【書評】エドガー・アラン・ポー「黒猫」「ウィリアム・ウィルソン」 | うんちくコラムニストシリウスのブログ

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江戸川乱歩誕生のきっかけをつくったエドガー・アラン・ポーの短編集。

解説は「黒猫」と「ウィリアム・ウィルソン」ぴかぴか(新しい)

●「黒猫」
 それから、あたかも私を取り返しのつかぬ、究極の破滅に誘い出すかのように、あの「天邪鬼」の精神が訪れてきたのだ。この精神については哲学も 何らの説明を与えておらぬ。だがこの天邪鬼こそは人間の心の原始的衝動の一つであり―「人間」の性格を左右する不可分の根源的能力ないしは感情の一つであ ると、私は自分の魂の存在を信じているのと同様に、これを信じて疑わないのである。そうやってはいけないと知っている、ただそれだけの理由で、何回も何十 回も悪いことをする、あるいは馬鹿なことをする、そんな覚えはないという人間がいったいいるだろうか。最上の分別を持ちながら、それに逆らって法とされて いるものを破りたくなる、その理由は単にそれが法と知るからだ、―われわれには常日頃こういう傾向があるのではあるまいか。この天邪鬼の精神が、前に述べ たように、私に究極の破滅をもたらしたのだ。私を駆りたてて、あの罪もない動物に加えた虐待をつづけさせ、遂にはそれを極点にまで達せしめたのは、我と我 が身をいじめたい―自分の本性を踏みつけにしたいという、この不可測な魂の渇きであった。

●「黒猫」を読んで
 人間は根源的には「動物」である。そして「動物」が有する本能とは生存願望に他ならない。多数者は生存願望を"社会的・精神豊かさ"に求める。 だがそれは所詮多数的選択であり「生存願望=社会的・精神的豊かさ」ではない。少数者は生存願望を暴力的・破壊的快楽に求める。生存とは闘争の産物であ り、闘争とは何かしらの暴力や破壊を常に伴うからだ。
 さて黒猫の主人公は後者の人物である。そしてポーは19世紀前半に活躍した小説家である。主人公の独白を介したポーの指摘は、ホッブズの「万人の万人に対する闘争」という思想が十分当てはまる時代でもあったのだろう。
 ポーは、人間を暴力的・破壊的闘争に駆り立てる本質は「天邪鬼」にあると指摘する。これは卓見である。「天邪鬼」が哲学や心理学の領域において、いかに研究されてきたか(研究するか)は個人的に大変興味があるところである。
 ただ最後の「我と我が身をいじめたい―自分の本性を踏みつけにしたい」という指摘は小説としては何ら問題はないが、思想としては微妙である。 「本性」ではなく「理性」が正しいと私は考える。そもそも暴力的・破壊的快楽を本能として求める人間が、本能と同義と捉えるべき「本性」を"踏みつける" のは論理矛盾である。
 あと一言付け加えれば、「我と我が身をいじめたい」。どうやらポーはドMだったらしい(笑)

●「ウィリアム・ウィルソン」
「ぼく以前にも、ぼくが受けたのと同様の大きな誘惑が時としてあったかも知れぬ、だが少なくとも"ぼくのようなやりかた"で誘惑され、"ぼくのようなやりかた"で堕落した人間はなかった」

「おまえが勝った、おれは降参する。だが、これからはおまえもまた死んだのだ―この世にたいし、天国にたいし、希望にたいして死んだのだ!、おま えはおれのうちに存在していたのだ―だから、おれの死で、おまえがどんなに完全におまえ自信を殺してしまったか、それをこの姿によって、おまえ自身のもの であるこの姿によって見るがいい」

●「ウィリアム・ウィルソン」を読んで
 冒頭部分における紹介が秀逸すぎる。同作品はポーが最高傑作と自負した作品である。実にその通りだと思う。「ぼくが受けたのと同様の大きな誘 惑」とは「他人を侮蔑したい」「他人を支配したい」「他人を否定したい」という誘惑である。その誘惑による堕落が、生き写し、いや自分自身の手によってなされる点に、同作品の魅力がある。

*好きな一節
 酒でむやみに気が立っていることだし、この思いがけない邪魔が入って、、ぼくはびっくりするより喜んだ。で、すぐさまよろめく足で歩くと、建物 の玄関に出た。天井の低い小さなこの建物にはランプがついておらず、この時間に差し込む光は、半月形の窓を通して入ってくるほんのかすかな暁の光だけで あった。部屋の敷居をまたいだとき、ぼくは一人の若者の姿に気がついた。背丈はぼくと同じくらいで、そのときぼくが着ていたのと同じ流行型に仕立てた、白 のカシミヤのモーニングを着ている。かすかな光で認めることができたのだが、目鼻立ちは見分けがつかない。ぼくが入ってゆくと、相手はこちらに急いで歩み よってきて、すっかり待ちかねたというふうにぼくの腕をつかみ、ぼくの耳に「ウィリアム・ウィルソン!」という言葉を囁いた。
 たちまちにしてぼくは酔いがすっかり醒めてしまった。…我にかえったときには、相手はすでに去っていた。

→この一節こそ、「ドッペルゲンガー」という心霊現象を、読者に最も恐怖を与える形で表現する、最小にして最大の、これ以上ない文章であったと思う。谷崎の「春琴抄」並にゾクゾクした。