義務教育で数学は必要or不必要

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ディベートではひろゆきには敵わないなぁ。

 

 

 

義務教育での数学ってのは、中学の3年間ですね。

 

では、算数と数学の決定的な違いは何でしょうか?

 

国語が、現代文、漢文、古文と細分化されるのに対して、

小学校の算数は、中学の数学と名前だけが変わって、細分化されたわけではない。

 

では何が変わったのかを具体例を揚げるならば、扱う数の範囲が広くなったということ。

 

小学校では自然数、整数、有理数までの数の範囲までしか扱いません。

唯一、扱うのが円周率であるが、これも3.14と有限小数、つまり有理数の範囲にとどめていることからも解ります。

 

中学は、小学校までの有理数までの数の世界に、無理数を加えた実数までの数の世界を扱うことになります。

 

これが、具体的な例です。

 

では、具体的ではない例はというと、中学に入ると代数学、つまり変数を使った数式が現れます。

これは、小学校では具象だったものが、中学に入ると抽象と移り変わっていくことを示しています。

高校、大学へと数学をやっていくと、具象よりも抽象の度合いが高くなっていくということになります。

 

 

さて、義務教育とは何でしょうか?

国や自治体や保護者が、特定の年齢の児童を学校に通わせ教育する義務があるということ。

 

児童側の立場では、教育を受ける義務ではなくて、教育を受ける権利があるということです。

 

権利なので、放棄しても構いませんし、真面目に授業を受ける必要もありません。

 

 

では、義務教育の目指す所は何でしょうか?

 

国、自治体、保護者は、今後、児童が独り立ちして生きていく上で、最低限必要になるであろう教育を施すというところだろうか。

 

最低限という表現がどこまであれば事足りるか、ということになるのだが、その線引は至って難しい。

 

 

さて、義務教育において数学を学ぶ必要があるかというところで、論理的に物事を考えるなんて話しが動画内では出てきたりします。

 

確かに、算数や数学は論理に支配された学問であり、ある意味世界共通の言語や理とも言える。

 

方や、国語はというと、それはその国の言語であり、場合によっては他の国では全く通用しない言語の可能性もある限られた世界の学問であると言える。

 

そういうこともあって、小学校から英語教育が始まったり、中学からは漢文といった母国語以外の言語に触れることとなる。

 

日本から一歩も出ないということであれば、英語や漢文といったものは必要、不要でいったら不要となるのだろう。

 

数学と漠然的にしてしまってはいるが、初等的な数学と、高等的な数学と分けると、どこまでも数の地平は広がっていて、実生活で使う数学って言われると、おそらくそうそうと実例は出にくいのである。

 

でもね。

一生使わないであろう漢字とかも学んだりするわけで、これが必要だったか不必要だったかは、死ぬまで解らないんですよ。

 

そうなると、先人、つまり、親や教師やコミュニティ、もっというと政府の人たちが、不要だと唱えてしまうと、その学問の裾野はどんどんと小さく縮小されてしまう。

 

小学校でプログラミングを教えるようになって久しいが、今の社会でバリバリと働いている世代が、小学校でプログラミングを学んだか?と問われると、おそらく学んだ人もいるかもしれないが、学んで居ない独学の人もいることだろうし、専門学校で学んだ人もいるだろう。

 

私は50半ばだが、プログラミングなんてほとんど独学である。

 

でも、その基礎として、算数では物足りないし、やはり数学は必要不可欠であったと感じる。

 

ただ、現代のプログラマが数学を必要としているかというのは別問題です。

 

プログラマに必要なのは、国語なのか数学なのかと問われると、どっちも必要だし、どっちも不要だと言える。

 

必要なのは、プログラミングで使う文字と、プログラミング言語と、それを動かす環境です。

 

あとは、ハードウェアを揃えたり、プログラミング環境を整えたり、という試行錯誤が始まる。

 

義務教育でパソコンのキーボードを扱えるようになったとしても、そういった環境を整えるということは学べないですよね。

 

だって、小学生には経済力がないんですから。

親ガチャじゃないけど、親が裕福である必要性が出てきてしまう。

 

若いウチに取捨選択をしてしまうと、大人になってお金を稼がなければならないとなった段階で、必要だと思って勉強し始めたとして、基礎が無いと何から手を付けてよいのかすら解らないし、基礎をやる時間がないといったことにもなりかねない。

 

だから、今現在流行っているものには、若者は触れさせるべきであって、そこから新たな発展をしていくという予想のもと、必要最低限の知識の詰め込みが必要ということなのだろう。

 

だってね、これからの社会は今の若者が作っていくものなんだよ。

 

大人が必要、不必要なんて取捨選択をしてしまうと、反動として、こどもたちは好きなものに固執し、好きなことだけを勝手にやり始める。

 

まぁ、これがすべて悪いかというと、案外そうでもないのかなと思える。

 

好きなことをやってお金を稼げて、生きて行けるんだったら、それはそれで一番じゃないのだろうか?

 

だって、好きなことに没頭できるってのは、羨ましいことでもある。

 

でも、この好きってのは、実は凄い狭いところだけだったりすると、そこから少しでも外れてしまうと嫌いだったり、苦手だったりする。

 

漫画が好きだからといって、すべての漫画ジャンルが好きとは限らない。

同じタイトルの漫画が好きな物同士であったとしても、好きな部分は異なっていたりするだろう。

 

適材適所で、社会が回っていくってのは、理想なんだろうけど、苦手だけどやらなきゃいけないことってあると思うんだよね。

 

まぁ、それを苦と感じずにやれる人にお願いするってことも出来るんだろうけど、そこには何らかの対価として、信頼関係やら、金銭関係などが必要になってくる。

 

ここで、金銭感覚が違うもの同士だと、なかなかうまく物事が進まなかったりする。

金銭でしか関係を築けないのであれば、十分な金銭を与える必要が出てくる。

裏を返せば、十分な金銭を稼げていれば、やりたくないことは他人に任せることが出来るとも言える。

 

まぁ、金はある程度はある方が良いのだろうけど、なさすぎるのは絶対的に生きづらい世の中で、だからと言って仕事だけってわけにも行かない。

 

将来に必要最低限な知識を得る場として、義務教育があるのだとしたら、その必要最低限ってのは、今の大人達は理解出来ているのだろうか?

 

経験ってのは、他人に伝えることは出来るが、あくまでも自分の経験を伝えるに限ることで、人生一度切りなんだから、児童の人生を政府や地域や教師や保護者が安直に決めて良いものでもない。

 

教師にしろ、保護者にしろ、自分の職業経験なんて、片手で数えられる程度しかないんですよ。

でも、児童には可能性が無限大にあるという。

 

義務教育の間には、取捨選択をさせないで、まんべんなく学べる環境を用意し、教師は児童が興味を持つような楽しく学べるように授業内容を考える必要がある。

 

 

さて、義務教育に数学は必要かと言われたら、私は必要と言います。

 

そりゃ高等的な数学がすべての人間の義務としてやる必要があるかと問われると、そうは思わないけれども、今の世の中学歴社会というか、義務教育で終わる人は殆ど居ない。

 

高校は公立はあっても、義務教育ではないので、入学には試験が必要になる。

その試験に数学があるならば、必要になるだろう。

 

これは大学にも言えることですね。

 

ただ、受験のために必要では、おそらく納得行かないだろう。

 

さて、中学以降数学をやらなくて、好きな学問、目指す将来などを考えて、大学に進んだとして、数学が必要だということに気がついたら、さあ大変。

 

そうならないためにも、義務教育期間中に早めに算数を終わらせて、数学へステップアップしておく必要がある。

 

その上で、取捨選択をして、進みたい職業の方向性が絞られてきたら、そこで必要な数学を応用数学として学ぶまでの基礎的な所をやる義務教育期間中にやる必要があるということです。

 

万物は◯◯である。

 

というお決まりのフレーズがあるが、

 

万物は数である。

とかのピタゴラスは言ったとか言わなかったとか。

 

 

ではでは