【書評】劇団ひとり『陰日向に咲く』 | うんちくコラムニストシリウスのブログ

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劇団ひとりタンが書いた「本気の小説」♪
という訳で「本気で書評」しますね(^^)♪

まず本書の魅力は登場人物が交錯することです。
 本書は「道草」「拝啓、僕のアイドル様」「ピンボケな私」「Overrun」「鳴き砂を歩く犬」と五つの短編作品から成っていますが、「道草」「拝啓、僕のアイドル様」「ピンボケな私」「Overrun」では、いずれも登場人物が交錯している。なお「Overrun」と「鳴き砂を歩く犬」の登場人物の関連性はなかったと思います。

さて、以下では五つの短編作品を見ていきますが、内容自体は関係ないので評価も別々につけます。

①「道草」
評価:2/5
理由:探偵が、プロ野球選手のK・Yが父親を探しているシーンで、金欲しさに「俺が父親だ」と訴えるホームレス達の中で困惑顔をしていたモーゼが、直後に「俺が父親だ」と名乗り出るのは、小説としては問題。しかもモーゼは、後にK・Yが迎えに来たシーンで「俺は行かない」と躊躇している。モーゼがK・Yと再会することを決心するまでの心の葛藤を描かなかった点で、本作品は問題である。

②「拝啓、僕のアイドル様」
評価:1/5
理由:一言で評せば「奇を衒いすぎた欠陥作品」。確かに「ミャーコ=Yさん」の着想は面白い。だが着想ありきで作品を書いたが故に破綻を起こしている。「Yさん=ミャーコ」に既に気付いている僕が、売れないアイドルだったミャーコがみじめな姿を晒す場面(たとえばミャーコがドロ子に扮する場面)を見ても、「アイドルファン」としての僕の感情だけしか説明されないからだ。少なくとも「初恋の幼なじみ」に対する感情を、僕の行動なり、僕の表情なりで示すべきであろう。本作品は「アイドルファンを卒業した僕が、偶然街でYさんに出会う」程度の結末で締めるのが良い。確かに、後者はありきたりな結末である。しかし、小説が一定程度の安定感を求めていることを忘れてはならない。

③「ピンボケな私」
評価:5/5
理由:「本書の中で最も素晴らしい傑作」である。「ミキ=三木ユウスケ」。これはやられた。小説上の破綻もない。本作品こそ、「お笑いタレントが本気で書いた小説」の名に相応しい。

④「Overrun」
評価:4/5
理由:結末は決して突飛なものではない。だが小説としては申し分ない。本作品のような結び方を上記②でも望みたかった。

⑤「鳴き砂を歩く犬」
評価:1/5
理由:本書は一人称と三人称の語り手が混在している。確かに、それ自体は小説手法として責められるべきではない。だが上記手法を採るにも関わらず、最後の「陰日向に咲く」が突飛すぎるのは大問題である。ジュピターさんと雷太の関係はなぜ修復したのか、ジュピターさんが亡くなるまで雷太はどのような人生を送ってきたのか、こうした事を省略するのは駄作の証明である。

総合評価:(2+1+5+4+1)÷5=2.6
総評:面白かった。だが直木賞受賞候補にならないのは至極当然であろう。専業作家が出せば「基本ができてない」で即終了。

最後は気にいった一節から
―――――――
 俺が思うに人生ってのは、結局のところギャンブルなのよ。神様が投げたサイの目に従うしかないんだから。それが丁と出るか半と出るか、うちら人間にできることは、両手合わせて拝むだけ。だから勝ち組とか負け組とかも本当はないんだよ。
 勝った連中はツイてただけだよ。たまたま神様のサイの目に恵まれただけ。それが偉そうに「俺たちは努力したから」なんて語ってると頭に来るんだよ。うるせーよって。若い頃に親父に捨てられて、それから女手一つで、昼間はパートに出て、夜はスナックで酔っ払い相手に愛想笑いを振りまいて、一生懸命に俺を育てた母ちゃんに向かって言えるのか?「努力が足りない」って。言えねーだろ。皆、幸せになりたくて努力してるんだっていうの。ただ、その努力が神様のサイの目に当たらなかっただけなんだよ。(115-116頁)
――――――――
「あ、あの時から、ずっと、ぼ、僕は、き、君が…ま、まぁまぁ、別に、き、嫌いじゃない、かも」
 それを言い終わって力尽きた三木が、地面に座り込んだ。その背中を私が抱きしめると、三木はビクッと身を硬くした。
「ははっ。ありがとう、三木。私も三木のこと、嫌いじゃないかも」
顔をクシャクシャにさせた三木が照れ笑いをした。
「でも私、馬鹿だね。ずっと気づかなかったよ」
「き、き、気づかせなかった、ぼ、僕が、ば、馬鹿なんだ」

三木の頬にキスをした。
三木が戸惑って、顔を赤くする。
それを私が笑うと三木が怒る。
三木が怒るから私は笑う。
私が笑うから三木も笑う。
ずっと、そんな二人でいれたらいいね。

「ねぇ三木、写真撮ろうか」
(111-112頁)