【書評】内橋克人編「大震災のなかで――私たちは何をすべきか」 | うんちくコラムニストシリウスのブログ

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「岩波」を象徴する論客が居並ぶ本(笑)
大江健三郎と柄谷行人の話だけ紹介する。

●3.11は何を問うているのか
●大江健三郎「私らは犠牲者に見つめられている」
―1994年のノーベル賞授賞式であなたは「あいまいな日本」について言及されました。今でも「あいまいな日本」は続いていますか?
 日本という"あいまいな"国、という私の定義は、さらに意味を明らかにしたと思います。その意味の、いま現在きわだってきている側面は、破局に面している、危機的な行き詰まりにいたっている、その「あいまいな日本」の逃れがたさということです。
 1994年に私の言及した「あいまいな日本」は、なお猶予期間にある、"あいまいな"国でした。"あいまいな"の対義語は、"はっきりしている"です。「あいまいな日本」とは、日本人という主体が、この国の現状と将来において、はっきりしたひとつの決定・選択をしていない、それを自分で猶予したままの状態です。そして他国からもおなじく猶予されている、と感じている状態です。
 なによりそれは、過去についての国の過ちをはっきりさせないままでいる。その国の人間として、責任をとらずにいる、という状態です。さらに現状としての日本の態度を、はっきりさせないでいれば、将来にかえて二様、三様の決定・選択がありうる、と考えていることです。日本人は"あいまいさ"ゆえの(自分にもよくわかっていない)国の発展が」ありうると考えていました。その自分にも進路はよくわかっていないままでの発展の、一時的な大きい結実が、あのバブル経済でした。(8-9頁)

●大江氏の文章を読んで
 私にとって、大江健三郎氏は思想的に相容れない方である。しかし上記の大江氏の見解は、実質論ではやや同意できない面(急進的な脱原発)はあるが、「あいまいな日本人」という理論的問題はほぼ同意する。そして、大江氏が指摘するように、今日のグローバル社会の中で、「あいまいな日本人」であり続けることはあってはならない。日本人が、重要な政治問題・経済問題に対して、理論的整合性を欠いた「あいまい的選択」をし続けることは、日本の終焉を意味すると私も考える。ただ大江氏と違うのは、大江氏は「護憲、脱原発」に「あいまいさの解消」を求めるが、私は「改憲、漸進的な脱原発」に求める点にあろう。

●柄谷行人「原発震災と日本」
 さまざまな中間勢力を制圧することによって、資本の「専制」が実現された。それが「新自由主義」に他ならない。それを推進した者と原発を推進した者は同一であり、中曽根康弘元首相に代表される人たちだといってよい。だが彼らは傀儡にすぎない。本当の主体は資本(=国家)である。その専制の下で、資本(=国家)に対抗する運動はすべて封じ込められた。そこでは、反原発の言説は締め出され、原発の危険な実態は隠された。その中で、今回の事件が起こったのである。電力会社、政府、官僚、メディアはこの危機に際して当初高をくくっていた。たとえ原発事故が起こっても、それに対して日本人が立ち上がることはないと考えていた。すでに骨抜きにしてあるからだ。(26頁)

●柄谷氏の文章を読んで
 まず純粋な新自由主義批判は分かるとして、原発推進者である中曽根康弘氏を例として挙げるのは経済学的には不見識であろう。中曽根康弘の経済政策で間違っていたのは、「国鉄民営化」「電電公社解体」ではなく、「プラザ合意」にあるからだ。「プラザ合意」がその後の異常なバブル経済、失われた日本の端緒となったことに異論はないと私は考える。確かに、中曽根康弘は改憲主義者であり、当時自民党は300議席を超える大勝利を収めたのに、改憲論議をしなかった点で問題だと思うが、少なくとも今日の事故で「中曽根康弘」を槍玉にあげるのは不正確であろう。
 今日の事故の原因は、何といっても、私たち日本人(私も含めて)が「安全神話」を安易に検証することなく信じ込み、原発管理を独占企業である電力会社に野放しに委ねてきたことにある。今後の課題は、電力会社の独占状態をいかに解消していくか、そして、日本人が、放射性廃棄物の処分場などに代表される原発処理や、ガレキ受け入れなどの震災復興を自らの結果責任として受け止めることであろう。何度も言うが、我々はいつまでも「あいまいな日本人」であってはならない。原発処理や震災復興において、「福島の黙殺」「福島への責任のなすりつけ」という日本人お得意の「あいまいさ」でもって解決することは、もはや許されないことを一人一人が直視すべきである。