うんちくコラムニストシリウスのブログ -11ページ目

うんちくコラムニストシリウスのブログ

ブログの説明を入力します。

大手弁護士事務所(ローファーム)が今日に至るまでのお話ぴかぴか(新しい)
なお副題は
「わが国経済の復興・成長を支えたビジネス弁護士たちの証言」です。

個人的に興味があったのは、弁護士界のドン長島安治氏わーい(嬉しい顔)
LED訴訟における会社側の弁護人として知られた方ですぴかぴか(新しい)
他にも、本書を見ると、「東京ヒルトン事件」、「羽田空港労働争議」も担当された方だと知ることができます。

●ビジネス弁護士をめぐる今日の状況
 日本のビジネス弁護士達は、訴訟代理は別として、一言で言えば、企業の質問に答えて一段高いところから違法・適法の判断を伝えるだけの“託宣” 型の弁護士から、企業に近いところにいて、依頼者のビジネス上の目的を達成するため、戦術、戦略まで含めて使い勝手の良いリーガルサービスを提供する“伴 走型”ないし“ウォールストリート型”のビジネス弁護士に変わっていったといえよう。(4頁)
 しかしながら、世界のトップクラスの法律事務所との間には、今なお逃げ水のように追いつくことのできない格差が厳として存在している。とりわけ 弁護士数が1000名を超え、10数ヵ国を跨いで法律事務を行っている英米系の巨大法律事務所との間における業務上の組織的格差については、残念ではある が相当大きいことを認めざるを得ないであろう。例えてみれば、日本のローファームの現状は、まだ在来線の上に新幹線を走らせている程度の状態を脱していな いといえよう。
 過去半世紀近くを振り返ると、ビジネス法分野を取り扱う弁護士、法律事務所については、英米系の法律事務所を中心として世界的な規模で革命的と もいうべき大きな変化が生じている。それは合併や人材の流動化による法律事務所の規模拡大・巨大化、経済成長著しい地域に対する国境を越えた展開、プロ フェッショナリズムに対するコマーシャリズムの侵食により日常化した競争の激化、従来の弁護士像におけるジェネラリストからスペシャリストへのパラダイム シフト、法律先進国における企業価値を高めるための法務戦略の先端化などであり、これらの流れは、現在においても凄まじい勢いで進行中である。その背景に あるのは、言うまでもなく世界的な市場主義経済の浸透、情報通信革命の進展、経済および企業活動のグローバル化等である(128頁)
――――――――
 なお、具体的に渉外法律業務がどのような経緯をへて今日に至ったのかについては、本書の132頁~154頁をみれば分かると思います。 雑感としては、本書で語られる今日の状況は、私見としても全く異論はない。実際、今日ビジネス弁護士として活躍しておられる方は、従来の司法試験科目の法律知識だけではなく、金融工学・経営学など多彩な知識を有しているであろう。例えば、会社法の新株予約権や合併対価の算定などは、今日の金融工学の発展の影響を大きく受けている分野であると思う。
 他方で、世界的な市場主義経済の浸透とコマーシャリズムの侵食という状況を否応なく受け容れる中で、わが国のビジネス弁護士たちには、「企業不祥事の防止」や「コーポレート・ガバナンスの実践」という役割が求められていることも忘れてはならない。大王製紙事件やオリンパス事件に代表される近時の企業不祥事は、ひとえに会社側が行った「利益相反取引」や「損失隠し」に関して、監査役・会計士たちが、本来会社法が彼らに求めている役割を、明示的または黙示的に果さなかったことが問題の本質なのである。確かに、今日の競争激化著しい社会状況の中で、「ウォールストリート型弁護士」を目指すことは必然かもしれない。しかし、あくまでも「ウォールストリート型弁護士」とは、「契約欲しさ」または「契約維持」のために、会社の違法行為を「黙殺する」「推奨する」存在であってはならないと私は考える。

●長島安治氏のお話
 田辺公二判事は即座に、「長島君。現在の日本の渉外法律業務は米国を中心とする外国の弁護士に独占されているではないか。日本にとって、こんな に不自然で不健全な状態は早く是正し、渉外法律業務も日本人弁護士が中心になって遂行しなければいけない。だが残念ながら今の日本人弁護士の力ではどうに もならない。だから迂遠なようだが君達を米国へ送って力をつけさせ、やがては日本の渉外業務を担うようになってほしいのだ」と答えられた。このことは、筆 者の心に深く刻み込まれた。そして、筆者は留学を終えて帰国後は何とかして長島・大野・常松法律事務所に1つの専門分野として渉外業務を追加し、法律事務 所の組織化・永続化と内部での専門化という長島・大野・常松法律事務所の基本方針に沿った大きな前進を実現したいと希うようになった。
 長島・大野・常松法律事務所がもし普通の法律事務のままで渉外事務所にならなかったならば、後日、日本における大規模法律事務所の出現に長島・ 大野・常松法律事務所が参加することは起こり得なかった。何故なら、長島・大野・常松法律事務所は渉外事務所になることにより、念願としてきた永続的な組織としての大規模法律事務所になって行ける条件が、格段によく整うようになったからである。 (56頁)
――――――――
 会社もそうであるが、営利事業を行うことで永続的に存続することを目的とする組織が、果たして半永久的に存続し続けることはどれくらい可能なのだろう。それはさておき、長島・大野・常松法律事務所は、たぶん本書の文脈からして、基本的に「イソ弁」は採用しないとのこと。では、在籍する弁護士が独立開業した場合、やはり何かしらの「嫌がらせ」を受けてしまうのかなあと邪推してしまう。そういえば、前々回の直木賞受賞作品『下町ロケット』にそんなシーンがありましたな、とまたまた嫌味。
 嫌味ばっかり言うと、「僻み雑感」で終わってしまうので話を変えます(笑)。ふとこの前思った話ですが、「商事法務」という雑誌がありますね。あの雑誌の今から15年くらい前のものを見ると、なんとまあ書かれてる内容的に「実務に役立つ」という感じではないわけで。しかも、記事の頁数がとにかく少ない。それに比べると、今日の同雑誌の充実ぶりには目を瞠るものがあります。そして、その充実ぶりの原動力は間違いなく大手ローファームによるところが大きいのだろうと改めて思います。
「一夜にして、現代日本文学の風景を変えてしまった芥川賞受賞作」
「言葉が目の前で存在に追いつく奇跡」

どんだけべた褒めー!(笑)っていう出版社の宣伝文句が書いてある同作品ぴかぴか(新しい)

同作品は、元北新地のホステス、元シンガーとしても知られる美人作家川上未映子さんが第138回芥川賞を受賞した作品ですぴかぴか(新しい)

ちなみに、川上さんの旦那様は、こちらも芥川賞受賞作家である阿部和重さんですぴかぴか(新しい)

さて、同作品を読むにあたり、まず宣伝文句が明らかにド派手すぎたため、私は、思わず出版社の商業主義を感ぜずにはいられなくなり(大掛かりに誇大宣伝すれば、川上さん美人だし売れる的なww)、

「内容がダメダメやったら、めちゃめちゃに扱き下ろしてやる!」

という決意を胸に抱いたのであります(笑)

そして、同作品の講評に入るわけですが、折角出版社さんが批評家に挑戦状を叩きつけるかのような宣伝文句を書いてくれたのですから、まずは芥川賞の主な選評を覗いてみます。

●選評
・池澤夏樹(代表作『スティル・ライフ』)
「最適な量の大阪弁を交えた饒舌な口語調の文体が巧みで、読む者の頭の中によく響く」
「樋口一葉へのオマージュが隠してあるあたりもおもしろい」

・村上龍(代表作『限りなく透明に近いブルー』)
「長い長い地の文は充分にコントロールされていて、ときおり関西弁が挿入されるが、読者のために緻密に「翻訳」されている」

・黒井千次(代表作『群棲』)
「女ばかりの二泊三日を通して、女であることの心身の実像を「泣き笑い」の如く描き出す」
「息の長い文章は「わたし」の語る大阪弁に支えられてはじめて成立すると思われる」

・宮本輝(代表作『螢川』)
「前作のいささかこざかしい言葉のフラグメントは『乳と卵』では整頓されて、そのぶん逆に灰汁(あく)が強くなった。」

・石原慎太郎(代表作『太陽の季節』)
「私はまったく認めなかった」
「乳房のメタファとしての意味が伝わってこない」
「一人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい。この作品を評価しなかったということで私が将来慙愧することは恐らくあり得まい」

●講評
 と、石原氏以外の方は皆高評価であります。では、講評として、まず初めに「文体」の話からします。

1文体について
 川上さんによると、同作品のオマージュといわれる樋口一葉氏の文体は「見たこと、聞いたこと、感じたこと、目の前で起きていることが、カギ括弧も句点もない一文の中に編み込まれている」のだそうで、それが同作品にも影響したそうです。
 町田康さん然り、近年の作家さんは「」を改行しなかったり、そもそも「」を書かずに文中に用いる方が少なからずいるようで、それは同時に独自の文体を構築させるようです。また同作品は「文中多くに大阪弁が用いられ、所々に標準語が用いられる」「地の文が非常に長い」ことが特徴です。私自身の話で言えば、昨日深夜3時頃に起きて読み始めたものの、どうにも話が掴めない、それどころか一個一個の文章に疲れてくるという状況でありました。
 それはともかくとして、まず「大阪弁と標準語の使い分け」は私個人としては何とも評価できません。というのは、17・22・24頁では、いわゆるナレーター的語りの部分で標準語が用いられているのですが、以降の記述ではそれがなく大阪弁が続くだけ。後半では、主人公の私のセリフに標準語が用いられるわけですが、何ともその区別が分からない。つまり、「明確なルールなき言葉の使い分け」という印象をどうしても私は同作品に持たざるを得ません。
 もっとも、上記の文体や「地の文の読みにくさ」のみを理由に、同作品の評価が下がることはないです。なぜなら、同作品が持つ「筆者独自の感性による大阪弁と標準語の使い分け」や「地の文の長さ」は、ひとえに筆者が卓越した詩的表現力を持っている所以だと私は考えるからです。ちなみに、筆者の川上さんは後に中原中也賞を受賞しています。ところが、私は「詩」という分野がてんで駄目な人なのです。ですので評価不可なのです(笑)。

2内容について
 まず結論から言えば、同作品は「女性だけが理解できる世界」を描いた作品と言えます。実際、レビューを書いた読者の方の中には「男性に同作品は理解できるのか(できない)」という声が強いです。実際、男性である私は、同作品を読んで、母に幾度か質問を行いながら、読み進めた次第であります(笑)。
 ゆえに、「ミスター男性精神」的思想の代表者(笑)とも言える(私はそう思う)石原慎太郎氏が同作品を推さないのは、ある意味当然と言えば当然であろうと思います。何せ石原氏は同作品に「乳房のメタファー」を要求しておられた訳ですから(笑)。
 他方、私個人は、同作品を通して、「女性の生理に対する感情的・知識的理解が深められた」と率直に思いますし、同作品の世界観は芥川賞に相応しいものであると思います。何より、同作品の最大の文学的意義は、「女性の書き手が女性自身の生理や性的現象に対して女性自身が抱く感情を書いた」という点に尽きるでしょう。
 これまで「性」に関する文学作品は数限りなく出されています。しかし、それらの文学作品は、簡潔に言えば「男性側から見た「性」」を表現した作品がほとんど、いや全てと言っても過言ではないでしょう。他方で同作品は違います。なぜなら女性が女性自身について描いた作品だからです。そして、川上さんの試みは間違いなく同作品を芥川賞受賞に導く試みであったと思います。なぜなら、同作品を男性の選考委員が拒絶することは、「女性の性的現象に対する無理解」を、読者に対して、意識的であれ無意識的であれ、露呈することになるからです。ゆえに同作品を否定するのは何とも難しい。それだけに両作品を推した池澤氏、村上氏、黒井氏、宮本氏の決断は現代的文学を見据えたものと言えるでしょう。その意味では「一夜にして、現代日本文学の風景を変えてしまった芥川賞受賞作」という最初の宣伝文句は決して誇大宣伝ではないと言えるでしょう。
 思えば、私には妹がおり、かつて(今もそうかは分からない)その妹が高校1年生頃まで男女間の性交渉に対して度々嫌悪感を述べておりました。私はそれに対して妙な違和感と不可思議な何かを持っておったのです。今、彼女の感情を朧げながら悟ることができたように感じます。

最後は同作品の名場面からの引用です。

え、でもそれってさ、結局男のために大きくしたいってそういうことなんじゃないの、とかなんとか。男を楽しませるために自分の体を改造するのは違うよね的なことを冷っとした口調で云ったのだったかして、(中略)

すると、そうかな、その胸が大きくなればいいいなあっていうあなたの素朴な価値観がそもそも世界にはびこるそれは、もう私たちが物を考えるための前提であるといってもいいくらいの男性的精神を経由した産出でしかないのよね、じっさい、あなたは気がついてないだけで、とかなんだかもっともらしいことを云って、(中略)

その批判に対して胸大きく女子は、…わたしのこの今の小さい胸にわたし自身不満があること、そして大きな胸に憧れのようなものがあることは最初から最後まであたしの問題だってこう云ってんのよ、それだけのことに男性精神云々をくっつけて話ややこしくしてんのはあなたで、あなたが実はその男性精神そのもものなんじゃないの?少なくともわたしは男とセックスしたりするとき、例えば揉まれるときなんかに、ああこの胸が大きくあって欲しかったこの男の興奮のために、なんてことは思わない、ってことははっきりわかってる話よ、ただ自分ひとりでいるときに思うってそれだけよ、ぺったんでまったいらなこれになぜだか残念を感じてしまうだけのことで。(中略)

だからあたしの胸だって自分のために大きくしたいってそういう話じゃないの?あんたのそのばちばちに盛った化粧が自分のためだっていうのが、あんたのさっきの理屈に沿うんならね、大体おんなじ世界で生きててこっちは男根主義的な影響を受けてますここは受けてませんって誰が決定するんだっつの。と鼻で笑えば、

何云ってんのよまったく、化粧と豊胸はそもそもがまったく違うでしょうが、大体女の胸に強制的にあてがわれた歴史的過去における社会的役割ってもんを考えてみたことあるわけ?…大体あんたはそもそもわたしの云ってる問題点がまったく理解できてないわ、話にならない、と顎で刺すように云えば、

は、じゃああんたのその生活諸々だけ男根の影響を受けずに全部魔よけの延長でやってるってこういうわけ、性別の関係しない文化であんたの行動だけは純粋な人間としての知恵ですってそういうわけかよ、なんじゃそら、大体女がなんだっつの。女なんかただの女だっつの。女であるあたしははっきりそう云わせてもらうっつの。まずあんたのそのわたしに対する今の発言をまず家に帰ってちくいち疑えっつの。それがあんたの信条でしょうが、は、阿呆らし、阿呆らしすぎて阿呆らしやの鐘が鳴って鳴りまくって鳴りまくりすぎてごんゆうて落ちてきよるわお前のド頭に、とか云って
(40-44頁)



緑子は首を振って言葉にならへん、髪の毛から額から玉子のじゅるりが顔に垂れて、固まり始めたところもあり、嗚咽をしながら、ほ、ほんまのことを、としぼりだすのが精一杯、それから緑子は体を震わせて泣き続け、巻子はそれを見ながら、首を振って小さな声で、緑子、ほんまのことって、ほんまのことってね、みんなほんまのことってあると思うでしょ、絶対にものごとには、ほんまのことがあるのやって、みんなそう思うでしょ、でも緑子な、ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで、何もないこともあるねんで。

それから巻子は、何かを云ったのやけど、その声は小さくかすれていたためにわたしには届かず、それを聞いた緑子は、顔をあげて首を振ってそうじゃない、そうじゃないねん、でも色んなことが、色んなことが、色んなことが、と三回云って、台所の床に崩れるように突っ伏して、吐くような姿勢で一直線の太い声を絞り出して呻いて泣き続け、巻子はズボンの後ろのポケットから赤いハンカチを取り出して何度も何度も緑子の頭についた玉子を拭って、ぐしゃぐしゃになった髪の毛を何度でも耳にかけてやり、ずいぶん長い時間を黙って、その背中をさすり続けた。
(101-102頁)