カンガルー・ノート |  ◆ R I N G O * H A N

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歌うパステル画家5*SEASON鈴御はんの蒼いブログショー

カンガeルー

CAN ga RUU

疾走という めくるめく時間。
限られた一生において
たとえば、瞬きをも忘却しそうな、
得体のしれない急流に乗せられ、
ある処へ まっしぐらに駆け抜ける季節が
ときとして人には めぐってくる。
その疾走ときたら、自らの意思など一切おかまいなく、
次々と勝手に加速し、人の魂を運んでいく。
その事情を「運命」などという指紋だらけの言葉で
短絡的にまとめるようなことはしたくないな。

疾走する風景、疾走する時間。それらは、
おそらく全ての人にやってくる。
「いやしかし、私には理性がありますから」などと、
“ある疾走”を否定する人もおられようけれど、
ならば、私は「だったら」と言いたい。
「貴方は自分の意思で命を授かったのか」と。
誕生という泉に理性なんか湧き出ない。
それにたぶん その疾走は
特定の誰かを狂おしく想ったときも同じく、だ。
何故、人を好きになったのか、
何故、“あの人”でなければいけないのか、
急速に燃え上がる片恋は、疾走する。
理由なんてないし、気持の裏付けだってない、
理性なんて軽く消えて行く。
片恋は男女間だけではない、夢や野心だってそうだ。

安部公房の『カンガルー・ノート』を読んだ。
疾走する話だった。
奇妙キテレツな自責の念、作家の戯言。
ある日突然、足のスネに カイワレ大根が生えてしまった男。
男は安部公房、だと私は思う。

カイワレ大根を治そうとした男、
なのに男は病院のベッドに乗せられ、
この世でもなくあの世でもない時空を疾走する。
読みながらクスクス笑ってしまった!
なんて感想は不謹慎かな、テーマは“死”だというのに。
しかも安部公房自身も この作品を書いた後、
急逝されたというのに。

けれど人は、究極に追い詰められると
笑いをかもし出す、悲劇だって喜劇になる。だから、
安部公房の「最後の長編」は読みやすく、
リズミカルな文章とテンポのいい会話でもって、
次々に“おとぎ話”が差し出される。
私は のめり込み、いつしか頭の中に、
大きな円形劇場を こしらえ、
演劇『カンガルー・ノート』を上演し、
ちりばめられたブラック・ユーモアに
ニヤリと口尻をあげていた。
いや、ブラック=陰湿なんかではなく、むしろ
明朗かつ健全なユーモアにも思える。
物語は無国籍で無宗教で、デタラメで
常識を皮肉った逆説で、
ゆえに陰湿はポジティブにスイッチされるのだ。
「笑っていいんだ、この話は」
と、納得しながらページをめくった私。なのに、
このフィクションの最後の最後に綴られている、
ある数行を読んだとき、それは一変した。

 看護婦が熱闘で洗ったタオルの両端をつまみ、温度調節をしながら、シャワー室を出てきた。かいがいしく老人を抱えおこし、まず胸を温めてやり、つづけて背中から腰にかけてを拭いてやる。軽く、根気よく、相手の感覚にしっかり同調して動きの調節をつづけている。
 つい涙ぐんでいた。なんの涙かは説明はつけにくい。こんな信じ難い献身が、現実に存在していたことへの驚き。見るまでは信じられなかった、自分の卑屈さへの羞恥の念。自己放棄には心を絞って涙に変える作用があるのかもしれない。


ここを読んだ私も涙ぐんでいた。

徹底的に「常識」をもてあそんだ異世界の情景を
作家は理性をもって脈々と綴り、
主人公は疾走させられる。なのに
この部分だけは やけにリアルで生々しく、突如、
私は夢から覚め、実話を読んでいる気になった、
胸は熱く、夕焼けを見たときのような感情が
心臓のあたりから込み上げてきた。
次の行に読み進めず、この部分を何度も繰り返し読んだ。
涙がジワジワと にじみ出て、
もう主人公が可哀想で、哀しくて、そうして
愛おしくてたまらなくなった。
きっと、この部分を書きたくて安部公房は
『カンガルー・ノート』を創ったのではないか、
そう思えてしかたがない。今 改めて、
“リアルな数行”をブログにタイピングしてみると、
さらにその想いは強くなる。

「生きること」に意味を求め過ぎると つらくなる。
同様にそれは、
死は何なのかと直視することと同じだろう、
けれど、安部公房のように、
あるいは『カンガルー・ノート』の主人公のように、
夢みるように疾走することができれば
人は一生という“神様が まばたきしている束の間”を
しあわせだった思えるのかもしれない。

この話、『カンガルー・ノート』という題名であるのに、
カンガルーという動物は役の上では登場しない。
たぶんカンガルーは親という生き物の比喩ではなかろうか、
そうして、足のスネをカイワレ大根に奪われてしまった男と、
袋を一生かかえているカンガルーの姿は重なる。
有袋類。子育てを終えたカンガルーにも
そのための袋は残される、いったい何のために?
なんて面倒臭いこと、カンガルーは考えたりしないけど。
ちなみに、カンガルーのオスに袋はないのだ。
なんだかなぁ、袋のないカンガルーなんて、
カンガルーじゃないような気がするなぁ、
『カンガルー・ノート』が意味するカンガルーは、
絶対にオスではなく、メスなんだろうな。

重なるといえば、『事の次第』を観ている時、
『カンガルー・ノート』のことが
思い出されてしかたがなかった。

なお、断然に素晴らしかった映画『砂の女』と
都市の歪みを考えさせてくれた映画『他人の顔』。
いずれも安部公房 原作、脚本の映画を今年観た。
数年前には、串田和美さん演出による
安部公房の舞台『幽霊はここにいる』で楽しんだ。
で、『カンガルー・ノート』で初めて、
本元の「活字の安部公房」にふれた。今さらだけど、
気になる作家だ、彼は私の好きな異邦人だから。


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安部 公房:著 『カンガルー・ノート』

●映画『砂の女』を観た感想
●映画『他人の顔』を観た感想
●『事の次第』を観た感想