一次会はC先生とその教え子の女子学生が一緒だったこともあって、話題は専ら『万葉集』に終始したのだが、先生が万葉集にも大変お詳しいことに驚かされた。
C先生たちと別れ、ホテルの先生のお部屋までお送りし、今日の御礼といとまの御挨拶とを申し上げると、
「んーとよォ、下まで送るわ」と言われた。A先輩共々固辞したのであるが、先生はエレベーターを目指して足早に歩いてゆかれる。エレベータを降りて、今度こそはと御挨拶を申し上げると、
「んーとよォ、あそこで飲もう!」
先生の指先の向こうには、カクテル・ラウンジが……。
「先生、明日も講義がございますから……」
「講義をするのは俺だよ。俺が喋れれば大丈夫だ。お前らは寝てもいいんだから……」
そう言われてしまっては、断る理由が見つからない。二次会突入である。A先輩の迷惑そうな顔。ごめんなさい。でも、大曾根先生って座談の名手なんだもの!
先生の話はとにかく面白かった。川端康成(1899~1972)は、年譜上は1920年に東京大学文学部英文学科に入学し、後に同国文学科に転科。1924年に卒業したことになってはいるが、実は単位が取得出来ず、当時の文学部長に「残りは卒業後に取りに来ます」と頼み込んで卒業させてもらい、卒業証書が永く文学部部長室に飾ってあったとか、久松潜一博士が『万葉集』にある「沖行くや赤ら小船につとやらばけだし人見て披き見むかも」(⑯・3868)を評釈され、「この船は官船です。ポストも赤いですね」と言われたのが久松博士の唯一の冗談であったとか(後者の信憑性については、愛弟子である後藤先生が後日疑義を呈されたのであるが、中西進先生による久松博士の追悼文「教室の外」に紹介されているエピソードでもある)
「先生、レポートのお題をまだいただいてませんが……」とA先輩。
「ナニ? お前らの日本漢文のレポート読んでもつまらんからよ、レポートはナシだ。その代わりに80点しかやらんぞ!」
「は、はい。ありがとうございます」
「それで、お前らの修士論文のテーマは何だ。レポート代わりに聞いてやるから話してみろ」
A先輩は紀貫之論で、僕は勅撰和歌集の序文(仮名序・真名序)の考察であると申し上げると、先生が「勅撰集の序文か、そう言えば、後藤先生に論文があったなあ」と言われて驚いた。一次会で「俺には文学はわからん、特に和歌はわからんよ」と言われた。『万葉集』にあれだけお詳しかったのであるから、謙辞であることはもちろんであるが、「まさかそんなことまで」と、その幅広い知見に驚かされたのである。
「話題は自然学事に関わるのだけれども、その場にはいささかの堅苦しさもなく、あたかも春風の吹く野原を先師のお供をしてうっとりと散歩するような、のびやかで心安らかな雰囲気であった。勿論、先師のあたたかな御人柄がかくしからしめるのであろうが、何よりも御自身が学問を好み楽しまれている事が大きいように思われる」(宮崎和廣「追悼 大曽根章介先生」[前掲『中央大學國文』第37号 ])という評言がぴったりである。
「先生、一生懸命勉強しますから、いつか和漢比較文学会に入れてください」
酔いに任せてお願いすると、先生は黙ったまま笑っておられた。
大曾根章介先生。平成5年8月26日、脳梗塞のため御逝去。
今となっては叶わぬ夢である。