いよいよ大納言伊周につかまる清少納言です。

 

伊周様が女房たちに、

「御几帳の後ろにいるのは誰かな」

とお聞きになったみたいなの。
私について面白おかしく言いたてたのでしょう、伊周様が席を立ってこちらへおいでになるのを、「やっぱりよそへお行きにならないかしら」なんて思っているうちに、とても近くにお座りになってお話しになったわ。
私が出仕する以前に聞いていらしたことなんかを、

「本当にそうなのかな?」

などとおっしゃるけれど、御几帳を隔てて、よそ事のように覗き見申し上げていただけでもきまり悪かったのに、すっごく驚いちゃって、こうして向き合い申し上げている心地といったら、もう現実とは思えなかったわ
ガーン
これまで、帝のお出かけを見る時だって、供奉の伊周様がすこしでもこちらの方をご覧になるようなら、下簾を引き下ろして、人影がうっすら見えるかもしれない、と扇で顔を隠していたほどなのに、今のこの状況は、やはり我ながら身の程知らずな気がして、どうして宮仕えに出てしまったんだろう、と冷や汗がとまらなくて大変な心境だったから、お返事なんかできたものじゃなかったわ。
隠れるのにちょうど良いと思ってかざした扇までお取り上げになるので、顔にかけて隠すべき前髪さえみっともないだろうと思うと、「私の取り乱した様子がすっかり見えてしまったらイヤよ」と思って「席をお立ちになってほしいわ」と思うんだけれど、私の扇をいじりながら、

「この絵のことだけど、誰が描かせたの?」

などとおっしゃってすぐには返してくださらないから、袖で顔を覆ってうつむいて座っているしかなかったの。
裳や唐衣におしろいがついて、私の顔はまだら模様だったでしょうね
えーん


(原文)

「御帳のうしろなるは誰そ」
と問ひ給ふなるべし。
さかすにこそはあらめ、立ちておはするを、なほ他へにやと思ふに、いと近う居給ひてものなどのたまふ。
まだまゐらざりしより、聞きおき給ひけることなど、
「まことにや、さありし」
などのたまふに、御几帳へだてて、よそに見やり奉りつるだに恥づかしかりつるに、いとあさましう、さし向かひ聞こえたる心地、うつつともおぼえず。
行幸など見る折、車の方にいささかも見おこせ給へば、下簾引きふたぎて、透き影もやと扇をさし隠すに、なほいとわが心ながらもおほけなく、いかで立ち出でしにかと、汗あえていみじきには、何ごとをかはいらへも聞こえん。
かしこき陰とささげたる扇をさへ取り給へるに、振りかくべき髪のおぼえさへあやしからんと思ふに、すべてさる気色もこそは見ゆらめ、とて立ち給はなんと思へど、扇を手まさぐりにして、
「絵のこと誰がかかせたるぞ」
などのたまひて、とみにも賜はねば、袖をおしあててうつぶし居たり。
裳、唐衣に白いものうつりて、まだらならんかし。


【語釈】

●さかすにこそはあらめ
「さかす」は、もてはやす、ひけらかす、の意味。「こそ~め」は係り結び。「こそ」の結びの已然形が文末でない場合は逆接になるのが普通だが、ここでは逆接ではなく挿入句として機能しており、女房の行為について、独り言のような作者の推測が挿入されたもの。

●行幸など~扇をさし隠すに
清少納言がこれまで行幸(=帝のおでかけ)を見物した際の回想。「車」は「御」がついていないので作者の乗る車。「見おこせ給へば」は尊敬表現であり、状況から考えて大納言伊周が主語。それだけ遠くからちょっと目線を感じただけでも警戒していたのに今は…、ということ。

●下簾
牛車の簾の内側にかけた長い布。

●いかで立ち出でにしか
作者の心境。ここでの「いかで」は、どうして、の意味。「立ち出づ」は立って出ることだが、ここでは宮仕えに出仕してしまったことを言っている。

●すべてさる気色もこそは見ゆらめ
「さる気色」は指示語なので、今の清少納言の動揺しまくっている様子を指す。「もこそ~已然形」は「こうなったら困る」と、イヤな結果を避けたい気持ちを表す特殊な係り結び。


今回はちょっと長めでした。

大納言伊周から話しかけられてあたふたする清少納言でした。

なんだか乙女チックですね。

 

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