「一夜にして、現代日本文学の風景を変えてしまった芥川賞受賞作」
「言葉が目の前で存在に追いつく奇跡」
どんだけべた褒めー!(笑)っていう出版社の宣伝文句が書いてある同作品
同作品は、元北新地のホステス、元シンガーとしても知られる美人作家川上未映子さんが第138回芥川賞を受賞した作品です
ちなみに、川上さんの旦那様は、こちらも芥川賞受賞作家である阿部和重さんです
さて、同作品を読むにあたり、まず宣伝文句が明らかにド派手すぎたため、私は、思わず出版社の商業主義を感ぜずにはいられなくなり(大掛かりに誇大宣伝すれば、川上さん美人だし売れる的なww)、
「内容がダメダメやったら、めちゃめちゃに扱き下ろしてやる!」
という決意を胸に抱いたのであります(笑)
そして、同作品の講評に入るわけですが、折角出版社さんが批評家に挑戦状を叩きつけるかのような宣伝文句を書いてくれたのですから、まずは芥川賞の主な選評を覗いてみます。
●選評
・池澤夏樹(代表作『スティル・ライフ』)
「最適な量の大阪弁を交えた饒舌な口語調の文体が巧みで、読む者の頭の中によく響く」
「樋口一葉へのオマージュが隠してあるあたりもおもしろい」
・村上龍(代表作『限りなく透明に近いブルー』)
「長い長い地の文は充分にコントロールされていて、ときおり関西弁が挿入されるが、読者のために緻密に「翻訳」されている」
・黒井千次(代表作『群棲』)
「女ばかりの二泊三日を通して、女であることの心身の実像を「泣き笑い」の如く描き出す」
「息の長い文章は「わたし」の語る大阪弁に支えられてはじめて成立すると思われる」
・宮本輝(代表作『螢川』)
「前作のいささかこざかしい言葉のフラグメントは『乳と卵』では整頓されて、そのぶん逆に灰汁(あく)が強くなった。」
・石原慎太郎(代表作『太陽の季節』)
「私はまったく認めなかった」
「乳房のメタファとしての意味が伝わってこない」
「一人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい。この作品を評価しなかったということで私が将来慙愧することは恐らくあり得まい」
●講評
と、石原氏以外の方は皆高評価であります。では、講評として、まず初めに「文体」の話からします。
1文体について
川上さんによると、同作品のオマージュといわれる樋口一葉氏の文体は「見たこと、聞いたこと、感じたこと、目の前で起きていることが、カギ括弧も句点もない一文の中に編み込まれている」のだそうで、それが同作品にも影響したそうです。
町田康さん然り、近年の作家さんは「」を改行しなかったり、そもそも「」を書かずに文中に用いる方が少なからずいるようで、それは同時に独自の文体を構築させるようです。また同作品は「文中多くに大阪弁が用いられ、所々に標準語が用いられる」「地の文が非常に長い」ことが特徴です。私自身の話で言えば、昨日深夜3時頃に起きて読み始めたものの、どうにも話が掴めない、それどころか一個一個の文章に疲れてくるという状況でありました。
それはともかくとして、まず「大阪弁と標準語の使い分け」は私個人としては何とも評価できません。というのは、17・22・24頁では、いわゆるナレーター的語りの部分で標準語が用いられているのですが、以降の記述ではそれがなく大阪弁が続くだけ。後半では、主人公の私のセリフに標準語が用いられるわけですが、何ともその区別が分からない。つまり、「明確なルールなき言葉の使い分け」という印象をどうしても私は同作品に持たざるを得ません。
もっとも、上記の文体や「地の文の読みにくさ」のみを理由に、同作品の評価が下がることはないです。なぜなら、同作品が持つ「筆者独自の感性による大阪弁と標準語の使い分け」や「地の文の長さ」は、ひとえに筆者が卓越した詩的表現力を持っている所以だと私は考えるからです。ちなみに、筆者の川上さんは後に中原中也賞を受賞しています。ところが、私は「詩」という分野がてんで駄目な人なのです。ですので評価不可なのです(笑)。
2内容について
まず結論から言えば、同作品は「女性だけが理解できる世界」を描いた作品と言えます。実際、レビューを書いた読者の方の中には「男性に同作品は理解できるのか(できない)」という声が強いです。実際、男性である私は、同作品を読んで、母に幾度か質問を行いながら、読み進めた次第であります(笑)。
ゆえに、「ミスター男性精神」的思想の代表者(笑)とも言える(私はそう思う)石原慎太郎氏が同作品を推さないのは、ある意味当然と言えば当然であろうと思います。何せ石原氏は同作品に「乳房のメタファー」を要求しておられた訳ですから(笑)。
他方、私個人は、同作品を通して、「女性の生理に対する感情的・知識的理解が深められた」と率直に思いますし、同作品の世界観は芥川賞に相応しいものであると思います。何より、同作品の最大の文学的意義は、「女性の書き手が女性自身の生理や性的現象に対して女性自身が抱く感情を書いた」という点に尽きるでしょう。
これまで「性」に関する文学作品は数限りなく出されています。しかし、それらの文学作品は、簡潔に言えば「男性側から見た「性」」を表現した作品がほとんど、いや全てと言っても過言ではないでしょう。他方で同作品は違います。なぜなら女性が女性自身について描いた作品だからです。そして、川上さんの試みは間違いなく同作品を芥川賞受賞に導く試みであったと思います。なぜなら、同作品を男性の選考委員が拒絶することは、「女性の性的現象に対する無理解」を、読者に対して、意識的であれ無意識的であれ、露呈することになるからです。ゆえに同作品を否定するのは何とも難しい。それだけに両作品を推した池澤氏、村上氏、黒井氏、宮本氏の決断は現代的文学を見据えたものと言えるでしょう。その意味では「一夜にして、現代日本文学の風景を変えてしまった芥川賞受賞作」という最初の宣伝文句は決して誇大宣伝ではないと言えるでしょう。
思えば、私には妹がおり、かつて(今もそうかは分からない)その妹が高校1年生頃まで男女間の性交渉に対して度々嫌悪感を述べておりました。私はそれに対して妙な違和感と不可思議な何かを持っておったのです。今、彼女の感情を朧げながら悟ることができたように感じます。
最後は同作品の名場面からの引用です。
え、でもそれってさ、結局男のために大きくしたいってそういうことなんじゃないの、とかなんとか。男を楽しませるために自分の体を改造するのは違うよね的なことを冷っとした口調で云ったのだったかして、(中略)
すると、そうかな、その胸が大きくなればいいいなあっていうあなたの素朴な価値観がそもそも世界にはびこるそれは、もう私たちが物を考えるための前提であるといってもいいくらいの男性的精神を経由した産出でしかないのよね、じっさい、あなたは気がついてないだけで、とかなんだかもっともらしいことを云って、(中略)
その批判に対して胸大きく女子は、…わたしのこの今の小さい胸にわたし自身不満があること、そして大きな胸に憧れのようなものがあることは最初から最後まであたしの問題だってこう云ってんのよ、それだけのことに男性精神云々をくっつけて話ややこしくしてんのはあなたで、あなたが実はその男性精神そのもものなんじゃないの?少なくともわたしは男とセックスしたりするとき、例えば揉まれるときなんかに、ああこの胸が大きくあって欲しかったこの男の興奮のために、なんてことは思わない、ってことははっきりわかってる話よ、ただ自分ひとりでいるときに思うってそれだけよ、ぺったんでまったいらなこれになぜだか残念を感じてしまうだけのことで。(中略)
だからあたしの胸だって自分のために大きくしたいってそういう話じゃないの?あんたのそのばちばちに盛った化粧が自分のためだっていうのが、あんたのさっきの理屈に沿うんならね、大体おんなじ世界で生きててこっちは男根主義的な影響を受けてますここは受けてませんって誰が決定するんだっつの。と鼻で笑えば、
何云ってんのよまったく、化粧と豊胸はそもそもがまったく違うでしょうが、大体女の胸に強制的にあてがわれた歴史的過去における社会的役割ってもんを考えてみたことあるわけ?…大体あんたはそもそもわたしの云ってる問題点がまったく理解できてないわ、話にならない、と顎で刺すように云えば、
は、じゃああんたのその生活諸々だけ男根の影響を受けずに全部魔よけの延長でやってるってこういうわけ、性別の関係しない文化であんたの行動だけは純粋な人間としての知恵ですってそういうわけかよ、なんじゃそら、大体女がなんだっつの。女なんかただの女だっつの。女であるあたしははっきりそう云わせてもらうっつの。まずあんたのそのわたしに対する今の発言をまず家に帰ってちくいち疑えっつの。それがあんたの信条でしょうが、は、阿呆らし、阿呆らしすぎて阿呆らしやの鐘が鳴って鳴りまくって鳴りまくりすぎてごんゆうて落ちてきよるわお前のド頭に、とか云って
(40-44頁)
緑子は首を振って言葉にならへん、髪の毛から額から玉子のじゅるりが顔に垂れて、固まり始めたところもあり、嗚咽をしながら、ほ、ほんまのことを、としぼりだすのが精一杯、それから緑子は体を震わせて泣き続け、巻子はそれを見ながら、首を振って小さな声で、緑子、ほんまのことって、ほんまのことってね、みんなほんまのことってあると思うでしょ、絶対にものごとには、ほんまのことがあるのやって、みんなそう思うでしょ、でも緑子な、ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで、何もないこともあるねんで。
それから巻子は、何かを云ったのやけど、その声は小さくかすれていたためにわたしには届かず、それを聞いた緑子は、顔をあげて首を振ってそうじゃない、そうじゃないねん、でも色んなことが、色んなことが、色んなことが、と三回云って、台所の床に崩れるように突っ伏して、吐くような姿勢で一直線の太い声を絞り出して呻いて泣き続け、巻子はズボンの後ろのポケットから赤いハンカチを取り出して何度も何度も緑子の頭についた玉子を拭って、ぐしゃぐしゃになった髪の毛を何度でも耳にかけてやり、ずいぶん長い時間を黙って、その背中をさすり続けた。
(101-102頁)
「言葉が目の前で存在に追いつく奇跡」
どんだけべた褒めー!(笑)っていう出版社の宣伝文句が書いてある同作品

同作品は、元北新地のホステス、元シンガーとしても知られる美人作家川上未映子さんが第138回芥川賞を受賞した作品です

ちなみに、川上さんの旦那様は、こちらも芥川賞受賞作家である阿部和重さんです

さて、同作品を読むにあたり、まず宣伝文句が明らかにド派手すぎたため、私は、思わず出版社の商業主義を感ぜずにはいられなくなり(大掛かりに誇大宣伝すれば、川上さん美人だし売れる的なww)、
「内容がダメダメやったら、めちゃめちゃに扱き下ろしてやる!」
という決意を胸に抱いたのであります(笑)
そして、同作品の講評に入るわけですが、折角出版社さんが批評家に挑戦状を叩きつけるかのような宣伝文句を書いてくれたのですから、まずは芥川賞の主な選評を覗いてみます。
●選評
・池澤夏樹(代表作『スティル・ライフ』)
「最適な量の大阪弁を交えた饒舌な口語調の文体が巧みで、読む者の頭の中によく響く」
「樋口一葉へのオマージュが隠してあるあたりもおもしろい」
・村上龍(代表作『限りなく透明に近いブルー』)
「長い長い地の文は充分にコントロールされていて、ときおり関西弁が挿入されるが、読者のために緻密に「翻訳」されている」
・黒井千次(代表作『群棲』)
「女ばかりの二泊三日を通して、女であることの心身の実像を「泣き笑い」の如く描き出す」
「息の長い文章は「わたし」の語る大阪弁に支えられてはじめて成立すると思われる」
・宮本輝(代表作『螢川』)
「前作のいささかこざかしい言葉のフラグメントは『乳と卵』では整頓されて、そのぶん逆に灰汁(あく)が強くなった。」
・石原慎太郎(代表作『太陽の季節』)
「私はまったく認めなかった」
「乳房のメタファとしての意味が伝わってこない」
「一人勝手な調子に乗ってのお喋りは私には不快でただ聞き苦しい。この作品を評価しなかったということで私が将来慙愧することは恐らくあり得まい」
●講評
と、石原氏以外の方は皆高評価であります。では、講評として、まず初めに「文体」の話からします。
1文体について
川上さんによると、同作品のオマージュといわれる樋口一葉氏の文体は「見たこと、聞いたこと、感じたこと、目の前で起きていることが、カギ括弧も句点もない一文の中に編み込まれている」のだそうで、それが同作品にも影響したそうです。
町田康さん然り、近年の作家さんは「」を改行しなかったり、そもそも「」を書かずに文中に用いる方が少なからずいるようで、それは同時に独自の文体を構築させるようです。また同作品は「文中多くに大阪弁が用いられ、所々に標準語が用いられる」「地の文が非常に長い」ことが特徴です。私自身の話で言えば、昨日深夜3時頃に起きて読み始めたものの、どうにも話が掴めない、それどころか一個一個の文章に疲れてくるという状況でありました。
それはともかくとして、まず「大阪弁と標準語の使い分け」は私個人としては何とも評価できません。というのは、17・22・24頁では、いわゆるナレーター的語りの部分で標準語が用いられているのですが、以降の記述ではそれがなく大阪弁が続くだけ。後半では、主人公の私のセリフに標準語が用いられるわけですが、何ともその区別が分からない。つまり、「明確なルールなき言葉の使い分け」という印象をどうしても私は同作品に持たざるを得ません。
もっとも、上記の文体や「地の文の読みにくさ」のみを理由に、同作品の評価が下がることはないです。なぜなら、同作品が持つ「筆者独自の感性による大阪弁と標準語の使い分け」や「地の文の長さ」は、ひとえに筆者が卓越した詩的表現力を持っている所以だと私は考えるからです。ちなみに、筆者の川上さんは後に中原中也賞を受賞しています。ところが、私は「詩」という分野がてんで駄目な人なのです。ですので評価不可なのです(笑)。
2内容について
まず結論から言えば、同作品は「女性だけが理解できる世界」を描いた作品と言えます。実際、レビューを書いた読者の方の中には「男性に同作品は理解できるのか(できない)」という声が強いです。実際、男性である私は、同作品を読んで、母に幾度か質問を行いながら、読み進めた次第であります(笑)。
ゆえに、「ミスター男性精神」的思想の代表者(笑)とも言える(私はそう思う)石原慎太郎氏が同作品を推さないのは、ある意味当然と言えば当然であろうと思います。何せ石原氏は同作品に「乳房のメタファー」を要求しておられた訳ですから(笑)。
他方、私個人は、同作品を通して、「女性の生理に対する感情的・知識的理解が深められた」と率直に思いますし、同作品の世界観は芥川賞に相応しいものであると思います。何より、同作品の最大の文学的意義は、「女性の書き手が女性自身の生理や性的現象に対して女性自身が抱く感情を書いた」という点に尽きるでしょう。
これまで「性」に関する文学作品は数限りなく出されています。しかし、それらの文学作品は、簡潔に言えば「男性側から見た「性」」を表現した作品がほとんど、いや全てと言っても過言ではないでしょう。他方で同作品は違います。なぜなら女性が女性自身について描いた作品だからです。そして、川上さんの試みは間違いなく同作品を芥川賞受賞に導く試みであったと思います。なぜなら、同作品を男性の選考委員が拒絶することは、「女性の性的現象に対する無理解」を、読者に対して、意識的であれ無意識的であれ、露呈することになるからです。ゆえに同作品を否定するのは何とも難しい。それだけに両作品を推した池澤氏、村上氏、黒井氏、宮本氏の決断は現代的文学を見据えたものと言えるでしょう。その意味では「一夜にして、現代日本文学の風景を変えてしまった芥川賞受賞作」という最初の宣伝文句は決して誇大宣伝ではないと言えるでしょう。
思えば、私には妹がおり、かつて(今もそうかは分からない)その妹が高校1年生頃まで男女間の性交渉に対して度々嫌悪感を述べておりました。私はそれに対して妙な違和感と不可思議な何かを持っておったのです。今、彼女の感情を朧げながら悟ることができたように感じます。
最後は同作品の名場面からの引用です。
え、でもそれってさ、結局男のために大きくしたいってそういうことなんじゃないの、とかなんとか。男を楽しませるために自分の体を改造するのは違うよね的なことを冷っとした口調で云ったのだったかして、(中略)
すると、そうかな、その胸が大きくなればいいいなあっていうあなたの素朴な価値観がそもそも世界にはびこるそれは、もう私たちが物を考えるための前提であるといってもいいくらいの男性的精神を経由した産出でしかないのよね、じっさい、あなたは気がついてないだけで、とかなんだかもっともらしいことを云って、(中略)
その批判に対して胸大きく女子は、…わたしのこの今の小さい胸にわたし自身不満があること、そして大きな胸に憧れのようなものがあることは最初から最後まであたしの問題だってこう云ってんのよ、それだけのことに男性精神云々をくっつけて話ややこしくしてんのはあなたで、あなたが実はその男性精神そのもものなんじゃないの?少なくともわたしは男とセックスしたりするとき、例えば揉まれるときなんかに、ああこの胸が大きくあって欲しかったこの男の興奮のために、なんてことは思わない、ってことははっきりわかってる話よ、ただ自分ひとりでいるときに思うってそれだけよ、ぺったんでまったいらなこれになぜだか残念を感じてしまうだけのことで。(中略)
だからあたしの胸だって自分のために大きくしたいってそういう話じゃないの?あんたのそのばちばちに盛った化粧が自分のためだっていうのが、あんたのさっきの理屈に沿うんならね、大体おんなじ世界で生きててこっちは男根主義的な影響を受けてますここは受けてませんって誰が決定するんだっつの。と鼻で笑えば、
何云ってんのよまったく、化粧と豊胸はそもそもがまったく違うでしょうが、大体女の胸に強制的にあてがわれた歴史的過去における社会的役割ってもんを考えてみたことあるわけ?…大体あんたはそもそもわたしの云ってる問題点がまったく理解できてないわ、話にならない、と顎で刺すように云えば、
は、じゃああんたのその生活諸々だけ男根の影響を受けずに全部魔よけの延長でやってるってこういうわけ、性別の関係しない文化であんたの行動だけは純粋な人間としての知恵ですってそういうわけかよ、なんじゃそら、大体女がなんだっつの。女なんかただの女だっつの。女であるあたしははっきりそう云わせてもらうっつの。まずあんたのそのわたしに対する今の発言をまず家に帰ってちくいち疑えっつの。それがあんたの信条でしょうが、は、阿呆らし、阿呆らしすぎて阿呆らしやの鐘が鳴って鳴りまくって鳴りまくりすぎてごんゆうて落ちてきよるわお前のド頭に、とか云って
(40-44頁)
緑子は首を振って言葉にならへん、髪の毛から額から玉子のじゅるりが顔に垂れて、固まり始めたところもあり、嗚咽をしながら、ほ、ほんまのことを、としぼりだすのが精一杯、それから緑子は体を震わせて泣き続け、巻子はそれを見ながら、首を振って小さな声で、緑子、ほんまのことって、ほんまのことってね、みんなほんまのことってあると思うでしょ、絶対にものごとには、ほんまのことがあるのやって、みんなそう思うでしょ、でも緑子な、ほんまのことなんてな、ないこともあるねんで、何もないこともあるねんで。
それから巻子は、何かを云ったのやけど、その声は小さくかすれていたためにわたしには届かず、それを聞いた緑子は、顔をあげて首を振ってそうじゃない、そうじゃないねん、でも色んなことが、色んなことが、色んなことが、と三回云って、台所の床に崩れるように突っ伏して、吐くような姿勢で一直線の太い声を絞り出して呻いて泣き続け、巻子はズボンの後ろのポケットから赤いハンカチを取り出して何度も何度も緑子の頭についた玉子を拭って、ぐしゃぐしゃになった髪の毛を何度でも耳にかけてやり、ずいぶん長い時間を黙って、その背中をさすり続けた。
(101-102頁)