「失敗させたらいい」は正しい? 合唱コンクールの指導から | 神戸国語教育研究会カプスのブログ

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生徒主体で学校活動を行うとなると、きまって「失敗させたらいい」という声が聞こえてくる。

 

たしかに、「失敗学」という概念があるくらいで、失敗から学ぶことは多い。むしろ、失敗した方が悔しさが強くて印象に残る。その反省から次のステップにつなげる、というのは、よくわかる。

 

が、学校の活動の中には、その生徒にとって1回こっきりしかないものもある。

 

たとえば、3年生として迎える最後の合唱コンクール。賞を取れず悔しがる生徒に対し、「この失敗を次に活かそう」と言って通じるだろうか。

 

私は、かつて、自分の担任するクラスが3年生のとき、合唱コンクールで銀賞だった。実はそのクラス、前年度も銀賞(担任は私ではない)。昨年の反省を活かして、自分たちなりに工夫をしたのだが、前年同様、僅差で金賞を逃した。そのときの終礼の雰囲気は、お葬式そのものだった。

 

その年は、「絶対金賞」が合い言葉だったが、最初の曲選びからつまづいた。男子と女子の温度差もあった。去年をしらない担任の私は、これといったフォローもできないまま、本番を迎えてしまった。

 

合唱コンクールは、中学3年間で3回経験する。1回目の失敗、2回目の失敗を活かさなきゃいけないはずが、最後の3回目も結果は変わらなかった。この状況下で、「失敗したらいい」などとは口が裂けても言えない

 

物事に取り組むとき、ゴールに至る途中経過で失敗するのはアリだと思う。失敗なく、何もかもが順風満帆に進むことなど、まずない。

 

だが、ゴールはやはり成功しないと達成感が得られない。成功体験がなかったら、失敗した過去は挫折でしかない。成功すれば、失敗も貴重な財産になる。

 

「失敗したらいい」は正しいけれど、だからといって教員がそれに甘えて放任するのは違う。それは、「教育」とは呼べない。「教え育てる」のなら、やはり失敗をうまく乗り越え、成功へ導くサポートをするのが教員の役割だと考えている。

 

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