今夜も遅くまでがんばっています。
私も、子供たちも、ママさんも・・・。
小6 1回目の模試を終え、「ほっと一息」どころかさらに勢いを増しています。
2ヶ月前の子供と比べてみてください。明らかにたくましくなっています。
困難にあたったときの動きが上手になり、課題に対しての責任感も芽生えてきています。
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さて、先日のブログの続きです。
毎年、この時期にお休みをいただいています。
子供たちに机の上の学習だけでなく、実際に自分の目で見て感じて欲しくて、行き先を吟味します・・・・と言いたいところですが、私の趣味でもあります。戦跡めぐり。
いきますよー。
今日は写真が多数。ちょっと見るの大変だと思います。
受験にはあまり関係ないので、スルーしても構わないですよ。
さきにこちらをご覧ください。
昨年の社会科見学です。
http://ameblo.jp/knightriderkitt/entry-12146841743.html
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成田からとりあえずお隣の韓国へ🛩️
今回もインチョン経由です
だって、安いから・・・。
せっかくなので入国します。
バスで15分ほど。ショッピングモールにきました。
でも、潰れてました。
地下の食料品売り場のみ開いてた。
物価は、日本と同じくらいです。
インチョンからLCCでひとっとび!
サイパン到着~!夜中の3:00
イミグレ並んでます。
中国人、韓国人ばかり。日本人は・・・いません。
入国し、すぐに足をゲット。
サイパンは、バスも電車もないのです。
タクシーも空港にはいません。
でも、昨年行ったパラオよりは数段ましです。
レンタカーの窓口が開いていましたし、トイレも使えました。
日本で言うビッツです。
1日5000円くらい。
早朝の街を走って、第一目的地を探します。
そう、「探す」のです。
地図は当てにならないし、ネットで得られる情報も限界があったので・・・。
「チャランカノア」という街に、日本のものが残っているらしい。
見つけました。
焼香させてもらいました。
ここからすぐのところに海岸があります。
米軍はそこから上陸しました。
数万発の艦砲射撃の後で・・・。
その艦砲射撃で、30年かけて形成されたガラパンやチャランカノアの街は、壊滅しました。
さらにすぐのところに小学校があります。
このすぐとなり・・・
ありました。
サイパン戦で奇跡的に残った日本住宅です。
70年以上前の日本住宅です。
片方は廃墟化していましたが、1件は人が住んでいました。
その後、一気に島を北上します。
バンザイクリフです。
名前を聞いたことのある人、いますよね。
米軍は島の中央西部から上陸しました。
その後米軍に追い詰められた住民や日本軍は島を北上。捕虜になるよりは・・・と選んだ道が、崖からの自決です。
非常にきれいな海岸です。
当時、1日70人ほどが飛び降りたそうです。
海岸が真っ赤に染まったとか。
北の海ということは、この先にあるのは日本です。
言葉を失います。
島北部には、山があり、この山の一部が要塞化され、↓がありました。
南雲中将が自決した場所でもあります。
またすぐ近く、
スーサイドクリフです。
この下、崖があります。
100mはありましたね。
ここでも、悲惨な自決がありました。
サイパンに住む一般人です。
今では跡形もありませんが、この通り昔、ガラパン銀座と呼ばれ、日本建築ばかりだったそうです。
入ってみました。
ほとんどは連邦政府運営なので、無料です。
先ほどのバンザイクリフから飛び降りる映像など・・・
子供には見せられないような映像ばかりでした。
チャランカノア郊外
旧南洋庁の病院です。
翌日はセスナ機に乗ってテニヤン島に向かいます。
ここが1番の目的地です。
サイパンの空港を発ちました。
ここは当時、アスリート飛行場と呼んでおり、旧日本軍が作ったものです。
アメリカ軍上陸後、占領されてしまいました。
アメリカ軍は艦砲射撃によって出来た数百箇所の滑走路のデコボコを1日で全て埋め、B29を離陸させる空港として使用しました。
そうです。本土空襲の出発地となったのです。
サイパンはレンタカーで自分でまわりましたが、テニヤン島はちょっと無理・・・。
現地に住むガイドさんに同行してもらいました。
テニヤンの空港を出ると
当時のまま。
待ち合わせておいたガイドさんと合流します。
この道、ブロードウエーと呼んでいます。
信号なし、標識なし、街灯もなし、何もありません。
日本軍の無線基地です。
本土との交信はもちろんですが、アメリカ軍の傍受もしていました。
でも・・・知っての通り、日本の交信は全て解読されていたのですね。
この辺は日本人が多くすんでおり、神社もあったようです。
今のテニヤンは住民わずかですが、当時は日本人がたくさん住んでいました。
ここに砂糖工場があったためです。
火成岩です。
そう、パラオは珊瑚の島ですが、サイパンやテニヤンは火成岩です。
中は当時のまま。暗いですが、壁が真っ黒。
なぜか分かりますが・・?
隠れた日本軍を殺すため、アメリカ軍が火炎放射器で焼き払ったのです。
さらに進みます。
日本海軍指令所です。
びっくりしました。
パラオにあった指令所と間取りも作りも全く同じでした。
この指令所は、日本の○○建設が作ったものです。
コンクリートの壁は30cm以上。非常に頑丈に出来ています。
今では住民の台風避難所として使われるとか。これもパラオと同じでした。
このすぐ近く。
ハゴイ飛行場です。
近くにはトーチカが。
壁にあいた弾丸のあとが生々しいです。
中に入るとやはり真っ黒でした。
この旅の最終目的地です。
広島に落としたリトルボーイを積んだ場所。
エノラゲイにリトルボーイを搭載した場所です。
胸が熱くなりました。
写真左のプレートには英語で
「アメリカは戦争を終わらすために原発を落としたんだよ・・・・略」
とかいてありましたが、全てアメリカ側の言い分でした。
昼食にします。
島内数件しかないレストラン。
テニヤン(サイパン)は、
一次対戦前:ドイツ統治、一次大戦後:日本統治、二次大戦後アメリカ統治
という歴史を持っています。
ドイツから日本統治に変わって、原住民はどういった思いを持っていたのか。
おじいさんもその時代は生きていなかったそうですが、色々教えてくれました。
詳しくは書きませんが、日本統治になりインフラ整備を進めてくれたり、砂糖工場により景気が良くなったりで、日本に対しかなり良い印象を持っていたようです。
アメリカ軍のテニヤン爆撃では、○○という(すみません、わすれました)非常に繁殖力の強い樹木の種を上空から大量にまかれてしまい、サトウキビ畑は二度と作れないような土地になってしまったとか。
さらに、サイパンでは一般人の死者が出たのに対し、テニヤン戦では日本軍は一般人の犠牲を最小限にとどめるようにしたとか。
今ではかなりの親日でした。
サイパンは日本人観光客が少ないですが、見所たくさんですよ。
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