2024冬アニメ 2月15日視聴分 | アニメ視聴日記

アニメ視聴日記

日々視聴しているアニメについてあれこれ

2024年冬アニメのうち、2月14日深夜に録画して2月15日に視聴した作品は以下の3タイトルでした。

 

 

外科医エリーゼ

第6話を観ました。

今回はエリーゼが家族と共に皇帝陛下の誕生祭のパーティーに招かれる話です。医師の資格試験も近いので勉強をしていたいところなのですが皇族主催のパーティーに出席するのは貴族の義務なので出席せざるを得ない。なお前々世ではこの誕生祭パーティーの場でリンデンとエリーゼの婚約が発表されてそのままエリーゼは皇后となったのですけど、今回の人生においてはエリーゼは皇帝に医者になりたいと頼み込んで賭けをすることになっており、エリーゼが成人に達する半年後まで婚約を保留にしてもらっていますのでこのパーティーでの婚約発表の予定は無くなっている。

この国の貴族社会には内部で争いがあって、エリーゼの父のクロレンス公爵の派閥とチャイルド家を筆頭とする派閥に分かれていて、前々世のエリーゼはチャイルド家の姫と仲が悪かった。派閥争いが原因というよりも2人ともリンデン皇太子を好きだったのでいがみ合っていたようです。ただチャイルド家の派閥はリンデンとは敵対していたので2人が結ばれるはずはなく、それでも好きだったのですからチャイルド家の姫はよほどリンデンのことが好きだったようです。

そのチャイルド家の姫とパーティーで前々世以来の再会をしたエリーゼは、前々世での自分の意地悪を反省してチャイルド家の姫に親切にします。そしてチャイルド家の姫が発熱していて体調が優れないので心配して、ダンスする姿を心配そうに目で追っていると、リンデンがエリーゼがダンスをしたがっていると勘違いして一緒に踊ったりします。その後、リンデンはエリーゼがチャイルド家の姫を心配していると知ると皇族用の休憩室に2人を連れていってエリーゼがチャイルド家の姫を介抱するのを手助けしてくれたりします。

その後、皇帝の挨拶があり、そこで皇帝はリンデンの婚約発表が「クロレンス姫君の成人まで延期となった」ことを発表し、事実上、リンデンの婚約者がエリーゼであると発表してしまった。それでエリーゼはショックを受けますが、その後改めて皇帝に事情を伺うと、賭けは反故になったわけではないと言う。ただ皇帝は単にエリーゼが医者になれば賭けに勝ったと認めるつもりではない。もともと賭けを決めた際に皇帝は「医者になって皇后の仕事よりも価値があると証明することが出来れば」と言った。つまり医者になるだけではダメなのであり「エリーゼが皇后になるよりも医者になる方が価値があると思わせるだけの功績を上げねばいけない」のです。

そして今や皇帝はエリーゼが未来の皇后になれば大きな功績を上げるはずだと期待値をかなり上げているので、それを更に上回る功績を医者として示さなければならない。たぶん皇太子の侍従の脾臓摘出手術をしたぐらいでは足りないでしょう。それだけの功績をこれから半年の間に上げるなどかなり難しい。だから賭けは終わりにして皇后になってはどうかと皇帝は言ってきます。それでエリーゼも困ってしまうというところで今回は終わり次回に続きます。

まぁこんな感じで大筋の話はしっかり動いていて次回も楽しみではあるのですが、今回は主にパーティーの中でエリーゼが医者として有能である描写が目立っていて、割と安直な作りであると感じた。エリーゼが前々世で仲が良かった「ミハイル」という人物が実はリンデンの弟の第三皇子であり、リンデンの政敵にあたるという種明かしが最後にあったりして、今後に繋げる要素の多いエピソードであったのだと思います。今後もリンデンやミハイル絡みで話が盛り上がってくれれば良いと思います。

 

 

魔法少女にあこがれて

第7話を観ました。

今回は衝撃的なアズール闇堕ち回となりました。いやぁもう凄かったですね。放送してもいいのかってレベルでした。相変わらず大爆笑モノの内容で、エロも衝撃的ではあったのですが、でもよくよく考えたらかなりアツい(?)話で、しかも魔法少女や戦隊ヒロインのような「戦うヒロイン」像の基本コンセプトに触れて、ひいてはこの作品のコンセプトにも関わるような内容の神回だったかもしれない。まぁストーリー展開はかなりシンプルでしたけど。あと、エノルミータの先輩幹部キャラが一気に4人も新登場してきて、次回から今期のお話も後半戦に突入していくようですね。

まず冒頭はうてなが魔法少女というものを好きになった原体験が描かれます。子供の頃に「魔法少女ミラクルミミル」とかいう魔法少女のテレビシリーズを観たのがきっかけだったようです。その中でも特にうてなが魔法少女という存在に夢中になったきっかけとなったエピソードがあって、それは主人公のミミルが敵の女幹部らしき強敵に全く歯が立たずに大ピンチになって、それでも街の平和を守るために決してひるまず決して諦めず戦うというエピソードでした。そういう魔法少女の姿に子供の頃のうてなは魅了されて、それで魔法少女というものに魅了されるという原体験となり、そこから現在の魔法少女マニアのうてなが始まったのだと言える。

こうした原体験というものはうてなに限った話ではなく、現実世界でもプリキュアなどを観ている女児たちにとって強い印象に残るエピソードというのはこういう大ピンチからの大逆転エピソードなのではないでしょうか。魔法少女シリーズというのは大体4クールで放送することが多くてユルいエピソードが多めで、どちらかというと日常シーンが主に描かれて戦闘シーンは変身してすぐに敵をやっつけて終わるようなエピソードが多い。でもクールの節目とか終盤には戦闘メインのエピソードがあって、これが敵の幹部との決戦などで話も盛り上がり、敵も強いので普段と違って大ピンチになったりすることも多い。そもそも盛り上がる回なので視聴する女児たちも惹きつけられて、この「大ピンチで決して怯まず戦い大逆転するヒロイン」というものが女児に強烈な憧れとしてインプットされることが多い。

まぁ魔法少女に限らず普通の変身ヒーローでも「ピンチからの逆転」というのはアツいんですけど、女性でありながら戦うヒロイン像においてはちょっと意味合いが違うように思います。男のヒーローの場合は、鮮やかに逆転勝利を収めてこそカタルシスがあるんですけど、戦うヒロインの場合は「ピンチで諦めない」という場面が一番グッとくるみたいなのです。今回の冒頭のうてなの回想シーンでも、うてなが魔法少女に夢中になったきっかけとして語られている場面で映し出されていたのは逆転勝利を収めた場面なのではなく、ピンチで諦めないと言って立ち上がる場面でした。ここが真の魔法少女ファンのツボなのです。

もともと日本の古い特撮ヒーロー作品などで登場するヒロインキャラというのは、基本的には「ヒーローに守られる一般人ヒロイン」でした。これが大きく変わったのが戦隊ヒーロー作品で女性隊員が1人設定されるようになってからでした。当初はこのヒロイン像は「男同然に戦えるヒロイン」でありました。だが、これが何時しか「他の男ヒーローよりちょっと弱いヒロイン」というヒロイン像に変わっていった。守られるほど弱くはないが、ほどよく苦戦する感じです。ところが、それから「戦隊ヒロイン」というものの人気が高まっていった。これはどういうことなのかというと「強いから勝つヒロイン」よりも「弱くても負けないヒロイン」の方が自らも弱き存在である子供たちの心の琴線に触れたということなのでしょう。さすがに男ヒーローが弱いとカッコ悪いので「弱くても負けないヒーロー」担当に戦隊ヒロインがちょうど良かったのだと思います。

一方で「魔法少女」というものは別系統で昔から存在はしていましたが、ここでうてなが見ている「魔法少女ミラクルミミル」みたいな系統の「戦う魔法少女」の系譜の現実世界での原点は「セーラームーン」です。この「セーラームーン」はチームフォーマットとしては戦隊ヒロインの系譜の「戦うヒロイン」像だけを5人集めたようなものです。まぁ「セーラームーン」という作品そのものは割と正統派の少女漫画なので戦隊モノとはちょっと毛色が違うんですが、この「セーラームーン」のチームフォーマットを改めてより戦隊モノに近い作品フォーマットで組み直したものが「プリキュア」シリーズといえます。この冒頭場面でうてなが見ている「ミラクルミミル」もプリキュア系作品と言っていいでしょうし、そもそもこの「魔法少女にあこがれて」という作品自体がプリキュアのパロディ作品といえます。

まぁ「プリキュア」シリーズも作品によって内容はバラバラなんですが、それでもずっと一貫しているのは戦隊ヒロインに起源を発する「弱くても負けないヒロイン像」だといえます。つまり「どんなにピンチになったり、どんなに強大な敵が相手でも絶対に屈さないヒロイン像」です。もう1つ戦隊ヒロイン起源で一貫している重要な要素に「女性ゆえの優しさや癒しで相手を制するヒロイン像」というのもありますが、それはここではあんまり関係ないのでどうでもいい。とにかくうてなが「ミラクルミミル」の神回を見て憧れたのは、そういう「ピンチでも決して怯まず諦めない魔法少女」でした。

そんなうてなが現在はどうして魔法少女をいたぶる悪の女幹部マジアベーゼになってしまったのかというと、直接的にはヴェナリータのせいなのですが、ヴェナリータがうてなに悪の女幹部の才能があると見込んだ理由は、うてなが魔法少女に対して歪んだサディズム的な欲望を抱いていたからです。どうして魔法少女に憧れていたはずのうてながそんな歪んだ性欲を魔法少女に向けるようになってしまったのでしょうか。ヴェナリータはうてなは魔法少女に憧れていたわけではなく、魔法少女が苦しむ姿を見ることに歓びを見出していただけだと言っていましたが、今回の冒頭の場面を見る限りでは、うてなはもともとはそんな歪んだ欲望は無く、ただ純粋に魔法少女に憧れていただけに見えます。

これがつまり、この作品の隠しテーマである「未熟な性衝動の暴走」というものであり、思春期になって性衝動が芽生えた際に未熟ゆえにそれを持て余してしまい歪んだ方向に走ってしまうというものの1つの例なのでしょう。つまり、もともと魔法少女が熱烈に好きだったうてなに性衝動が芽生えた際、その性欲の矛先が「大好きなもの」に向いてしまったのでしょう。普通は幼馴染のことを急に性欲の対象として意識してしまったりするのですが、うてなの場合はリアルな友達よりもよほど魔法少女が好きだったので、魔法少女が性欲の対象になってしまった。しかも、うてなの好きな魔法少女は「ピンチでも決して怯まず諦めない魔法少女」だったので、魔法少女をピンチに陥れて苦しめ、それでも立ち上がってくる魔法少女に性的に興奮するようになってしまった。現実世界でも「ヒロインピンチ」とか「ヒロインリョナ」という性的ジャンルがあり、そうした性的嗜好を持っている人というのは、大体がもともと純粋に戦隊ヒロインや魔法少女ヒロインを好きだった子供たちが性衝動の芽生えの時期にそういう性欲に目覚めてしまった人達なのであり、うてなもそういう人種の1人だったのです。それをうてなは他のその種の人同様にイマジネーションの世界で想像して楽しんでいただけだったのですが、それを見透かしたヴェナリータによって悪の女幹部の力を与えられて、その欲望を現実化出来る力を得てしまったので現在のような有様になってしまっているのです。

それでも、大人になってもヒロインピンチとか大好きで性癖が歪み切ってしまったヤバい人たちとは違い、うてなの中には今でも「ピンチでも決して怯まず諦めない魔法少女」に対する純粋な憧れというものはちゃんと存在している。むしろそっちが大元なのであり、そうした純粋な憧れがあってこそ、そこから派生した歪んだサディズムも存在出来ているのです。だからうてなが真に望んでいるのは単に「魔法少女をいじめること」なのではなく、「魔法少女をいじめる→いじめられた魔法少女がそれでも怯まず立ち向かってくる→その魔法少女をまたいじめる(以下無限ループ)」なのであり、そんなうてなの理想に照らして見ると、どうも最近のマジアアズールは物足りなく思えていた。アズールはベーゼの繰り出す魔物にすぐに捕まってしまい、大した抵抗も出来ないままということが多く、それではうてなにとっては物足りなかった。

アズールは以前はもっと凛としていて女の子が憧れる魔法少女のお手本みたいにカッコ良くて、戦うと怖さを感じるぐらいで、だからこそ、そんな強くて可愛いアズールがピンチに陥っても立ち向かってくる姿が素敵に思えて、うてなはアズールと戦うと楽しくて、うてなも頑張ってアズールをピンチに陥らせたいと頑張っていた。だが最近のアズールはそうした迫力が無くて張り合いが無い。一体アズールはどうしてしまったんだろうとうてなは心配になった。それで、もしかしたら自分が調子に乗っていじめすぎてしまってアズールが戦意喪失してしまったのではないかと心配になってきた。そう考えると、以前のように魔法少女を遠目に見て想像の中であれこれしていた時の方が良かったような気もしてくる。だがやっぱり実際に魔法少女をいたぶる快感は格別のものがあり捨てがたい。なかなか難しいものだとうてなは思うのであった。

一方でアズールに変身する小夜も最近の自分の不甲斐なさに苦悩していた。ここでヴァーツとの会話で、小夜がトレスマジアに加入した時の逸話が語られるが、最初はマゼンタ1人でこの街を守っていた頃、街にエノルミータの魔物が出て小さな女の子が襲われていたところに小夜が割って入って女の子を逃がして魔物に立ち向かったのだという。そこをマゼンタが助けに入って魔物を倒したのだが、その小夜の勇気を見てマゼンタはクラスメイトのはるかとして正体を明かして小夜にトレスマジアに入って一緒に戦ってほしいと頼んだのです。この時、小夜は戦う力を持たない普通の中学生だったのだが、それでも小さな女の子を守るために魔物に対して勝ち目の無い戦いを挑んだのです。これこそまさに「ピンチでも決して怯まず諦めない魔法少女」の資質といえます。それを小夜は確かに持っていた。

ところが最近の小夜はその資質を失ってしまっているように見える。戦いが始まると全く集中力を欠いてしまうのです。それをはるかや薫子も心配していると聞いて小夜はますます落ち込む。このままでは皆に心配をかけて迷惑もかけてしまう。これじゃいけないと頭では分かっているのだが、どうしても集中が出来ない。集中が出来ないということは他のことを考えてしまっているということなのですが、それが一体何なのかがこの後の入浴シーンで判明してしまう。なんと小夜は戦いのことを考えながらオナニーを始めてしまっているのです。

つまり、小夜は戦いながらエッチなことを考えてしまっている。それで集中出来ないのだが、そのエッチなことの中身が問題で、小夜はアズールとしてベーゼの攻撃で縛られたり鞭打たれたりというサド的な攻撃を受けた際に初めて性的な快感を覚えてしまい、そうして初めて芽生えた未熟な性衝動をコントロール出来ずにマゾ的な嗜好に目覚めてしまい、その衝動を止められなくなってしまっているのです。それ以来、小夜にとって戦いの場は「気持ちいいことを期待する場」になってしまっていて、戦いが始まるとまたベーゼに縛られたりいじめられたりすることを想像して期待してしまう。だから戦いが始まると戦いそのものに集中出来なくなってしまい、ベーゼに簡単に捕まってしまい、そのまま無抵抗になってしまうのです。

ただ、小夜の中で当初の魔法少女としての資質が完全に失くなってしまったかというと、それは違うと思う。小夜の中でそうした魔法少女としても気持ちはまだ存在しているはずです。ただ、うてなの中で魔法少女への純粋な憧れがありながらも未熟な性衝動によって魔法少女へのサディズムという歪みに心が支配されてしまうのと同様に、小夜の中の魔法少女の資質も、未熟な性衝動によるマゾヒズムに支配されて、勝つために戦うことよりも、敗北して敵に身を委ねてしまいたくなる衝動の方が勝ってしまっているのです。だから小夜という人間が根本的に堕落してしまっているわけではないので、しっかりしなければいけないのになかなか上手くいかないもどかしさで苦悩してしまう。

それで小夜は気分転換に街に出て買い物をしたりするが、そこでうてなが魔法少女展の入り口で並んでいるところに出会い、その場では別れたが、小夜もあとで気分転換になるかもしれないと思って魔法少女展に入ります。だが、あまり気分転換にはならず浮かない気分でいたところ、過去の魔法少女アニメの人気回の上映会というのがやっていたので上映室に入って席に座って観てみます。ちょっと離れた席にはうてなも座って観ていましたが、そこで上映されていたのが今回の冒頭でも流れた「魔法少女ミラクルミミル」の例の大ピンチ回でした。

それをうてなは目を輝かせて観ますが、一方で小夜は冷めた目で見ていました。悪の女幹部によってピンチに追いやられるミミルの姿がいつもベーゼに負けている自分に重なって見えてきて、いつも無抵抗にやられてしまっているだけの小夜には、ピンチでも決して諦めないと言っているミミルの言葉は空虚なものに聞こえた。結局画面の中ではミミルは言葉通りに逆転勝利を収めましたが、小夜はそれは所詮は作り話だからだと思う。現実には逆転勝利など出来ない。特にいつもの自分にはそれはきっと無理だろうと小夜は思った。だから「勝てない状況でも諦めない」なんて自分には無意味なことだと思えた。

ただ、同時に「そんな弱い気持ちを克服しなければいけない」とも思った。はるかや薫子にもこれ以上心配をかけたくない。だから自分の中の弱さである「マジアベーゼに屈服したくなる気持ち」を克服するためにはマジアベーゼに勝つしかないと小夜は考えた。いつも負けるから屈服したくなるのであり、負けそうだと思うから屈服したくなる気持ちが湧いてくるのです。勝ってしまえばそんな弱い気持ちも湧いてこなくなる。ベーゼに対する苦手意識が無くなれば弱い気持ちも消えていく。だから一度邪念を断ち切って勝負に集中して本気で戦ってベーゼに完全勝利して弱さを克服しようと小夜は決意した。

それでその日の夜にマジアアズールに変身して公園にエノルミータを誘き出した。ちょうどキウイが家族旅行で、こりすが夜なので寝ていて、うてながベーゼに変身して1人でやって来たのでアズールには幸いでした。そうして公園に結界を張ってマゼンタやサルファも気配を察知出来ないようにして、ベーゼと邪魔者の入らないサシの勝負に集中出来る状況を作ることが出来た。

そうして戦いが始まりますが、アズールは最近の戦いのようにエッチなことを考えながら戦うことはやめて戦いに集中して、鋭い攻撃を繰り出す。それでベーゼは以前のような強いアズールが戻ってきたことに歓喜し、ますます張り切って攻撃を繰り出し、激しい戦いとなります。それでベーゼの攻撃でアズールの服が切り裂かれて肌や下着が露出したりもするのですが、アズールはいつものように狼狽したりすることもなく戦いに集中し続けます。それでベーゼは追い詰められていき、遂にアズールの大技が決まってベーゼが消し飛んだかと思われたところ、間一髪で逃れたベーゼが勝利を確信して気が緩んだアズールの隙を突いて公園のパンダの馬乗り遊具を鞭で叩いてパンダ型の三角木馬の魔物を出現させてアズールを捕える。

この三角木馬に拘束された上での激しい責めで快楽に襲われアズールはずっと抑え込んでいたマゾの衝動がまた湧き上がってきてしまう。そこにベーゼの方はアズールが久しぶりに手応えがあるのですっかり嬉しくなって過去イチの激しい責めをしてしまい、アズールはすっかり気持ち良くなってしまったことでベーゼに敗北したことを認めてしまい、またいつものように無抵抗のままされるがままとなり、遂に力尽きて三角木馬からずり落ちて地面に這いつくばる。しかしベーゼはアズールが完全復活したと思っているので、まさかこれぐらいで屈してしまうとは思っていない。アズールも魔法少女であるならばミミルのようにどんなピンチでも諦めず立ち上がってくるはずだと期待して、そうなればもっともっとそんな強くて可愛いアズールを虐めることができるという期待感で胸を膨らませる。

そうして、自分の足にしがみついてでも立ち上がってこようとするアズールを見下ろして、お楽しみはまだまだこれからが本番だと歓喜するベーゼであったのですが、意外にもアズールは立ち上がってこず、ベーゼの足にしがみついたまま顔を上げて「ベーゼ様ぁ」と媚びた甘い声を発する。その顔はすっかり緩み切って涙や涎を流した歓喜の媚びた表情となっており、すっかり快楽堕ちしていた。その顔を見た瞬間、ベーゼは激しい嫌悪感を覚えた。しかしアズールはもう我を忘れた様子でベーゼの足をさすりながら「私もうダメですぅ」「ベーゼ様に勝てませんでしたぁ」と恍惚とした顔で甘ったるい声で敗北を宣言し屈服の姿勢を示す。そして「ベーゼ様ぁ、もっとくださいぃ」と媚びながらベーゼの足を舐めようとまでする。アズールはベーゼの快楽責めに勝てなかったことによって完全に敗北を認めてしまい、ベーゼに抵抗することを諦めてしまい、ベーゼに屈服して身を委ねてベーゼによって更にマゾの快楽を与えられることを望んでしまっているのです。それは小夜が囚われてしまった性衝動が元来望んでいたことであり、その衝動をこれまで小夜はずっと魔法少女としての使命感で押さえ込んできたのですが、ベーゼに完全敗北したことで魔法少女としての使命感が崩壊してしまい、性衝動の歯止めが無くなってしまったのです。

しかしベーゼはそうして縋ってくるアズールの顔を蹴り飛ばす。それで「ベーゼ様、どうして?」と狼狽するアズールの胸倉を掴んで引き上げて顔に顔を突き合わせて、ベーゼは「ヘラヘラするんじゃありません」と睨みつけて冷たく言い放つ。そして「もしかして貴方、闇落ちしようとしてます?」と軽蔑の眼差しを向けて「全ての女の子の憧れ、正義のヒロインのトレスマジア、その貴方が悪の組織に媚びへつらう?いけません、いけません、いけません、いけません」と怖い顔で詰めまくり、「解釈違いにもほどがある」と吐き捨てるように厄介オタクみたいなことを言い放ってから「ヒロインとしての矜持を持ちなさい」と一喝して、怯えるアズールを突き飛ばして尻もちをつかせる。そしてそのまま無言で飛び去っていくベーゼを唖然として見送ってアズールは「そんな、私は」と絶句し、ベーゼの言葉を反芻して自分の過ちを噛みしめるのであった。

ベーゼの言っていた「解釈違い」とは何だったのかというと、つまり、ベーゼであるうてなの抱いている魔法少女の在り方と、アズールの示した魔法少女としての在り方に大きなズレがあったということです。ベーゼは魔法少女というものは「どんな強大な敵にどんなに追い詰められても決して屈したりしないもの」と思っている。たとえ相手が自分より強くて、自分が戦って勝てなくても決して諦めたり相手に屈したりしない。そういう魔法少女だからこそ、男の子よりも大人よりも弱い存在である女の子の憧れなのです。だがベーゼの目の前でアズールが示した姿は「勝てなかったから屈服する」という姿だった。それは魔法少女がやってはいけないことだとベーゼは思い、それでアズールが屈服することを許さなかったのです。

そうしたベーゼの残した言葉を反芻して、アズールは自分がいつの間にか、自分の弱さを克服することに拘りすぎて、勝つことを絶対視してしまっていたと気付いた。勝てば強くなれると思っていたから、負けたことによって自分はもうダメだと思ってしまい、弱さに屈してしまったのです。でも本当に大事なことは勝つことでも強くなることでもなく、弱かったり負けたりしても、それでも心が屈しないことだったはずなのです。最初にまだトレスマジアですら無かった時に生身の身体で魔物と戦おうとした時から、以前はずっとそういう気持ちで戦っていたはずなのに、いつの間にかその初心を忘れてしまっていたのだと小夜は思い出したのでした。

一方、うてなの方はアズールがすっかり腑抜けになってしまったことにガッカリしつつも、これで少しは立ち直ってくれたらと願いつつ、モヤモヤした想いも抱えていた。そこにヴェナリータがやって来たので、どうせアズールとの一部始終も見ていたのだろうと思い「トドメを刺さなかったことを怒りますか?」と質問する。ヴェナリータは魔法少女を倒したがっているのだから、あのままアズールを倒すか屈服させるのがエノルミータの女幹部としては正解だったはずだからです。だがヴェナリータは「まぁいいさ、君の好きにするといい」と言う。

ただヴェナリータはそれに付け加えて「ただ、どの口があんな説教するんだと思ったね」とは言った。それにうてなも「ですよねぇ」と自嘲気味に応える。確かに、結局のところアズールをああいう状態にしてしまった原因はベーゼがアズールを戦いの中でいじめまくったせいでアズールにマゾの性衝動が起きてしまったからなのです。ベーゼが余計なことをしなければアズールは女の子達が憧れる完璧な魔法少女のままであったはずなのです。だから、ベーセがアズールに説教出来る筋合いは全く無いのであり、まさに「どの口があんな説教するんだ」状態といえます。それはうてな自身も分かっており、だからうてなもモヤモヤしていたのです。自分のやっていることは一体何なのだろうかと釈然としない思いはうてなにもあるのです。

そうして今回は最後に、ナハトベースにエノルミータの女幹部4人が新登場する場面で終わりとなります。この4人はキウイとうてなとこりすの3人以前からエノルミータで活動していた先輩幹部みたいであり、どうやら各地で魔法少女が襲われていた事件というのは彼女らの仕業だったようで、なかなか一筋縄ではいかなそうな連中です。次回からこの4人も話に絡んできそうで、次回からの後半戦もますます面白くなりそうですね。

 

 

戦国妖狐 世直し姉弟編

第6話を観ました。

今回は全体的な印象としては繋ぎ回であり、前回ラストの流れを承けてたま達4人が火岩の故郷に向けて旅立ち、一方で斬蔵は京の都に向かい、たま達は途中で猩々という闇に出会って、猩々の住処で断怪衆の四獣将の1人である道錬と出会ったり、その後は烈深という別の四獣将とも戦ったりします。ただ道錬にしても烈深にしても今回は顔見せ程度であり、今後の彼らとの戦いの前フリのような描写で終わりました。その他は伏線や次回の展開への繋ぎのような描写が多く、やはり全体的には「繋ぎ回」という印象でありました。ただ、そうした中で「ふこう」という闇が登場する短編話が描かれ、これが今回のサブタイトルにもなっていて今回のメインの話ということになるのだが、この「ふこう」の話の出来がコンパクトな話ではあるものの非常に良くて、この作品のテーマに関わるような内容であったので、やはり今回はかなりの良回であったといえるでしょう。

まず前回のラストを承けての旅立ちの場面ですが、斬蔵は京の都に行って室町幕府の将軍である足利義輝に仕えると言う。斬蔵の妹の氷乃が霊力改造人間の氷岩となって殺害した三好長慶は義輝の政治を支える管領代であり、それを氷岩は政敵である松永久秀の命令で殺してしまった。それは義輝にとっては痛手であり、斬蔵は妹の仕出かした不始末を詫びて落とし前をつけるために自分が京都に行き義輝を支えるのだと言う。といっても斬蔵に政治的な能力があるわけではないので、剣客として義輝の身を守るということです。足利義輝は史実でも剣豪将軍として知られている剣の達人であり、斬蔵とは剣の道を通じて親交があったようです。そして表の世界で剣客として将軍に仕える以上は、裏の世界の武器である魔剣は持ってくわけにはいかないということで、雷堂家に伝わる魔剣「荒吹」を真介に託します。

斬蔵は真介に剣を教えていたので真介の剣の才を認めており、真介ならば荒吹を使って神雲に一矢報いることが出来るのではないかと期待してくれているようです。斬蔵は妹の氷乃の死は自業自得だとは思っているものの、雷堂家のために必死に働いた妹を殺した神雲に真介が雷堂家の秘剣で一矢報いてくれるならば妹も少しは浮かばれると思っているみたいです。そうしてたま達4人と斬蔵は別々の方向に旅立っていきましたが、この「荒吹」は強大な風を操る霊力を秘めた魔剣であり、そんな強力な武器を得た真介は得意満面です。だが、まだ真介には荒吹を使いこなすだけの力は無いようです。それでも持っているだけで霊力の加護があるみたいです。

そうして旅を続けて、たま達は火岩の故郷の近くまで来て、途中でたまが猩々というサル型の闇の持っている酒の匂いを嗅ぎつけて駆けていき、猩々に酒を譲ってほしいと頼み込む。猩々というのは酒好きで有名な闇らしい。どうも悪さをするような闇ではないようです。それで猩々はこの酒は客人に出す酒だからどうしても欲しければ客人と交渉するようにと言うので、たまは猩々の住処に行き、その客人に会った。すると、その客人は断怪衆の僧兵で、しかも四獣将の1人で「虎の道錬」という巨体の男でした。それでたま達は新たな刺客だと思って警戒しますが、道錬の言うには自分は迅火を追討する任務は受けていないという。猩々の住処にやって来たのはたまたまであって、迅火と戦わねばならない義務は無いようです。

ただ、そうはいっても断怪衆のお尋ね者である迅火を発見して無視するというわけにもいかない。少なくとも本部に報告する必要はあるところだが、そこでたまは飲み比べをして自分たちが勝てば見逃すようにと要求する。要するにタダ酒が飲みたいだけなのだが、相手の道錬は既にかなり酒を呑んでいて、しかもたま達は4人もいるので十分に勝算もあると踏んでの勝負の申し込みであった。この勝負を道錬は面白がって受けます。よほどの酒豪なのでしょう。

そうして酒飲み勝負が始まったが、下戸の迅火は一口呑んでダウンしてしまい、その後、たまと真介と灼岩と道錬は美味しい酒を呑んで大いに盛り上がった。それでたまがどうして断怪衆の道錬が闇である猩々と一緒に居るのかと問うと、道錬は経緯を説明してくれた。道錬は以前にこのあたりの山を荒らしていた虎の闇を討伐したのだが、その際に虎の闇に怯えて潜んでいた猩々たちと力を合わせて戦って勝利したのだという。それで道錬は猩々たちと友となり、それでこうして酒を呑みに来たのだそうだ。断怪衆といっても必ずしも全ての闇を敵視しているわけではなく、基本的には害のある闇だけを狩っているようです。

ただ迅火のように断怪衆に敵対しようとする者には害の有無は関係なしに討伐対象にしたりするし、氷岩のように断怪衆の掟を破ったり命令に背いた者は容赦なく粛清するようです。また、霊力改造人間の件に関しては、氷乃は自分で志願したようですし、芍薬も強制されて改造されたというわけではないようですが、封じられた側の火岩や蒼岩のような闇の方は果たしてどうだったのか。彼らは悪さをして霊力改造人間の贄にされたのかどうか、そのあたりはまだハッキリしていません。もし善良な闇を犠牲にして霊力改造人間を作っているのだとしたら、それはやはり許されることではない。

ただ少なくとも道錬はそう悪い人間ではなさそうです。しかし道錬もまた四獣将というのだから氷岩と同じく霊力改造人間なのであり、しかもあの神雲と同郷の昔馴染みの喧嘩友達だったという。そして道錬は神雲を倒すために断怪衆に入ったのだというのだから、道錬の口ぶりを聞く限りでは神雲とは同格の存在であるようです。要するにかなり強いということだが、そうなると神雲もまた四獣将の1人なのでしょう。氷岩は明らかに神雲よりも格下でしたが、四獣将といっても全員が同格というわけではないようです。

結局、呑み比べ勝負の方は、たまも真介も酔いつぶれてしまい、遂には道錬も限界に達して降参し、残ったのは灼岩1人という意外な結果となった。こうしてたま達の側の勝利となったので道錬は戦いも通報もせず見逃してくれることになったが、次に会う時はおそらく戦いになるだろうと予告する。そして「烈深に倒されるなよ」と迅火に言い残していきましたので、どうやら現時点で迅火討伐の任務を受けているのは「烈深」という者のようです。四獣将である氷岩による討伐が失敗した後に討伐任務を引き継いだ者ですから、その「烈深」もまた四獣将であり霊力改造人間なのでしょう。これで四獣将は全員が名前が判明したことになりますが、烈深はおそらくは氷岩と同格で、神雲や道錬よりは格下なのでしょうけど、氷岩だってかなり強かったですから、烈深もかなりの強敵と予想できます。

その後、更にたま達が旅を続けていくと、結界に囲まれた村に行き当たった。結界は村を守るように周囲を囲んで張られており中に入ることが出来ない。結界を張っている術者は村の中に居るようだが呼びかけても何の反応も無い。回り道をしてもよかったのだが、灼岩の中に居る火岩がこの村を通りたがっており、迅火が仙道で一瞬だけ結界に小さな穴を開けることが出来ると言うので、その穴を通ってたまが1人で結界内に入って術者と交渉して結界内に全員を入れて通してもらえるよう頼むということになりました。

ところがそうしてたまが結界内に入っていき迅火と引き離された状態の時に、四獣将の烈深と名乗る男が現れて迅火を討つと言ってくる。迅火はたまが居なければ精霊転化できないので不利なのですが、迅火はいずれは神雲と戦うために自分自身が強くならねばいけないと思い、今回はたまの力に頼らず自力で戦うと決意し、生身の身体のまま烈深と戦い始める。この烈深という男は野禅から貰ったとかいう奇妙な呪具の袋を持っており、そこから剣を大量に出して迅火を攻撃してきて迅火は苦戦します。だが、たまが内部から結界を解除したので迅火は結局はたまを頼って精霊転化して烈深を遠くに吹っ飛ばして、それで烈深は姿を消しましたが、おそらくこれで死んだはずもないので、また襲ってくるのでしょうし、まだその力の全てを見せたわけでもないのだと思います。

それで烈深の話は次回以降にまた描かれると思われるので置いておいて、たまが結界内の村の中で経験した出来事が今回のエピソードのメインとなります。たまは村の中に入っていくと「ふこう」と名乗る闇と出会う。この「ふこう」が結界を張った術者でした。「ふこう」はこの村を結界で守っているのだという。何から守っているのかとたまが問うと、「ふこう」は「変化」から守っているのだと答える。「変化」とは「明日が来ること」であり、明日が来れば現在の幸せが終わってしまうかもしれないし、現在の不幸が更に続いたり悪化してしまうかもしれない。だから変化が起きて明日が来ないように、この村を結界で外界から遮断して守っているのだと「ふこう」は言う。

たまはそんなことは戯言だと言うが、ふこうはたまもそんなふうに思ったことがあるはずだと指摘する。一緒に住んでいた人間の友達だった源造が病気になり、源造が死んでしまうかもしれない「明日」が来なければいいのにと思い「変化」を恐れたはずだと指摘する。そしてふこうはそんなたまのことも守ってあげると言う。この結界の中に居れば外界からもたらされる変化は無く、ずっと今の幸せが無くなることはないのだとふこうは言います。

このようにたまの記憶を読んだように、ふこうは他人の心が読めるようです。それでたまがふこうはどうしてこの村を守っているのかと聞くと、村人が望んだからだとふこうは答える。やはり村人の心を読んで、村人の変化を恐れる心に応えてふこうは村を結界で守っているのです。更にふこうは「不作、流行り病、戦、今より悪くなる明日を恐れた彼らの心が僕を生んだ」と言う。どうやら闇というものは人間の心が生み出すものみたいです。ふこうは明日に希望を持てなくなった村人たちの心が生み出した闇であり、それゆえ自分の生まれた意味を全うするために、村を結界で外界から遮断して新たな不幸の元が入ってこないようにして、現在よりも悪いものになるであろう明日がやって来ることを防ごうとしているのです。

しかし、たまは「明日がより悪いとは限らん」と言い返し、現実から目を背けて閉じ籠る現在の状態の方が村にとって有害だと指摘し、ふこうに結界を解くよう諭す。だがふこうがあくまで拒むのでたまはふこうを叱り飛ばす。するとふこうが逃げていってしまったのでたまは慌てて追いかけて、ふこうが民家の中に逃げ込んだと思って戸を開けると、室内の光景を見てたまは全てを悟って戸を閉めて、ふこうを呼び出して話をします。

民家の中では村人たちはとっくの昔に死に絶えていて白骨と化していた。おそらくふこうが生まれてこの村の周囲に結界を張ったのは数十年前のことなのでしょう。ふこうが作った結界によって外界から遮断されてしまった村人たちは外との交流を断たれて物資も不足していき次第に死に絶えていったのだと思われる。そして、村人の心が生み出した闇であるふこうは、村人たちが死に絶えたことによって彼の使命もまた変化することが不可能となり、村人が死に絶えた今もこうして1人ぼっちで村を結界で守り続けていて、それを終えることが出来ないのです。それは村にとっても悲劇でありましたが、もともと村人の現実から目を背けた後ろ向きな心によって生み出された「ふこう」にとっても不幸な結末であったのです。

ふこうは再びたまに「幸せが終わらないように守ってあげる」と言ってくるが、たまはそれは無理だと言う。たまは確かに源造が死んだ時は不幸だと思ったが、源造の息子である迅火と会い義姉弟となり、更に真介や灼岩に会えて、今は幸せだと言う。ふこうはその幸せを守りたいと言うのだが、たまはそれは無理なのだと言う。たまはここで「時の流れは人を幸せにする」と言い「だから変化を恐れる必要は無い」などとお花畑なことを言いたいわけではない。迅火や真介や灼岩との幸せもまた、時の流れによって失われて不幸に終わることは不可避だと言っているのです。

それはふこうの作り出した結界などで阻止することは出来ないのです。実際、この村はもう滅びている。結界で外界と遮断したとしても、時の流れを止められない限り「明日」は来るのです。そんな簡単な理屈にふこうが気付くことが出来なかったのは、ふこうが人間ではなく闇だったからです。人間のように喰わなかったら死んでしまう生き物ではないからです。人間と違って寿命というものが無いからです。だから外界と遮断したまま時が流れていけば村に「不幸な明日」が来るということが分からなかった。しかしふこうは村人の心によって生み出され、村人の想いに応えるために善意で結界を張った。その結果、村人が死に絶えてしまい、今更使命の変更も出来ず、ずっと村で孤独に生き続けているのです。

そんなふこうにたまは「お前は何のために何から何を守っている?」と問う。ふこうは長らく考えた末、力なく「生まれた理由を全うするため、否定や変更から最初の命令を守っている」と答えて項垂れます。ふこうも現在の自分の行為が村にとっては無意味であることは分かっていたのです。ただ「村を守る」という使命が達成されていない状態で、村人からの命令の変更も無い状態で、勝手に止めることも出来ないのだ。村人が居なくなった今、ふこうの独断で使命を止めることは出来ない。

たまはそんなふこうに「お前は守り切った」と告げ「今止めるのは命令の変更でも生まれた理由の否定でもない」と言い、ふこうを抱きしめる。そして「お前は完遂した!」と力強く言い「俺のことも守ろうとしてくれたな」と礼を言い「ありがとう、お疲れ様」と優しくふこうを撫でる。すると、ふこうは涙を流して「はじめて言われた」と微笑みながら消えていき、同時に結界も消えていったのでした。

ふこうは「生きている限り不幸から逃れることは出来ない」という現実から逃避した村人の誤った心から生まれた闇であったのは確かだが、それでも「村を不幸から守りたい」という善意から生まれたこともまた事実でした。だから、その善意を認めてこのように感謝を捧げれば満足して消えていったはずなのです。しかしその機会に恵まれないまま、ふこうは村に1人ぼっちで残されて永遠に救いを与えられない状態であったのです。だからふこうは誰かを不幸から守って感謝してもらい満足して消えたくて、それで執拗にたまに「不幸から守らせてほしい」と言ってきていたのでしょう。たまはそれは無理なのだと指摘しつつ、それでもふこうの善意に感謝し、それによってふこうは使命を全うして消えていったのでした。

そうして結界が消えて、たまは迅火に血を与えて精霊転化させて烈深も退けることが出来たが、迅火は今回は1人で戦おうとしたのに結局はたまに頼ってしまったことを反省する。だが、たまは「俺は迅火に頼られて嬉しい」と笑顔で応える。そして、この村での出来事については「哀れな村が人知れず朽ち、哀れな闇が生きる意味を全うした」「目を背けても問題は無くならん」と総括した。だが、たまは心の内では、ふこうは自分と同じなのだとも思っていた。ふこうが誤った方法ではあったが村人たちを必死に守ろうとしたのは、やはり「頼られて嬉しい」と思ったからなのだと、たまには分かった。たまも迅火に頼られるのが嬉しい。真介や灼岩に頼られるのも嬉しい。それは人間が自分やふこうのような闇よりもずっと寿命が短くて、自分よりも先に死んでしまうからだ。自分は彼ら人間の死の後も生き続けて、ずっと寂しい想いをしなければならない。きっとふこうも同じように寂しかったに違いない。だからこそ、哀れな彼らのために何か役に立つことが出来たと思いたいのだ。それが自分のような闇にとっての「生きる意味を全うする」ということなのだとたまは想った。

そうして再び旅は続き、EDの後のCパートで遂に火岩の故郷に到着し、そこは単なる崖に囲まれた岩場に見えたが、崖に目や口のような裂け目が生じて喋り出し、巨大な顔面岩が「よく帰ってきたな」と出迎えたところで今回は終わり次回に続きます。