前回9月10日は首相として、また外務大臣が外国訪問時は外務大臣を兼任していた近衛文麿首相が政府統帥部連絡会議で日米諒解案に対して異論がなく日米交渉を進めるよう駐米日本大使館に打電しようとしますが、そこで外務次官から「松岡外務大臣もそろそろ戻って参りますので、それまで判断を待っていただけませんか」と発言しワシントン日本大使館への打電を拒否し、これに躊躇した近衛首相が折れ、態度を保留にしてしまったのです。

 

と言うところまで紹介しましたが、今回は、その松岡洋右外務大臣の帰国について紹介していきます。

近衛首相が態度を保留にしたのは昭和16年(1941年)4月19日、20日あたりのことです。

そこへ松岡外務大臣が、独伊との三国同盟の締結、さらには日ソ中立条約という、ものすごいお土産をもって、おのれの手柄に酔っ払ったような顔で4月22日、立川の飛行場に着陸あそばしました。

 

これがもう10日も遅けりゃなんでもなかったんですが、折も折、日米諒解案への同意をアメリカに伝えようという直前に帰ってきてしまったんですね。

 

松岡外務大臣は、この年の3月12日より、ヨーロッパを歴訪。ドイツのベルリンでの日独伊三国同盟締結の調印を済ませた後、日本への帰途、ソ連のモスクワにて日ソ中立条約を半ば松岡の独断で締結します。

これにより、松岡の考える日独伊ソ4カ国協商の形が変則的ですが確立。

松岡の外交構想に一歩ちかづいた形になったわけです。

 

しかし、松岡の外交方針は、必ずしも日本政府の総意ではなかったと言え、「日米諒解案」が、にわかに日米交渉の俎上にあがりつつある、現在の状況では、むしろ足かせとなってしまっていたのです。

 

立川飛行場に降り立った松岡を待っていたのは、内閣総理大臣近衛文麿でした。

近衛は、松岡の留守中に懸案としてあがっていた「日米諒解案」の説明と承認を伝えに、わざわざ飛行場まで迎えに来たのです。松岡は、その近衛の思惑を察していたと見え、「宮城参拝をしたい」と述べ、近衛からは内容を聞きませんでした。

 

松岡は、飛行場から都内へ車で移動の際、同席していた大橋忠一外務次官より日米諒解案の説明をうけました。

松岡は、日米諒解案について陸軍の関係者多数関わっている点を指摘し「陸軍による謀略」との見解示し、「しばらく考えさせてほしい」と返答。体よくかわしてしまいました。

 

これは、松岡が陸軍を毛嫌いにしている点や、日米交渉に対する思惑、外交政策方針が反映しています。

松岡は、日米交渉に関して『いかなる者の干渉も受けずじぶんだけで一挙に解決したい』

 

と返答。体よくかわしてしまいました。

これは、松岡が陸軍を毛嫌いにしている点や、日米交渉に対する思惑、外交政策方針が反映しています。

松岡は、日米交渉に関して、とにかく

 

『いかなる者の干渉も受けず、自分だけで一挙に解決したい』と考えておりました。

松岡外相は対米交渉に自信をもっていたのかもしれませんが、アメリカ政府の反応は日独伊三国同盟を推進した中心人物として松岡外相を見ていただけに松岡では日米交渉が上手く運ぶ可能性は先ずあり得ないのでははないでしょうか。

 

とにかくドイツに傾倒してアメリカやイギリスはもちろん当時のヨーロッパ情勢を冷静に見られなかったことは、もう少し先に日独伊ソという外交構想自体が破綻することがハッキリします。