タイトルの校長先生は二重敬語なのか、ということについて、ちょっと考えてみる。

 


年末に、こんなことも書いた。

 

敬語にも、いくつか種類があって、種類が違うものであれば、複数合わせても大丈夫だという。

 

それが、日本語として正しいとか、正しくないとか、時代や環境に左右されるって話しです。

 

ただ、今回の「校長先生」というワードは、おそらく小学生時代を過ごしていれば、誰しもが使ったであろう。

 

まぁ、その前に幼稚園、保育園に通っていれば、「園長先生」というワードを使っていたことだろう。

 

 

二重敬語だという一般的な理屈は、校長と先生が同じ種類の敬語だから、重ねるのはよくないから、校長と呼べば良いし、名前を付加して、◯◯校長で良いということだと考える。

 

確かに、そうなんだけれども、それは同僚である学校の教員であれば、その論理で良いかと思う。

 

明らかに年齢の若い生徒たちが、校長ないし◯◯校長と呼ぶのは、ちょっと不躾な感がある。

 

また、学校の中で校長という役職は一人しかいないので、校長先生が適切な呼び方と思えるし、他の教員は◯◯先生と呼ぶことで、統一性もある。

 

 

校長は役職名であって、そこに敬語という概念があるのだろうか?

 

社長が部長と呼ぶ場合、部長が社長と呼ぶ場合、これらは役職名であって、そこに尊敬の意を込めるか否かは、また別の問題のように思える。

 

繁華街で客引きしている人たちは、社長さんと役職関係なく呼ぶが、これが敬語なのだろうか?

 

確かに、社長と呼ばれることで、嬉しいと感じる人もいるのだろうけれども、相手はそこに尊敬の意があるとは思えないし、金づるとしてしか見ていないだろう。

 

そもそも、先生と呼ばれる職業は、教員、医者、議員、などがある。

 

そこに尊敬の意があれば良いが、別に尊敬の意を持っていなくても、おべっかとして、先生を使うことも出来るだろう。

 

例えば、先生の蔑称として、先公というものがあるが、これは教員にしか使わない。

 

貴様、お局様といったワードと同じように、現代では嫌味に感じられて、時代とともに蔑称に変化したのかもしれないし、そもそも最初から悪意を持って使っていたかもしれない。

 

校長先生というワードが嫌味に聞こえる人が増えれば、時代とともに蔑称とされることになるだろう。

 

だけれども、それは今なのか?

 

 

お客様は神様ですなんて、三波春夫さんは言っていたが、解釈次第であって、それこそ日本は一神教がそこまで根付いていない多神教というか、八百万の神々がいると考える人が多いだろう。

 

つまり、自分にとって益がある神様もいれば、そうでない神様もいる。

「捨てる神あれば拾う神あり」といった慣用句まである。

 

お局様が蔑称であって、お客様は蔑称ではない、この境界線ってどこなんだろうか。

 

接頭の「お」は「御」で、接尾の「様」、これらは同じ種類の敬語なのだろうか。

 

「御」は丁寧語、「様」は敬称で、別の種類ということ。

 

では、お局様とお客様の決定的な違いは、「局」と「客」の違いだろうか。

 

「局」も敬称ならば、局様は二重敬語となって、嫌味に聞こえるのも頷ける。

「局」が役職名ならば、特に蔑称にはならない。

 

「校長」は役職名であり、「先生」は敬称であるから、「校長先生」は二重敬語ではなく、これに「様」や「殿」といった敬称を付けると、二重敬語だと私は考えている。

 

受け取った側が、私と同じ考えとは限らなかったりすると、それを嫌味だと感じてしまう可能性も十分にある。

 

また、話し言葉と書き言葉での印象も違う。

 

日本語はややこしい言語だと思うのであった。

 

 

ではでは