こんにちは。こぼうずです。
前回の記事では、幸せになるには「幸せ」とは
何かを知ることが大事と書きました。
その中で幸せには「外側の幸せ」と
「内側の幸せ」があることを説明しました。
外側の幸せはお金や物、情報、健康、人間関係など
自分の外側にあるものを得て感じる幸せです。
一方、内側の幸せとは
「自分が肉体を持ってこの世界に存在することの有り難み」です。
外側の幸せはわかりやすく誰しも追い求めているものですが、
求めることで逆に苦しくなったり、
手に入ったことで失うことへのおそれが生じたりします。
そのため、外側の幸せを得ることに疲れてしまった方に、
外側の幸せとは別の幸せもあることを知ってもらいたかったのです。
内側の幸せは、生まれた頃には誰しも感じていたものです。
今、感じられないのは忘れてしまって気づけないからです。
どうすれば思い出せるのかをお話したいのですが、
まず、なぜ忘れてしまったかをお伝えする必要があります。
そこで今回は、内側の幸せをなぜ人は忘れてしまうのかを説明します。
内側の幸せは存在の有り難み
内側の幸せを言い換えると、「自分が肉体を持ってこの世界に存在することの有り難み」のことです。
長いので、ここから「存在の有り難み」と表現します。
存在の有り難みは、2,3歳頃までは程度の差はあれ誰しも感じていたものです。
想像していただきたいのですが、
私たちが生まれて初めてこの世界と自分を認識した時、
どんなことを思ったでしょうか。
「自分はどこから来たか。
自分はどんな存在か。
わからないけど気がついたらこの世界にいた。」
こんな風に思ったと推察できます。
初めて世界を認識した時の驚きや不思議さ、
感動というのはあったはずなんです。
言い換えれば、世界と自分に対する疑問です。
私たち大人は何の疑問も持つことなくこの世界この社会の中で暮らしていますが、
この世界に来て間もない子どもにとっては、
「なんなんだ、ここ?」
「なんなんだ、自分は?」
と疑問に持つのは自然なことです。
なぜなら、なんの予備知識もなくこの世界に産み落とされたからです。
大人だって朝目が覚めて遠い異国の地にいたら驚くでしょう。
「なんだ、ここは?」「なんで、自分はここにいる?」
となるはずです。
見たこともない景色が広がり、人間はいるけれど、
なにやら全く理解できない言葉を発しているんです。
すんなり状況を飲み込んで
「とりあえずお腹空いたから、何か食べ物もらおうかな」なんてならないでしょう?笑
赤ちゃんだって同じです。
認知能力や言語能力は発達していないので、
おぼろげでしょうが、「ここはなんなのだろう?」という疑問があったはずです。
未知の世界に対して疑問を持つからこそ、
子どもは好奇心を持ってこの世界の様々な事柄を学んでいくのです。
この世界に肉体を持って存在していることは、凄いことなんだ。奇跡的なことなんだ。
この喜びや感動が内側の幸せであり、存在の有り難みです。
小さな子は言語化はできないので言葉で理解していませんが、感性で体感できます。
子どもたちを見ていると目がキラキラしていて本当に幸せそうですよね。
大人と比べて手に入れているものは少ないですが、
幸せに見えるのは、外側の幸せではなく、存在の有り難み(内側の幸せ)にあふれているからです。
しかし残念なことに、子どもの時にあった存在の有り難みが
成長にするに従って薄れ、大人になるとほとんど感じられなくなってしまいます。
その過程を見ていきましょう。
1 人間社会に興味を持ち始める
「内側の幸せ」つまり「存在の有り難み」を忘れてしまう最初の過程は
「人間社会に興味を持ち始めること」です。
生まれて間もない子どもにとっては、
世界は初めて目にするものばかりでそれがなんなのか分かりません。
何の予備知識もなく気付いたらこの世界にいるのですから、
自分がここで何をしたらよいかを知るためには、
目の前にあるあれこれを学習しなければ始まりません。
それで赤ちゃんは何にでも興味を示します。
その中でも子どもたちにとって人間社会の入口になるのが言語です。
目の前にいつもいる大きな身体の存在(親たち)が発している音(言葉)。
これはなんだろうと疑問に思い、
学習を続けていくと、意思疎通ができることを知り、
子どもたちは言葉を覚えます。
言葉を覚えることによって、
子どもたちは他者とのコミュニケーションを取って、
食欲や好きな遊びをするといった自分の欲求を解消できるようになります。
そうして、他者とのコミュニケーションを取る中で
子どもたちは徐々に社会性を身につけていきます。
人間の成長段階からすればごく自然な流れですが、
実はこの社会性を身に着けていく過程が存在の有り難みを忘れさせてしまいます。
話を少し戻しますが、
生まれて間もないころの赤ちゃんはこの世界のことを知らないが故に、
探求者という態度でこの世界を観察し始めました。
「ここはどこだろう」
「自分は何者なのだろう」
「ここで何をすればいいのだろう」
こうした問の答えがわからないから、
とりあえず情報収集をすることから始めました。
ところが、未知のものばかりなので、調査自体が面白くなっていきます。
また自然に湧き上がる欲求を解消するために
他者とコミュニケーションを取ることを覚えると、
社会の中でふるまいが大きな関心ごとに移っていきます。
それによって当初あった情報収集という目的を忘れ、人間社会への興味関心が強まっていきます。
だんだんと社会の中でどう振る舞うか、
どう過ごすかが関心事になっていきます。
こうして、存在の有り難みから離れて始めていきます。
2 孤独を感じ始める
存在の有り難みを忘れてしまう過程の2番目は孤独を感じることです。
過程1の「社会に興味を持ち始める」段階では、
まだ自分の存在への謎を感じたまま、他者(社会)と向き合うことができます。
冷静に人間社会を眺めることができるのです。
しかし、社会から距離を置いたまま過ごしていると、孤独感が襲ってきます。
子どもたちは、この世界についてまだまだわからないことが多く、
肉体的にも小さく弱い存在です。
彼らはこの世界に存在することに不安と心細さ、アウェイ感を感じています。
一方、周囲の大人や自分より大きい子たちは、
この世界に疑問を持っておらず、怖いものがないように見えます。
自分は世界や自分の存在の謎に疑問を持ったまま、
客観的に世界や人間社会と接しているのに、
大人たちは社会というものを形成してその中で居心地良く生活している。
この立ち位置の違いが、社会に溶け込んでいない子どもには孤独に感じます。
「世界や自分の存在について疑問を持ったままでいると、孤独だ。寂しい。」
「自分の存在の謎は後回しにして、
人間関係という社会の中に入っていこう。
そうすれば心細さは解消されるし、
食いっぱぐれもなさそうだ。」
そう思った子どもはこの孤独感を解消するために、
周囲の人間たちが行っている人間関係(社会)に入っていって仲間になろうとします。
自分の存在に対する疑問は存在の有り難みの裏返しです。
子どもは人間関係という社会に入っていくために、
自ら存在の謎を手放し、同時に存在の有り難みを忘れていきます。
3 人間社会に夢中になる
人間関係(社会)へ仲間入りをしようと決めた子どもはどんどん社会に夢中になっていきます。
まず、親に好かれなければ生きていけないので、親から愛情を得ようとします。
また、社会には自分が欲しいと思うおもちゃ遊びが溢れていますから、
好きなもの対してどんどんのめり込んでいきます。
親から周囲の人に褒められると嬉しくなるのは、
自分が社会に溶け込めていると実感できるからです。
叱られたり、責められると嫌な気持ちになるのは社会に居場所がなくなり、
また孤独になってしまうとのおそれがあるからです。
勝負事で勝ったら嬉しい、
負けたら悔しく思うのも、
社会の中での自分の存在感が大きくなる、または小さくなると錯覚することで生じてきます。
そうして飴と鞭のように
他人から良く思われることで得点。
悪く思われると減点
という社会ゲームによって益々社会にのめり込んでいきます。
そうして成長していくと、思春期以降には恋愛を知ります。
性欲の関係もあって、
人間関係の中でも特に異性に好かれるとポイントが高いことも覚えていきます。
学校の成績が良いことが社会ゲームでは善いことも学んでいきます。
更に社会に出るころになると、
大きな会社に入るのが善いとか、
よりお金を持っていることが善なのだということも学んでいきます。
特にお金は現代の社会にとっては魔法のようなアイテムです。
何でも物が買えるし、自由や時間も手に入る。
みんながこぞってお金を得ようとします。
こうして子どもから立派な大人になった人々は、
社会における快の獲得にどんどん夢中になっていきます。
これは私が前回の記事で説明した外側の幸せを得ることに一喜一憂することとも言えます。
前回記事はこちら↓
このような状態になると、生まれた直後にあった
「世界を客観視し、自分の存在の不思議さや有り難さ」
はすっかりなくなってしまいます。
こうして人は、自分の外側のものを手に入れることでしか幸せを感じられなくなるのです。
まとめ
今回は元々の幸せ=存在の有り難み(内側の幸せ)をなぜ人は忘れてしまうのか?
その過程について説明しました。
まとめると、
1人間社会に興味を持ち始める
2孤独を感じ始める、人間社会に入っていく
3人間社会に夢中になる
です。
人間社会に夢中になり、存在の有り難みを忘れてしまい、元々の幸せが感じられなくなってしまうのです。