日本語には敬語と呼ばれるものが多く存在する。
敬語には大きく、尊敬語、謙譲語、丁寧語に分けることが出来る。
他にもあるらしいが、それはとりあえずおいておいて。
日本語の動詞には活用というものがあって、現代文であれば、五段活用とか、上一段活用とか、下一段活用とか、カ行変格活用とか、サ行変格活用とか。
「来る」という動詞。
外国人は辞書形なんて呼ぶらしい、終止形という。
未然形、連用形、終止形、連体形、仮定形、命令形、とおぼえたかと思う。
来ない、来ます、来る、来るとき、来れば、来い、という変化ですね。
「来る」の尊敬語とされるのが、「来られる」なのだが、これは可能の場合と同じになってしまう。
ら抜き言葉で、可能の場合において「来れる」というのも、現在では正しいのではなかろうか?という風潮にある。
まぁ、言葉は生き物だから、時代背景に左右されることもあるだろう。
では、「来られる」という尊敬語は、正しいとされるかというと、以前は正しかった時代もあったんだが、尊敬の意味が弱いと感じる人が出てきて、使うべきではないとして、「いらっしゃる」、「おみえになる」、「おいでになる」、「おこしになる」などを使うことを推奨したりする。
敬語のインフレですよね。
あえて、ひらがなで書きましたが、漢字にしてみます。
入らっしゃる
お見えになる
お出でになる
お越しになる
漢字にした途端、来るという状況の違いが浮き彫りになったかと思う。
京都弁で「おいでやす」と「おこしやす」の使い分けからも解るかなと思う。
これって丁寧語になって、そこに尊敬の意味があるのだろうか?って思っちゃったんですよ。
先頭に「お」を付けるのは美化語、つまり丁寧語の一つだろう。
「~になる」は状況の変化を示しているに過ぎない。
では、「なる」の尊敬語はというと「なられる」となり、
入らっしゃられる
お見えになられる
お出でになられる
お越しになられる
ということで、やっと尊敬の意味が加わったということになるのだが、これを二重敬語と考えることも出来たりする。
先にも述べた通り、敬語にはいくつかの種類がある。
別の種類の敬語であれば、二重になっても良いが、同じ種類の敬語は良くないとされている。
逆に言えば、種類が異なれば二重だろうが三重だろうが良いということになってしまう。
「お見えに」「お出でに」「お越しに」を美化語として、「なる」の尊敬語である「なられる」と考えれば、二重敬語ではないとも言えるし、「お見えに」「お出でに」「お越しに」は既に尊敬語だとすると、「なられる」とすると二重敬語だと言える。
敬語が細分化されたり、新たな敬語の形態が生み出されたら、更にインフレを加速するとも言えるわけです。
どんどんインフレしていって、百年後とかの敬語ってどうなってるんだろうね。
どこかで歯止めを掛けないと、おかしなことになるのでは?と思ってしまうが、百年後に自分が生きているわけもないし、仮に冷凍睡眠とかされて、数百年後に目を覚ましたりとかでも無い限り、それを知ることは出来ないだろう。
案外、「来られる」に回帰したりするかもしれない。
なんてことを、年末の忙しい時期に頭をよぎったのであった。
ではでは