篠原涼子主演ドラマ「アンフェア」シリーズの1本目の原作
中学三年生の時に、あまりの狂気に震え上がって読んですぐゴミ箱に捨てた小説(笑)
ゆえに人にはあまり勧めない。
でも本書が訴えたいことは文学的には大事なことだと思うので、それは決して本書の評価が低いということとは同義ではない。
そして評価は5/5です

ちなみにドラマと原作は終わり方が違うので、別物に評価されるべき作品
ドラマ→原作で読むと、低評価くらいそう。
作品紹介の関係で、以下犯人名だけネタバレ
*犯人知りたくない方は、戻って頂けると幸いです。
まず1本目のドラマの犯人は瀬崎と●●だが、同作品の犯人はずばり瀬崎だけ
本書の良さは次の二点である。
第一点は、「リアルに満ちた快楽的かつ狂気的な殺人の世界」を余すところなく描き出しているところである。
だがしかし、こういうジャンルの小説は、もうすでにあり余るほどにいくつも出版されているのだから、こうしたジャンルの小説の良さは、「ジャンル自体の価値」ではなくて、「そこから何を訴えるのか、何が書くのか」という目安で測られるべきである。
そして、上記の目安は、狂気殺人の世界を描く以上、書き手に最低限求められなければならない態度ではあるまいか、いやそうでなければならないし、それを怠り読者におもねる下劣な小説家などというのは文壇の屑だと私は信じている。
ただ誤解しないでほしい。私の信念は決して「ヒューマニズム」などという高邁な思想に基づくものではない。
では、なぜ上記のような批判を口にしたのか?
これを書いてしまうことは、私が「人間失格」である証左なのかもしれない。
しかし、本書の著者秦建日子氏が批判を恐れずに書いた以上、私も書かねばならないと思う。
それは「恐ろしいまでに暴力的な自己実現欲から快楽的殺人や狂気的殺人を起こした犯人が、簡単に反省したり、罪を悔い改める小説」などというのは、およそリアリティーがないからである。
中には、非現実的な小説を書くことで、そうした事件を体験した関係者の方の苦しみを癒してあげたいなどという人がいるかもしれない。
しかし、そんな人を私はこう責めたい。
「苦しみを癒すのが目的ならなぜその題材を選んだんだ!、最初から違う題材か、已むに已まれぬ事情で殺人という選択を行った犯人の推理小説にすれ ばいいではないか!、それにも関わらず、快楽的殺人や狂気的殺人という題材を選んだことは被害者や読者に対する最大の冒瀆であり、単なるエゴイズム以外の 何物でもないじゃないか!」と。
改めて、このようなジャンルの小説は「そこから何を訴えるのか、何が書くのか」が重要である。
そして、上記の点を踏まえて、第二点である。
第二点、実はこれこそが本書の最大にして最大の挑戦であり良さである。
すなわち、第二点とは、普段お茶の間でコーヒーを飲んでくつろぎながら、推理小説や2時間ドラマ、ワイドショーから映し出される殺人事件のストー リーを、非リアルな殺人事件と捉えて快楽的な好奇心をもって眺めて楽しんでいる一方で、殺人犯を非難し汚辱にまみれた言葉で批判している我々自身こそ「ア ンフェア」だと本質的に訴えている点に尽きる。
「アンフェアなのは、誰か?」
答えは簡単である。
「我々すべての人間」である。
私の指摘が正しいか、正しくないか。
それは本書の犯人瀬崎一郎だけが知っている。
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「ちょ、ちょっと待ってください。あなたにとって、人の命とは、そんなに軽いものなんですか!」
携帯の向こうで、司会者ががなり立てているのが聞こえる。
「もちろんです。あ、誤解しないでくださいよ。別に、私にだけ軽いわけじゃない。世の中のすべての人にとって、他人の命は軽いはずだ」(中略)
「T.Hさん。あなた、気は確かですか!」
憤怒という言葉を司会者は律儀に演じて見せる。瀬崎はますます愉快な気持ちになる。
「アッハッハ。いらない、いらない」
「司会のあなた。そういう安い芝居はいらないよ。君は別に憤ってなんかいやしない。ただ、そういう説明的な芝居をしておかないと、あとあと、世の中から非難されそうで怖いだけだ」
「T.Hさん。あなた、狂ってる!」
「狂っているいないという議論は無価値だ。それは、自分自身が理解できない人間に対するただのレッテルに過ぎない。君たちから見たら私は狂ってい るかもしれないが、私から見れば、君たちが狂っている。自分たちの心のありのままを見つめず、認めず、ただきれい事で、説明臭い、偽りのリアリティに、 べったりとまみれているに過ぎない。実に下品で、アンフェアな生き方だ」
「T.Hさん!」
「どちらが正しいか―そんな虚しい議論をするつもりはない。すべては、相対的なもので、絶対の正しさなど存在しない。今日、私は、幼い子供の命を 奪う。子供は、数秒間で宙を舞い、夕焼けの中にそびえる、美しい東京タワーを目に焼き付けて死ぬだろう。それで、私の書いた『推理小説』は、完成する。現 実に観測され、証明された、リアリティに満ちた小説になる」
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雪平は、照準をピタリと瀬崎に合わせたまま、ちらりと女の子の顔を確認する。硬かった彼女の表情に、一瞬―ほんの一瞬―安堵の色が表れる。
「安心した?自分の娘じゃなくて」
そう。女の子は、彼女の娘、美央ではない。
「その子を、放しなさい」
「質問に答えて欲しい。自分の娘じゃなくて、安心しましたか?」
「子供を放して!」
「認めようよ。君は今、少しだけ安心した。それが、人間というものだ」
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「あのときは、嘘をつくことの方がリアルだった。クライマックスでは、犯人は嘘をつかないだなんて、そんなものは読者のわがままと甘えに過ぎないとぼくは思っている。人間は、必要があれば、どんな時にだって嘘はつく」
「瀬崎」
「ぼくは、アンフェアという言葉で作り手を縛る連中が、顔を真っ赤にして怒るような作品を書きたいと思ってたんだ。入社以来ずっとやつらの機嫌をうかがってきたんだ。最後に一度くらい裏切ってもバチは当たらない」
「そんな説明通ると思ってるの」
「通るさ。少なくとも、ぼくの中では通る」
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安藤「だいたい、ただ人がたくさん死んでくだけで、誰にも感情移入できないっていうのが小説としては最悪ですよね。瀬崎が、あれのどこを傑作だと思ってたのか、ホント、わけがわかんないですよ」(中略)
瀬崎がこの場にいたら、そう普通に聞き返してくるだろう。
「人って、そういう行動、するでしょう?」
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「推理小説」ラスト(瀬崎の遺書)
殺した男の記憶に苛まれることもなく、
殺した男を無理に忘れるわけでもなく、
ただ静かに、戻るべき日常へと彼女は戻る。
それが、リアリティ。
それが、私の信じる、リアリティ
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ところで、秦氏はこの最終章に「おそらくは、納得のいかないラスト」という表題をつけている。
「おそらくは、『読者にとって』納得のいかないラスト」、しかも『推理小説』というタイトルをつけて、正面から訴えた「本」書に、テレビドラマの脚本家として有名な秦氏の「類稀なる才能」が遺憾なく発揮されていると私は思うのである。
かくして、本編『推理小説』は完成されるわけだが、最後に本書『推理小説』はこのような解説とともに幕を閉じるのである。
アンチTVドラマ的なテーマを内包する本書『推理小説』が、フジテレビ系でTVドラマ化されて来春から放映されるというのは、愉快な皮肉と感じられてならない。(316頁)