本当の自分とは?

 

 

みなさん、こんにちは。

 

こぼうずです。

 

ご覧いただきありがとうございます。

 

誰しも

 

「自分らしく生きたい」

 

「本当の自分で生きたい」

 

そういった願望を抱いていると思ます。

 

私もかつてそうでしたし、今でもそうです。

 

でも本当の自分ってなんなのでしょうか?

 

自分ってなんでしょうか?

 

それがわからないと始まらないですよね。

 

そこで今回は、「本当の自分とは何か」についての私の考えを紹介します。

 

皆さんの生き方に参考になれば嬉しいです。

 

 

こぼうず
 

自分らしく生きるためには、本当の自分に気づくことから 

自己紹介はこちら

 

本当の自分とは意識のこと

先に結論を言いますと、

 

本当の自分とは自分の意識のことです。

 

 

意識が自分ってどういうこと?

 

疑問ですよね。

 

意識って言ったって、人それぞれ色々な捉え方があるじゃん。

 

そう思います。

 

なので、まずそもそも意識とは何?

 

っていうところから説明して、

 

私が意識をこういったものとして捉えているよと

 

分かっていただくところからお話します。

本当の自分は意識

 

 

本当の自分である意識とは?

意識とは目を覚ましていること、そしてそれが分かることです。

 

皆さん意識はありますか?

 

もちろんありますよね。笑

 

意識がなかったら、文章なんて読めませんよね。

 

意識がある時、自分が目を覚ましていることが分かります。

 

では逆に意識がない時ってどういう時ですか?

 

それは、眠っている時ですよね。

 

眠っている時は、「私は今眠っている」と自覚することはできません。

 

そうです。意識とは単純に「自分が目を覚ましていることが分かること」です。

 

または、意識というものを使って自分が目を覚ましているのが分かる。

 

まとめると、

 

意識とは目を覚ましていること、そしてそれが分かること。

 

それが私の意識の捉え方です。

 

 

意識は独立している

 

先ほど、本当の自分とは意識であると言いました。

 

つまり

 

「自分は今、目を覚ましている。そして、目を覚ましていることが分かる。」

 

それが本当の自分です。本当のあなたです。

 

 

とは言っても、ぴんと来ない方の方が多いと思います。

 

なぜなら、通常人間の意識は思考や観念、欲求などと一体になっているからです。

 

思考や観念、欲求、感情を抜きにした意識だけの状態を自覚できる人は少ないのです。

 

例えば、自分はどういう人間かを説明するとき、自分の考えていることや好み性格などで自分を説明します。

 

しかし、考えや好みなどは、一時的に自分が採用しているもので、自分そのものではありません。

 

考え方や価値観は時間や知識、体験によって変わります。

 

しかし、意識だけは変わりません。

 

子どもの時の自分と今大人になった自分は、考え方や価値観は大きく変わります。

 

でも意識は共有しています。

 

だから、過去の自分も今の自分も同じ自分だと認識するのです。

 

意識は自分の思考や観念、価値観などからは独立した存在なのです。

 

でも、このことは自分の内面を注意深く観察しなければ気づくことができません。

意識は独立している

 

 

意識は気づきにくい

本当の自分とは意識であって、

 

思考や観念、欲求、感情など、

 

頭の中で湧き上がってくるものではありません。

 

 

でも、注意深く意識のみに焦点を当てなければ、

 

自分の核となるものが意識だということには気づけません。

 

私たちの日常生活では、

 

意識はあるけど、他に考えてもいないし、何もしていないという状態

 

はほとんどないのです。

 

朝、目が覚めたら、

 

学校にいかなきゃとか、仕事にいかなきゃとか、

 

今日は休みだからもう少し眠っていようとか。

 

私たちは目を覚ました途端、何かを考えます。

 

目を覚ましただけ、意識があるだけの状態にとどまることはありません。

 

反射的に自動的にすぐに何かを考えます。

 

一日の予定。期待すること。起こってほしくないこと。人間関係のこと。など…

 

目を覚ました時から、眠る直前まで考えっぱなし、欲求に流されっぱなし、感情に任せっぱなし。

 

それで毎日が過ぎていきます。

 

だから、思考や観念、欲求、感情などが自分だと思いこんでしまうのです。

 

本当の自分って何って考える時も、

 

自分が大切にしていることや

 

正しいと思うこと、

 

楽しいと思うこと、

 

自分が望むものなど、

 

意識を大きくとび超えて、そういった思考や観念、価値観から本自分を

 

探し始めるのです。

 

でも、思考や観念、価値観などは、後から身につけた外部のもので、そこに自分はいません。

 

本当の自分は、ただまっさらな「意識」です。

 

意識はあるけれど、何も考えない。何も望まない。何も感じない。

 

そんな意識だけの状態があり、その状態に気づくことで本当の自分が分かるのです。

 

そのために、意識と思考や観念、感情、欲求との関係を整理する必要があります。

 

 

意識や思考、観念、欲求、記憶、感情をパソコンに例えると?

本当の自分が意識であれば、

 

思考や観念、欲求や感情、記憶などは自分にとって何なんだ?

 

と疑問を持ちませんか?

 

そこでこれらの事柄と意識との関係性を、人間の頭や心の中をパソコンに例えて説明します。

 

意識

 

私たちの意識というのは、パソコンでいうところのマウスポインタです。

 

念のために説明しますと、

 

マウスポインタはマウスを動かすとパソコンの画面上で動く矢印のことです。

 

インターネットを開きたいと思ったら、

 

インターネットのアイコンの上にマウスを乗せクリックすることでインターネットが開けます。

 

保存していたデータを見たいと思ったら、

 

データのあるファイルをクリックすればそのデータを見ることができます。

 

意識というのは対象に対して注意を向けたり、焦点を合わせたりするものなのです。

 

ちなみに眠っている時、意識はどうなんだ?ということも考えてみましょう。

 

眠っているとき、普段の意識はなくなります。

 

しかし、面白いことに夢を見ているときは夢の世界で意識があります。

 

不思議ですよね。

 

夢の世界は現実の世界と全く異なる世界観なのに、

 

私たちは疑問を持つことなく夢を受け入れその中で行動します。

 

夢を見ていないときは、意識がなくまさに無ですが、これはパソコンでも同じです。

 

例えば、パソコンでもスリープモードや電源が入っていない状態では画面にマウスポインタは表示されません。

 

電源を入れるとマウスポインタが表れる。

 

目を覚ますと意識が表れる。

 

意識とはパソコンでいうところのマウスポインタであると言えます。

意識はマウスポインタ

考えること・思考・計算・論理など

 

次に思考や計算についてです。

 

これらはパソコンで例えると、アプリケーションソフト(以下アプリ)です。

 

アプリとはパソコンの画面上で色々なことができるアプリです。

 

例えば、何か文章を書きたいと思ったら文章を書くアプリを開きます。

 

ワードというアプリが有名です。

 

また、家計簿など数値に関する記録や計算をしたいと思ったら、表計算アプリを開きます。

 

エクセルというアプリが有名です。

 

私たちも何か話そうとか文章を考えようと思ったら、

 

脳の中の言語に関わる部分を使います。

 

瞬時に行われるため気づきませんが、

 

意識を使って、話すことや文章を考えることに向けることで脳のその部分が使えるのです。

 

パソコンでワードのアイコンをクリックして起動するのと似ていますね。

 

数字の計算をしようと思ったら、意識を脳の中の計算を司る部分に向けます。

 

計算をするときは、脳の中の様々な領域を連携させているそうです。

 

文章を考えるときと、計算をするときで、脳を使っているいる部分が違うのは、なんとなく想像できますね。

 

パソコンでも文章を打ちながら、同時進行で表計算を操ることはできません。

 

私たちもスピーチの原稿を考えながら、5桁の計算を同時にするのは至難の技ですよね。

 

それは片方に意識を向けているからです。

 

考え事をしていて、周囲への注意が散漫になるということもありますよね。

 

それは考えることと周囲へ注意を向けることというのが別の脳の領域を使っているからです。

 

もちろん、考えながら周囲に気を配ることもできますが、どちらか一方に集中した方がより深く取り組めるのは体感的にわかりますね。

 

考えることや計算することが意識とは別であることが分かっていただけたでしょうか?

思考はアプリ

観念・思想・信条・価値観・性格・など

観念・思想・信条・価値観・性格などもパソコンで例えるとアプリです。

 

観念とはここでは、

 

何が好きか、何が大事か、何が正しいと思うか。何をすべきか、

 

思想・信条・価値観・性格などをひっくるめて観念と指します。

 

観念は人によって様々です。

 

知識や体験によって作られますが、元々生まれ持って備わっているものもあります。

 

この観念が最もその人らしさを表していますが、観念そのものもあなたではありません。

 

 

例えば、「人生は楽しむもの」という観念(価値観)を持っている人がいるとします。

 

その人の思考や行動は「人生は楽しむもの」という観念に基づいて行われます。

 

その観念はどのようにして生まれたのでしょうか?

 

生まれたときから、正しいことより楽しいことが大事だと思っていたのかもしれません。

 

親にそう教わったのかもしれません。

 

また、生きていくなかで楽しんだ方がいいと自然に思うようになったのかもしれません。

 

そうした観念は、普段意識することなく無意識にその人の思考や行動に影響を与えます。

 

パソコンでも電源を入れると自動で起動するアプリがあります。

 

毎回クリックして開かなくても、自動で開いてくれるアプリがあるんです。

 

そうしたアプリは作業をスムーズにしてくれたり、時間を教えてくれたり、画面の背景を映し出したりくれたりします。

 

観念は無意識の内に働くので、私の根本であるように思いますが、そうではありません。

 

観念も変わるし、変えることができるのです。

 

先ほどの「人生を楽しむもの」という観念を持った人が、

 

楽しむことを優先した結果上手くいかなくなったり、

 

楽しくなくても大事なことがあると思ったりすれば、

 

「人生は楽しむもの」という観念は揺らぎます。

 

 

「人生は楽しさと正しさのバランスが大事」という新たな観念を上書きするかもしれません。

 

 

もっと簡単な例を言えば、子どもの頃から大人になるまでの間、

 

何が大事かは誰しも成長するにつれて変わってきたことでしょう。

 

それでも観念が変わったからと言って、

 

自分が自分でなくなってきたわけではないのです。

 

観念は意識しなくても働きますが、私そのものではない。

 

おわかりいただけたでしょうか。

観念などもアプリ

欲求

欲求は基本的に、人間としての個体を存続させるためのサポート機能です。
 
例えば食欲。
 
食欲は脳の視床下部というところで発生するサインです。
 
そのサインを意識が察知して、
 
「食べたい、食べなきゃ」
 
と思います。
 
もし食欲がなかったら、生まれて間もなく栄養失調で動けなくなり、餓死してしまうでしょう。
 
成人であれば、食欲がなくても、生きていくために必要な食物を必要な量だけ、適切な間隔で食べることもできます。
 
しかし、赤ちゃんのように
 
食べること=生きていくこと
 
がまだ理解できないうちは、食欲というサインに誘導されることで肉体を存続できます。
 
パソコンで例えると、アプリというより、始めから備わっている設定でしょうか。
 
パソコンでも、コンセントにつながないまま使用すると、電力が乏しいことを伝える表示が出てきますよね。
 
あの表示によって、私たちはコンセントにつないでなかったと気づけるわけです。
 
もし、あの表示がなかったら、ある時急に電源が落ちて慌てることになります笑
 
 
欲求は時に強力に私たちをつき動かすために、
 
欲求=私の望み
 
と錯覚してしまいますが、欲求はあくまで身体や脳の要請です。
 
その欲求に従うかどうかの最終決定権は意識の方にあります。
 

欲求もまた本当の自分ではないのです。

 
 
欲求には睡眠欲、性欲、安全の欲求など生理的欲求と呼ばれるものや、承認欲求など
抽象的なものもあります。
 
欲求については、また別な記事で詳しく取り上げます。
 
 

記憶

 

記憶をパソコンに例えると、保存されているデータです。

 

パソコンには様々なデータが保存されています。

 

書きかけの文書や使用中の表計算。

 

あるいは画像などが保存されています。

 

どこに保存しているのかすぐに開けるデータもあれば、

 

どこに保存しているのか分からなくて見つけるのが難しいデータもあります。

 

人間の脳にも記憶を担っている部分があって、私たちは知識や体験を思い出すとき、そこに意識を向けて記憶を取り出します。海馬や大脳という部分です。

 

客観的に見えれば、記憶はデータなのだから、私自身ではないと分かるものです。

 

しかし、これまで経験してきたこと、つまり記憶が自分を形作っている、

 

自分の土台なのだと人は錯覚しがちです。

 

 

その錯覚の仕組みについて説明します。

 

私たちが何かを知ったり、経験すると大脳という所に長期記憶されます。

 

そうした記憶は観念を作ります。

 

例えば、ある人が小学校の頃、学校のクラス全体に向かって自分の意見を主張したら、

 

みんなからあざけり、笑われ、嫌な経験をしたとします。

 

そして、その人は「人前で自分の意見を言うのは良くないことだ」という観念を持ってしまったとします。

 

その観念をずっと握りしめていると、自分の意見をはっきり言えない、内向的な、他人の顔色を伺う大人になってしまう恐れがあります。

 

記憶が観念を作り、性格までも変えてしまうのです。

 

でも、そんな記憶がなければ、その人の観念や性格は変わっていたでしょう。

 

また別の機会で、人前で自分の意見を勇気を持って言ったところ賞賛されたら、

 

以前持っていた「人前で自分の意見を言うのは良くないことだ」という観念はなくなってしまうでしょう。

 

知識や経験というものが、自分自身を形作ると思ってしまいますが、記憶が生む

 

観念や性格ですら、自分自身ではないのですから、記憶が自分自身だと捉える必要は

 

ないのです。

記憶はデータ

感情

感情は、ある条件の元自動で起動するアプリです。

 

例えば、他人からいきなり叩かれたとします。

 

攻撃を受けたことに意識を向けると、

 

脳はアドレナリンを出し、血圧と心拍数を上げ、戦いに備えます。

 

そのときに生じる感情を怒りと私たちは呼んでいます。

 

感情には喜怒哀楽などがありますが、感情自体が自分自身でないことは誰しもうなづくことでしょう。

 

怒りっぽい人もいますが、朝から晩まで常に怒っている人はいません。

 

冷静なときもありますし、感情が変わることはあります。

 

怒っている時も喜んでいる時も自分。

 

感情が生まれると冷静なときと違って自分の思考や行動が変わってしまうかもしれません。

 

しかし、自分自身が変わるわけではなく、あくまで一過性のものです。

感情はアプリ

身体は?

 

最後に番外編として、身体について触れます。

 

身体は物質的な意味で自分自身です。

 

私たちの精神は物質的な身体があってこそ成り立っています。

 

体調が悪いときや睡眠不足のとき、誰でもネガティブな思考、気持になりやすいですよね。

 

そもそも、肉体(脳でもあるが)が眠っているとき、意識はありません。

 

言ってしまえば、肉体が滅べば、意識も思考もそこには存在しなくなります。

 

パソコンで例えれば肉体は内部の電子板、外側の部品など機械部分です。

 

そこが故障すれば、パソコンは機能せず上手く作業ができません。

 

物質的に見れば身体は自分自身であるので、身体はとても大切です。

 

身体と意識についてはまた別な記事で述べたいと思います。

 

まとめ

 

1.本当の自分は意識。

2.意識とは目が覚めていること、そしてそれが分かること。

3.意識は思考や観念、欲求、感情などと一体化しているように感じるため、意識そのものには気づきにくい。

4.思考や観念などはあくまで意識を向けることによって起動するもの。

5.本当の自分は思考や観念などから独立したまっさらな意識のこと。

 

私がこうしたことを考えるようになった経緯となる体験記事もありますので、ぜひそちらもご覧ください。

 

 

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こぼうず
 

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