【書評】城山三郎『どうせ、あちらへは手ぶらで行く』 | うんちくコラムニストシリウスのブログ

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私の大好きな作家城山三郎氏が亡くなる3ヶ月前までつけていた手帳を本にしたものぴかぴか(新しい)

解説は、城山亡き後の経済小説界を引っ張る小説家の1人であり、『ハゲタカ』の作者である真山仁氏ぴかぴか(新しい)

真山氏は、本書は「大切な人を失っても自分は生きていかなければならない。理屈では分かっても、実際はどうすればいいのか」という問題についてのヒントを与えてくれるのではないかと指摘するほっとした顔ぴかぴか(新しい)


真山氏の指摘通り、城山三郎という作家は、経済小説の第一人者という顔以外に、大変な愛妻家としても知られていたぴかぴか(新しい)

ご存じのように、城山三郎の最後の作品といえば、亡き妻容子さんとの想い出を綴った『そうか、もう君はいないのか』である。

しかし、実は『そうか、もう君はいないのか』という作品は、城山の没後、娘の井上紀子さんや出版社が残っている作品をまとめ上げて作った、いわば城山の未完の作品である。

だが『そうか、もう君はいないのか』が未完の作品であったことは、ますますなお一層の亡き妻容子さんに対する城山の愛情を感じさせるのである。

なぜなら、絶え間なく愛する者、しかも自分の最もかけがえのない存在の一生涯を、限られた本という空間に描ききることは、途方もなく難しい。言葉をどんなに埋め尽くしても、言葉だけでは決して説明できない普遍的な「世界」がそこに存在するからである。

実際に、「どうせ、あちらへは手ぶらで行く」の説明で述べられる城山三郎の最後の言葉「ママは?」は、その全てを何よりの証左ではないだろうか。


さて、本書のタイトル「どうせ、あちらへは手ぶらで行く」は、城山手帳の「歩け 歩け」という詩の一節から取られている。

どうせ あちらへは 手ぶらで行く
みんな気ままに
天に向かって
歩け 歩け
(118頁)

そして、それ以降の城山手帳において、城山が天に向かって苦しみながらも奮い立たせて歩いていく過程を、読者は本作品で感じ取ることができる。

ふわり ふらふら ふうらふら
他人の言うこと 気にかけないし 気にしない
どんどん(鈍々)楽で、楽々鈍!
それでよいのだ、それで天国!!
(156頁)

足よろめき 体調不良 歩行不良の時もあって
ふわり ふらふら ふうらふら
楽しく 楽にを 最優先
他人や世間に何と言われようと
まぁ ええじゃないか
ええじゃないか
(161頁)

最後は「勲章について」の一節で終わる。

「読者とおまえと子供たち、それこそおれの勲章だ。それ以上のもの、おれには要らんのだ」

われながらのせりふ、本音でもある。

 妻は知らぬが、実は私は勲章を持っている。いや、持っていたはずだ。
 そいつは、もらったのではなく、買ったものだ。

 終戦まもない闇市。
 限りなく高い青い空の下、這うような人々の群、その砂埃りの底、路傍のアンペラ(むしろ)に、そいつは鍋、釜などにはさまれ、ペンキ塗りのブリキの玩具に見えたが、実は本物の勲章であった。

 人間に何の格付もなくなったはずの社会を軽やかにたしかめようと、私は冬瓜色(白緑色に近い瓜)の顔をした露店のおやじに声をかけた。
 古本数冊分の値段であった。

 いまもそいつのことを思うと、人の上に人をつくらなかったあのころの空の青さが、瞼ににじんでくる。
(184-186頁,一部省略)

「城山先生、最後の最後に素晴らしい贈り物をありがとう」

そして、この一節を最後に持ってきた遺族の方や編集者の方をはじめとする関係者の慧眼に心よりの感謝。