今日の日経平均株価は23,672.52円前日比(251.98円高)ということで2万3千円台をキープしてほぼ全面高といった状況でしたが、私の買った株は反落して前日比26円安で終わりました。

 

いつも、サァこれからと期待していたら見事に裏切られるといったことを繰り返していますが低位株の仕手株というのはこういうものなんでしょうが、それにしても、もう少し見せ場があれば納得できますが今のような繰り返しでは買値は上回っていますので利が乗っている時点で売却も考えざるを得ないかもしれません。

 

考えざるを得ないかも、ということでは私の病気(大腸癌ステージ4)は今年の春まで順調に抗がん剤治療を受けていましたが、順調な時に抗がん剤の副作用を軽減した方がよいのでは、ということから副作用の少ない抗がん剤に5月に切り替えました。

切り換えた当初は別に何ということもなかったのですが、6月に入ってから何となく歩くと100メートルも行かないのに息が上がってしまうようになり体調もすぐれない日が続くようになりました。

 

7月、8月は暑い時期なので暑さの所為もあるのかも、と思いながらも抗がん剤よりも癌の方が強い状況なのでは、と思い腫瘍内科の先生に話したところCT検査をしてみようということで検査を受け9月4日にその結果を説明してもらうことになっていましたが、折悪しく台風の影響で電車も車(タクシー)も動いていなくて仕方なく1週間延ばして9月11日に結果を聞くことになりました。

 

6月から体調が以前に比べてイマイチの状態だっただけに何となくあまり良い結果ではないだろう、という予感はありましたが当に予感通りで転移している肝臓の癌が大きくなっているということを写真を見せてもらいながら説明を受けました。

 

そこで、抗がん剤を変えることにして新たな薬を服用することになったのですが、これが結構難物で朝食後、昼食後、夕食後に飲む薬だけで相当なものになります。

特に朝食後と夕食後では10錠を超える数量になり、これだけでも私にとっては負担を感じますが、今はとにかく転移した癌が小さくなってくれればと願いながら飲んでます。

 

以前、このテーマで血液検査や尿検査の結果を数字の一覧表で渡され、どういう数値が大事なのか、が分かり難いということを取り上げて株価チャートのようにグラフ表示に出来れば素人にも分かり易いといったことがありますが、先日、腫瘍内科の先生に話したところ、全部は無理だが主なものならグラフ化出来るということなので腫瘍マーカーをグラフ化してもらうと5月中旬から右方上がりの状況で私にも腫瘍マーカーの上昇と6月からのイマイチの体調がよく分かりました。

 

腫瘍マーカーは下がってほしいのですが、私の買った株は右肩上がりで上昇してほしいと思っています。

 

 

半藤一利氏の『昭和史1926―1945』のこぼればなしの中でノモンハン事件当時の元連隊長である須見新一郎が司馬遼太郎氏に語った取材内容を元大本営参謀の瀬島龍三氏と文藝春秋誌上で仲良く話していたことで、瀬島さんに代表されるような参謀本部の人が何をしたかは明瞭である、として私の話は全部聞かなかったことにしてくれという手紙から司馬遼太郎氏はノモンハン事件を取材しながら書けなかったことを取り上げました。

 

そこで、ノモンハン事件に参加した須見新一郎氏の昭和14年(1939年)年7月における状況を半藤一利氏の『ノモンハンの夏』より引用いたします。

ハルハ河渡河作戦で渡河作戦で軍橋を設置しましたが鉄舟が足りないため1本の架橋でした。

軍橋は、雨上がり流速約2メートル、河底が砂地上に鉄舟が足らないから、早くも弓なりにまがっている。やむなく馬は一頭ずつ、したがって砲兵の通過には輓馬を砲架からはずさなければならない。

自動車は荷をすべておろし、車自体の使うガソリンでさえおろさなければ、工兵准尉の橋梁長が渡ることを許可してくれない。しかも一輌ずつ。このため橋のたもとには、順番を待つ人馬や自動車が殺到して、無秩序な混雑と混乱をきわめていた。

いうまでもないことであるが、師団に相当する戦力が渡河するには、少なくとも三本の架橋は必要であったのである。

 

須見大佐の指揮する第二十六連隊は、作戦計画によれば全員が乗車し、快速部隊として未明に渡河を終り、戦線を突破して、いちばん西側をまわってソ蒙軍の後方にでることになっていた。

ところが現況は右のとおりで、第一大隊だけが喧嘩腰でなんとか渡河できたものの、残りの二つ大隊は自動車どころか将兵の身ひとつが河を渡るに渡れないでいる。

いたずらに時間が経過するなかで、しばしばソ連戦闘機の機銃掃射をうけ、須見の焦燥はつのるいっぽうであった。

ノモンハン付近の国境紛争において国境線を越えて外蒙古内に侵攻する作戦の基本計画は関東軍作戦課においてつくられ、それを参謀本部が黙認している状況でしたが、軍橋の件と言い杜撰な作戦計画は今後も出て来ます。

参謀本部と関東軍作戦課の緻密な連絡というよりも、その反対でノモンハン事件は結局、ソ蒙軍の主張通りの結果となってしまいます。

 

 

前回9月10日は首相として、また外務大臣が外国訪問時は外務大臣を兼任していた近衛文麿首相が政府統帥部連絡会議で日米諒解案に対して異論がなく日米交渉を進めるよう駐米日本大使館に打電しようとしますが、そこで外務次官から「松岡外務大臣もそろそろ戻って参りますので、それまで判断を待っていただけませんか」と発言しワシントン日本大使館への打電を拒否し、これに躊躇した近衛首相が折れ、態度を保留にしてしまったのです。

 

と言うところまで紹介しましたが、今回は、その松岡洋右外務大臣の帰国について紹介していきます。

近衛首相が態度を保留にしたのは昭和16年(1941年)4月19日、20日あたりのことです。

そこへ松岡外務大臣が、独伊との三国同盟の締結、さらには日ソ中立条約という、ものすごいお土産をもって、おのれの手柄に酔っ払ったような顔で4月22日、立川の飛行場に着陸あそばしました。

 

これがもう10日も遅けりゃなんでもなかったんですが、折も折、日米諒解案への同意をアメリカに伝えようという直前に帰ってきてしまったんですね。

 

松岡外務大臣は、この年の3月12日より、ヨーロッパを歴訪。ドイツのベルリンでの日独伊三国同盟締結の調印を済ませた後、日本への帰途、ソ連のモスクワにて日ソ中立条約を半ば松岡の独断で締結します。

これにより、松岡の考える日独伊ソ4カ国協商の形が変則的ですが確立。

松岡の外交構想に一歩ちかづいた形になったわけです。

 

しかし、松岡の外交方針は、必ずしも日本政府の総意ではなかったと言え、「日米諒解案」が、にわかに日米交渉の俎上にあがりつつある、現在の状況では、むしろ足かせとなってしまっていたのです。

 

立川飛行場に降り立った松岡を待っていたのは、内閣総理大臣近衛文麿でした。

近衛は、松岡の留守中に懸案としてあがっていた「日米諒解案」の説明と承認を伝えに、わざわざ飛行場まで迎えに来たのです。松岡は、その近衛の思惑を察していたと見え、「宮城参拝をしたい」と述べ、近衛からは内容を聞きませんでした。

 

松岡は、飛行場から都内へ車で移動の際、同席していた大橋忠一外務次官より日米諒解案の説明をうけました。

松岡は、日米諒解案について陸軍の関係者多数関わっている点を指摘し「陸軍による謀略」との見解示し、「しばらく考えさせてほしい」と返答。体よくかわしてしまいました。

 

これは、松岡が陸軍を毛嫌いにしている点や、日米交渉に対する思惑、外交政策方針が反映しています。

松岡は、日米交渉に関して『いかなる者の干渉も受けずじぶんだけで一挙に解決したい』

 

と返答。体よくかわしてしまいました。

これは、松岡が陸軍を毛嫌いにしている点や、日米交渉に対する思惑、外交政策方針が反映しています。

松岡は、日米交渉に関して、とにかく

 

『いかなる者の干渉も受けず、自分だけで一挙に解決したい』と考えておりました。

松岡外相は対米交渉に自信をもっていたのかもしれませんが、アメリカ政府の反応は日独伊三国同盟を推進した中心人物として松岡外相を見ていただけに松岡では日米交渉が上手く運ぶ可能性は先ずあり得ないのでははないでしょうか。

 

とにかくドイツに傾倒してアメリカやイギリスはもちろん当時のヨーロッパ情勢を冷静に見られなかったことは、もう少し先に日独伊ソという外交構想自体が破綻することがハッキリします。