2024春アニメ 4月25日視聴分 | アニメ視聴日記

アニメ視聴日記

日々視聴しているアニメについてあれこれ

2024年春アニメのうち、4月24日深夜に録画して4月25日に視聴した作品は以下の2タイトルでした。

 

 

怪異と乙女と神隠し

第3話を観ました。

今回はよだれかけ事件の解決編でした。かなり謎めいたお話であり、謎として残った部分は多く、なかなか後味の悪い話ではありましたが、よだれかけ事件そのものは綺麗に解決したといえます。事件の犯人はコオネ女学院中等部の女性教諭の畦目真奈美であることは前回のラストで示唆されていましたが、今回は真奈美の子供の頃の過去回想シーンから始まります。

小さい頃に両親を亡くして田舎で1人暮らししていた祖母のタエに引き取られて2人で暮らし始めた真奈美は貧しいながらもタエからの愛情を受けて育ちお祖母ちゃん子だった。だが貧しかったために服や小物はタエの手作りや格安品ばかりで、それらの粗末さゆえに小学校では同級生たちにバカにされてからかわれていたが、内気で大人しい性格だった真奈美は言い返すことも出来ず黙って耐えていました。

そんな中、学校の大掃除のために各自が雑巾を持参してくるようにと担任の先生に言われて、タエは雑巾をたくさん縫って真奈美に持たせてくれて、他の子にも分けてあげるようにと言ってくれました。真奈美はクラスの子達と仲良く出来るチャンスだと思い喜び、大掃除の日に雑巾を忘れてきたという子に自分の雑巾を分けてあげますが、その雑巾の生地が真奈美の着ていたシャツと同じ生地であったために級友たちから「雑巾を着てる」とからかわれ、さらに級友たちは両親がいなくて祖母と貧しい暮らしをしている真奈美をバカにして、その雑巾を「年寄り臭い」と言い、汚いものを扱うように投げ捨てたりして遊び始めた。

それで真奈美は自分だけでなく優しい祖母までバカにされているのが悲しくて必死に雑巾を取り返そうとして、つい級友に暴力を振ってしまい、級友の親が抗議してタエが真奈美と共に学校に呼び出され、担任教師は一方的に真奈美を悪者扱いして、真奈美の問題行動は家庭に問題があるせいだとタエを非難した。これによって真奈美は自分がイジメを受けており、大人たちはイジメを止めてくれないばかりか自分の祖母のことをイジメたと感じて、この世界はイジメに満ちた世界だと思うようになったみたいです。それで真奈美は前回の話でも、ちょっとふざけてじゃれ合っている生徒を見ただけでイジメだと決めつけて非難してイジメを止めさせようと必死になっていたのであり、イジメの無い学校を実現しようとして、自分が勝手な思い込みでイジメをしていると認定した生徒を「よだれかけ」にして不登校に追い込んでいたのであろうと推測できます。

その後、話は現在に戻り、場面は変わってきさらぎ駅の構内で菫子や乙から彼女らがコオネ女学院で遭遇した「よだれかけ」事件について蓮が報告を聞く場面となります。菫子の目の前で大量の涎を垂れ流して発熱して昏倒した女生徒は3人、乙の級友の麻里とエリカと珠緒だった。同じ場所に居た乙とのどかの2人は何故か無事で、菫子も無事だった。そして麻里とエリカと珠緒の3人も先生が校舎の外に運び出した途端に回復した。つまり、これは典型的な「よだれかけ」事件であった。そして、この事件が起きた時に、その場に「標識」が立ったのを乙が見たという。ならば「よだれかけ」時間は「怪異」であることはほぼ確定したと見ていいだろうと蓮は結論づけた。

菫子には伝えていないが、もともと蓮と乙はきさらぎ駅で異界行きの切符を手に入れるために「怪異」を集めなければならないという事情があり、コオネ女学院で起きている奇妙な事件が「怪異」によるものかもしれないという疑惑をもって菫子に頼んで潜入調査をしてもらっていたのだが、こうしてその「よだれかけ」事件が「怪異」によるものと確定した以上は、次はその「怪異」を捕えると蓮は言います。それを聞いて菫子は「捕える?」と怪訝そうに問い直す。自分の時のように呪書のような呪具的なものを回収するというのではなく「捕える」というと、まるで妖怪みたいな存在が「怪異」を引き起こしているかのように聞こえるが、果たしてそんなものがこの世に本当に存在するものだろうかと菫子は疑問に思ったのです。

そうした菫子の疑問に答えるように、蓮はここで明治時代の哲学者の井上円了が「妖怪学講義」という著書で示した妖怪の定義についての話をします。円了は妖怪という存在を「批判的」に研究したことでよく知られる人物です。「批判的」というのは悪いものだと決めつけるとか、否定的に扱うという意味ではなく、要するにあくまで実証的に考えるということです。妖怪というものは昔から「とにかく不思議なもの」という扱いであり、その実態の解明など出来ないものと考えられていて、古くからの伝承をそのままただ信じればよいものとされていました。つまり思考停止していたわけで、円了はそれではいけないと考えて、妖怪という存在を理屈で説明のつく存在として再定義しようとしたのです。

そもそも円了の専門分野である「哲学」というものがそういう学問です。例えば「神」という存在について純粋に宗教的な立場に立てば「神は絶対である」「それ以上は何も考える必要は無く、ただ信じるのみ」ということになる。しかし哲学の立場においては「神」というものが存在する意味を考察して結論を出そうとする。もちろん「神」を科学的に実証することは出来ないが、それでも理屈や仮説の上でならば神という存在に何らかの意味を見出すことは出来る。いずれ科学が発達すれば、その仮説が証明される日が来るかもしれない。実際、科学の発展というものは、これまでもそうした未知の存在に関する仮説がまず構築されて、それを証明していこうとする努力の結果推し進められてきたものなのです。だから、そういう意味で「哲学」は「科学」の一分野なのだといえます。

そうした哲学の徒である井上円了が「妖怪」という伝承の上の「不思議なもの」に過ぎなかったものを哲学的に再定義したものが「妖怪学講義」ということになります。その定義によると、妖怪はまず「実怪」と「虚怪」に分かれるという。「虚怪」というのは恐怖心やイタズラなどによって超常現象が起きたと錯覚したものであり、実際は超常現象は起きていない。円了の言うには世の超常現象といわれるものの8割はこの「虚怪」なのだそうです。一方で残り2割の「実怪」というのは実際に超常現象が起きているものを指します。

この「実怪」というのは実際に超常現象が起きていて、しかもそれは人為的なトリックによって起こされたものではない。人為的に起こされたものは「虚怪」に分類されるからです。つまり「実怪」というのは自然が引き起こす超常現象であると円了は定義しているのです。そして更に円了はこの「実怪」を「真怪」と「仮怪」に分類し、このうちの「仮怪」は何らかの証明が可能なものとしました。つまり「自然界が引き起こす超常現象であり、科学的に説明可能なもの」が「仮怪」だといえます。例えばUFOなんかは完全にその謎は解明は出来ていないが「宇宙人の乗り物なのではないか」という理屈で説明は可能です。ネッシーなんかも「恐竜の生き残りなのではないか」という理屈をつけることは出来る。死んだ人の幽霊が現れた場合も「人間には霊体があるから」とかいう理屈で説明することは出来る。こういうものは全て「仮怪」といえます。こういう「仮怪」が世で超常現象といわれる事例のうちのおよそ2割であり、「実怪」の大部分はこの「仮怪」だと円了は定義する。

すると問題はほんの僅かな事例しかない「真怪」です。これは科学では全く説明がつかない真の超常現象なのだという。これは全く意味が分からないものであり、この世の理から外れた現象といえます。ただ円了はこの「真怪」を「自然の法則全て」と定義した。自然の法則から外れた現象を「自然の法則全て」と定義するのは一見奇妙ですが、要するに円了は現在の人間の知性ではまだこの世の法則の全てを把握出来ていないと考えたのです。だから現在の人間の目から見て全く意味の分からない「真怪」もいずれは説明可能になる日が来ると考えた。「仮怪」の中にもかつては「真怪」であったが科学の発達によって説明がつくようになり「仮怪」に移行したものも多い。いずれはそのようにして全ての「真怪」が「仮怪」に再定義される日も来るはず。むしろ、そうした「真怪」の研究を突き詰めることによって自然を究極的に解明することに繋がると考えて、人類の科学の発展のためには「真怪」の研究をすべきだと円了は提唱した。

菫子も円了のそうした思想は知っていたので、結局は捕えるべき妖怪のようなものは存在しないのではないかと疑問を呈するが、蓮はそうした円了の考え方を「哲学者らしいロマンチックな解釈」と断ずる。つまり「全てのものがこの世の理屈で説明可能であるはず」という哲学的思考こそが非現実的で夢想的だというのが蓮の考え方であるようです。蓮の「真怪」の定義は「真の怪異」なのだという。それはつまり円了の定義とは全く違い「真怪とはこの世の法則から完全に外れた超常現象である」という定義であり、言い換えれば「真の怪異とは別の世界由来のものである」ということになる。この世で「妖怪」と言われているものの大部分は「虚怪」であったり「仮怪」であったりするが、中にはごく稀に「真怪」が存在し、それはこの世界とは異なった世界からやって来たものだというのが蓮の考え方です。蓮自身が異界から来た者なので、それは確信出来るのでしょう。

そして蓮は数多くの妖怪伝承や怪異伝承の中でどれが「真怪」であるのかは大体把握しており、その事例が稀であることも分かっている。そしてそうした「真怪」には例の標識が立つみたいです。だから「よだれかけ」が「真怪」であるのは間違いなく、既存の伝承の中の「真怪」の事例と「よだれかけ」事件の特徴とを比較照合した結果、蓮には「よだれかけ」の正体は大体想像はつきました。そうなると、その怪異を捕える作戦も立てられるようです。菫子も詳細はよく分からないながらも蓮がそこまで相手の正体が分かった上で「捕える」と断言している以上はもう安心なのだろうと思い、これで自分の潜入調査も完了したと安堵する。だが蓮は菫子には明日もコオネ女学院に潜入してもらうと言うのでした。

そして翌日の放課後、コオネ女学院の女子トイレで大きな物音がしたので駆けつけた畦目真奈美先生は、トイレの個室に閉じ込められてイジメ被害を訴えて助けを求める女生徒がいることに気付き、助け出すとそれは「高等部の若造さん」こと菫子でした。そうして2人で廊下に出て、真奈美は菫子に事情を聞きます。すると菫子が昨日は「イジメは受けていない」と言ったが本当は自分はイジメを受けていたのだと告白する。それを聞いて真奈美は愕然とした表情となるが、その後で何かを決意したような様子で「やっぱりダメね。加害者を狙っても終わらない。被害者を休ませてあげなきゃ。口実は私が作ってあげる」と言って、いきなり四つん這いになって廊下の床を舐めようとする。

すると、その瞬間、菫子が幼女の姿に変身し、床を舐めようとしていた真奈美が「影が縮んだ?」と戸惑って動きが止まり、顔を上げていきなり目の前に出現した見知らぬ幼女の姿に呆気にとられる。すると真奈美の背後から現れた蓮が真奈美の服の襟足を掴んで引っ張り上げて「初めまして、ごきげんよう」と挨拶すると真奈美を廊下に座らせて「今後、床舐めは禁止ですよ」と言う。それで真奈美はいきなり現れた知らない男にビックリして何者なのかと問い質す。蓮は自分はここの生徒の保護者だと答え、菫子は再び女子高生の姿に戻り、逆に真奈美に「畦目先生がよだれかけの犯人」と指摘する。

つまり、この菫子の「イジメの被害者のフリをして真奈美に助けてもらう」という行動は真奈美がよだれかけの犯人であるかどうかを確認するためのお芝居だったのです。菫子にこんなお芝居をやらせて真奈美を罠に嵌めるために蓮は菫子にもう1日コオネ女学院に潜入してもらう必要があると言ったわけですね。それはつまり、蓮が当初から真奈美が怪しいということと、菫子がイジメ被害者のフリをすれば真奈美の犯行現場を押さえることが出来ると踏んでいたということを意味します。

まず、蓮は「よだれかけ」事件の特徴と過去の伝承に残る「真怪」の事例とを照合して、「よだれかけ」事件と「牛鬼」という妖怪の伝承に類似点があることに気付いた。「牛鬼」というのは様々な地域で伝承が残っている妖怪で、残忍で人を喰らうとか人を病にするとか神の化身として信仰されたりとか様々ですが、蓮はこの牛鬼の伝承のいくつかは「真怪」と見なしていた。そうした「真怪」の伝承の中で「牛鬼に影を舐められた者は大量の唾液を垂れ流して火が点いたように身体が熱くなり死に至る」というものがある。この症状が「よだれかけ」と酷似しており、何者かが牛鬼の怪異の力で標的とした者の影を舐めてそうした症状を発症させたのではないかと蓮は推測した。

被害者が学校から離れると症状が治まり、学校に来ると症状が再発するというのは、犯人が常に学校に潜んでいて、その被害者が登校してくるたびに影を舐めて症状を引き起こしてきたからなのだろう。逆に登校してこない限りはわざわざ被害者を追いかけて影を舐めて症状を引き起こそうとしなかったということは、その相手に恨みがあるのではなく、その相手が学校に来られないようにすることが目的なのだということが分かる。こうした犯人像が分かってくると、それは牛鬼という妖怪そのものなのではなく、牛鬼の力を使うことが出来る学校関係者ということになる。

そして被害者像の方も絞り込んでいこうと、学校内の事情通である珠緒に「よだれかけ」を発症した生徒たちの共通点を聞いてみたところ「周りと揉め事がある子が多かった」とのことだった。だが、その珠緒自身が「よだれかけ」の被害者となっており、珠緒は別に周りと揉め事は無かった。ただ、珠緒や彼女と一緒に「よだれかけ」を発症した麻里もエリカも、その直前に畦目先生に「菫子に対するイジメをしているのではないか」と疑われていた。ちなみに同じ場所に居合わせた乙とのどかは菫子を囲んでいなかったのでイジメの疑惑はかけられていなかった。そして直後に菫子は畦目先生に「本当はイジメられていたのではないか」としつこく問い詰められており、そうして畦目先生と別れた直後に再び菫子が麻里と珠緒にふざけて腕を掴まれた時に麻里と珠緒とエリカが「よだれかけ」を発症して、乙とのどかは発症しなかった。ちなみにその時、周囲には彼女らの影を舐めている者の姿は見えなかったが、放課後で夕刻であったので影は長く伸びていて、遠くの物陰で彼女らの影を舐めることは可能だった。

こういうふうに見ると、「イジメッ子が犯人の標的だったのではないか」と思えてくる。「周りと揉め事がある」というのはまさにイジメをしていた例もあるだろうし、犯人から見れば他人と喧嘩しているのが「イジメをしている」と見えた可能性もある。つまり「イジメっ子をよだれかけにして学校に来られなくすることによって校内からイジメを無くす」というのが犯人の目的だったのであり、中には珠緒たちの事例のように勘違いでイジメ加害者と間違われて「よだれかけ」を発症させられてしまった生徒も多かったのだろうと思えた。

そうした推理のもとで、こういう状況を見ると、どう見ても畦目真奈美先生が怪しいと思えた。真奈美はイジメを「絶対にダメ」と強く否定しており、思い込みが激しいようで相手の言い分を聞こうとしておらず、校内からイジメを無くすためには極端な行動をとってもおかしくないように見えた。また、わざわざ放課後の「影が長く伸びる時間」に校内を見回ってイジメが起きていないかどうか調べていたりしたのも怪しいし、真奈美がイジメ加害者だと決めつけた珠緒たちは実際はイジメをしていないのに発症している一方で、イジメ加害者と決めつけられていなかった乙とのどかだけ同じ場所に居ながら発症していないのも、真奈美先生の関与が無いと考える方が不自然といえた。

そこで蓮は菫子にイジメ被害を受けているというお芝居をさせて放課後に真奈美にそれを目撃させることにした。そうしたら昨日珠緒たちを「よだれかけ」にしたことで菫子をイジメから救うことが出来たと安心しているはずの真奈美はショックを受けて何らかの行動を起こすはずだと読んだのです。別の加害者の影を舐めに行くか、あるいは菫子の影を舐めてイジメ被害者である菫子自身を不登校にすることで校内イジメの根を断とうとするか、そのどちらかの犯行の現場を押さえることが出来れば真奈美が犯人で確定だと思って蓮が物陰に潜んで菫子と真奈美の様子を窺っていたら、真奈美が菫子の影を舐めようとして、菫子はその場合の備えとして事前に蓮に指示されていた通りに幼女の姿に変身して影を短くして回避したのでした。そうして蓮が出て来て真奈美を捕まえたわけです。

そうして蓮は真奈美を押し倒すと身体の匂いを嗅ぎ始める。とても変態行為みたいに見えますし真奈美も恥ずかしがって凄く嫌がりますが、どうやら蓮は趣味でそういうことをやっているわけではなく、牛鬼の怪異の力の源の在り処を臭いで探ろうとしているようです。そうして真奈美の髪飾りが牛鬼の怪異の力の根源だと突き止めた蓮は髪飾りを奪おうとするが、真奈美に頭突きを喰らって蓮はひっくり返ってしまう。真奈美は髪飾りを渡すつもりはないようです。また、蓮が1話で菫子と追いかけっこをした場面でも同様でしたが戦闘力はほとんど無いということも分かります。

そうして真奈美は髪飾りを守るように手に掴むと菫子に「先生の邪魔をしないで」と言う。真奈美はあくまでイジメの無い学校を作ることは正しいことだと考えており、そのために髪飾りの力を使えばイジメっ子を不登校にすることが出来ることも分かっているみたいであり、だから自分の理想の実現のためには髪飾りを渡すことは出来ないという考え方みたいです。それに対して菫子はイジメを無くすために生徒を傷つけたら元も子も無いと説き「時間をかけて少しずつイジメを無くしていきましょう」と言って真奈美に髪飾りを手放すよう求めます。しかし真奈美はあくまで菫子が邪魔をするつもりだと判断すると、髪飾りの一部を念のために齧って呑み込むと、髪飾りを渡すフリをして菫子に近づき「今イジメられている子にはそんな時間は無い」と言って菫子の顔の影になっている部分を舐め上げる。すると菫子の口から大量の涎が溢れだしてきて、同時に菫子の身体が炎を発して燃え始めてしまう。

それを見て蓮は驚きます。菫子や乙からの報告で聞いていた「よだれかけ」事件の発症者は高熱を発して昏倒するだけであり、死にも至っていなかった。牛鬼の伝承では「死に至る」とあったが、少なくとも即死するような代物という感じではなく、それも多少大袈裟に言い伝えられていると思われ、牛鬼の怪異の力といっても実際は短期間だけ涎を垂れ流させて高熱を発する程度なのだろうと思っていたのです。少なくともこんなふうに身体から炎が発するなど全く想定外でした。このままでは菫子は焼死してしまう。それで慌てて蓮は菫子に飛びついて自身も炎に身体を焼かれながら、菫子をひとまず安全な場所に連れていきます。

そうして一旦、真奈美から逃れて教室に入って、そこで蓮は菫子の身体を焼く炎を鎮めようとします。その方法というのは「石は流れ、木の葉は沈み、馬は吠え、牛はいななく」という言葉を呟くことでした。これは和歌山県の牛鬼伝承で、牛鬼に出会ってしまった時にこの言葉を唱えると牛鬼に襲われずに助かるのだと言い伝えられている言葉なのだそうです。それで蓮はこの言葉を伝承に従い「牛鬼の怪異の力を弱める作用がある」と見なして唱えており、その結果、菫子の身体の発火は収まり、菫子は死なずに済みましたが、それでも大火傷を負っており、火が燃え移った蓮も同様に大火傷を負っていました。

しかし、この「石は流れ、木の葉は沈み、馬は吠え、牛はいななく」という言葉は前回のエピソードの最後で真奈美が牛鬼の怪異の力を使う前に唱えていた言葉と同じです。一方で今回、菫子の顔を舐めた際には真奈美はこの言葉を唱えておらず、その結果、菫子は身体が発火してしまった。そしてそうした発火を蓮がこの言葉を唱えて抑えたということは、やはりこの言葉には牛鬼の怪異の力を弱める作用があったのだと思われる。ということは、真奈美は前回の最後の場面ではこの言葉を唱えることによって牛鬼の怪異の力を抑制して使っていたのであり、その結果、珠緒たちの身体は発火したりはせず、単に高熱を発して昏倒するぐらいで済んでいたのだと思われる。そして、これまでの「よだれかけ」事件の全てが珠緒たちと同じ症状であり、菫子のように身体が発火していないところを見ると、真奈美はこれまでずっと牛鬼の怪異の力をこの言葉を唱えてセーブして使用していたということになります。そんな真奈美が菫子に対しては力をセーブせず焼き殺そうとしたのは、菫子が髪飾りを奪い真奈美の「イジメの無い学校を作る」という目標を邪魔しようとしたのがよほど許せなかったのでしょう。

真奈美は自分が菫子の顔の影を舐めて発火した際に驚いていなかったので、自分が「石は流れ、木の葉は沈み、馬は吠え、牛はいななく」という言葉を唱えずに力を使えば相手が発火することは知っていたのでしょう。それは、一度はその言葉を唱えずに相手を発火させた経験があるということです。だが後の「呪い返し」の場面で判明することですが真奈美はこれまで誰もこの力で人を殺してはいません。それは、一度相手を発火させた際にもこの言葉を唱えて鎮火させたということなのでしょう。つまり殺意は無かったということになります。殺意が無いのにこんな危険な能力を使ったということは、誤って使ってしまったということを意味しており、この「石は流れ、木の葉は沈み、馬は吠え、牛はいななく」という言葉自体はもともと知っていながら、その言葉にこの危険な発火作用を弱める効力があるということはあらかじめ知らなかった可能性が高い。

しかし、そもそもどうしてこの「石は流れ、木の葉は沈み、馬は吠え、牛はいななく」という言葉に牛鬼の怪異の力を弱める作用があったのでしょうか。この言葉はもともは道理に合わない不条理な事柄に対して非難する意味合いが強い言葉であり、前回の最後の場面で真奈美が珠緒たちをイジメっ子と見なして「よだれかけ」にするために牛鬼の力を使う際にこの言葉を唱えていたので、てっきりこの言葉が術の効果を高めるためのものであるのかと思い、「イジメ」という「道理に合わない不条理な行為」に対して非難する強い想いを示すも言葉なのかと思っていました。しかし、どうやらそれは勘違いだったようです。むしろこの言葉が牛鬼の怪異の力を弱める作用があるということを考えると、この言葉によって「道理が合わず不条理なもの」として非難されているのは、牛鬼の怪異の力そのものであると思われます。つまり、怪異というものは「この世の法則の外にある異界由来のもの」なので、そのようなこの世界の理に反した力を使うことの危うさを戒めるための言葉だったのでしょう。

この後、蓮は自分が牛鬼の怪異の力を見誤った結果、菫子に大怪我を負わせてしまったことを深く反省し、こうなったら自分が身を挺してでも真奈美を止めて菫子のことも守ろうと決意する。そうして蓮は追いかけてきた真奈美の前に1人で立ち塞がります。真奈美は蓮が菫子の身体の火を消していることに驚くが「御守りを奪おうとしたからよ!」と蓮と菫子を非難する。それを聞いて蓮はその髪飾りは「御守り」ではなく「呪い」だと指摘します。

その髪飾りは真奈美が祖母のタエから「先祖代々伝わる御守り」として渡されたものだった。あの子供の頃に雑巾の一件で学校で非難された時の帰り道で、タエが真奈美に「お前を必ず守ってくれる」と言って渡してくれたものだった。それから真奈美はその髪飾りをいつも身に着けるようにしていたのだが、それからしばらくしてタエが亡くなり真奈美は悲しみに暮れたが、そんな中でも真奈美に対する級友達のイジメはエスカレートしていき、ある日、イジメっ子が真奈美の給食を教室の床にぶちまけて、「雑巾」と綽名をつけていた真奈美に対して、床に落ちた食べ物を雑巾みたいに舐めて喰うようにと迫った。それで真奈美は言いなりになって床と一緒に食べ物を舐めて喰ったのだが、その際にちょうどそのイジメっ子の影がその食べ物の落ちた床にかかっていて、結果的に真奈美がそのイジメっ子の影を舐めた形となった。するとそのイジメっ子は大量の涎を垂らして身体から火が出て苦しみ悶えて転げまわり、真奈美は驚いて、御守りが自分を守ってくれたのだと思った。そして祖母から御守りに対して唱えるように言われていた「石は流れ、木の葉は沈み、馬は吠え、牛はいななく」という言葉を唱えると、イジメっ子の身体に点いた火が消えて、イジメっ子は一命は取り留めたが学校には来なくなった。

その後、真奈美は何人かのイジメっ子に対して同じようなことを試してみて、御守りの髪飾りを身に着けた状態で相手の影を舐めると相手は涎が止まらなくなり身体から火が出て苦しみ、「石は流れ、木の葉は沈み、馬は吠え、牛はいななく」と唱えると火が消えることを知った。また最初から「石は流れ、木の葉は沈み、馬は吠え、牛はいななく」と唱えてから影を舐めると、涎を垂れ流して高熱を発する程度に調節することも可能なことを知った。そして、これは「イジメっ子を排除して自分へのイジメを止めさせるための御守り」なのだと思うようになり、そのうちにこの御守りは自分を守るためだけに使うものではなく、自分以外の多くのイジメられっ子を守るためにも使うべきだと考えるようになった。そうして真奈美の中でこの御守りは「イジメの無い世界」を作るための御守りなのだと考えられるようになっていき、今こうしてコオネ女学院の教諭となった真奈美は、その目標を達成するため、まずはコオネ女学院を「イジメの無い学校」にするためにイジメをしていると思われる女生徒たちを「よだれかけ」という症状で不登校に追いやるために使われているのです。

だが蓮はその髪飾りは「御守り」などではなく「呪い」だと言う。祖母からそれを「御守り」だと言われて渡されて、ずっと「御守り」として大事にしてきた真奈美にとって全く予想外の言葉であった。蓮の言うには、この髪飾りは「牛玉」と呼ばれる遺物であり、牛鬼の欠片なのだそうだ。つまり牛鬼の身体の一部から作られたものなのだという。おそらく真奈美の一族はもともとは「牝牛」と書いて「うなめ」と読む氏族に「畦目」という当て字をした一族であり、牛鬼を祀る一族だったのだろうと思われ、それゆえ「牛玉」が伝わっていたのだが、それは怪異の欠片であり呪いそのものだった。そしてその呪いを鎮める言葉「石は流れ、木の葉は沈み、馬は吠え、牛はいななく」と共にそれは代々伝えられてきた。ところが時代が経つにつれてその教えは薄れて、その唱える言葉と共に単なる「御守り」として伝えられるようになり、そうして真奈美の手に渡り、たまたま呪いとして使用されるようになったというわけです。もし祖母が生きているうちに呪いが発現していれば、祖母は慌てて真奈美から回収したはずですが、祖母の死後に呪いが発現したので真奈美が変な思い込みで突っ走ることになってしまったのです。

今まで「御守り」だと思っていたものが「呪い」だと言われて真奈美は驚きますが、確かにそう言われてみれば、他人を燃やしたり病気にしたりするこの髪飾りは「御守り」というより「呪いの道具」のようだと納得は出来た。ただ、「御守り」であれ「呪い」であれ、これを使えば「イジメの無い世界」を作ることが出来る。それは真奈美にとっては絶対的に正しいことであり、その手段が「呪い」であったとしても別に構わないと思えた。

しかし蓮は「呪い」は危険なのだと言う。どうやら蓮の言ってることを整理すると、呪書や牛玉のような呪いの道具みたいなものはそれだけでは呪いは発動しないみたいで、第1話での若返りの呪いが菫子の世界への恨みのような感情が引き金となって発動したように、強い心の動きがあって初めて呪いは発動するようです。「世界から排除された者特有の情動」のようなものが異界の怪異と共鳴して呪いを発動させるという感じでしょう。こうした強烈な心の動き、情動や怨念のようなものを脳内で司るのが大脳辺縁系らしいのだが、この大脳辺縁系は「主語」が理解出来ないのだと蓮は言う。つまり自分と相手の区別が出来ないので、相手を呪えば同時に自分も呪うことになり、他人への呪いは自分への呪いとなって返ってくるのだという。いわゆる「人を呪わば穴二つ」というやつです。

だから、こうして真奈美が「牛玉」を使って他人に危害を加えていれば、いずれ同じ危害が真奈美自身に返ってくる。それを回避するためには「牛玉」を自分の手元から離すしかないのです。だから蓮は真奈美に「牛玉」を手放して自分に譲るようにと説得する。自分はその「牛玉」を妹を返すために有効利用できるのだと言って蓮は真奈美に迫りますが、真奈美は「イジメの無い世界」を作れるのなら自分は呪い返しでどうなっても構わないと言い張って、あくまで牛玉を渡そうとはしない。

それに対して蓮は「友達とふざけることすら許されない世界が本当にあなたの望む世界ですか?」と問いかける。昨日真奈美によって「よだれかけ」にされてしまった珠緒たちはイジメなどしていない。ただ菫子とふざけて楽しく遊んでいただけです。そんなものまで排除して作り上げた真奈美の理想社会に一体何が残るというのか。しかし真奈美はそうした蓮の言葉に感情的に反発して蓮の胸倉に掴みかかり「ふざけてただけ、そんなつもりじゃなかった、イジメる側はいつもそう言うわ!」と叫ぶ。実際、小学校の時に真奈美をイジメていた級友たちも彼ら自身はふざけていただけだったのでしょう。悪意などほとんど無かったかもしれない。しかし真奈美は深く傷ついていたし、今でもそうやって悪意の無いおふざけによって深く傷つけられているイジメられっ子はたくさんいる。それは紛れもなく事実です。だから真奈美は自分が間違っているとは思わない。

蓮も確かにその部分では真奈美を論破することは出来ないと認める。「ふざけているだけ」という言い訳を振りかざして相手の気持ちを思いやることを怠るような人間は、たとえどんなに善良な人間であったとしても、常に弱者の気持ちを思いやろうとしている真奈美のような人間よりも下等であると思えた。ここで蓮の回想シーンのようなものが流れて、そこでは蓮や乙と思われる少女と一緒に戦場化している都市のような場所をボロボロになって彷徨っていた。これが異界における蓮と乙の過去なのか、それとも異界からこちらの世界に来てから戦場のような場所に行く羽目になったのか、詳細は分かりません。ただ蓮は「あの頃、先生のような優しい人が傍にいてくれたら僕や妹はこうなっていなかったかもしれない」と言っている。詳しい話は分かりませんが、とにかく蓮は本音では珠緒のような人間よりはいくらか真奈美のような人間に賛同しているようです。

ただ、ここで蓮は「でも僕はどうしても世界から排除される側の気持ちばかり考えてしまうんだ」とも悲しそうな顔で言っている。それもどうしてなのかはここでは詳細に説明はされないが、おそらく蓮自身が「世界から排除された者」だからなのでしょう。だから菫子の気持ちも分かるし、真奈美の気持ちだって分かるのですが、同時に真奈美によって学校から排除されてしまった珠緒たちやその他の被害者たちの気持ちもどうしても考えてしまう。そこは意見の正当性の優劣などは関係なく、蓮はとにかく世界から不当に排除される者は1人たりとも許容できないのでしょう。

だから、やはり真奈美の行動は止めなければならない。そもそもこうして真奈美が絶対拒否の姿勢を貫く限り、交渉の決裂は不可避であり、そうなれば蓮は真奈美から攻撃を受けて火だるまにされてしまう。「石は流れ、木の葉は沈み、馬は吠え、牛はいななく」と唱えればダメージはいくらか軽減できるが、既にかなり大火傷でダメージは受けており、そう長く耐えられそうもなく、蓮が倒されれば菫子も殺されるであろうし、今後も真奈美の暴挙で犠牲になる人も絶えないだろう。だから蓮は非常手段を使わざるを得なかった。

それは蓮が普段は糸目のように閉じている細目をカッと見開いて渦巻のような両目の黒目部分で真奈美を至近距離で見つめることでした。それによって真奈美は突然に大量の涎を垂れ流したかと思ったら、その場に標識が何本も立ち、そこから炎が噴き出して真奈美の身体を焼いたのでした。それはまるでさっき真奈美が菫子にかけた呪いがそっくりそのまま真奈美自身に返ってきているようであり、どうやら蓮の両目には「他人を呪った者に強制的に呪いを返す」能力があるようです。但し代償はあるようで、まずそれによってその呪いそのものが消えてしまうらしい。だからここで真奈美が持っていた牛玉の呪いそのものが消えてしまい、それは単なる髪飾りになってしまった。これで蓮は今回の事件で「怪異」を手に入れることが出来なくなってしまい、きさらぎ駅で切符を手に入れるのはお預けになってしまった。

そしてもう1つの代償は、どうやら蓮の両眼にもダメージが返ってくるようだという点でした。そのダメージで倒れそうになった蓮を菫子が助け上げる。菫子は大火傷で動けなかったはずだが、変若人の能力で身体を作り替えることで一定のダメージは修復されるようで、28歳の姿に戻ることで火傷は修復されたようです。そして真奈美は菫子のように大火傷を負った後、呪いが消滅すると共に炎も自然と消えて、気絶して眠っていた。もし真奈美がこれまでに呪いで人を殺していれば、その呪いも返って来てきっと真奈美は死んでいたことでしょう。幸い真奈美は人に大火傷を負わせたことがあった程度だったので大火傷ぐらいで済んだのだといえます。そんな真奈美を病院に運ぶ手配をするよう乙に頼んで、菫子と蓮はコオネ女学院を後にすることにした。

その後、真奈美はのどかの親の経営している高天原病院に入院し、学校ではよだれかけ事件も終息し、不登校になった生徒たちも再び登校出来るようになり、まさか真奈美が犯人だったとは知らない珠緒や麻里やエリカも不注意の火傷で入院したということになっている真奈美のお見舞いにやって来て、真奈美に注意されていた菫子への接し方についても考えが足りなかったと反省の言葉を口にした。それを聞いて真奈美ももっとちゃんと生徒たちと話をすれば良かったと反省した。もともと祖母は自分の心の優しさを認めてくれて、そんな優しい自分が幸せになれるようにと大事な「御守り」を渡してくれたのだ。それは本当は「呪い」だったのだが、それが「御守り」だと思って大事にしていた祖母の心は本物だった。だから、あれは間違いなく「御守り」だったのだと真奈美は思った。それを「呪い」に変えてしまったのは祖母の期待を裏切って「優しさ」を忘れてしまっていた自分の愚かしさであったのだと真奈美は深く後悔し、心の中で祖母に謝り、これからは誰に対しても優しく生きようと決意するのでした。

なお、真奈美の持っていた牛玉の正体ですが、蓮はあれは牛鬼の欠片ではなかったのではないかと後で言っていました。牛鬼にしては発火能力などあまりに呪いの力が強大すぎるので、蓮はあれは「塵輪鬼」という怪異だったのではないかと言う。「塵輪鬼」というのは岡山県に伝わる伝承で、大和朝廷と戦った強大な鬼神なのだそうで、この塵輪鬼が討伐された破片が牛鬼になったという。あの髪飾りの強大な呪いの力を考えると、あれは牛鬼の欠片ではなく塵輪鬼の欠片だったと考えた方が説明がつくと蓮は言い、塵輪鬼の強大な呪いを真奈美があの逆言の呪文で抑えていたので「よだれかけ」程度の被害で済んだのだろうと言う。ただ、既に髪飾りの呪いが消えてしまった以上、それも推測に過ぎず確かめようはないとも蓮は言う。

これで全ては終わったかに思えますが、しかし奇妙な点が残っている。真奈美が蓮や菫子と髪飾りを巡って争っていた時、真奈美の頭には何故か角が生えていたのです。そして、その角は最後に蓮の呪い返しによって髪飾りを呪いが消えた後も真奈美の頭に残っていた。そしてラストの病室の場面でも真奈美は頭にバンダナを巻いており、バンダナで隠された下に角はどうやら残っているようです。

この角が生えたタイミングをよく見てみると、菫子が真奈美に顔を舐められて全身が炎に包まれた辺りと思われる。その直前に真奈美は髪飾りの一部を吞み込んでいる。おそらくあれが原因なのでしょう。あの呑み込んだ髪飾りの欠片そのものは蓮の呪い返しの際に呪いは消えたと思われます。あの欠片の呪いも菫子への呪いに使われたはずであり、これまでにも多くの人間への呪いに使われてたと思われ、その呪いが全部真奈美に返ってきたことによって呪いは消滅したはずだからです。だが、それでもその後も真奈美の角が生えたままということは、あの角は別の呪いによる産物ということになる。

つまり、あの髪飾りを一部を体内に入れたことによって真奈美の中で新しい呪いが生まれたようなのです。これは呪書の呪いを使ったことによって菫子自身が呪いそのものとなり変若人になったのと似た現象といえます。つまり、どうやら真奈美もまた塵輪鬼由来の新たな呪術を使える人間となったみたいなのです。それはおそらく強大な呪力なのでしょう。そして、今回のラストシーンで、その真奈美の病室に、珠緒たちが見舞いから帰るのと入れ違いに、謎の車椅子の少女が訪問している場面が描写されている。これは一体何を意味しているのか、真奈美の角の謎も含めて、次回以降のエピソードで触れられるのかどうか注目していきたいと思います。

 

 

出来損ないと呼ばれた元英雄は、実家から追放されたので好き勝手に生きることにした

第4話を観ました。

今回はアレンたちが悪魔の動向を探るために死んだ王族の幽霊が目撃されたという村に行きます。実はリーズ姫は子供の頃に行方不明になった叔父を探していて、その幽霊が叔父ではないかと思って探します。その村は死者の霊を呼び戻すとかいう祭りをやっている奇妙な村で、そこでリーツは叔父と出会い、父である王がリーツを殺そうとしていると聞かされ、共に王を倒そうと持ち掛けられる。しかしリーズが拒否すると叔父はリーズを殺そうとしてきて、そこに割って入ったアレンが術を解くと叔父は正気を取り戻す。実は叔父はとっくに死んでいて死体を操られていたのだという。そして束の間だけ人間に戻れた叔父はアレンと決闘してリーズのことを託して永遠の眠りにつきます。そしてアレンは叔父の死体を操り死人のゾンビの村を操っていた悪魔を倒しました。そうしてアレンがその悪魔に力を与えていた黒幕が自分の実家だと気付いたというところで今回は終わりとなりますが、ちょっと話も全然面白くないし作画も酷いし、今回で視聴は打ち切らせていただきます。