました。

光源氏はやらかして須磨の地に左遷されており、八月十五夜の月を見ながら都の女性に思いを馳せるシーンです。

 

月いとはなやかにさしいでたるに「こよひは十五夜なりけり」とおぼし出でて、殿上の御遊び恋しう「所々ながめたまふらむかし」と思ひやりたまふにつけても、月のかほのみまもられたまふ。

月がとても美しく空に昇っているので、「そう言えば、今夜は十五夜だったっけ」と思い出しなさって、殿上の間での管弦のあそびも恋しくなり、「京にいる姫君たちもこの月を眺めていらっしゃるのだろうよ」と思いを馳せなさるにつけても、月の顔ばかりをついお見つめになる。

 

さて、ドラマで道長が詠んだ歌はドラマのオリジナルだと思いますが、本歌があります。

 

ちはやぶる神のいがきも越えぬべしおほみや人の見まくほしさに

〔神聖で越えることが許されない斎垣も越えてしまいたいものです。宮中に仕えていらっしゃるあなたにお会いしたいから〕

 

これは『伊勢物語』第71段にある歌です。

また『続千載和歌集』にも「詠み人知らず」として採録されています。

状況を説明すると、勅使として伊勢神宮に赴いた在原業平に対してある女が詠み掛けたもの。

これに対する業平の返歌は以下の通り。

 

恋しくは来ても見よかしちはやぶる神のいさむる道ならなくに

〔恋しいと思うならばこちらに来てみなさいよ。恋路は神が諫める道ではないのだから〕

 

●弘徽殿の女御

 

花山天皇の女御にして斉信の妹、藤原忯子がとうとう亡くなってしまいました。

寛和元年の七月のことです。

セリフがない、と前回書きましたが、第六話で斉信と言葉を交わしていましたね。

 

泥かぶり道兼が花山天皇を出家に導く計画までいくかと予想しましたが、そこまではいきませんでした。

 

ちなみに、弘徽殿の女御というのは『源氏物語』の中では、光源氏を敵視する役回りで、東宮(後の朱雀帝)の生母にあたり、右大臣の娘にあたります。

右大臣といえば、リアルでは藤原兼家で、その娘といえば詮子です。

『源氏物語』の中で、右大臣は短気な人とされており、ここはイメージが重なります。

詮子と弘徽殿の女御は結びつきません。

忯子も、『源氏物語』の弘徽殿の女御とはまったくイメージが異なります。

 

一方、左大臣は、リアルでは源雅信で、その娘が倫子。

再三書いているとおり、この倫子が藤原道長の北の方(正妻)になります。

そして『源氏物語』では、左大臣の娘が光源氏の正妻となり、葵の上と呼ばれます。

この点において、光源氏に藤原道長の要素を見いだすことが出来ます。

そして「光る君へ」では今のところ道長=光る君、という路線のように見えています。

 

が、紫式部は『源氏物語』の登場人物を完全にはリアル世界とリンクしないように書いているので、この後「光源氏は複数の人間がモデルとなって混じり合っている」という流れになっていくのではないかと思いますし、そうなってほしいと考えています。

 

やはり、光源氏のキャラクターを語る上で欠かせないのは、一条天皇と中宮定子の間に生まれる一の皇子・敦康親王だと思います。

 

はい、というわけで今回はここまで。

やはり清少納言が出てくると燃える。笑

 

光る君へ-5___光る君へ-7

 

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