人生で好きな言葉は?と聞かれれば、「プティングの味は食べてみなければわからない」という言葉を私は挙げるだろう。
この言葉は、高校の教科書に掲載された『「である」ことと「する」こと』に出てくる言葉で、著者は戦後民主主義の巨頭丸山眞男である。
もっとも私はこの言葉自体は大好きだが、丸山眞男の本質的な政治思想には決して共感しない。それは、丸山の本質的な政治思想とは詰まるところ「革
新的な原理に基づく政治的な運動実践の推奨」であり、私の本質的な政治思想は「政治評論すれども、政治運動せず」であるからで、私がなすべき最大の政治的
行動実践とは「一票の行使」であり、それ以上の政治運動もそれ以下の政治運動もまったく必要ないと詰まるところ考えているからだ。
しかし、左派的イデオロギーを持った「丸山眞男」や「大江健三郎」などをはじめとする戦後民主主義を代表するオピニオンリーダーらの原理原則自体は必ずしも否定することはできないと私は思う。私と彼らを分かつのは、いつも「どう実践するか」の違いでしかないと思う。
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学生時代に末弘(厳太郎)先生から民法の講義をきいたとき「時効」という制度について次のように説明されたのを覚えています。金を借りて催促さ
れないのをいいことにして、ネコババをきめこむ不心得者がトクをして、気の弱い善人の貸し手が結局損をするという結果になるのはずいぶん不人情な話のよう
に思われるけれども、この規定の根拠には、権利の上に長くねむっている者は民法の保護に値しないという趣旨も含まれている、というお話だったのです。いま
考えてみると、請求する行為によって時効を中断しない限り、たんに自分は債権者であるという位置に安住していると、ついには債権を喪失するというロジック
のなかには、一民法の法理にとどまらないきわめて重大な意味がひそんでいるように思われます。
たとえば、日本国憲法の第十二条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しければならない」と記
されてあります。つまり、この憲法の規定を若干読みかえてみますと、「国民はいまや主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を
怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起るぞ」という警告になっているわけなのです。
アメリカのある社会学者が「自由を祝福することはやさしい。それに比べて自由を擁護することは困難である。しかし自由を擁護することに比べて、
自由を市民が日々行使することはさらに困難である」といっておりますが、ここにも基本的に同じ発想があるのです。私たちの社会が自由だ自由だといって、自
由であることを祝福している間に、いつの間にかその自由の実質はカラッポになっていないとも限らない。自由は置き物のようにそこにあるのではなく、現実の
行使によってだけ守られる、いいかえれば日々自由になろうとすることによって、はじめて自由でありうるということなのです。
自由人という言葉がしばしば用いられています。しかし自分は自由であると信じている人間はかえって、不断に自分の思考や行動を点検したり吟味し
たりすることを怠りがちになるために、実は自分自身のなかに巣食う偏見からもっとも自由ではないことがまれではないのです。逆に、自分が「捉われている」
ことを痛切に意識し、自分の「偏向」性をいつも見つめている者は、何とかして、ヨリ自由に物事を認識し判断したいという努力をすることによって、相対的に
自由になり得るチャンスに恵まれていることになります。
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本作品に触れ、その理念に非常に共鳴する一方で、理念に隠れた本質的イデオロギーに違和感を抱き、「相対的な自由人を志向し続けたい」と思ったあの高校3年生の夏が、今日の私を形作ってきたのだと感じる。