入院すると、二度と家に戻れなくなる人がいる。

 

入り口はあっても、戻る出口はない!

人は母の胎から生まれ、この“世”という入口に入ってきます。
そしてそれぞれに与えられた寿命を終えると、死という入口へと入っていきます。

死の世界から再びこの世へ戻る出口はありません。

 

人の歩みはいつか終わりますが、神に受け入れられた者には、

そこで終わりではなく、神が備えられた楽園と天の国が開かれています。

だから、私たちはこの世を去る日を恐れの時ではなく、希望の扉として受け止めます。

ゆえに、地上で生きる今こそ、悔い改めて、信仰で主イエスのみ言葉を守り

聖霊の導きの下で、父なる神に従うことが、

真の意味での人の救いと癒やしと祝福になります。

 

感謝は信仰の根本

神様は感謝を捧げることを命令としておられます。これは守らなければならない掟であり、信仰の根本的な本質に直結する。

 

人間が神によって造られた目的は、神の業と栄光を称えるためであり、神の御前に出る時は感謝を捧げ、神を讃美しながら出るべきです。

 

真の感謝と偽りの感謝

讃美は口先だけのものではなく、感謝を捧げながら行うべきであり、その感謝も心からのものでなければなりません。

 

口先だけの感謝や讃美は偽りであり、神様が求めるものではありません。

 

富と罪の問題

アダムとエバが犯した罪は、**富(物質)**に心を奪われ、神の掟を破ったことにあります。イエス様も人の心は常に富にあると教えています。

 

この問題を解決できないと、神様との関係が断たれた状態のままであり、神様の約束された救いや祝福を受け取ることができません。

 

収穫感謝祭と信仰の証明

神様の前に出ていく第一の条件は、心から感謝の讃美を捧げることです。

 

収入(収穫)が入った時に、それを神様に捧げることによって、本当に信仰がどうであるかを示すことになります。これが収穫感謝祭の神聖的な定義です。

感謝ができない人には信仰もないと言えます。

 

イスラエルの歴史を例に

神様から祝福を受け、世界に影響力を持つイスラエル民族は、歴史を通して神様にささげた感謝の歴史があるため、今でも特別な守りを受けている。

ルカによる福音書 12:16-21

それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 

やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』

しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 自分のために富を積んでも、神

の前に豊かにならない者はこのとおりだ。

 

マタイによる福音書 13:40-43,47-50

毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。 人の子(イエス)は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある

者は聞きなさい。

 

また、天の国は次のようにたとえられる。

網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。

網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、

良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。

世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

 

 

ローマ14:10-12

それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。

また、なぜ兄弟(信仰の仲間)を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。 こう書いてあります。 

「主は言われる。 『わたしは生きている。 すべてのひざはわたしの前にかがみ、 すべての舌が神をほめたたえる』と。」 

それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです

 

ヘブライ人への手紙 4:12-13

というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。 

更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。

 

ヨハネの黙示録 20:11-15

わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。 わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。

幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。 海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。

死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。

神の人が優先するべき事は、悔い改めで生まれ変わって、自我を砕きながら、神の国と義を求めて、サタンとの戦いで、聖霊の力、祈りと断食をもって勝利し、福音を伝えながら、聖霊の実を結んで聖化すること

ローマ人への手紙 13章1〜2節

すべての人は、上に立つ権威に従うべきです。権威は神によらないものはなく、存在する権威はすべて神によって立てられたのです。したがって、権威に逆らう者は神の定めに逆らうことになり、逆らう者は自分の身に裁きを招くのです。

→ パウロがこの言葉を書いた当時、ローマ帝国は決して正しい政府ではありませんでした。
それでも彼は「権威を立てられたのは神である」と語ります。
つまり、人間の権力そのものではなく、その背後におられる神を意識して従うことを意味しています。


第二テモテへの手紙 2章24〜25節

主のしもべは争ってはならず、すべての人に親切で、教えることができ、忍耐強く、反対する者を優しく諭さなければなりません。


ヨハネによる福音書 18章36節

イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではない。」


ローマ人への手紙 12章17〜18節

誰に対しても悪をもって悪に報いず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できる限り、あなたがたはすべての人と平和に過ごしなさい。


ヤコブの手紙 1章20節

人の怒りは神の義を実現しないからです。


第一ペテロの手紙 2章13〜15節

主のために、人の立てたあらゆる制度に従いなさい。たとえそれが上に立つ王であろうと、あるいは王によって遣わされた総督であろうと。あなたがたの善い行いによって、愚かな者たちの無知を沈黙させるためです。

→ 「主のために従う」とは、権力者に盲目的に服従することではなく、神に目を向けた従順の姿勢です。
たとえ不正な権力であっても、信仰者の善い行いが最終的に神の義を証しします。


ヘブル人への手紙 13章17節

あなたがたを導く人々に従い、服従しなさい。彼らは、あなたがたのたましいのために、責任をもって見守っているのです。

→ 教会の中でも、神の秩序を守る従順は霊的な平安と秩序の基礎です。
権威は支配や抑圧のためではなく、守り導くために与えられた構造です。


このように聖書は、「権威への従順」を通して私たちが神の主権を認め、信仰の姿勢を保つことを教えています。
それは人間への服従ではなく、神への信頼と秩序への尊重なのです。

教会の付近に、大変汚れたままの状態で立っているホームレスのおじいさんがいて、

信者たちが自分の家でシャワーするように勧めても、拒否してます。

おじいさんの持論は、地球が崩れるから、自分が支えないと行けないと言って

立ちっぱなしで寝たり、ずっと立っていて、足が痛くて苦しそうな顔をしています。


時には、公園集会に来たり、道で会った時は、食べ物を渡すと、イエス様に感謝!と言って喜んで食べています。寒くなってるから生活保護受給を勧めても断るし

今の状態では、見守っている私たちも大変辛いですが、できる事は、会う度に食事と御言葉で支えるしかないかと考えています。

真理を知らないおじさんをそうさせたのは、悪霊が惑わしてるからです。真理は救いと恵みと健康をもたらすのに

本当に悔しいし、可愛そうで、心が苦しいです。

時々悪霊を追い出す祈りを一緒にしてますから、良くなる事を期待しています。



すべてのものはこの方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは何ひとつなかった。”(ヨハネ1:3)

 

万物はイエスによって造られ、イエスによって保たれている。(コロサイ1:17)

 

イエスさまは言いました。
『疲れた人は、わたしのもとに来なさい。休ませてあげます。』(マタイ11:28)

 

イエス様が再臨するところなのに、地球が崩れることはない。

 

空中再臨(第1復活)ー7年大患難ー地上再臨ー千年王国ー白い御座の裁き(第2の復活)

宇宙が無くなり、新しい天と新しい地が生じる。

 

黙示録 21章1–4節

それから私は、新しい天と新しい地とを見た。
以前の天と地は消え去り、海ももはやない。
そして、聖なる都、新しいエルサレムが、
花嫁のように飾られて、天から神のもとから下ってくるのを見た。

その時、御座から大きな声が聞こえた。
「見よ、神の幕屋が人とともにある。
神が彼らとともに住み、彼らはその民となる。
神ご自身が彼らとともにいて、彼らの涙をすっかりぬぐわれる。
もはや死もなく、悲しみも叫びも痛みもない。」

 

教会のリバイバルを願って、祈りと断食に専念しても

思う通りに、人々が悔い改めもしないし、

礼拝にも集わない時

何をわたしがすればいいかを、祈った時、

聖霊様が、相手に罪や悪、非があったとしても

相手に怒ったすべてを悔い改めるように!と

聖霊様からの声を聞き

まず、集まった一人一人の信者に公に謝り

夜眠る前には、できる限り悔い改めの祈りをしました。

その夜、主から見せられた夢。

 

ホームレス達と女性や今まで会った事の無い人々や

他の教会の信者たちもたくさん来て、場所が狭いほど集まって礼拝する夢を見て

 

人の怒りは神の義を実現しないからです。 

ヤコブの手紙 1:20
 

まさに御言葉通りでした。

とりなしの祈りは力があります。しかし

悔い改めの代わりにはなりません。

神はあわれみ深い方ですが、罪を見過ごすことはされません。

たとえノア、ダニエル、ヨブのような義人がその地にいても、
彼らは自分の命しか救えませんでした。

 

罪をそのままにして、他人の祈りに頼ることはできません。
神は一人ひとりに悔い改めを求められます。

 

できる事は?「悔い改めへと導く、足を洗う愛」

ヨハネ13:15 わたしがあなたにしたように、あなたがたも互いにしなさい。」 

 

悔い改めは、責めによってではなく、愛によって生まれる。
イエスのように、へりくだって仕えるとき、人の心は神のもとへ帰っていきます。

足を洗う手こそ、悔い改めを生む手。

 

悔い改めの声をかける人こそ、聖くて、憐れみ深く

愛が溢れるべきです。

執り成し祈り者がいても裁かれる。

エレミヤ15章は、ユダの民があまりにも頑なに神に背いたため、もはやモーセやサムエルのようなとりなしも通じないと神が語られる。

 

エレミヤ書 15:4 裁かれる理由

ヒゼキヤの子ユダの王マナセがエルサレムでしたことのためである。

 

👑 マナセ王の罪とは何か

列王記下21章や歴代誌下33章
彼の罪は単なる「道徳的な悪」ではなく、国家的背信(apostasy)、つまり神との契約を踏みにじるものでした。

  1. 偶像礼拝の導入

    • バアルの祭壇を築き、天の万象を拝みました。

    • 神殿の中に偶像を立てた(列王記下21:4–7)。

    • これは「主の名が置かれるべき場所」を汚した、最悪の罪でした。

  2. 人身供犠(じんしんくぎ)

    • 自分の息子を火に通した(つまり子どもを犠牲にした)。

    • 神が最も忌み嫌う行為(申命記12:31)。

  3. 魔術と占い

    • 占い師や霊媒を頼り、神を離れた。

  4. 無実の血を流した

    • エルサレムを血で満たした(列王記下21:16)。

    • 神の預言者たち、正しい人々を迫害したと伝えられています。


⚖️ 神の裁きの理由

マナセの罪は単なる個人のものではなく、ユダの国の方向を根本からねじ曲げた罪でした。その結果、後の王たち(ヨシヤなど)が改革を行っても、
民の心の奥に偶像礼拝の根が残っていたのです。
神は「わたしはエルサレムにわたしの名を置くと言ったが、
彼らはマナセのように悪を行い、わたしを捨てた。」(列王記下23:27)

つまり、マナセは「悔い改めの時代を過ぎさせた王」とも言えます。

 

1–4節:神の怒り、取り消されない裁き

 

「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、この民のためには心を向けない。」

ここでは、民の罪があまりにも重く、神の赦しがもう及ばないことが示されています。

神は4つの裁きを宣言します:剣・飢饉・獣・捕囚。

それぞれが破滅の象徴です。

 

5–9節:民の悲惨と見捨てられた都

 

エルサレムは孤独な女、もはや同情されない者。神は「彼らに何度も警告したが、耳を傾けなかった」と言います。

その結果、子どもも母も失われ、若い母親が昼のうちに倒れる、という悲惨な光景が語られます。

 

😢 10–18節:エレミヤの嘆き

 

エレミヤは自分の運命を嘆きます。「ああ、わたしの母よ、あなたはわたしを産んだ。」

 

人々から憎まれ、迫害される苦しみの中で、彼は神に訴えます。

自分は神の言葉を忠実に語っているのに、なぜこんなに痛みがあるのか?

彼は神の言葉を「喜び」として食べた(=受け入れた)と言いますが、それが彼に孤独をもたらしたのです。

 

神の言葉を喜んで受け取ったのに、その道は苦しみで満ちていました。

 

🔥 19–21節:神の答え

 

神は「もしあなたが立ち返るなら、わたしはあなたを再びわたしの前に立たせよう。」

つまり、神の働きを続けるためには、絶望の中でも信仰に立ち返る必要があるということ。

神の約束「彼らはあなたに立ち向かうが、勝てはしない。わたしがあなたと共にいて、救い出すからだ。」

 

神の裁きの時には限度がある。悔い改めの時を過ぎると、裁きが来る。

預言者も苦しみを通るが、神はその中で守られる。

神の言葉は甘いが、真実を語る者の道はしばしば孤独。

 

しかし、神は忠実な者を見捨てない。

神は「わたしがあなたを救い出す」と言い、どんな敵にも勝利できる約束を与えます。「神の怒り」と「神の守り」が同時に描かれています。

 

福音宣教して、祈りと断食で勝利し、御心に従順する時、

聖霊の油注ぎが強くなり、聖霊の声も頻繁に聞こえる。

祈りは霊の祈り、すなわち異言祈りを、長き深く!

すること!

 

①サタンの誘惑から勝利した時-聖霊が王として働く時、天使が働く。

マタイ‭4‬:‭1‬-‭11‬

さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」 イエスはお答えになった。 「『人はパンだけで生きるものではない。 神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』 と書いてある。」 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。 『神があなたのために天使たちに命じると、 あなたの足が石に打ち当たることのないように、 天使たちは手であなたを支える』 と書いてある。」 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。 『あなたの神である主を拝み、 ただ主に仕えよ』 と書いてある。」 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕え。」
‭‭

② 神の御心に従うとき、神は今も天使や聖霊によって私たちを力づけてくださるのです。

‭‭ルカ‭22‬:‭42‬-‭44‬

父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。

               ③福音宣教
ルカ‬ ‭4‬:‭18‬-‭19‬
主の霊がわたしの上におられる。 貧しい人に福音を告げ知らせるために、 主がわたしに油を注がれたからである。 主がわたしを遣わされたのは、 捕らわれている人に解放を、 目の見えない人に視力の回復を告げ、 圧迫されている人を自由にし、 主の恵みの年を告げるためである。
‭‭

「信じる者が真に求めるべきこと」が、奇跡やしるしではなく、「霊魂の救い」と「罪からの分離(聖化)」である。

 

1. 信仰の真の目的は「霊魂の救い」である

 

  • 信じる者に伴うしるし(悪霊追い出し、異言、病の癒やしなど)を記したマルコ16:17-18から始まります 

  • 求められているもの: 多くのクリスチャンが、この世で必要なものや、悪霊追い出し、病の癒やしといった**「しるし」ばかりを求めている。

  • イエスの警告: イエス様は、しるしを求める時代を「よこしまな悪い時代」とし、彼らは悔い改めができないと警告しました。

  • 真の目的: 信仰の結果として手に入れるべき目的は、使徒ペテロが教えるように**「霊魂の救い」**(ペテロ第一1:9)でなければなりません。

 

2. 奇跡は「目的」ではなく「しるし」に過ぎない

  • 喜びの対象: 弟子たちが悪霊を追い出したことを喜んだ時、イエス様は「悪霊があなたがたに服従したことを喜ぶな。あなたがたの名前が天に記されていることを喜びなさい」と答えられました。

  • 「味見」としての奇跡: 神様は、信仰が未熟な段階であっても、成長を助けるために「味見(あじみ)」として奇跡の力をお与えになることがあります 。これは、その人が完全に認められた証拠ではないと理解すべきです。

  • 不法と拒絶: マタイ7:21-23が示すように、奇跡を行っても「不法(罪)」がある者は、主から「わたしはあなた方を全然知らない」と拒絶されます。奇跡を行う力があっても、罪から離れて聖くなっているかどうかが神の国に入る条件」です 。

 

3. 真の信仰生活とは

 

  • 生まれ変わり: 天国に入る条件は、罪から完全に離れきった「生まれ変わった状態」です。これは人の力ではなく、精霊によって初めて可能になります 。

  • 聖なる生活: ヘブライ12:14に基づき、「聖なる生活を追い求める」ことなしには誰も主を見ることはできないと強調されています。

  • 優先順位の比喩: 奇跡を花の「香り」に、真の信仰を「本物の花」に例え、「香りを求めないで本物の花であることを求めるべきだ」と結論づけています 。

  • 聖霊の力: 信仰の目的は奇跡ではなく、「聖霊の力」を求めて罪から離れきる生活をするべきであると締めくくられています 。