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うんちくコラムニストシリウスのブログ

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ダーメ、ダメ、ダメ、ダメ人間!
ダーメ、人間!人間!

と歌っていたのは筋肉少女帯だがダメ人間を描くのは他ならね町田康である。

そして、本作品は、ダメ人間を描いて、第123回芥川賞を受賞した作品であるぴかぴか(新しい)

まず町田作品を読んで人が感じるのは、独特のリズム感を持った文体である。

解説の池澤夏樹氏の言葉を借りれば、

一見したところ口語的なだらだら喋りに見えて実は計算のゆきとどいた、音楽的によく響く、凝った文体
(207頁)

と言うところ。

そして、「町田文体」を真似できる小説家はたぶんいないと思うほっとした顔

「町田文体」の特徴的なところはまず「」を改行することなく使用していることであろう。

「」、すなわち会話部分が改行せずに用いられていると、一見違和感と嫌悪感を抱きそうなものだが、同作品にはそれがない。

それは「ダメ人間小説」だけに許される独特な法則であるかもしれない。


次に、同作品の話に入るが、同作品は何と言ってもタイトル「きれぎれ」が素晴らしいぴかぴか(新しい)

この「きれぎれ」は一番最後のシーンに用いられる言葉で、主人公が見ている青空を飛行機が破るように貫くシーンを、「きれぎれになって、腐敗していて」と表現したものである。

そして、その趣旨や、主人公の将来への儚く安易な展望の暗示であったり、文章全体のきれぎれ感であったり、青空のように純粋な人の心を平気で蹂躙したり、ライバル同士でお互いを非難し合う小さな競争社会の象徴であったりする。

ちなみに一番気に入った一節は、

「まあ、君のような男が無学な女給と一緒になる等というのは不幸の拡大再生産だ、なんて妻といつも話してるんだけどね、ははは」
(99頁)

かな♪
これ痛烈すぎる(笑)


最後に同作品の評価の話をすると、もし自分が芥川賞受賞選考委員なら、受賞に格別賛成もしないし、格別反対もしない作品かなほっとした顔

自分の中では、良い意味での可もなく不可もなくといった小説ぴかぴか(新しい)

唯一批判したくなったのは「しかし太宰治は自分自身が没落者だった。…『斜陽』は人ごとではなかった」という池澤夏樹氏の解説ぐらいですw

太宰を『斜陽』一つで没落者と評して、町田氏をヨイショする池澤氏は、ちょっといかがなものかなと思う。


太宰は優れた小説家だったと私は思う。

私の大好きな作家城山三郎氏が亡くなる3ヶ月前までつけていた手帳を本にしたものぴかぴか(新しい)

解説は、城山亡き後の経済小説界を引っ張る小説家の1人であり、『ハゲタカ』の作者である真山仁氏ぴかぴか(新しい)

真山氏は、本書は「大切な人を失っても自分は生きていかなければならない。理屈では分かっても、実際はどうすればいいのか」という問題についてのヒントを与えてくれるのではないかと指摘するほっとした顔ぴかぴか(新しい)


真山氏の指摘通り、城山三郎という作家は、経済小説の第一人者という顔以外に、大変な愛妻家としても知られていたぴかぴか(新しい)

ご存じのように、城山三郎の最後の作品といえば、亡き妻容子さんとの想い出を綴った『そうか、もう君はいないのか』である。

しかし、実は『そうか、もう君はいないのか』という作品は、城山の没後、娘の井上紀子さんや出版社が残っている作品をまとめ上げて作った、いわば城山の未完の作品である。

だが『そうか、もう君はいないのか』が未完の作品であったことは、ますますなお一層の亡き妻容子さんに対する城山の愛情を感じさせるのである。

なぜなら、絶え間なく愛する者、しかも自分の最もかけがえのない存在の一生涯を、限られた本という空間に描ききることは、途方もなく難しい。言葉をどんなに埋め尽くしても、言葉だけでは決して説明できない普遍的な「世界」がそこに存在するからである。

実際に、「どうせ、あちらへは手ぶらで行く」の説明で述べられる城山三郎の最後の言葉「ママは?」は、その全てを何よりの証左ではないだろうか。


さて、本書のタイトル「どうせ、あちらへは手ぶらで行く」は、城山手帳の「歩け 歩け」という詩の一節から取られている。

どうせ あちらへは 手ぶらで行く
みんな気ままに
天に向かって
歩け 歩け
(118頁)

そして、それ以降の城山手帳において、城山が天に向かって苦しみながらも奮い立たせて歩いていく過程を、読者は本作品で感じ取ることができる。

ふわり ふらふら ふうらふら
他人の言うこと 気にかけないし 気にしない
どんどん(鈍々)楽で、楽々鈍!
それでよいのだ、それで天国!!
(156頁)

足よろめき 体調不良 歩行不良の時もあって
ふわり ふらふら ふうらふら
楽しく 楽にを 最優先
他人や世間に何と言われようと
まぁ ええじゃないか
ええじゃないか
(161頁)

最後は「勲章について」の一節で終わる。

「読者とおまえと子供たち、それこそおれの勲章だ。それ以上のもの、おれには要らんのだ」

われながらのせりふ、本音でもある。

 妻は知らぬが、実は私は勲章を持っている。いや、持っていたはずだ。
 そいつは、もらったのではなく、買ったものだ。

 終戦まもない闇市。
 限りなく高い青い空の下、這うような人々の群、その砂埃りの底、路傍のアンペラ(むしろ)に、そいつは鍋、釜などにはさまれ、ペンキ塗りのブリキの玩具に見えたが、実は本物の勲章であった。

 人間に何の格付もなくなったはずの社会を軽やかにたしかめようと、私は冬瓜色(白緑色に近い瓜)の顔をした露店のおやじに声をかけた。
 古本数冊分の値段であった。

 いまもそいつのことを思うと、人の上に人をつくらなかったあのころの空の青さが、瞼ににじんでくる。
(184-186頁,一部省略)

「城山先生、最後の最後に素晴らしい贈り物をありがとう」

そして、この一節を最後に持ってきた遺族の方や編集者の方をはじめとする関係者の慧眼に心よりの感謝。

「育てるから、育つんだよ」


大事な恋愛ならば、手をつくすことが肝腎。
そうでない恋愛ならば、適当に手を抜いて立ち枯れさせることが安心。
(224頁)


一番気に入った一節を一番最初に持ってきて、書評開始♪


同作品は、完璧に「恋愛小説」のジャンルに分類される作品でありながら、文壇最高峰の第37回谷崎潤一郎賞を受賞した作品である[m:66]

ところで、「良い作品」と世間的に評価されて、なおかつ売れる恋愛小説とは、およそ次の魅力を有している作品だと筆者は思う。


①面白くて、おちゃめな作品
→無論、これは、恋愛小説のみならず、現代のベストセラー作品にとってほぼ不可欠な要素であるが、恋愛小説にとっては最も重要視されるべき要素であると思う。


②or③
②温かくほのぼのと主人公が結ばれる作品
③ちょっぴり切なく静かに恋が終わる作品


もっとも、この分類だけで全ての恋愛小説を語り尽くすことなどおよそ不可能で、作者の文章表現力や場面ごとに現れる素材、適切に紡ぎ出された言葉の数々によって、作品の本質的価値は上がりもするし、下がりもする。

その上で同作品を上記の要素と比較すれば、同作品が全ての要素を兼ね備えた作品であることは明白である。


・①について
 普段しかめっ面ばかりしている私が感じたところを順に挙げれば、まず読者は、前半の巨人阪神戦をめぐる主人公ツキコとセンセイのやり取りに、思わず笑みを浮かべているのではあるまいか(40-44頁)。事実、私は電車の中でこらえようもない笑みを必死に隠していた。


 そして、次に出てくるのがおちゃめなピアスの一幕(109-111頁)に、石野先生に対するツキコの嫉妬(151頁)。極めつけは、くそじじい(187頁)に、指を口に入れてくる話とくるのである。特にこの極めつけが実に秀逸で、ともすれば見逃すかもしれないところに配置されているのである。例えば、指を口に入れてくる話などは


「不安?」
「その、長年、ご婦人と実際にはいたしませんでしたので」
あ、とわたしは口を半開きにした。センセイに指を入れられないよう気をつけながら。
(261頁)


とセンセイがセックスの不安を話した後、すぐに指の話を持ってくるのである。


・②と③について
 ②については、主人公ツキコとセンセイの恋が無論そうなのであるが、その前に、主人公ツキコに想いを寄せる小島孝の恋の話から始めたい。


「だめか」小島孝が、わざとらしいため息をつきながら、言った。
「だめみたい」
「しまったなあ、やっぱり俺、デートとか下手なんだなあ」そう言いながら、小島孝は笑った。わたしも一緒に、笑った。
「下手じゃないよ。ワインのくるくる、教えてもらったし」
「そういうのが、いかんのだよねえ、きっと」
小島孝が月の光に照らされている。わたしは小島孝をつくづくと眺めた。
「いい男?」見つめるわたしに向かって、小島孝は言った。
「いい男だわよ、ほんとに」わたしは力をこめて答えた。小島孝はわたしの手をひっぱりあげて立たせた。
「いい男なのに、だめ?」
「高校生だから、わたし」
 高校生なんかじゃないくせに、と小島孝は言って、くちびるをとがらせた。そういう顔をすると、小島孝も高校生みたいに見えた。ワインのくるくるなどまったく知らない十代の若者に見えた。

(140-141頁)


 実はこの一幕こそ、私が同作品で一番好きなシーンである。というのも、私は、この小島孝という男性に、とてつもない親近感を、戦場で闘っている戦士たちが味わう独特の連帯感を憶えたからである。


絶対に届かない愛に諦観しながらも近付こうとする不器用な男。


 それは、小島孝に、自らを貶めるためだけのうんちくを吐き散らしながらも、人に愛されたい、人を愛したいと思っているのに、今日も宿命が如くつまらない書評を書いている不器用な私を、私自身が重ね合わせて、己れの傷を癒していたからである。


 さて、そうした小島のツキコに対する想いは絶対に届かないわけだが、そうした恋愛について、作者はこの世で最もシンプルかつ適切な言葉で表現するのである。


小島孝とは旅行に行きたくない。わたしははっきりと思った。畳の目を頬にくっきりとつけたまま、小島孝と会っているときの「かすかな違和感」、しかし「消しようのない違和感」を、思った。
(169頁)


 さて、小島のツキコに対する恋愛とは異なり、ツキコとセンセイの恋愛は「届いていないようで、届いている恋愛」と言える。作者は、この恋愛を、ツキコとセンセイという年の離れた者同士の恋愛という状況もこれまた実に秀逸に活用して、「子供(ツキコ)と大人(小島)」という言葉を使うことで、両者の恋愛の違いを浮き彫りにするのである。


「ききわけのないことを言うんじゃありません」
「ききわけなんかぜんぜんないです。だってわたしセンセイが好きなんだもの」
言ったとたんに、腹のあたりがかあっと熱くなった。
 失敗した。大人は、人を困惑させる言葉を口にしてはいけない。次の朝に笑ってあいさつしあえなくなるような言葉を、平気で口に出してはいけない。
 しかしもう言ってしまった。なぜならば、わたしは大人ではないのだから。小島孝のようには、一生なれない。センセイが好きなんだもん。わたしはだめ押しのようにもう一回くり返した。
(171頁)


 ③については、本書の最大の魅力でもあるので、あえて今回は②で字幅もとったし、やめておきます。


●最後に
 改めて、本作品は文壇最高峰の第37回谷崎潤一郎賞受賞作品であるわけですが、本書が谷崎潤一郎賞を確実に射止めたのは、「干潟―夢」の章が醸し出すどこか神秘的な、かつ哀愁漂う空間が造り出されていたことも大きいと私は思います[m:66]
 もっとも、それがなくとも、同作品は谷崎賞に相応しい作品だと私は思います[m:66]


●余談
「袖すり(振り)合うも多生(他生)の縁」のうんちくは大変勉強になりました(^^)笑