〝ウチにもあるといいですねぇ〟 | 好文舎日乗

好文舎日乗

本と学び、そして人をこよなく愛する好文舎主人が「心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつ」けた徒然日録。

このようなわけであるから、講義や演習、または研究会や読書会が終わったからと言って、それで勉強がお終いなのではない。むしろ、飲み会や食事会における座談や批評の方が有益であったりすることの方が多い。石川一が藤平春男先生の思い出を述べた文章の中に、「演習が終わって、お茶を飲みながらの雑談が楽しいのだが、演習以上に為になるのだと研究室の仲間は思っているのではなかろうか。湯呑にウイスキーを注ぐだけの飲み会が始まることもあったが、こういう時の先生は楽しそうに笑いながら、『頭は使わなくちゃあね』と言われるのである」(「雑魚の頭狂い」『藤平春男著作集 第3巻 歌論研究1』[笠間書院 1998.12]月報)とある如くである。石川の文章を読み返すたびに、「ああ、これが早稲田なんだ。S先生はこのような雰囲気の中で学ばれたんだなあ」と思う。



S先生との出会いは(詳細については「初山踏みの頃」シリーズに譲るが)、大学4年生の4月3日の午後であった。僕は国文学会という学内組織の事務を任されていたので、まだ講義も始まっていない大学に出て来ていたのである。互いの自己紹介を終え、学会室のテーブルを挟んで向き合うと、僕は先生にある質問をした。

「あのぅ、間違ってたらすみません。以前、『国文學』(學燈社)の「森鷗外研究文献目録」の執筆者に先生と同じ名前があったと思うのですが……」

「ああ、あれは俺のマスターの時の仕事だよ」

「えっ、そうなんですか!」

「お前、どうして知ってるんだ? さっき、専攻は和歌だって言っただろ!」

「実は、高校時代に鷗外に興味を持ち、入学後もしばらくは研究文献を猟渉した時期があるんですよ」

「何だ、そうだったのか!」

高校時代に文芸評論家を目指し、漱石論で文壇デビューした江藤淳の向こうを張って、鷗外論を書こうと、津和野に出掛けて鷗外の墓参りまで済ませながら、S先生の師匠である竹盛天雄著『鷗外 その紋様』(小沢書店 1984.7)を読んで、とてもこれ以上のものは書けそうにないと断念したということは、さすがに話せなかったけれども、近・現代の作家の作品は結構読んでいたし、中村光夫の『日本の近代小説』(岩波新書 改版 1964.2)『日本の現代小説』(岩波新書 1968.4)『近代文学をどう読むか』(新潮選書1980.12)は高校時代に読み終えていたから、先生と何とか話を合わせることができたのである。



学会室を出た頃には、辺りが薄暗くなっていたから、僕らは数時間も話し込んでいたことになる。

「飲みに行くぞ!」

先生にそう言われて僕は恐怖に戦いた。というのも、「早稲田から今度来たSというのは、とんでもない蟒蛇で、一緒に飲んだ連中がバタバタと倒れてしまう」といった話を午前中に院生たちから聞かされたばかりだったからである。

「酒はあまり強くありませんので……」

「研究者志望が飲めなくてどうするんだ!」

「後藤先生も飲まれませんので…」

「師の足らざるを補うのが弟子の務めであると言えよう」

(この「……であると言えよう」は先生の口癖であったが、妙に説得力があった。この時もこう言われて腹を決めたのである)



大学の向かいにある居酒屋「村さ来」でも会話は弾んだ。

藤平春男、橋本不美男、神保五禰といった第一級の先生方のエピソードから院生たちの勉強ぶりに至るまで、刺激の種でないものはなかった。特に、研究会に所属する学部生たちによって毎年行われるという研究発表会には魅力を感じた。

「ウチにもそういったのがあるといいですねぇ」

もちろん、本心から出た言葉である。しかし、この言葉が後に大変な騒ぎを引き起こすきっかけになろうとは、神ならぬ身では知るよしもなかったのである。