2023冬アニメ 2月14日視聴分 | アニメ視聴日記

アニメ視聴日記

日々視聴しているアニメについてあれこれ

2023年冬アニメのうち、2月13日深夜に録画して2月14日に視聴した作品は以下の4タイトルでした。

 

 

虚構推理 Season2

第18話を観ました。

今回は「電撃ピノッキオ」というエピソードで、今回で話は完結せず次回に続きました。今回は事件の導入が描かれており、ラストで琴子と九郎が登場して、これから謎解きだというところで次回に続きました。そういう点では「雪女編」の1話目と似ており、この「電撃ピノッキオ編」も「雪女編」のように3話構成なのかもしれませんが、何となく次回で完結する前後編構成なのではないかとも思えます。「雪女編」は1話目の時点では事件に関する説明は無く、2話目の前半で事件に関する説明があって2話目の後半で琴子が登場して謎解きが始まり3話目の完結しましたが、この「電撃ピノッキオ編」では既に1話目で事件の経緯が説明されていて、更にラストで琴子が登場していて、このペースなら次回の謎解きで完結しそうだからです。まあこの作品の場合、第1期でも1つのエピソードの前半パートと後半パートで違うエピソードを描いたこともあったので、一概に次回で完結するとは言いきれませんけど、とにかくあと2話を費やすほどの話にも思えません。

私はこの作品の魅力は本来は1話完結で色々な話を見せてくれることだと思うので、出来ればこの話は前回のエピソードのように今回で完結してほしかったと思っているぐらいなので、この話にあと2話を費やしてほしくないとも思ってます。ただ、OPの映像を見る限り、この「電撃ピノッキオ編」が終わった後は残りエピソードは長編エピソードが1つみたいであり、それが1期の「鋼人七瀬編」のようにやたら冗長な感じになるのも歓迎出来ないので、18話から20話が「電撃ピノッキオ編」で、21話から24話が長編エピソードというぐらいの配分が良いのかもしれません。まぁ「鋼人七瀬編」が冗長だったのは同じようなバトルが延々と繰り返されたからであり、今期の最後の長編エピソードがちゃんと推理パートで魅せてくれるのなら長くても冗長には感じないのかもしれません。

何にしても、この2期の残りエピソードが2つというのはちょっと寂しい気もしますが、それもまぁ内容次第で充実したものに感じられるでしょう。結局は内容次第というわけです。「雪女編」も長めの話だったが面白かったし、前回のエピソードも1話完結だったが出来が良かった。だから「電撃ピノッキオ編」も最後の長編も面白くなると信じたいと思います。

ただ、今回のエピソードに関しては完全に「電撃ピノッキオ編」の導入であり、これといって盛り上がる内容ではなかった。途中でバトルシーンもあったが、この作品は1期から一貫しているが、バトルシーンはあまり良くない。ハッキリ言ってそれが1期の「鋼人七瀬編」がダメだった最大の原因で、もっさりとしたバトルシーンが延々と繰り返される展開は苦痛でしかなかった。その点、2期は1話目以外はバトルシーンが無かったので良かったんですが、今回はバトルシーンがあり、おそらく次回もあるのでしょう。九郎にちょっと活躍させておきたいという意図もあるのかもしれませんが、出来るだけ簡潔に済ませてほしいものです。今回のバトルシーンは九郎は参加していませんでしたが、とにかく短めだったのでマシだった。次回もバトルシーンは短めにしてもらって推理パートに時間を割いてほしいものです。

ただ、今回は完全に導入編ではあったものの、十分に惹き込まれる内容でした。不思議な事件の経緯が説明されていく様子は謎が深まっていく感じにワクワクし、次回の謎解き編への期待は高まりました。バトルシーンの残念な印象を除けば、導入編として非常に良い出来だったと思います。つまりアニメ化の唯一の欠陥「バトルシーンの不出来」が露呈したというだけであり、脚本の完成度は相変わらず今期トップクラスのレベルはキープしていて、次回も大いに期待は出来るということです。バトルシーンを除いては。ホントせっかく脚本の出来が良いのですから、変に九郎のキャラ推しとかしないでほしいものです。

それで今回の話の内容ですが、港町で暮らすタエという80歳を超えた独居の老女が半年前に拾った猫が実は化け猫であり、1ヶ月前から町で起こった奇怪な事件の解決のためにこの化け猫が琴子に相談をしたことから、タエの家に琴子と九郎がやってくるという展開となっている。今回はそういう経緯で琴子と九郎がタエの家に着いたところで終わっており、次回において琴子による事件の謎解きと解決が図られるということになります。そういうわけで今回はタエ視点で島で起こった奇怪な事件が描かれていくことになり、それが今回のエピソードのメインとなるのですが、それはそれとして、80歳を超えたにしてはやたら元気でキップが良い感じのタエとグータラ者の化け猫の会話劇も小粋でなかなか良い味を出していて好印象でした。

それで、その不思議な事件というのはどういうものかというと、漁業の盛んなこの町にとって結構深刻な話で、町の周辺の海域で魚など水棲生物が大量死するという事件でした。それは最近1ヶ月になって急に起こった現象で、この1ヶ月の間に何度も繰り返されている。魚に外傷は無く、毒物や汚染物質は検出されず、赤潮なども無く、原因は不明だが、魚たちは全てショック死しているようでした。

ただ、漁業が盛んな港町といっても、1年以上前に放送された海鮮サスペンスを銘打ったテレビドラマでこの町が舞台となった影響で観光客が増えて、釣り客が爆増した結果、それを当て込んだ商売が町では盛んになり、今や観光客目当てのビジネスがこの町の主要産業化している。だから魚が大量死したら釣果が見込めなくなり観光客が減ってしまうのではないかと町の人々は戦々恐々としている。

町の歴史を長年見守ってきたタエから見ると、それは愚かな姿にも見えて苦々しい想いがしてくる。もともとこの町は細々とした漁業で皆が助け合いつつましく暮らしてきた町だった。それが降って涌いたよなうなドラマ特需に町中の皆が浮かれてしまい身の丈に合わない商売を拡大した挙句、突然起きた怪事件でそれが頓挫しそうになって慌てふためいている。まるで海の神様が町の皆が浮かれて身を持ち崩さないように戒めをしてくれているようにも思えた。そのようにタエが思うのは、タエ自身が浮かれた町の皆に対して日頃からそういう戒めを言ってやりたい気持ちを抱えていたからであったが、その一方でタエにはこの怪事件が海の神様の戒めなどではなくて別の不可思議な力によるものなのかもしれないという想いもある。それは町の皆も噂していることであり、タエもその噂を耳にしていたからというのもあるが、それだけでなくタエにはそれに関連して町の皆には打ち明けられない不思議な体験があり、それゆえにこそ町の皆よりもタエはその噂が信憑性のあるものかもしれないという想いを抱えていた。

その噂というのは「この怪事件は善太の祟りによるものなのではないか」というものだった。善太というのはこの町にずっと住んでいた老人で、タエの古くからの友人でもあった。善太の息子は町を出て都会で暮らしていたが去年の夏に息子夫婦が孫息子である翼も連れて帰省してきており、その時、町に来ていた観光客の車に轢かれて翼が亡くなってしまうという事件があった。その時期はちょうどドラマの影響でこの町に観光客が押し寄せるようになっていた頃で、翼を轢いた観光客もそうした観光客として来ていた大学生たちで、ふざけて脇見運転をしていたそうだ。それでも轢かれた時点ではまだ翼は息があったのですぐに病院に運べば助かったかもしれなかった。だが町に押し寄せていた観光客で道路は大渋滞で救急車はなかなか進むことが出来ず、翼は救急車内で亡くなってしまったそうだ。その後、善太は塞ぎ込むようになり、そして先月に心不全で亡くなってしまった。海で怪事件が起こり始めたのはその直後からだった。

それで町の人々は海の怪事件は死んだ善太が祟って起こしているのではないかと噂するようになった。原因不明の現象だから、何かそういう祟りのような人知を超えた現象なのではないかと思ったというのもあるが、何より善太がそうした祟りを起こすに足る動機を持っているからというのが町の人々がそういう噂を流した根拠であった。まず善太は元来は静かで平和だった町に押し寄せてきてゴミを捨てたり勝手に敷地内で写真を撮ったりする無作法な観光客に対して嫌悪感を抱いていた。そこに観光客が孫息子を轢いて、観光客の起こした渋滞のせいで孫息子が死んでしまった。だから善太は観光客を恨み、観光客が町に来ないようにしようとして、死んだ後で海の生き物を祟りで殺しているのではないかと町の人々は考えた。

だが、そんなことをしても観光客は町に来なくなるだけであり、観光客に対する恨みが晴らせるわけではない。むしろ困るのは観光客が来なくなって商売上がったりになる町の人達です。だからその推測は的外れではないかとも思えるのだが、実は善太は町の人達に対しても恨みを抱いていたんじゃないかとも言われている。翼くんの事故死事件があった後、町の人々の中にはこの事件のせいで観光客が減ることを警戒して、善太や善太の息子夫婦に事件のことをあまり表沙汰にしないようにと心無い圧力を加える者も多かったという。それで善太は町の人々を恨み、死んだ後で町への復讐のために魚を殺して観光客が来ないようにしてやろうとしているのではないか。そんなふうに町の人々は噂していた。

金に目が眩んで人の心を無くした己の所業が恨まれることを恐れているゆえの被害妄想なのであろうとも思える。自分の心が邪悪だから相手も同様に邪悪なのだろうと思い、自分が酷い目に遭わせた相手がきっと復讐を企んでいると思い込むのは悪人の常。だが善太はそのような悪人ではなく、気の小さい男であり、たとえ相手を恨む気持ちがあったからといってそれを自分が罪を犯してまで実行に移そうという度胸のあるタイプの人間ではなかった。そうした罪悪を恐れる気持ちは死んだ後も同じはずだ。だからこの事件は善太の祟りなどではないとタエは心配する町長にもそう説明した。

だが、これに対して町長は奇怪なことを言い返す。善太本人は復讐を果たす度胸が無かったとしても、誰か別の者に復讐を果たさせることなら可能なのではないかと。実は善太は翼が亡くなった後、塞ぎ込んで家に引きこもって木彫りの人形を作っていたのだという。その人形は大きさは亡くなった翼くんと同じぐらいで、鼻がとんがっていて、まるでピノキオみたいだったという。そして、善太の死後にその人形の行方が分からなくなり、それに似た人形が夜中に道を歩いて海に向かう姿が町の人々に目撃されているのだという。だから、善太の町を恨む念がその人形に宿って、人形が海で魚を殺しているのではないかと町の人々は噂しているのだと町長は言う。自分では復讐をする度胸は無くても、人形にやらせるだけならば小心者の善治にも可能なのではないかと町の人々は噂していたのです。

そして、町長がそんな話をわざわざタエに向かって言うのは、タエならその人形について何か知っているのではないかと思っているからでした。何故なら、タエこそが1ヶ月前の善太の死亡時の第一発見者であり、その人形の行方を知っているかもしれない人物だからです。実際、タエはその日、善太の家に行き善太が椅子に座ったまま死亡しているのを見つけた時、善太の前にそのにピノキオのような木彫りの人形が置いてあるのを見ていた。善太がそういう人形を作っているというのは以前から知っていたので特に驚くことはなかったが、木彫りの人形なのに右腕の手首部分に変な鉱物のようなものが嵌め込まれているのは不審に思った。だがその直後に善太が既に死んでいることに気付いてタエはビックリして警察を呼んだりして人形のことは完全に失念していた。そして現場をそのまま保全したいという警官の話を聞いて、ふと人形のことを想い出して善太の遺体の前を見ると、そこにあったはずの人形の姿が消えていた。警察は現場を死亡時の状態で保全すると言っていたので、勝手に人形をその場から動かすはずはない。だとすると人形が勝手に動いて姿を消したということになるが、まさかそんなことがあるはずがない。善治の死によるショックで記憶が混乱しているのだろうと思い、最初から人形など無かったのだと自分に言い聞かせてタエは警察にも何も言わずにその場を立ち去りました。

だが、その後に海で魚の大量死事件が起きるようになり、それが善太の祟りなのではないかという噂が立つようになった。そして、海の方に善太の作っていた人形が歩いていく姿を目撃したという噂もタエの耳にも入っていた。そうなると、あの人形はやはり本当にあの時あの場にあったのであり、自力で何処かに姿を消したのではないかとも思えてくる。そんな怪現象を体験していたがゆえに、タエは海の怪事件が本当に善太の祟りなのではないかと思うようになっていた。だが、それは何とも後味の悪い話であり、今さらこんな祟りの信憑性を増すようなことをわざわざ言ったところで不毛だと思い、タエは自分が目撃したその怪現象については誰にも言うことはなかった。だから町長に追及されても、自分は善太の家で人形など見ていないと言い、人形に関する目撃話などは無責任な噂話に過ぎないと決めつけ、町長にはそんなに祟りが怖いならお祓いでもすればいいと言い、お祓いの費用は自分が出そうとまで言うのでした。実際、お祓いで善太の祟りが収まって人形のことも含めて全てが終わってくれるなら、それが一番いいとタエは思っていた。

なお、この町長とタエの会話の場面で、町長が善太の作っていた人形がピノキオに似ていたという話をした際、善太が翼に模した人形を翼の代わりに作ったのだろうという推測のもと、ピノキオの童話からヒントを得て、ピノキオみたいに尖った鼻をつけたのだろうと言っていました。これは町長がピノキオの童話を「老人が作った操り人形が妖精の力で魂を得て、最後には人間になった」と解釈していたからであり、そういう童話の影響を受けて善太が自分の作る人形をピノキオに模して、そこに翼の魂が宿ることを願っていたのではないかと言っていたわけです。そしてその結果、翼の怨霊が宿ったか、あるいは善太の怨念が宿ったのではないかとか町長は言っていたわけですが、これに対してタエはそもそもそのピノキオの童話の解釈が間違っていると町長に指摘している。町長の言っているピノキオの物語は後世に映画などで脚色されたものであり、ピノキオの童話の原典の物語はそんな心温まるものではないのだとタエは言うのだが、その内容についてはここでは触れられませんでした。

このピノキオの童話の原典の物語については、調べようと思えば簡単に調べられますが、私もここではあえて触れませんし調べようとも思いません。話の流れ的にこの「ピノキオの本来の物語」は次回の謎解き編で重要な要素としてじっくり語られるはずですので、次回のストーリーを満喫するためには、今回それを詮索するのは無粋というものであるし、楽しみを削いでしまうだけのことでしょう。だから次回を楽しみにして、これについてはここではこれ以上は触れません。

とにかく、町長や町の人々には人形の件は黙っていたタエでしたが、やはりどうにも心配になり、そうした人知を超えた怪現象ならば自分より詳しいのではないかと家に帰って化け猫に問い質したところ、化け猫は実はこの人形のことは知っていました。この町の怪異たちも1ヶ月前に突然現れたこの人形には困っており、この1ヶ月の間、何とか捕まえて事情を聞こうと思って何度も接触を試みては撃退されていたのだそうです。どうも人形は怪異たちとも会話も出来ないようでコミュニケーションが成立しないようで、近づくと右腕の鉱物から発射する電撃で攻撃してくるので怪異たちもどうすることも出来ない。タエも夜中に化け猫に連れられて怪異たちが人形に痛めつけられる様子を目撃し、それが確かにあの善太の部屋にあった人形であることを確認し、本当に人形が勝手に動き回っているのだと知り仰天します。そして、その人形が海に入っていき、海中で電撃を放ち魚たちを感電死させているのも目撃し、それで大量の魚が海棲生物が外傷も無くショック死していたのか理由も納得しました。

しかし、こうなると本当に善太の祟りで町を人々が苦しんでいるということになり、タエはやりきれない想いになり、何とかしなければいけないと思うが、怪異たちでも止められないというのだから、お祓いなどしても効果があるとも思えず、さてどうしたものかと悩んでいると、化け猫が自分達の知恵の神に既に相談しているので大丈夫だと誇らしげに言う。そして、明日その知恵の神がこの地に到着するので、事件の経緯に最も詳しいタエの家に泊まらせていただきたいと言われ、タエはてっきりまた新たな怪異が家にやって来ると思いつつそれを了承するのだが、果たして翌日、家にやって来たのは琴子と九郎の2人であり、タエは相手が普通の人間だったので面食らう。そして次回はいよいよ謎解き編となります。

 

 

ヴィンランド・サガ SEASON2

第6話を観ました。

今回はトルフィンとエイナルが森を開墾して麦畑を作る話でした。いや、全然大した話の展開じゃないんですけど、泣けましたね。あのトルフィンが森を開墾して畑を作って種蒔きをする。そして友達が出来る。それだけでもう感慨無量です。ただ、これは第1期からの物語を踏まえての感慨無量であって、別に今回のエピソードの内容が凄かったというわけではない。そういう積み重ねの強さがあるというのも確かにこの作品の強みであって、それだけで常にSランクは確実なのですが、やはり更に上位作品を超えて1位を狙っていくためにはエピソード自体の凄さも欲しいところ。もちろん悪い内容ではないし、何とも言えないじんわりくる世界観があるんだけど、色々頑張ってエピソードを充実させている上位作品よりもこれを上位にするというのはやはり公平ではないと思ってしまうんですよね。

でもまぁ、ただ単に農業をするだけのエピソードでもなかったですよ。いや、そもそも農業自体が凄いんです。11世紀ヨーロッパでは農業は主要産業でした。いや現代でも農業は立派な主要産業です。現代日本人が忘れてるだけです。それでも現代に比べて、11世紀ヨーロッパではホントに農業が最先端で、ちゃんと農業を出来る人間は富を生み出す人間でありエリートだったんです。だから農業のエキスパートであるエイナルって実は凄い人間で、今回エイナルとトルフィンがやったことって、11世紀ヨーロッパにおける「プロジェクトX」みたいなものなんです。

もちろんエイナルにとっては知識的・能力的には十分に可能な内容だったとは思うんですが、それを一旦奴隷の身分に落ちた立場でエイナルはやり遂げた。それをやらせてくれたケティルや、手を貸してくれたスヴェルケルの物語も激アツなんです。そして人殺ししかやったことが無くて、農業の基礎も知らないトルフィンが色んなことを学びながらそれを一緒にやっていくのが感動的なのです。そもそも、こんな奴を信頼して一緒にやってくれるエイナルも凄いイイ奴なんですよね。

ただ、それだけなら単に「プロジェクトX」なんですけど、現代と違って11世紀ヨーロッパはこうした地道に立派なことをやる人間が報われない理不尽な時代なのだということも、この作品はしっかり描いてくれるところがなんとも重厚で素晴らしい。人殺しだったトルフィンが農業の素晴らしさに目覚めた一方で、そんな農業の生み出した富を暴力で奪うことが立派な行為だと称えられるのが11世紀ヨーロッパの現実なのであり、トルフィンもかつてはそちら側の人間でした。第1期はトルフィンの復讐物語でしたが、それはこの物語の序章に過ぎず、復讐すら果たせず罪だけを重ねて虚無に落ちたトルフィンが、この11世紀ヨーロッパという理不尽な時代において、人間にとって真に価値あるものとは何なのかを追求していくのがこの物語の本題なのであり、それがこの第2期から始まるのでしょう。今回はまだそのほんの導入なのですが、大事なものはしっかり描かれており、あとはこれからストーリーが転がり始めていけばどんどん面白くなっていくはずです。

今回の話の内容としては、まず森の開墾作業の場面から始まるが、前々回のラスト以来の登場のトルフィンとエイナルは仲良く開墾作業をやってます。まぁいきなり仲良しになってるわけじゃなくて、トルフィンはとりあえず死にたがるのは止めてちょっと前向きな気持ちにはなったけど、だからといって生きる目的が見つかってるわけじゃなくて、まだ機械的にケティルに命じられた開墾をやってるという奴隷根性のままで、そんなトルフィンを気さくなエイナルが受け入れているという関係でしょうね。

エイナルの方は早く森を開墾して畑にして作物を収穫出来るようにしてケティルに売ることで金を稼ぎ、その金で自分達が自由身分を手に入れたいという確固とした目標があるので馬車馬のように働き、トルフィンもそれに付き合ってるのだが単に作業をやってるだけであって、目標に向かって頑張るという感じではない。

それでエイナルがやっぱり早く森を開墾するには馬が必要だと言い出して農場の奉公人たちのところに馬を借りに行くのだが断られてしまう。馬は身体が大きいですから人力では無理な作業でも効率的に出来ますからね。だが奉公人の言うのは奴隷は牛馬同様の立場なのだから馬を使うのではなく自分が馬のように身体を使って作業すべきということで馬を貸してくれない。それを聞いてトルフィンは自分達は奴隷だから仕方ないと言って諦めようとする。畑を作ることを急ぐのは諦めてまずは地道に森を開墾していくしかないと言うトルフィンに対してエイナルは「やる気が無い」と叱ります。

トルフィンは元戦士だが、戦士といっても結局はリーダーの命令に従って動く奴隷のようなものです。与えられたミッションをこなすだけで大して創意工夫などは無い。戦士を辞めた今でもトルフィンの思考回路は戦士時代の奴隷気質のままで、すぐに「仕方ない」と諦めてしまう。だがエイナルは農夫であり、起業家なのです。状況や環境で八方塞がりに思えても、目標を定めた以上はそこに到達するためにあらゆる道筋を考えようとする。そうした新たな道を切り開く気概がトルフィンには欠けていると言ってエイナルはトルフィンに説教する。

そうしていると、2人は馬を貸してやってもいいという老いた農夫に出会い、その老人スヴェルケルの畑や家の雑用で散々こき使われるが、その代わりに馬を貸してもらえた。それで森の開墾は一気に進み、短期間で畑をやれるだけの土地を開くことが出来た。なお、この開墾の場面で馬を使っているのはエイナルだけであり、トルフィンは大したことはしていない。むしろ借りた馬でここまで効率的に開墾作業を進められるエイナルが優秀な農夫なのであるが、トルフィンはそもそも馬の使っての開墾の仕方も知らないのだろう。「馬が必要だ」と言い出したのもエイナルであり、トルフィンには馬を使うという発想がそもそも無かったと思われる。だから全く作業で役に立っていないのだが、それでもエイナルは確保された農地を見てトルフィンと喜びを分かち合う。

そしてトルフィンが畑で何を育てるのかも分かっておらず、畑仕事をしたこともないことを知ってエイナルは驚く。そもそもトルフィンの生まれたアイスランドは寒冷地で畑など無かったし、子供の頃にアイスランドを発った後のトルフィンはずっと戦場で戦士として生きてきたので畑仕事はしたことがないのです。だから当然、馬を使った農業も知らないし農具のことも知らない。出来るのは斧で木を切ることや、命じられたままに物を運んだりして農作業を手伝うことぐらいで、自分の手で作物を育てる技術は持ち合わせていないのだ。ただまぁ「畑仕事をしたこともない」というトルフィンは極端な例であって流石にエイナルは驚いたが、ちゃんと自分1人の力で様々な作物を育てることが出来る立派な農夫は決して多数派ではない。奴隷や奉公人みたいな人間の方が多い時代です。そんな中でエイナルはちゃんとした農夫であり「農作業のプロ」を自認していましたから、「俺に任せておけばいい」とトルフィンに胸を張ります。決してトルフィンを「使えないヤツ」と見下したりはせず、色々と教えてやろうと親切に接してくれるエイナルはとても良いヤツです。

スヴェルケルは馬だけでなくて農具も貸してくれて、トルフィンは農具を見て「凄い発明だ」と感心します。今まで人を殺し暴力で人から物を奪うことしか知らなかったトルフィンにとって、作物を作り出す作業に精通した人間によって、より効率的に作物を生み出すために作られた器具というのは、その存在だけでなく、その発想からして新鮮だったのでしょう。そして、そうした新しい考え方を吸収していくトルフィンをエイナルも温かく見守っていく。

そうしているうちに2人はスヴェルケルが実は農場主のケティルの父親であり、この農場の一番偉い人、大旦那様であることを知り驚く。現在は隠居して農場を息子のケティルに継がせているようだが、かなり気難しい人で有名なのだそうで、ケティルともどうも農場の方針で意見が合わないようでよく喧嘩をしているようです。ただ憎しみ合っているというわけではなく、ケティルは父スヴェルケルの身体を気遣い心配しており、スヴェルケルも農場の将来を憂えているようでした。

ケティルとの会話の場面や、用心棒の蛇も交えてのトルフィン達との会食シーンなどから見るに、スヴェルケルはケティルや蛇とは個人的には良好な関係は築きつつも、彼らのような生き方には否定的であるということが分かる。スヴェルケルが肯定的なのは自分の守り切れる範囲内の富を額に汗して働いて生み出す者達であり、気難しいスヴェルケルがエイナルに馬や農具を貸してくれていたのは、エイナルにそうした生粋の農夫の精神を見出したからです。

一方でスヴェルケルが否定的だった者は、自ら働かず農地を広げて、自分では守り切れないほどの富を持つがゆえに不安になり、国王に金を差し出して守ってもらったり、用心棒を雇って守ってらうことで無駄金を使い、それでも本当に守ってもらえるものか覚束ない様子の息子ケティルや、そのケティルに雇われて畑仕事もせずに暴力を生業としている蛇のような者たちだった。ケティルや蛇から言わせれば、そういう理不尽な状態こそが世の中の現実なのだが、スヴェルケルはそうした自分だけの力では守り切れない富を持とうとするから大きな暴力が必要とされるようになり、空しい争いを生むのだと思っている。

そうしたスヴェルケルの話を聞いて、トルフィンは大事なことを学んだように思えた。今までトルフィンは人間というものが争いを好む残虐な存在だから戦争が絶えないのだと思って世の中に絶望していた。だが、戦争の原因が人間の本性ではなく、人間が自分だけでは守り切れないほどの大きな富を求めることにあるのだとするなら、自分が今までのように戦いの中で生きるような人生から脱して生きていくためには、自分の手で自分だけで守れるだけの富を手にすることが必要なのだと気付くことが出来た。そうなれば誰からも襲われず、誰も襲うこともなく、そんな争いを好む者達に使役されることもなくなる。そして、そういう生き方を実現してくれるものが自分の農地なのだとトルフィンは思った。そうしてトルフィンは、エイナルと共に開墾した農地で麦の種蒔きをした時、それが自分の人生の新たな目的になり得るのだと実感した。そして、共に富を生み出す仲間こそが「友達」といえるのだとエイナルを見て実感したのでした。

こうして今回のエピソードは終わり、トルフィンに幸せな時が訪れたように見えます。だが蛇がスヴェルケルにも警告したように、この農場の莫大な富を狙う悪党どもは必ず存在しており、ケティルの備えも万全とはいえない。いずれこの農場の平和も脅かされる時が来るでしょう。その時、トルフィンやエイナルは一体どうするのか。出来ればこのままトルフィンが安らかな時間を過ごすことを願いたいところだが、物語が動くのはおそらくそういうところからなのでしょう。

 

 

犬になったら好きな人に拾われた。

第6話を観ました。

今回は前回の続きで、ようやく自分の部屋に戻ることが出来た犬の姿の主人公だったが、そこには学校の後輩の月城うさぎの姿があり、主人公は月城のスカートの中に隠れる。そうして、うさぎが自分が行方不明になった後に探してくれたり部屋の掃除をしたり植物の世話をしてくれていたりしたことを知った。その後、うさぎのスカートの中に隠れたまま外に出たら月城に見つかってしまい、月城の家にペットとして連れて行かれてしまう。

すると月城が家に戻ると雨で濡れたせいか熱を出して倒れてしまい、主人公は慌てて月城の濡れた服を脱がせ、下着も脱がせていく。なんともバカバカしい展開だが、主人公が子犬の姿で奮闘していて、心の声がやたら必死なのが笑えてくる。しかも脱がされながら熱で朦朧とした月城が人間としての主人公のことを実は好きだったということを言い出し、それを聞いて主人公がこんな自分を好きでいてくれた月城に感謝しながらも、そんな月城のパンティーを犬になって必死で脱がせている自分を嘆くというセリフが妙にアツくてシュールで笑えます。

そして今度は床に全裸で気絶して寝そべる月城に服を片っ端から被せていった後、パンティーを履かせる。いや最初に履かせろよと思うが、とにかく主人公のモノローグがハァハァ必死すぎて可笑しくて仕方ない。子犬のサイズで大変な重労働だからリアルなハァハァ感なんだけど、もう変態としか思えない。

そして主人公は月城が自分のことを好きだったということを知って、人間の自分を好きな月城に感謝しつつ、自分が本当に好きなのは犬飼さんであり、その犬飼さんは犬としての自分のことを好きなのだということから、果たして自分は人間に戻るべきか、それとも犬のままでいるべきか悩んだりする。まぁ人間に戻って犬飼さんに想いを伝えても多分振られるだろうから、ちょっと悩むところかもしれないが、普通に人間に戻って月城と幸せになればいいだろうと思う。まぁその前にどうやって人間に戻るかが大問題なんだけど。

とにかく今回はこうして月城にようやくパンティーを履かせたところで、どううわけか月城の家に犬飼さんと猫谷がやってくる。どうやら月城がポチ太を家に連れ帰ったことを知ったみたいで、取り返しに来たみたいです。そして月城も目を覚まして、家に上がり込んできた犬飼さんと対面。こうして、ポチ太を挟んで犬飼さんと月城が対峙するという状況で次回に続きます。

 

 

ノケモノたちの夜

第6話を観ました。

今回はダイアナ編の完結編でしたね。剣十字騎士団との戦いでダイアナが狙撃されてしまい、ダイアナが死んで、それに怒ったナベリウスが暴走して巨大化し暴れ始めてしまうのですが、ダイアナは実はまだ生きており瀕死の重傷でした。契約者であるダイアナが死んだことでナベリウスが暴走したと思われ、もしダイアナが生きていてナベリウスに働きかけることが出来ればナベリウスを制御して暴走を止めることが出来るかもしれないということで、騎士団の団長は急いで救護班にダイアナを治療させます。

その間ナベリウスの暴走を食い止め、なおかつダイアナによる呼びかけをナベリウスに聞かせるために事前に一撃を入れる必要があるということで、マルバスがナベリウス同様に枷を外してフルパワーで戦う必要があるということになった。だが普通に枷を外すとマルバスも暴走してしまうので、契約者であるウィステリアがマルバスを制御しながら一緒に戦う必要があり、ウィステリアは四苦八苦しながら、途中からは兄スノーの助けもあり、なんとかフルパワーのマルバスを制御してナベリウスを食い止める。そうしてマルバスがナベリウスに一撃を入れたところに怪我の治療を終えて意識の戻ったダイアナが駆けつける。

ダイアナはそこでウィステリアからの助言を受けてナベリウスの意識の中に入っていき、そこでナベリウスに生贄として喰われた家族の残留思念と対面する。そこで兄たちに、自分達は思い出となってずっと傍にいるからダイアナはずっと元気で生きていてほしいと言われ、ダイアナはその想いを受け取る。すると、それがカギとなりナベリウスの意識を制御して暴走を止めることに成功する。ナベリウスは暴走しながらもずっとブラックベル家の屋敷を守るようにその場を離れておらず、契約者であるダイアナのブラックベル家に殉じて死のうとするまでのこだわりがナベリウスを暴走させていた側面もあったようです。そのこだわりからダイアナが解放され、家族の思い出を胸に生きて行こうとする意思を持つことによって、ナベリウスの暴走を制御して止めることも出来るようになったのでしょう。

ナベリウスはもともと「ダイアナを守る」という使命を請け負うためにダイアナの家族の命を代償として貰い契約をしたのだが、そのダイアナがブラックベル家の名誉を守るために戦って死ぬことを選んだためにナベリウスは使命を果たすことが出来なくなり、その結果暴走したのだといえます。だからダイアナがナベリウスの暴走をきっかけにしてブラックベル家の名誉を守ることへのこだわりを捨てて兄たちの望み通りに自分が元気で生きていくことを選んだ結果、ナベリウスは「ダイアナを守る」という使命を果たすことが出来るようになり暴走は止まったのです。

そして、この事態を受けて、自分たち剣十字騎士団の力でナベリウスの暴走を止めることが出来なかった反省と、暴走を抑えるために奮戦したマルバスやウィステリア、そしてダイアナの行動への敬意を表して、団長は王室にはダイアナが死んだと虚偽の報告をした上で、滅びたブラックベル家の名誉回復を進言することを約束してくれた。こうしてダイアナは自分が生き残ることで家族の願いを叶え、同時にブラックベル家の名誉回復という自分の願いも叶えることが出来たのでした。

今回はまぁそういう感じのお話で、綺麗にオチもついて良かったのですが、それにしてもこのダイアナ編だけで3話分もかけるほどの話でもなかったような気もします。もうちょっとコンパクトにまとめた方が締まりがあって良かったと思いますね。戦闘シーンとかは全3話通して冗長だったかなとは思います。戦闘シーンの作画自体がショボめなので余計にそう思ってしまう。ストーリーの大筋自体は良いと思うので、そのあたりはちょっと残念ポイントでしたかね。