皆が異言ができることはないですが、

異言の祈りを禁ずることは

神が立てる教会の組織を否定する、

聖霊の働きを拒否することなので、注意すべきです。

 

コリント12章

3そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。

4霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。

5務は種々あるが、主は同じである。

6働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。

7各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである

8すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言

9またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、 10またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほ

かの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。

11すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである

 

28神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです

 

現にも、使徒のような働きや預言する牧師や使命者、、、などいろんな賜物を持って、働いている方たちが多くいます。神の御心のままに祈らせられている、異言の祈りは、特に執り成し祈りチームには、絶対必要な賜物であり、霊的戦いには勝利する武器でも言えます。

 

1. 弟子になること(弟子化)の定義

 

  • 師匠の教えの完全な実行者になること

    弟子というのは師匠がやったことをそのまま教わってその通りにしたものは弟子なんです。

    • イエス様の弟子になることは、イエス様が教え、行い、約束された全てのことを学び、その通りに実行する者になることを意味します。

  • 神の子の身分の完全な回復

    • 人間は元々、「神の姿に」造られ、「神々(神の子)」と呼ばれるべき存在でした。

    • しかし罪によってその身分を失いました。「弟子になる」ということは、イエス様のように生きることを通して、失っていた神の子の身分を完全に回復し、神の性質を持つ存在に立ち返ること(真的な神々のように)を意味します。

  • 刈り入れまで責任を持つこと

    • 「伝道」を種を蒔く行為とするならば、「弟子化」は刈り入れまで、つまり蒔いた種が実を結ぶまで、徹底して世話をすることを意味します。

    • イエス様を信じさせた後も、その人がイエス様の教えを守り、罪から離れ、命の実を結ぶように導く必要があります。

 

2. 弟子になるための具体的なステップ

 

弟子となるためには、以下の行動が不可欠であると説かれています。

ステップ 聖書の教え(根拠) 説明
教えを全て聞く マタイ 28:20a イエス様が命じておかれたことを全て教わる必要があります。
教えを守る マタイ 28:20b / ヨハネ 15:7-8 教わった言葉(イエスの約束)を「ことごとく守るようにしなさい」とあります。守らなければ、真の弟子にはなれません。
実を結ぶ ヨハネ 15:8 イエス様の言葉を守り、その通りに生きると、神様が必ずを結ばせてくださいます。この実は、罪から離れて神の子になる「命の実」であり、信仰の成長の結果です。
聖霊の力を受ける 使徒 1:4-8 弟子化は人の力だけでは不可能であるため、聖霊の権威と力をしっかり受けてから、その力を頼りに弟子化の働きに出るべきです。

 

3. 弟子になった結果(恵み)

 

真の弟子になると、以下のような結果がもたらされます。

  • 神の栄光:実を結ぶことによって、神様が栄光を受けられます。

  • 神の祝福:神様は約束の祝福を与えざるを得なくなります(マタイ6章32節)。

  • 勝利する教会:弟子となった一人ひとりがイエス様のような強さに成長するため、サタンの勢力が決して潰せない、強力な教会(群れ)となります。

  • 終末の備え:これから来るどんな厳しい試練(コロナよりもっとひどいもの)が来ても、命をかけて神から離れない、勝利する信仰を持つことができます。

「弟子になること」とは、イエス様が示した完璧な神の子の生き方を学び、実践し、その結果、神の子の身分と力を完全に回復するプロセス全体であると説いているのです。

ローマ1:21
彼らは神を知っていながら、神を神としてあがめず、感謝することもしませんでした。

かえって、その思いはむなしくなり、心は暗くなりました。

 

ここに描かれている順番は、
神を認めない
→ 感謝しない
→ 思いが空虚になる
→ 心が暗くなる
→ 偶像やさまざまな罪(同性愛の罪も)が入り込む
→ 最終的には裁きの現実に行き着く

 

ローマ1章17-32節

世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。 

なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。 自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、 滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。 そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。 神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。 

 

それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、 同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。 

 

あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、 人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、 無知、不誠実、無情、無慈悲です。 

 

彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。'

 

 

入院すると、二度と家に戻れなくなる人がいる。

 

入り口はあっても、戻る出口はない!

人は母の胎から生まれ、この“世”という入口に入ってきます。
そしてそれぞれに与えられた寿命を終えると、死という入口へと入っていきます。

死の世界から再びこの世へ戻る出口はありません。

 

人の歩みはいつか終わりますが、神に受け入れられた者には、

そこで終わりではなく、神が備えられた楽園と天の国が開かれています。

だから、私たちはこの世を去る日を恐れの時ではなく、希望の扉として受け止めます。

ゆえに、地上で生きる今こそ、悔い改めて、信仰で主イエスのみ言葉を守り

聖霊の導きの下で、父なる神に従うことが、

真の意味での人の救いと癒やしと祝福になります。

 

感謝は信仰の根本

神様は感謝を捧げることを命令としておられます。これは守らなければならない掟であり、信仰の根本的な本質に直結する。

 

人間が神によって造られた目的は、神の業と栄光を称えるためであり、神の御前に出る時は感謝を捧げ、神を讃美しながら出るべきです。

 

真の感謝と偽りの感謝

讃美は口先だけのものではなく、感謝を捧げながら行うべきであり、その感謝も心からのものでなければなりません。

 

口先だけの感謝や讃美は偽りであり、神様が求めるものではありません。

 

富と罪の問題

アダムとエバが犯した罪は、**富(物質)**に心を奪われ、神の掟を破ったことにあります。イエス様も人の心は常に富にあると教えています。

 

この問題を解決できないと、神様との関係が断たれた状態のままであり、神様の約束された救いや祝福を受け取ることができません。

 

収穫感謝祭と信仰の証明

神様の前に出ていく第一の条件は、心から感謝の讃美を捧げることです。

 

収入(収穫)が入った時に、それを神様に捧げることによって、本当に信仰がどうであるかを示すことになります。これが収穫感謝祭の神聖的な定義です。

感謝ができない人には信仰もないと言えます。

 

イスラエルの歴史を例に

神様から祝福を受け、世界に影響力を持つイスラエル民族は、歴史を通して神様にささげた感謝の歴史があるため、今でも特別な守りを受けている。

ルカによる福音書 12:16-21

それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 

やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』

しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。 自分のために富を積んでも、神

の前に豊かにならない者はこのとおりだ。

 

マタイによる福音書 13:40-43,47-50

毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。 人の子(イエス)は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある

者は聞きなさい。

 

また、天の国は次のようにたとえられる。

網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。

網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、

良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。

世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

 

 

ローマ14:10-12

それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。

また、なぜ兄弟(信仰の仲間)を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。 こう書いてあります。 

「主は言われる。 『わたしは生きている。 すべてのひざはわたしの前にかがみ、 すべての舌が神をほめたたえる』と。」 

それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです

 

ヘブライ人への手紙 4:12-13

というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。 

更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。

 

ヨハネの黙示録 20:11-15

わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。 わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。

幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。 海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。

死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。 その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。

神の人が優先するべき事は、悔い改めで生まれ変わって、自我を砕きながら、神の国と義を求めて、サタンとの戦いで、聖霊の力、祈りと断食をもって勝利し、福音を伝えながら、聖霊の実を結んで聖化すること

ローマ人への手紙 13章1〜2節

すべての人は、上に立つ権威に従うべきです。権威は神によらないものはなく、存在する権威はすべて神によって立てられたのです。したがって、権威に逆らう者は神の定めに逆らうことになり、逆らう者は自分の身に裁きを招くのです。

→ パウロがこの言葉を書いた当時、ローマ帝国は決して正しい政府ではありませんでした。
それでも彼は「権威を立てられたのは神である」と語ります。
つまり、人間の権力そのものではなく、その背後におられる神を意識して従うことを意味しています。


第二テモテへの手紙 2章24〜25節

主のしもべは争ってはならず、すべての人に親切で、教えることができ、忍耐強く、反対する者を優しく諭さなければなりません。


ヨハネによる福音書 18章36節

イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではない。」


ローマ人への手紙 12章17〜18節

誰に対しても悪をもって悪に報いず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できる限り、あなたがたはすべての人と平和に過ごしなさい。


ヤコブの手紙 1章20節

人の怒りは神の義を実現しないからです。


第一ペテロの手紙 2章13〜15節

主のために、人の立てたあらゆる制度に従いなさい。たとえそれが上に立つ王であろうと、あるいは王によって遣わされた総督であろうと。あなたがたの善い行いによって、愚かな者たちの無知を沈黙させるためです。

→ 「主のために従う」とは、権力者に盲目的に服従することではなく、神に目を向けた従順の姿勢です。
たとえ不正な権力であっても、信仰者の善い行いが最終的に神の義を証しします。


ヘブル人への手紙 13章17節

あなたがたを導く人々に従い、服従しなさい。彼らは、あなたがたのたましいのために、責任をもって見守っているのです。

→ 教会の中でも、神の秩序を守る従順は霊的な平安と秩序の基礎です。
権威は支配や抑圧のためではなく、守り導くために与えられた構造です。


このように聖書は、「権威への従順」を通して私たちが神の主権を認め、信仰の姿勢を保つことを教えています。
それは人間への服従ではなく、神への信頼と秩序への尊重なのです。

教会の付近に、大変汚れたままの状態で立っているホームレスのおじいさんがいて、

信者たちが自分の家でシャワーするように勧めても、拒否してます。

おじいさんの持論は、地球が崩れるから、自分が支えないと行けないと言って

立ちっぱなしで寝たり、ずっと立っていて、足が痛くて苦しそうな顔をしています。


時には、公園集会に来たり、道で会った時は、食べ物を渡すと、イエス様に感謝!と言って喜んで食べています。寒くなってるから生活保護受給を勧めても断るし

今の状態では、見守っている私たちも大変辛いですが、できる事は、会う度に食事と御言葉で支えるしかないかと考えています。

真理を知らないおじさんをそうさせたのは、悪霊が惑わしてるからです。真理は救いと恵みと健康をもたらすのに

本当に悔しいし、可愛そうで、心が苦しいです。

時々悪霊を追い出す祈りを一緒にしてますから、良くなる事を期待しています。



すべてのものはこの方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは何ひとつなかった。”(ヨハネ1:3)

 

万物はイエスによって造られ、イエスによって保たれている。(コロサイ1:17)

 

イエスさまは言いました。
『疲れた人は、わたしのもとに来なさい。休ませてあげます。』(マタイ11:28)

 

イエス様が再臨するところなのに、地球が崩れることはない。

 

空中再臨(第1復活)ー7年大患難ー地上再臨ー千年王国ー白い御座の裁き(第2の復活)

宇宙が無くなり、新しい天と新しい地が生じる。

 

黙示録 21章1–4節

それから私は、新しい天と新しい地とを見た。
以前の天と地は消え去り、海ももはやない。
そして、聖なる都、新しいエルサレムが、
花嫁のように飾られて、天から神のもとから下ってくるのを見た。

その時、御座から大きな声が聞こえた。
「見よ、神の幕屋が人とともにある。
神が彼らとともに住み、彼らはその民となる。
神ご自身が彼らとともにいて、彼らの涙をすっかりぬぐわれる。
もはや死もなく、悲しみも叫びも痛みもない。」

 

教会のリバイバルを願って、祈りと断食に専念しても

思う通りに、人々が悔い改めもしないし、

礼拝にも集わない時

何をわたしがすればいいかを、祈った時、

聖霊様が、相手に罪や悪、非があったとしても

相手に怒ったすべてを悔い改めるように!と

聖霊様からの声を聞き

まず、集まった一人一人の信者に公に謝り

夜眠る前には、できる限り悔い改めの祈りをしました。

その夜、主から見せられた夢。

 

ホームレス達と女性や今まで会った事の無い人々や

他の教会の信者たちもたくさん来て、場所が狭いほど集まって礼拝する夢を見て

 

人の怒りは神の義を実現しないからです。 

ヤコブの手紙 1:20
 

まさに御言葉通りでした。

とりなしの祈りは力があります。しかし

悔い改めの代わりにはなりません。

神はあわれみ深い方ですが、罪を見過ごすことはされません。

たとえノア、ダニエル、ヨブのような義人がその地にいても、
彼らは自分の命しか救えませんでした。

 

罪をそのままにして、他人の祈りに頼ることはできません。
神は一人ひとりに悔い改めを求められます。

 

できる事は?「悔い改めへと導く、足を洗う愛」

ヨハネ13:15 わたしがあなたにしたように、あなたがたも互いにしなさい。」 

 

悔い改めは、責めによってではなく、愛によって生まれる。
イエスのように、へりくだって仕えるとき、人の心は神のもとへ帰っていきます。

足を洗う手こそ、悔い改めを生む手。

 

悔い改めの声をかける人こそ、聖くて、憐れみ深く

愛が溢れるべきです。