靈氣で知り合ったとても波動が高くて強くて顔を見るだけで楽しく元気になる方が、私の神聖幾何学手作りマットを預かってくれ、先週末に開催されたイベントで展示販売をしてくれました。
ゲストスピーカーのお話が盛りだくさんで充実したイベントにもかかわらず、神聖幾何学手作りマットを購入していただいた方がいたようでとても嬉しいです。
靈氣を学ぶと決断する前から、不思議な後押しを感じて7か月の一時帰国の中でとても豊かなつながりができたことにあらためて感謝しています。
私が靈氣を学ぶ決断をした大きな理由のひとつとして、海外在住と言うこともあり、日本の家族に何かがあった時に物理的に何も出来ないという無力感がありました。
でも靈氣は『遠隔』と言うことができるということを知り、それがどんなメカニズムなのかどうかとかどうでもよくて、離れていてもその人のことを思うだけでなく、意図して何かができていることが自分自身をも救うことになると感じたからです。
オーストラリアでもレイキを習うところはあるのです。
靈氣って海外の方が変な先入観がなく受け入れられている気がする。
でもね、やっぱり日本人だから日本発祥の靈氣を日本語で学びたかった。
それに英語だと、日本語だったらすっと入ってくるコンセプトやニュアンスが言語の壁で分からないというのが嫌だなぁ、って思っていた。(日本語のように英語を使い切れていないしね)
靈氣の存在を知ったあとでも残念なことに、義祖父、義父、義叔父そして妹や義母が苦しんでいた時にはまだ習得していなかった。
でもこの辛い経験があったから、母の病気のことで長期一時帰国した時にこれがチャンスだと感じていた。(豪に移住してからこんなに長く日本にいた事は初めてでしたから)
靈氣のことをきちんと学んでからはまた月日は浅いです。
でも、ここに辿り着くまでにレイキの神髄を学ぶ下準備は色んな経験や学びで出来ていたから、使うようになってからの習慣化のスピードや恩恵を受けることもとても速く感じます。
ところで靈氣に限らずいろんな体験や学びをしているとたいてい“流派”の壁みたいなのにぶつかりますよね。
これはどんな世界にも出てくる。
武道、華道、お茶、歌舞伎、宗教、政治etc……
言い出したらきりがない。
たとえソース(源)が同じでも、学んだ人の解釈の仕方やどのような経験をし、どのような意図と価値観をもっているかで分裂していくのでしょう。
ある意味これはとても普遍的なことで、何百年、何千年、何万年も前から文化的にも宗教的にもこのようなことを繰り返し繰り広げてきたと感じます。
前にも書いたことがありますが、進化や成長、発展するのには分裂して分けていく過程が必要です。体の成長だって細胞分裂を繰り返して成長していきますもんね。
視野を狭くしてピンポイントで一部分を掘り下げていく。
反対に視野を広くすると全体は見えるけど、細部は見えなくなる。
『森を見ると一本一本の木が見えない』と同じですね。
反対も然りです。一本の木をフォーカスしていたら、森全体は見れない。
これ、どちらが良いとか悪いとかでなくて視点が違うだけ。
どちらも必要で、目的が違うだけ。
ゲシュタルト心理学の話を以前書きましたが(その時のブログはこちらから)、視点を変えると見えるものが違ってくる。でもその違う2つを同時には見れない。
違う捉え方をすると、ある一面を見たらその背後には違う側面が隠れている、ってことですね。
ちょっと話が膨らみ前置き長くなりましたが、靈氣も然り。
レイキにもいろいろな流派があります。
現代靈氣、西洋レイキ、直伝靈氣、他にもきっと色々あるのでしょう。
元はどこかに所属していたけど、オリジナルで使っている人もいるでしょう。
人によっては『臼井式』とわざわざいう人もいるので、そうでないものもあるということですね。(私の中では靈氣は全部臼井先生発祥と捉えていましたけど)
どの様にして発展してきたかにもよって価値観は変わってきますよね。
でも、源は一つ。
私が捉えている靈氣とは、
靈氣を使う人は
大いなるソース(源)にある
宇宙エネルギーを通すパイプ役
ということ。
(表現の仕方は色々あるけど、私にはこれが一番しっくりきます)
自分のエネルギーを使うのではないので、どんな状態の時でも自分を明け渡していれば誰でもいつでもどれだけでも使えるエネルギー。
流派によって作法やシンボルなどに多少の違いはあるのだろうけど、このコンセプトは共通だと思っています。
ここで結果に執着したりエゴが入ってくると、“私が何とかしたい”、“私が使うレイキはすごい”となってしまう。
“誰かのためになんとかしたい”と言う気持ちも一見エゴとは関係なさそうだけど、実はこれもエゴ。
『純粋なパイプになる』と『人のために役立つためになんとかしたい』の違いって本当に紙一重。
ここが一番曖昧になるので気を付ける必要がある。
苦しくなってきたらエゴが入ってきたと言うことかもしれない。
いつものことですが、アウトプットしながら自分に言い聞かせています
靈氣のすごい所はたくさんあるけど、基本的に副作用は一切ない。
そして他の人のために使っていても、自分の体をパイプとしてエネルギーを循環させるので自身にもその恩恵が戻ってくる。
もう『委ねる』域の世界ですよね。
本当に素晴らしいですね。
私は毎日欠かさずに遠隔をした後に、臼井先生の言葉と手当療法についての神髄の言葉を声に出して宣言することでこのことをリマインダーとしています。
先程の『流派』の話に戻ると。。。
でもどんな素晴らしいコミュニティーでもいろんな人がいる。
いつも言っているけど環境、状況、その人の質、体験、経験がみんな違うのでそれぞれの立ち位置が違うし価値観も意味付けも違ってくる。学びや腑に落としていくスピードも違う。
その違いから対比が生まれ、それが簡単にジャッジメントにも繋がる。
ジャッジメントも色んな種類があるけど、ざっくり分ければ究極
『正しいか間違っているか』
『善か悪か』
の二元性に行きつくと思う。
時には大切な人を守るために、このことは必要になる時もあります。
先程のゲシュタルト心理学でいわれている物事には二面性があるけど、これは善悪とか正しい間違いではなくどちらも大切ですから。
でも、時にはこの二項対立意識を意図して外していき、相手の立場を見ることのできる=違う視点を見る力を育てていかないと、戦争や環境破壊のような不必要な争いに発展する可能性も大きくなります。
そして継続力も大切。
一度理解したことや会得したことでも、その行動を止めてしまったらそれはフェードアウトしていく。
私は空手にかなりコミットしていた時期があり黒帯3段の昇進試験に向けて数年頑張っていました。でも直前に立て続けてに起きた家庭の事情で空手が続けれなったし、所属していたクラブに対しての違和感も大きくなっていたので昇段試験直前にクラブからは去りました。ずっと頑張って練習をしてきたので昇段試験を受けてから去りたいというエゴも大きかったので苦渋の選択でした。(優先順位の見直しでした)
基本の動きは体に染みついているけど、空手で使う身体の切れはなくなっているし、形や組手の複雑な動きは訓練をしていないのでもうできないです。
でも、私は子供の頃からずっとスポーツをしたり、エクササイズなどをして体を動かしているし、今でも、ヨガやストレッチ、動画見ながらダンス、空手の基本練習など時間が短くても何かしらして体を動かしています。
やっていることは変わっていても、常に身体にある程度の負荷をかけるようなトレーニングをしているので、年齢の割には体力もあり、もともと体が硬くて歪んでいてもそれを認知しているので気を付けてストレッチを心がけています。
これも継続力と捉えています。
でも以前は同じことをすることが継続力だと考えていました。
位相幾何学というものがあると最近知ったのですが、それは何かというと形が変わっても同じものとみなすという考え方。
でもルールもある。
それは、伸ばしたり縮めることは良いけど、切ったり貼ったりしてはいけないということ。
例えばドーナッツのような形がある。この線を伸ばしたり形を変えても良いということで、取っ手が一つのマグカップにしてもいい。
同じマグカップでも、取っ手が二つ付いているものには変えられない。
なぜならドーナッツの穴は一つだから。
やってきたことを無かったことにして切り離してしまうとそこで終わりだけど、形を変えることで学びの神髄を生かし続けていける。
この位相幾何学的という考え方私はとても好き。
違和感が出た時に同じものに固執したり執着したりしなくていいから。
核(その真髄)が同じであれば形が変わることは大丈夫と言うこと。
メタ認知を活用し自分を信じ、そして他の人の意見や視点を柔軟に受け止めながら学び続けていけば大丈夫。
なんか長くなったので今日はこの辺で。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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