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中嶋著作3随筆
3随筆 1
私の釣魚大全
 釣りは王者の趣味であり趣味の王者であるという。されば私は今や釣道を極めた王者である。アイザック・ウォールトンの古典的名著「釣魚大全」は釣人のバイブルであるが、それになぞらえて、ビギナーのために二三箴言を申し上げたい。
一 ほらを吹かない
 釣果を聞くと「それにつけても、逃げた魚を見せたかったよ」とは先輩校長のA先生の口癖であるが、未だ解脱していない証拠で見苦しい限りである。私は去年の十月二十四日に緑川で十二Kg、九十五cmの大鯉を釣り上げたが、このような自慢話は決して言わぬ事にしている。
二 食べぬ魚は釣らない
 リリースなどという妙なものが流行っているが、あれは外道で嘆かわしい限りである。
釣りはスポーツではない。「釣りは鮒に始まり鮒に終わる」というが、半分は正しく半分は間違っている。いまの釣の対象魚は銀鮒であり、これは食欲の対象ではないのですべてリリースして帰る。「小鮒釣りし」の鮒は金鮒でありこれはチョー美味である。
三 自然にとけ込むこと
 この意味でわが国第一の釣り師は佐藤垢石であろう。開高健などとても及ばぬ。井伏鱒二は垢石が「服装は粗末で古風だが竿をかまえている姿が自然と一体となって」いる姿に驚嘆している。 
釣具店に行くとフィッシングウェアとしてきらびやかなファッションが売っているが、あれは狂気の沙汰である。
四 良き師につくこと
 我流は駄目である。誰が良き師か、自分の口からは言えないのが残念である。
平成18年5月5日

随筆3-2
チョコレート
 その夜の公民館での話し合いは「子どもの健全育成」でした。先生やPTAは勿論、町会議員さん、自治会の役員さん、民生委員さんなど多くの方々から多くの意見が出ました。
会が終わり近くなったとき、PTAの母親部長をしている友田さんが言いました。
「私の息子は、不器量で愛想も悪いですが、先日、バレンタインデーにチョコレートを貰ってきました。ガールフレンドが出来たか、と嬉しくなりましたが、よく聞いてみると山本さんの奥さんからだったそうです。朝、新聞受けの所に立っておられて『毎朝ありがとう』と言って手渡されたそうです」
 いきなり名指された老人会長の山本さんは
「俺にはやらんで!」と、ぶっきらぼう言われましたが目元は笑っていました。あれは照れ隠しで、きっとご夫婦で話し合われての事だと思いました。
 会は間もなく終了し、私は家路を辿りながら、明朝、凍てついた道を自転車で新聞配達する友田君の事を想っていました。

随筆3-3
玉虫
「園長先生、何かきれいなものがあるよ」
最初に気づいたのは、夕餉の煙の立ち去る方を眺めていた園児である、
飯盒炊飯の支度をしていた私は、子どもの視線を追いながら立ち上がった。
玉虫であった。それは半ばうつろのなった欅の幹の斜陽をあびて金属製の光沢を放っていた。
 どこかで見た風景だった。その妖しい光は私の遠い記憶の底をしきりにかきまわしていたが、それがいつのことか、どこの風景か、どうしても思い出さなかった。私はぼんやりしながら突っ立つていた。

 塩井神社は益城町のはずれにある。阿蘇外輪山の伏流水はここで地表に噴きでて滝となり、吹き下ろす風は木立を抜けて心地がよかった。
 辺鄙な所にあり、開発されていないことも幸いして夏になると世俗を離れて涼を求めるには格好の場所となっていた。
 私の勤める幼稚園ではいつの頃からか、ここでキャンプするのが習わしになっていた。
 今年も夏休みになるとすぐここに来たのであるが、私は心中おだやかではなかった。
 それはキャンプに来ている市内の小学生達のせいであった。五六年生と思われるこの集団は我々を完全に無視していた。私たちが厳粛な気持ちで開村式をやっているところに彼らは嬌声を上げて乗り込んできて、きのう私たちが掃除しておいたキャンプサイトに勝手にテントを張った。
とりわけ児童から友達言葉で話しかけられている青年教師が私のカンにさわった。この若者は第一に同業者である私に、何の敬意も払わず会釈さえしなかった。第二にこの若造は長髪でジーパンを履きギターを肩にかけていた。第三にいつも数名の女の子に取り囲まれていた。その中でとりわけ目立つ少女がいたが、彼女はかって私が知っていた一人の少女の面影と似ていた。しかしその清純さは少しもなく、さかんに若造に媚態を振りまいていた。第四に、要するにすべてが気にくわなかった。
 お前達になめられてたまるか、今にみておれ。俺の存在をいやという程示してやるぞ。私はチャンスをねらっていた。そしてそのチャンスが来たことを知った。
 
園児の声でわれに帰った私は、園児の肩に手を掛けながら「玉虫だよ」と、そしてわざと大きな声で言った。
「玉虫がいるよ、あれが玉虫だよ。見に来てごらん」
沢でザリガニを捕ったり、木立でネットを振り回していた園児が集まってきた。
 園児達は空を見上げながら「玉虫、玉虫」と叫び声をあげた。
 「園長先生、捕って」と園児たちが言い始めた。小学生たちも捕まえる方法を論じあっていたが、十メートル近い大木にいる玉虫を捕る方法などあるはずもなく、小石を投げる者まで出てきた。
「園長先生、何とかなりませんの?」
 たまりかねたのか、私の園の先生が信頼を込めた眼差しで頼んできた。このような眼で若い女性から見つめられたのは、いつの日だったろう。
 あなたのためならお月様だって捕ってあげますよ、私は久しぶりに若い血が体中に満ちるのを感じた。
 私には成算があった。
 ゆっくりとした足取りで駐車場におもむき、釣り竿を持ってきた。この竿は、去年一年間義理を欠きながら貯めて買った自慢のカーボン製だった。
「すげー。ダイワの××だ」小学生が私の知らない製品名を言った。どうだ、参ったか。私は得意になって竿を伸ばしたが、そいつはつづけて「ボクも同じのをパパに買ってもらったんだ」と周りを見回しながら自慢した。このドラ息子め、お前の親父はやがて甘やかした事を後悔するだろう。その時はざまあ見ろだ。わたしは口のなかでののしりながら、竿の先端にガムテープを取り付けた。
 これから何が行われるか皆は納得し、やがて獲物を掌中にするであろう私に羨望の声が集まった。竿は空高く上がった。ところが竿の軟調子が禍いし狙いがなかなか定まらなかった。何度か試みた後、今度は大丈夫だと押さえたが、玉虫はするりと横に逃げ、西日に一段とさえた光沢を放っていた。それはまさしく宝石であった。
 私は態勢を整え直した。今度は大丈夫だ。ガムテープは標的を正しく捕らえていた。誰の目にも玉虫の命運は決まったかに見えた。そのとき例の少女が「かわいそう」というのが聞こえた。続いて何人かの少女がそれに和した。男の子が「逃げろ」と叫んだ。私は虚を突かれて手元がくるった。悲鳴が上がったが
玉虫は依然としてそこに光を放っていた。
「にーげろ、にげろ」男の合唱が始まった。私は益々あわて竿は空を切った。その度に悲鳴と拍手がわいた。危険を察知した玉虫は隣の木に飛んだ。私は標的を見上げ、つまづきながら突進した。まわりの空気は一変し、私は敵意に包まれた。玉虫が逃げる度に拍手がわき、私がつまづくと笑いが起きた。
 私は自分自身がピエロになった事を知った。この中年過ぎのピエロは形相を変えて竿を振り回し、さかんに敵役を演じて皆の笑い者になっているではないか。園児でさえ小学生を真似て「にーげろにげろ」と、はやしたてているではないか。
 たまりかねたのか、園の先生が園児を集め始めた。
 絶望的な戦いの後、獲物はようやく私の手に落ちた。私は呼吸を整え怒りをしずめながら、去りかけている園児数名を無理やりとらえ、悪ガキどもに背を向けて「さあ、これが玉虫だよ、手にとってよく見てごらん、日本にはもう殆どいない幻のオオヤマトミヤマ玉虫だよ」と大声ででたらめな名前を口にした。
背後に悪ガキどもが近づいてくる気配がした。私は最後の勝利者になるため更に追い打ちをかけた。
「法隆寺の玉虫の厨子はこのように羽をむしり取って貼り付けたのだよ」
園の先生がぎょとして立ち止まり、若造の教師も近づいてきた。
「さあ、よく見ましたね。こういうのは自然に帰さなければなりませんよ」
私は思いきり玉虫を放り上げた。
玉虫は一旦落下しかけたが、金属製の光沢を輝かして夕映えの空へ消えていった。
 私はしばらくの間ぼんやりとして、それが消え去った空を見上げていた。
 気がつくと園児も小学生も既に去り、木立の下は夕闇が迫っていた。
 私は急に疲れを覚え近くの会談に腰をおろした。キャンプサイトからは若いお母さんたちの華やいだ声に混じってビートのきいた曲が聞こえてきた。
 そして私は、私が主人公であった時代が終わったのをしった。
                ({土}五十五号 一九九〇)

随筆3-4
鈍行の旅
 仙台駅に降り立って地図を広げると、秋田市は北北西、十一時の方向にある。
 この地に嫁いでいる娘は、私の初孫をしきりにあやしながら、まず東北新幹線で盛岡まで北上し、田沢湖線で奥羽山脈を越えることを勧める。アクセスもいいし新型車で快適な旅が約束されるであろう。それに、と娘婿も口を添える。雫石あたりでは折からの紅葉を楽しむことができるでしょう。
 しかし私は山形まで西行し、それから奥羽山脈の盆地を縫うように走る奥羽本線で北上することにした。乗り継ぎは悪い。それにすべて鈍行である。
なにしろ時間はたっぷりあった。
 会議は明日から始まる。今日中にホテルに着けばよい。汽車は七分の乗客を乗せて十一時十分に仙台駅を離れた。九時間の旅が始まる。
差し入れの仙台名物笹かまぼこを肴にポケットウイスキーを飲みながら向かいの席の国訛りの会話を聞くとはなしに聞く。二人は叔父甥の関係で山形まで祝事に行くらしい。
 仙台平野を抜ける頃から、二人は車窓にうつる谷間の稲をしきりに話題にしだした。十月だというのに青立ちのままである。穂さえ出ていない田もある。賢治の“寒さの夏はおろおろ歩き”が実感として伝わってくる。
 「ひどい状態ですなあ。テレビでは知っていましたが」
 私は幾分の酔いも手伝って話の中に入った。
 「お好きなようですなあ」と年配の方が私の手にしている缶ビールを指しながら笑顔で答えた。
 「塩釜あたりでもこんなにひどくはないですよ。はあ、熊本の方ですか、あちらも不作だと聞いていますが」
 私は耳学問で得た農業知識を駆使し、圃場だの、ミナミニシキだの、穂首イモチだの業界用語をちりばめて話した。
「どうですか、一杯」缶ビールをすすめながら、大は日本の食糧問題、小はキャベツの植え付け時期に至るまで論じあった。この際、趣味にしている家庭園芸が大いに役立った。ただし、一ウネしか作らない玉葱が一反になり、去年の初市で二本買った苗木が広い梅園になったりした。
 山形駅で別れるとき、私は昨年、農業を息子夫婦に譲り、一人で東北の温泉を旅している自分を発見した。
 秋田まで持つはずのビールはとうになくなっていた。
 山形駅で銘酒大関のカップ酒を買い込み、十四時二十三分の秋田行きに乗り込んだ。
 発車間際に高校生がどやどやと乗り込んできた。いずれも垢抜けしていて、きれいな標準語で話している。
 車窓からは色づいたリンゴ畑や、手入れの行き届いた桜桃畑が見える。列車が止まる毎に高校生が降りて行く。新庄盆地にさしかかる頃には喧噪も去って五十年配の女性と私とが取り残される形にになった。
 表紙を丸め「中学校社会科地図帳」の文字が見えないようにして地図に見入っていた私に「どちらまで」とその女が話しかけてきた。私が熊本だと知ると、知り合いの故郷が鹿児島にあり、一緒にそこを訪れた事、楽しい旅だった事などを話した。
 やがて汽車は盆地を抜けて山地にさしかかった。勾配が急になり回転音が上がる。
 「この辺は冬になると二メートル位積みますよ。」女は錆びたような声で言い、自分の家は駅から三十分位かかること、三八豪雪のあった年に故郷を出たこと、今、熱海に住んでいること、父が急死したので山形新幹線を乗り継いで十年ぶりに帰っていることなどを話した。
 昭和二八年―三八会―浜町中―離郷―集団就職―北岡神社―熊本駅―冷凍みかん。私は三十年前就職列車で出ていった生徒に思いを馳せた。
 熱海―父の死に一人で帰る女―熊本駅で見送った生徒とは何の脈略もないけれども、毎年繰り返されたあの光景が思い出し、心が痛んだ。
「あのように」と無人駅でたった一人降りた女子高生を目で追いながら女は言った。「ここで卒業しても就職口はないし、結局出て行く定めですよ」
 女は次の無人駅で降りて行った。駅舎のまわりに人家はなく、ホームの反対側にはすすきが輝いていた。そこからすぐ深い谷になっていて、その向こうには杉に覆われた山塊が迫っていた。
 やがて汽車はトンネルにはいり県境を越えた。
 秋田のホテルには、その日の夜遅く着いた。
(「土」六十五号 一九九四年)
随筆3-5
忘れかけていた風景
 バスは夕陽に向かって走っていた。平坦な大地である。カボチャの上に乗れば国中が見えるという。
 太古に湖底であったという肥沃な国土はよく耕されていて、目を遮るものとてない。点在する農家がその風景にアクセントを添えていた。そのような旅がもう三時間も続いたろうか。
「今のを見たか」突然、前の座席で団長が大阪なまりで叫んだ。「見た。バスストップ」後ろの方で東北弁が答えた。
 セルボクロアチア語しか解せぬ運転手にも、この言葉はわかったらしくしばらく行って停車した。何事か、という顔をしている。反対側の座席にいた者は、簡単な説明で状況を理解した。
 「写真を撮りたい、車をバックさせてくれ」通訳氏への説明には若干手間取った。十五年前留学でこの地へ来て以来、日本へは帰っていないという。いつも冷静で学者肌の彼も、訪問校のレセプションで「ふるさと」を歌ったとき、傍らで涙をためていた。
 運転手にはなかなか理解してもらえなかった。
 夕陽の中で若い夫婦が鍬を手に大地を耕し、それを子どもが手伝っている。幼い一人はじっとたたずんでその三人を見つめている。そのどこに関心があるというのか。はるばる東洋から来たこの異邦人は、中世の古城にもゴシックの教会にもさして興味を示さなかった。それがどうだ、この何でもない風景に大騒ぎをし、しかも車を引き返せという。・・・やがてバスはゆっくりUターンした。
 「席は立つな。写真も撮らないことにしよう」大阪弁が静かに言った。
 そこにはミレーの「晩鐘」の中にこどものシルエットをはめ込んだような風景があった。決して豊かではないが、幸せそうな家族の姿があった。かって日本のどこにでも見かけた風景である。
 バスの中に、しばらく静かな時が流れた。
 「今頃、日本では麦播きですね」通訳氏はぽつんとつぶやいて、気をとりなおしたように言った。
「急ぎましょう。そろそろベオグラードの灯が見える」
 
(「土」51号 1989)

随筆3-6
霧島
 山の名前ではない。勿論、相撲取りの四股名でもない。列車名である。
 今でも盆暮れには、臨時急行のブルートレインとして走る事があるが、旧国鉄時代には鹿児島から東京まで三等中心の十五両編成を蒸気機関車が引っ張っていた。山陽から先は電化されていたにもかかわらず、である。
 私は昭和三十三年から十年間、毎年、七月十九日にこの汽車に乗り込み上京した。
 汽車は十時頃、熊本駅を発つ。鹿児島からの客が六分の入りである。
 二十三時間の旅が始まる。煤煙が入り込む。特急の「あさかぜ」や「かもめ」がどんどん追い越していく。堅いシートに座ったまま一夜を明かす。
 朝方、東京に着く。四十日間の勉強が始まる。帰りも勿論「霧島」である。
 何故、特急に乗らなかったか。お金がなかったからである。
 何故、十年間も上京したか。勉強したかったからである。
 何故、勉強したかったか。
 私は教師になってすぐ、自分が教師としての力量に欠けている事に気がついた。それは知識とか、技術とか教育愛とかいったものではなく、教師としての根底にあるもの、いわば、教育哲学とか教育思想に類するものであった。勿論功利的な面もあった。小一の免許や、学士の資格である。しかしそれは二年でとれた。その後は全くの自己研鑽である。
 機会はいくらでもあった。通信教育があったし、各大学での夏期講座があった。聴講生としていくつもの大学の、主に西洋教育史に関する講座を受講した。そして私の教育観の根底が形成されていった。
 片道二十三時間の旅と、7・8月の月給と夏のボーナス費やす研修は、今で言えばどこで研修することになるであろうか。文化において、当時の熊本と東京はそれ以上の落差があった、
 この十年間に結婚し、三人の子どもが生まれた。妻の理解と協力があったが、経済的には質素な生活を送った。
夜間急行霧島で妻が作った弁当を食べながら、次々と追い越して行く特急を眺め、俺もいつかは寝台特急に乗って食堂車で飯を食ってやるぞと思ったのも、今では楽しい思い出である。
(「土」68号 1995)
随筆3―7
少年たちの夏
楽しみにしていた新学年が始まったが、勉強は部落毎にするようになり、学校での勉強はなくなった。部落での勉強も桑の皮剥きやらタニシやイナゴ捕りが主で、机に向かう事は殆どなかった。

その日は朝から晴れていた。
いつものように御堂に集まり、先生の話を聞いた後、いつものように学年ごとに仕事をする事になった。
六年生は裏山に松根油を集めに出かけた。出かけるとき山本先生から「きのう松の木に傷を付けた場所はわかっていますね。お国の為に頑張ってください」と言われた。山本先生は去年女子師範を卒業されたそうで、事あるごとに「お国の為」と言っていた。角を曲がるとき悪ごろの和シャンが「××して子持つも国のため」と大声で言って裏山に駆け込んだので、みんなも歓声をあげながらそれに続いた。

下級生の私たちは河原に行ってポンポン草を採ることになった。
和シャンの家の前を通りかかると、爺さんが裸足の僕たちを見て「可哀想になあ」と言ったが、その頃は裸足で暮らすのが当たり前だったので、裸足がなぜ可哀想なのか理解できなかった。

堤防に上がると松子ちゃんが「あ、こんな物が落ちてる」と黒い物を拾い上げた。万年筆だった。班長の三チャンが受け取って眺めていたが「万年筆爆弾かも知れん」と言った。皆で「これが万年筆爆弾か」と見入った。
 キャップをひねると爆発する仕掛けになっていて、それで死んだり両手を失ったりする人が沢山いるとの噂が絶えなかった。そんな物が落ちていたら駐在所に届けるように、と事ある毎に言われていた。
この頃は夜になるとB29の編隊が宮崎の方から九州山脈を越えて有明海の方に飛んでいくようになった。初めのうちは恐れおののいて防空壕の中で身じろぎもせずにいたが、そのうちに慣れて防空壕から顔を出て恐る恐る見上げる事もあった。
何でも噂によると、夜は緑川が光って見えるので、それ沿って有明海上空に出て爆撃に行くらしかった。
やがて昼間もB29だけでなくグラマンやら胴が二つある飛行機が飛んできて色々の物を落としていった。B29からはビラやらジュラの長いテープ(ジュラルミン・レーダーを攪乱するため)がよく落ちてきた。触ったら手が腐るとも言われていた。
そういう事もあって、三チャンは万年筆をそうと草むらに置き、皆で大騒ぎをしていたら、区長さんが馬を牽いて通りかかったので皆でがやがや言って訴えた。
区長さんは、駐在所に届ける、と言って無造作に荷馬車のフーゾカゴに入れて、立ち去った。

万年筆で手間取った下級生の私たちは、急いで河原に降りて朝露に濡れながら背丈ほどもある雑草の中からポンポン草を見つけて刈り採った。
一束になると榎の下の木陰に集め葉をちぎり、幹だけにして皮を剥いだ。やがて一握りほどの皮が集まると、雑草の中をかき分けて石原に出て、そこに皮を拡げて干した。
先月は同じ場所に桑の皮を剥いで干したが、それと比べてポンポン草は薄くて短く、わずかであった。しかし、秋に配給される霜降り色の学生服の原料になる、と先生から言われていたので、照り返す太陽を浴びながらポンポン草の皮を満足して眺めていた。
 そのうち、真夏の太陽に照らされて喉がひどく渇いたので、誰言うともなく川岸に出て水を飲んだ。
川下では兵隊さんが馬を洗っていた。

大シャンは今日はあまり元気がなく、頭には矢旗を引き裂いて包帯がわりの鉢巻きをしていた。彼は河原に降りると先ずフツ(よもぎ)の葉をちぎって汁が出るまでもみ、包帯の下の化膿止めのフツと取り替えた。
 鉢巻きは血が乾いてごわごわになっていた。それを剥がすとき痛がったが、私はかねていじめられている仕返しに思い切り引き剥がした。
 傷口は血糊でふさがっていたが、やがてそこが禿頭になると思うと愉快であった。
 
大シャンが怪我をしたのは昨日の午後の事である。
緑川で泳いでいると向こう岸の小学生たちも集まってきた。今のようにスポーツの対抗試合もないし、よその学校との交流は全くなかったので、顔見知りと言うことは先ずなかった。それでジネーンと言い合いになる。
「白旗ん学校はツッパリ学校!」
「乙女ん学校はワクド学校!」 
白旗小学校は二階建ての学校だったが、両側から斜めの支柱が入っていた。
乙女小学校は平屋建てでその格好がワクド(ガマガエル)のようにつくばって見えた。
ということで、お互いの罵り言葉になっていた。
「乙女のガッコの先生は、1たす1も知らないで、黒板たたいて泣いていた!」とリズムをつけ、声を揃えて怒鳴り返すと、向こうからも
「白旗ン学校の先生は・・・」
とやり返してくる。
この言い合いが序盤戦で、やがてどちらともなく石を投げ始め、石投げ合戦になる。お互いに届かない所まで下がって投げ合うのであるが、中には平べったい石がカーブを描きながら飛んでくることもあり、頭をウッポガレて傷跡が禿になる者もいた。
 大シャンは運の悪い事に、石投げ合戦が始まった時、水泳ベコを河原に干してムチンで泳いでいた。それを取りに帰ろうとして頭をウッポガレたのである。
 
ポンポン草の仕事も済み、がやがや言いながら堤防に上がると女の子たちがポカンとして西空を眺めていた。
「あれは何ネ」
征子ちゃんが私たちの方を向いて言った。
 雲仙岳の上に何とも言いようのない異様な大きな雲がぽっかりと浮かんでいた。雲の上部は桃色で、下になるほど細く黒くなり、松茸のようであった。太陽が私たちの頭上にあったので雲の一部は白く光り輝いていた。雲は全体が大きくなり上に膨らんでいった。
「何だろう」
騒ぎを聞いて、部落に人たちが堤防に上がってきた。
 榎の木陰で一休みしていた兵隊さん達も騒ぎに気づき土手を上がってきた。
そして、みんな呆然と立ちすくみ、不安の言葉を出して西空を眺めていた。
                             (「ふるさと」83号 2009)




中嶋著作2コラム
2-1
王様に会えない
 例えば銀行のない町や村の事を考えて見よう。上益城では嘉島町と清和村がそうである。
 経済活動が盛んでない村や、その町に銀行がなくても近くに大都市があり不便を感じない町がそうであろう。
 逆から言うと銀行の支店があるということは、一つの地域経済の中心であり物流や人の集まる所であり、結果として交通の拠点にもなっている。
 もう一つ高等学校のない町や村の事を考えて見よう。上益城では嘉島町と清和村、それに加えて益城町がそうである。これらの町や村は隣接する市や町に高等学校があり不便を感じない町村であろう。
 逆からいうと高等学校があるという事は、一つの文化の中心地であり、人の集まる所であり、結果として交通の拠点にもなっている。
 つまり銀行があり高校があるということは、そこが経済や文化の中心地で、住民はそこだけで暮らしていける事を意味する。
 逆にいうと、そこに必要なものがなければ人々は遠くまでそれを求めて出かけなければならない所であり、極めて不便な場所となる。
 ところで甲佐町には銀行もあり高校もある。
しかし、しかしである。
 書店がない。図書館もない。
 (図書館は機能概念であって司書がいない、閲覧室がない、土日に開いてない、相談業務がないのは図書館とは言わない)
 頼みとする学校も、小学校には司書がいない。
 こういう状況下で、大人はともかくとして、高校生や小中学生はどうしているであろうか。
千円の交通費を払って五百円の本を買いに熊本へ行っているのであろうか。
 お母さんはどうしているであろうか。
 膝の上で読み聞かせる絵本や童話を一々熊本まで買いに行っているであろうか。
 子どもの健全育成とか、豊かな心を育てるとかいっても「心がけ」だけでは駄目である。
 本は文化の王様だという。 
 その王様がいない。
 いま計画されている生涯学習センターは図書館が中核をなしているということである。。
 まのなく、その王様に会える

コラム2-2
 砦
 「ごく普通の日本人がどんな暮らしをしているか知りたいでしょう。どうぞ私の家を自由に見てください。」
 中国の柳州市から環境問題の視察にやってきた八名は、行政の責任者や専門家を中心に構成されていた。
 窓口になっている甲佐町国際交流協会の清村一男さんから申し入れがあり、熊本の三日間を手伝う事にした。
 さて、初日の甲佐町の視察は予定より早く終了した。
 そこで冒頭の提案となったのである。

 何の準備もしていない居間に招き入れ、私は次のようにいった。
「以前、ヨーロッパとアメリカを視察しましたが、一番印象に残ったのは、アメリカの一教師から”私の家を自由に見てください。”と招待され、それこそ冷蔵庫の中まで見せてもらった事です。この事で私はアメリカが好きになりました。その経験を生かします。どうぞ自由に見てください。」
 家の内外の写真がとられ、いろいろの質問がでたが、その中には座敷に飾ってある父の軍服姿の遺影があった。「父は青島上陸作戦に参加しました。その時は貴国に随分被害を与えたと思います。その後マーシャル群島に赴き、一九四四年にアメリカと交戦中に戦死しました。」

 その日の夜に歓迎会があった。
 双方の挨拶が終わったらすぐ、団長が私の席に通訳と共にやってきた。 団員の中で一番若く、長身で明哲な風貌はリーダーとしての資質が十分に窺える若者である。
 「私の祖父は日本兵に切り殺された。」と、彼は言った。
「それで日本人に対して良い感情は持っていない。しかしあなたはアメリカ人の家庭に招かれ、その生き方を好きになった。同様に私もあなたに学んだ。 今日からわだかまりを捨て人生観を改める。」
 そして、祖父を日本人に殺された中国の若者と、父をアメリカ人に殺された日本の老人は堅く握手を交わした。
 彼は「今までの人生観を改める」と再度言った。
 後日その団長から中国の花器が贈られてきた。昨年の十二月のことである。
 
 戦争は心の中に生まれるものであるから、心の中に平和の砦を築かなければならない。(ユネスコ憲章前文)


コラム2-3
子育ての風景


たのしみは まれに魚(うお)煮(に)て児(こ)等等(ら)皆が
    うましうましと いひて食う時
 橘(たちばな)曙覧(あけみ)は幕末に生きた福井の人で、「たのしみは・・・」で始まる五十二首を「独楽吟」として詠んでいる。藩主の松平春嶽が立ち寄るほどの人物だったが、大変な貧乏暮らしで、その貧乏振りは
たのしみは あきあき(空)米櫃に米いでき 
今一月は よしというとき
からも窺える。
そういう中にあって、子どもにも十分な暮らしをさせることも出来ないが、たまたま手に入れた魚を食べさせることができ、親としての幸福感にしたっている情景である。
ところで、橘曙覧は一緒に魚を食べているであろうか。目を閉じてこの風景を想像すると、どうもそうではなく、こどもが喜んでいるのを見るだけで満足している姿が浮かんでくる。
 近頃は夕食にカップ麺を与え、夫婦でパチンコに行く保護者もいるそうである。

お月見
非行を犯した少年が社会復帰にための訓練を受けている施設を訪問したことがある。
 見せられた資料に、ここの少年と警察学校生との幼少期の体験の比較があった。比較対象が東大生でないところが面白い。
調査の目的は、「このような育て方をすれば非行少年にはなりませんよ」というデータを示したかったであろうが、「家族旅行」も、「誕生会」も「クリスマス」も「運動会で手作り弁当を食べる」も「父親がPTAに出る」も三十項目ほどある殆どが両者の体験に差はなかった。
ただ一つ、おや、と思ったのは「家族とお月見をしましたか」という項目があり、非行少年の体験が極端に少なかった。例えば「クリスマス」と「お月見」を比べ、その雰囲気を想像してみるといい。ここらに家庭教育の手懸りがありはしないか。

雨傘
ある小学校に勤めていた時の話である。
私が通勤路にしていた野道は児童の通学路にもなっていた。ある風雨の激しい朝、私の車の前をハザードランプをつけながら徐行している車があった。何気なく追い越すと、車の前には兄弟が雨合羽を着て笠をさし、一列になって登校していた。後をついて運転していたのは彼等の父であった。
学校に着いた私は、やがて登校口の下駄箱の前で、父親から着替えの入った袋を受け取っている兄弟を見た。その後も何度か同じ状況が見られた。
集団下校で班別下校をさせると、校門でわが子を待ち受け、列から引き剥がして車に押し込んで帰る親もいるとき、これはまた何と言う風景であろうか。

橘曙覧はこんな歌も詠んでいる。
 たのしみは 三人の児ども すくすくと 大きくなれる 姿みる時
コラム2-3
チョコレート
 その夜の公民館での話し合いは「子どもの健全育成」でした。先生やPTAは勿論、町会議員さん、自治会の役員さん、民生委員さんなど多くの方々から多くの意見が出ました。
会が終わり近くなったとき、PTAの母親部長をしている友田さんが言いました。
「私の息子は、不器量で愛想も悪いですが、先日、バレンタインデーにチョコレートを貰ってきました。ガールフレンドが出来たか、と嬉しくなりましたが、よく聞いてみると山本さんの奥さんからだったそうです。朝、新聞受けの所に立っておられて『毎朝ありがとう』と言って手渡されたそうです」
 いきなり名指された老人会長の山本さんは
「俺にはやらんで!」と、ぶっきらぼう言われましたが目元は笑っていました。あれは照れ隠しで、きっとご夫婦で話し合われての事だと思いました。
 会は間もなく終了し、私は家路を辿りながら、明朝、凍てついた道を自転車で新聞配達する友田君の事を想っていました。


コラム2-4
読めないような名前は付けるな
 
 知人の子どもが通う小学校の名簿を見て驚いた。
半数近い名前が素直には読めない。
読み進めていくと「夢」いう名前がありホッとしたら、何と「どりむ」ちゃん、だそうだ。
以前にも確かに読みにくい名前はあった。しかし友人の「恕」君や「不羈雄」君の如きは親の漢籍に対する学識の深さがわかり、逆に読めなければこちらの教養のわかってしまう、そのようなものであった。
また、例えば「ヨウコ」と言われたとき、「ヨウコのヨウはどんな字を書きますか」というように表音文字(例えばアルファベットやハングル文字)を使っている人々からすれば煩雑で手間暇がかかった。
しかし今流行している読めない名前はそれとは少し違うようだ。
「見野留」君は、男の名前に多い「実」を漢字に置き換えたものであろう。付けた親は奇を衒って粋がっているであろうが、既に千数百年も前に同じ手法で万葉仮名が発明されている。
「朋弓桂」君にいたっては、これがどうして「りゅうじ」と読むかは全く判らぬ。
漢字を表音文字として、あるいは字づらが整っているということだけでデザイン的に命名するならば表意文字としての漢字の良さは失われてしまう。
確かにわれわれの祖先は、大和言葉を表記するには数ある表記のうちで漢字が一番適しているから取り入れたのではない。
たまたま最初に出会ったのが漢字だったからにすぎない。漢字だけでは表記できないということで仮名文字が発明され現在では漢字かなまじり文を使用している。
戦後、一時期漢字による表記を廃止して表音文字を採用しようではないかと議論になった事がある。
表音派は破れ去ったが、書く方法としてはパソコンではローマ字派が、ケータイでは仮名文字派が勝利を得、広告やブランド名ではカタカナ派が勝利した。
日本人同士が外国人の前で「あなたの名前は何と読むのですか」と聞いたりしたら、日本の識字率100%は嘘かと唖然とされるであろう。
漢字を表意文字として使うような者は、いっそうの事、出生登録にはカタカナも認められているから、そうしたらどうであろうか。
何と読むのか判らない、しかも意味不明の人気漫画の主人公の名前ばかりで教室が満たされたら、個性もへったくれもあったものではない。
今は世間が驚くような名前でも、人間の考える事は大体同じだから、成人した頃は皆同じ名前ばかりになり、何の変哲もない平凡な名前になってしまうであろう。
案ずるに、文化協会の会員には生まれた子どもに命名権を行使するような元気者はいないようだから、せめて孫のために遠慮せずに老婆心を働かせるべきである。

コラム2-5
個の中に普遍が宿る
誰の言葉か思い出せないが、若い頃読んだ哲学書にあったような気もして調べたらカントの言葉に似たのがあるが、どうも少し違うようだ。
 何故この言葉を思い出したかというと、「白旗小学校百年誌」の編集に携わったからである。
深遠な形而上学的意味が込められているかも知れないが、「俺流に」単純に解釈した。

みんなで勉強うれしいな 国民学校一年生
 私は昭和九年生まれであるが、この年に生まれた者が際立って憶えている唱歌に「元気で体操一二三 国民学校一年生」がある。高等学校の同級生にも聞いてみたが同様であるので、白旗小学校の一年担任だけが熱心に教えた訳ではないようだ。
この年に小学校は国民学校に名を改めたのだから、一級上の者が懐かしむ歌ではない。また、五、六年後輩も歌えない人が多い。
このように記憶に残る唱歌一つの事から当時の教育の様子や、日本の政治状況、ひいては国際情勢が解かってくる。何故、世界中を相手にした無謀な戦争に国民の誰もが反対できなかったのか、何も「日本近代史」を読まなくても白旗小学校で何が起きていたかを知れば解かる。
同様に今の私たちの子どもや孫に、自分の経験してきた事を話せば、その事を通じて「現代史」は解かるというものである。

蓑着て笠着て鍬持って お百姓さん御苦労さん
「今年も豊年満作で」と続くこの歌は、戦後、ラジオから流れてきた歌だ。少年ながら私も文字通りの姿で田植をした。
 政府も三百万人餓死すると予測して多大の予算を注ぎ込んだので農村は復興した。
時移り時代は変わって細川内閣のとき、ウルグヮイラウンドで米の輸入を認めた見返りに二十兆円もの農林予算を注ぎ込み農産物の自由化に備えた。私たちに見える形では、県南からの農産物を熊本空港から輸出するために架けた甲佐大橋がそれである。
今頃は農産物を満載したトラックが轟音を響かせながら甲佐大橋を駆け抜け、世界中に熊本の野菜や果物が輸出されているはずである。0が9つ並んだ農水省の予算を見るより、何に税金が投入されたかがよく判る。

トントン トンカラリンと隣組
この歌は「あれこれ面倒 味噌醤油、ご飯の炊き方垣根越し」と続き、「カチャリ」の良き風景を醸し出していた。 
いま、一人暮らしの老人が多く、専業農家に若者がいず、若者は結婚しないのは私の部落だけの話ではないので、自分の部落の状況をよく観察すれば、日本の現況がよく解かる。
また、十年後、自分の住んでいる部落がどうなっているも容易に予想ができる。それが日本の農村風景である。
何もテレビのルポを見たり、評論家のご宣託を聞いたり、統計を見る必要はない。

コラム2-6
五百円の幸せ
年を重ねると、ろくでもない事が多くなるが、時には思いがけぬ幸運に出合う。
全映座、太洋デパート横にあった三番封切りの映画館の小便くさい座席で、進駐軍と共に観た映画に五十年後再び出会うなんて、夢のような話だ。
しかも名画のDVDがワンコインで、甲佐の店頭で買えるなんて十年前まではとても考えられなかった。
若い頃は心をゆさぶった映画でも、社会派の作品を茶の間で観るには気が重いが、今また年寄りに感銘を与える作品もある。人それぞれ想いは異なると思うが、以下は私の思い入れで選んだ数編である。

カサブランカ
 今でも時々、コマーシャルで「昨夜?そんな昔は覚えてない。今夜?そんな先の事はわからない」なんてやっているから、皆の心に残っている名画であろう。
第二次大戦のさなか、ドイツの支配下の北アフリカ。明日の命も知れぬ中にあってフランスのレジスタンス運動に身を捧げる人々や亡命者。圧巻はドイツ将校が合唱する第三帝国国歌に対抗して、お客が総立ちになってラ・マルセイエーズを合唱する酒場の場面である。アメリカの戦意高揚映画でもあろうが。
それにしてもイングリッドバーグマンの美しい事よ。「君の瞳に乾杯」

心の旅路
 記憶喪失者がマスコミを賑わすと、「心の旅路は・・・」という言葉が出てくる。  今でも好んで取り上げられる格好のテーマであるが、その嚆矢はこのイギリス映画であろう。
第一次大戦後のイギリス。戦いで頭を傷ついた若者と、その記憶を取り戻そうと寄り添う踊り子のラブストリー。
このテーマは安直になり易いが、この映画はブロットがしっかりしていて、前半の何気ない場面、例えば霧や群集の騒音や楽器の響きや戸の軋みや会話が伏線となって後に重要な意味を持ってくる。主演のコールマンの口髭、つまりコールマンひげが懐かしい。

怒りの葡萄
世界恐慌の最中のアメリカの農村で流民となった一家の物語である。悲惨な暮らしの中にあっても心豊かな人々が登場し、最後の場面でかすかな希望の光が見える。
土地を奪う大地主を大企業、土地を追われる農民を派遣社員に置き換えれば、この映画は「第一次世界恐慌」の時何が起きていたか、どう考え何をすべきかを「第二次世界恐慌」の最中にいる私たちに贈るメッセージである。

静かなる男
他愛もない映画で、アイルランドを舞台にしたジョン・フォード監督の人情喜劇の西部劇だと言ってしまえばそれまであるが、アイルランドの田舎の風景と民俗習慣や民謡が、どういうものか私たちを昭和初期の古きよき時代の日本に経ち帰らせて心和ませてくれる。私もジョン・ウェインを真似てハンティングを冠った事があったなぁ。


コラム2-7
花の文化

 幕末、日米通商条約批准のために咸臨丸で渡米した木村摂津守は、ある日アメリカの要人の求めに応じ、小判など日本の貨幣を贈った。随員の福沢諭吉は、それについて次のうに述べている。
 「その翌朝、昨日は誠に有り難うと云って、そのおかみさんが花を持って来てくれた。私はひそかに感服した。人間というものはアアありたい。いかにも心の置き所が高尚だ。金や銀をもらったからといってキョトキョト悦ぶのは卑劣な話だ。アアありたいものだ」
 花を贈る社会的風潮をもってアメリカ社会の文化的レベルの高さを見事に喝破している。
 面白いことに、室町時代に初めてヨーロッパから日本にやってきたフロイスなどの宣教師は、わが国の庶民が朝顔や菊を丹精込めて栽培し観賞しているのを見て、当時の日本の文化と民族性を高さを賞賛している。
 つまり、花とどのようにかかわっているをもって文化水準を計る指標としており、このことは現在でもわれわれは、無意識のうちに使っている指標の一つである。
 例えば延岡から国道をドライブしてくると、沿線に咲きこぼれていた花が熊本県に入ったとたんに途絶えてしまう。逆に熊本市から県道を甲佐方面にやってくると甲佐町に入ったとたんに道端の花が出迎えてくれる。
 旅人はそのことで県民性や町民性を類推するであろうし、その結論は概ね妥当である。
 さて、来年の「県民文化祭」は二巡目3番バッターとして上益城郡が会場となる。残念ながら一巡目は上益城郡だけが開催出来ず素通りしてしまった。 
 熊本県は一巡目の反省に鑑み、今回は「今後の産業振興、地域振興につながる文化祭」とし、「今あるものに磨きをかけ、気づかなかったものを発見する」ことを基本方針としている。
 甲佐町は、花の生産量とその種類の豊富さにおいて熊本県随一である。
冒頭に述べてとおり「花あるくらし」は文化そのものである。来年の県民文化祭を機会に町の基幹産業である「花」を文化の面から見直したいものである。






コラム2-8
映画「西住戦車長」
――― 何とも不思議な映画 ―――

ある時期、「甲佐」の地名が「西住戦車長」とともに全国に知れ渡ったことがある。週末ともなると、甲佐駅から降りた人並みが延々と仁田子まで続き、出店が立ち並んだという。
 考えてみると肥後熊本の人物で劇場商業映画の主人公となったのは、宮本武蔵と西住小次郎だけであろう。
 西住小次郎は昭和十三年五月、徐州作戦の途中で戦死した。二十五歳の青年の平凡な死はそのままで終わるところであったが、同年十二月になって突然「軍神」として発表され、「昭和の軍神第一号」として世の賞賛を集めるところとなった。
軍神になった理由として、作家の司馬遼太郎は「日中戦争を拡大するために」「日本にも戦車があるぞ、という事を内外に宣伝する必要があった」と述べている。
 さて、翌年になり菊池寛は「西住戦車長伝」を書き、それにもとづいて昭和十五年に松竹映画「西住戦車長伝」が作成された。上原謙が主演するこの映画は、この年の選考で二位となり、興行的には首位になった。
 それから六十七年の歳月を経た今年の六月十日に町の生涯学習センターで文化協会主催で上映され、六百名の会員が鑑賞した。
 この映画や西住戦車長に対する想いは人それぞれであろう。
以下は映画そのものに対する私の個人的な感想である。
 なにしろ作られたのが太平洋戦争の前年であり、国家総動員法のもと、陸軍省の援助で戦車や弾薬が惜しげもなく使われれば、敵愾心をあおる戦意高揚の国策映画であろうと誰でも思うであろう。
事実私もそのような戦争映画だと思っていた。西住戦車長が敵弾にあたり「天皇陛下万歳」といって、にっこり笑って死ぬ場面を想像していた。
 しかしインターネットをみていたら「あれは日本版『西部戦線異状なし』だ」という感想が出ていた。
 もし主人公が無名の青年で前後のナレーションがなかったら、そういう反戦映画としての評価も出てくるであろう。
なにしろ重傷を負ってから死ぬまでがやたらと長く、夜の野戦病院に負傷者が続々と運び込まれ敵弾が破裂する轟音で何と言っている聞こえないなかで死んでいくのである。
暗澹たる気持ちになり、とても敵愾心など起こりようもない。
非戦映画とまでは言わないが、少なくとも勇敢さを誇示してヒロイズムを煽る戦争映画ではない。
私はそこに治安維持法のもとであっても出来る限りの抵抗を試みた文化人の心意気を見る。
菊池寛は同名の脚本を書き、それは東京劇場で上演されたが、場面は戦死した兄の事を思う弟の手紙の場面と、死んだ中国人の嬰児を弔う二場面であった。
松竹の城戸四郎社長しかり、脚本の野田高梧、監督の吉村公三郎もそれぞれの立場で良


2-9
オハイムスメ

甲佐町文化協会長
            中嶋 敬介

 その日の英語は先ず私が発表する番になっていた。予習は十分にしてきた。
自信はあった。 授業が始まった。
 「中嶋!訳しなさい。」 
 「あるところにオハイムスメという・・・」。
 「何だって?オハイムスメ!?」
 先生は素っ頓狂な声を上げられた。何かしくじったかな? わたしはあわてて単語帳を見た。もう一つ訳が書いてある。
 「ハイカブリ・・・」。
 「エッ、何だって?」
 先生は絶句された。沈黙が教室を支配した。ややあって先生は声にならな笑いをされた後、おだやかに言われた。
 「すまん、すまん。それはそのままシンデレラでいいんだよ。」
 ああ、何たることか。今にして思えば、国民学校の卒業生は戦争が終わって四年経っても、世界中から愛されている美少女を知らなかったのである。
 (付言すれば、たばこの巻紙になるのをまぬがれた研究社の「英和中辞典」には「お灰娘」「灰かぶり娘」の訳が出ていた)

 まだある。活字に飢えていた「少国民」は、戦前に発行された「少年倶楽部」の古本を物置から引っぱり出してはむさぼり読んでいだ。
 その中に理解困難な四コマ漫画があった。
 都会の少年が広場で遊んでいると、犬が紙袋を盗む。少年が追いかけると、犬は土管に住んでいる目の不自由な老人にそれを渡す。それを見て少年は取り戻すのをあきらめる。紙袋には「アンパン」と書いてあった。
 「アンパンってなんだろう。よっぽど美味しいものだろうなあ。」
 ああ、何たることか。今にして思えば、戦時中の田舎のこどもは小学五年生にしてアンパンを知らなかったのである。

 さて、今日では外国と日本、都会と田舎の文化の格差はなくなった。
 しかし今、それ以上の格差が世代間に生まれている。
 「ケータイを持ってない? ウソー、信じられなーい」
「テレビ番組の予約ができないの?ウソー、信じられなーい、」
「インターネットで情報検索ができない? ウソー、信じられなーい」

コラム 2-10
チョー気持ち悪ィー

 コンビニで買い物をして千円札を渡す。
 「千円からよかったですか。」レジの若者の声。
 近頃は妙な日本語をつかうようになったものだと、口から出かかるが、どうせこの茶髪の若造には理解できないだろうと店を出る。
 「アリガトゴザイマあース」と、歌うような、人を小馬鹿にしたような声が追いかけてくる。不愉快だ、次回から別の店に行くとするか。

 ガソリンスタンドに寄る。
 ここでもアルバイトの店員が注油口を開けながら「満タンでよかったですか。」
「ヨカッタとは何だ。まだ入れもしてないのに過去形で、ものを言うな。〝よろしいですか〟 と言え」と口から出かかるが、まあいいか、気分なおしに飯でも食うか。

 カワイコちゃんが「昼定でよかったですか。」と応対する。
「よかった」とは何事だ。日本中いつからこうなってしまったんだ。

 帰りに地元の農産物を売っている店に立ち寄る。
 ドライブ帰りの若夫婦が「すごいきれい。このキャベツとか、生で食べれる?」店主に尋ねている。
 傍らでジーパンの夫は「自分的にはロールキャベツがいいと思うよ」と言う。
 ここにきて怒り心頭。 
 「〝スゴイキレイ〟 とは何事だ。形容詞を修飾するのに形容詞を使うな。〝スゴクきれい〟 と副詞を使え。キャベツしかないのに並立助詞の”トカ〟 を使うな。
 まだあるぞ。受身の助詞の〝ら〟を抜くな。〝食べラレル〟 と言え。
 もっとあるぞ。〝家庭的〟 や〝国際的〟とかは聞くが〝自分的〟など聞いたことがないぞ。どうなってるんだ、日本語は。」

 私も昔は〝頭の切れる男〟と言われていたが、年のせいか今は別の意味でキレ易くなっている。
 本当に切れてクモ膜下出血でも起こしたら大変だ。
 早く帰って、昨日つくったコノシロ鮨が食ベレルようになっているから、スゴイおいしい焼酎トカ飲む事にするか。


コラム2-11
下校時が危ない

潜在危険予知能力
 「下校時が危ない、この時間帯に通学路を散歩して児童生徒を守ろう」と、本会の「教育の日推進委員会」が決定したのは、昨年の七月十六日である。
 この期日に注意してほしい。
 あの痛ましい奈良や栃木の事件が起きる四か月も前のことである。
 この時期、いま新聞を賑わしているようないろいろな団体の警戒や、ましてや行政やマスコミのキャンペーンは一切なかった。
 それでいて、何故このような決定をしたのか。
 事物の本質の裏側に潜む危険を予知する能力、いわゆる潜在危険予知能力は、多年にわたる経験積み重ねと専門職としての洞察からくる「このままでは何かが起きる」というカンである。
 つまり、上益城退職校長会の会員二百八十名余の研ぎすまされた直感の収束の結果でそうなったとしか言いようがない。
 さて、この運動は本会の独自の運動であり、その趣旨の徹底、参加者募集、教育委員会・学校・警察等などへの連絡をなど、二か月半の準備を経て「くまもと教育の日」制定の記念行事の一環として、十月一日より開始された。
 なお、関係機関へは、この運動の趣旨と必要に応じてその場で適切な処置をとったり場合によっては関係者に連絡をすることがあるかも知れない旨通知を出した。  

 われわれは当初から、この運動の重要性を深く認識していたが、当時世間は無関心であった。
そして、あの忌まわしい事件が起きた。

徳孤ならず必ず隣あり
 善い行いは、さりげなくやっていても、誰かが見ていて見習うものである。
 目立つような制帽やジャンパー、腕章、タスキ等つけてはいない。まして、街頭に立って旗を振るのでもない。
 ただ、子どもの下校時に合わせて子どもとすれ違い、ある時は寄り添いながら歩き、必要に応じて適切な処置をとったり場合によっては関係者に連絡するだけである。
 しかし、この通学路を歩くという単純な行為は「定点」から「面」への広がりを意味していた。
 十一月にはいり、ある人はわれられの取り組みに共鳴して個人で「通学路の散歩」を始めた。
 また、ある団体は本会にその具体策を問い合わせてきた。

 七十五名の陰徳善事
 本会員の「下校時通学路散歩」は上益城一円から熊本市の一部に広がっている。
 関心のある町や学校からは励ましの言葉や、会合に呼ばれて意見を求められる校区もある。
 また、抑止力を期待して制帽やジャンパーを寄付いただいた校区もある。
 社会のためと思って始めたこの取り組みも、「お陰で散歩が日常化して自分の健康にはねかえってきた」という話も耳にする。
 陰徳あれば必ず陽報あり。
 人に知れぬようにやっても、よい報いは必ずある。まさに准南子の言葉の通りである。
 いま、会員七十五名が次の場所で、さりげなくさわやかに散歩している。
・ 博物誌 1 
やまいも
五十過ぎたら八味丸
 やまいものシーズンである。掘りたてもおいしいが、一冬越すとねばりも甘みも増して美味になる。 
 やまいもはジアスターゼなどの消化酵素が多いのみならず、スライスして干し上げた八味丸は、古来より漢方薬として腎虚(西洋医学ではINPOという)の強壮精力剤として用いられている。やまいも掘りを趣味としているH氏はこの季節になると、家内から、また今夜もですか、と言われると嘆いてみせる。「山うなぎ」と言われる所以である。
 さて、世界にはジャガイモ・サツマイモなどイモ類は多いが、生で食べられるのはヤマイモだけである。
 ヤマイモは世界に六〇〇種類ほどあり、そのうち日本で食べられているのは、自然薯(ヤマイモ・山野に自生する)・長イモ(スーパーで市販されている、主に北国で栽培される)・大薯(暖地で栽培されている)の三種類である。
 そのうちの長イモはその形によって、ながいも(自然薯に似て長い)・いちょういも(銀杏の葉の形をしている、甲佐では家庭菜園で栽培する)・つくねいも(球状、関西で栽培される)に分けられる。
 いずれも「やまいも」と呼ばれているが、以下述べるのは自然薯の事である。

掘る     
 この章は竜野の森本秀夫さんの話をである。
 秋から冬にかけてが、山芋掘りのシーズンである。晩秋になると山芋の細長いハート型の葉がきれいな黄色に染まるので素人でも容易に見付ける事ができる。よく似た葉に「ところ」があるがこれは扁平なので見分けだつく。
 冬になると山芋のカズラは一節毎にバラバラになって落ちているので、山芋の所在を見付けるのは容易ではない。
 熟練者はこうする。
 先ず木の梢にからみついて残っているカズラを探して山芋の大小を見分ける。近くにハゼやウルシの木がないか見定める。穴の中に首を突っ込んだようにして掘るので、かぶれないためである。
 そして落ち葉と混在してバラバラになっている一本一本の節を探し出して、山芋のある方向を、あたかもホームズが犯人の足跡をたどるように探す。これに通暁するのは大変な経験が必要だが、例えばカズラの節は末端に行くほど長くなるので、短いカズラがまとまって落ちていたらその近辺に山芋があるということになる。
 もう一つは「ヒゲつなぎ」といってヒゲ根をたどる方法がある。山芋は本体の芋とは別にヒゲ根(正しくは吸収根という)が八本程度あり地表を放射線状に走っている。長さ一mもあるこのヒゲ根は腐葉土から栄養分を取り本体に溜め込む働きをする。それを二本見つけて延長すれば、交差する所が即ち山芋の所在地である。
 一番判りやすいのは、まだ茎が切れていない秋に、目印に麦種を播いて置けばよい。
 満山冬枯れの時節に青麦が伸びているのでいやでも目に付く。ただ他人に先を越される心配がある。
 山芋を見付けたら、首の所を爪先で削って見る。しばらくそのままにしておくと茶色のアクで白い芋が染まる事がある。これは虫食い芋で食用にならないので次を探す。
 先ず五センチ位離れた場所に長径五〇センチ位の縦長楕円形の穴を掘る。穴は斜面だったら下の方、木があったらその反対側を掘る。「山芋掘り」の細長い鍬を使って三〇センチ位掘り下げたら山芋が見えるまで穴を慎重に広げていく。山芋の茶白の肌が見えたら、そこで広げるのはストップして山芋の方向を見定める。天然物に真っ直ぐな芋はない。二叉になっているのもある。山芋は絶対に穴の壁面から離さない。
 掘り穴は小さい程良い。穴が倍になれば土量が四倍になるのは小学校五年の算数の問題である。
 しかし穴が小さいと作業がしにくくなる。そこで特別な工夫が必要で、掘った土は鍬にペタリとくっつけて上げる。この技術が全体の成果を左右するので、土が着いて上がるように工夫した鍬を鍛冶屋に別注する人もいる。
 深くなるにつれて山芋がだんだん大きくなる。そして肌が白くなる。先端から生長するからである。
 ただし、去年の芋が再びまた肥大するかというとそうではない。芋の首から別の芋が生長して去年の芋を栄養分として吸い取って大きくなるのである。だから何年もそこに生えていた山芋でも食べる時は首から尻尾まで今年生長した山芋である。これはなかなか理解し難い事であるが、家庭菜園にジャガイモを植えると種芋は肥大せず、新ジャガイモに栄養を取られて干からびた種芋になっているが、あれと同じである。故に六月頃山芋を掘ると新旧二本の山芋を手にする事ができるが、そんな馬鹿はいない。
 さて、山芋は五~六年で一m程になる。先端まで穴を掘ったら、いよいよ至福の時を迎える。一服した後、穴の壁面から山芋を剥ぎとる。下の先端から少しずつ慎重に剥がす。そして地面から二〇センチ位の所で折って全体を引き上げ、収穫の歓びを味わいながら折れないように添え木をする。
 絶対に折らないというのが山芋掘り人のプライドであり、男の美学である。
 これで終わりではない。穴を埋め戻さなくてはならない。最後に、残しておいた首部を植える。五年後を期待しながらその場所を覚えておく。
 一本掘ると土質が判るのでその近所を探す。表土が腐葉土で、下が赤土の層がよい。こういう場所は山芋の質が緻密で美味しく、土が鍬に付いてくるので作業がしやすい。甲佐では御船台地・船津台地・竜野などがそうであるが、竜野は猪の害がひどく五〇センチも掘って食べられていて昔日の面影はない。
 一本掘るのに小一時間かかる。若い頃は一日に萱で編んだカゴいっぱい掘ってきた事がある。大きなのは一五〇センチもあった。
 山芋掘りは孤独な仕事である。前屈みになって「こん畜生」とか「こら太か」と独り言を言いながら掘るのであるが、この姿勢は酔っぱらいが首をうなだれてご託をならべている姿に似ていて、「山芋を掘る」という慣用句はそのような酔っぱらいを指すようになった。

採る     
 山芋には雌株と雄株がある。受粉して出来た種が「てんぐの鼻」である。
 だから「てんぐの鼻」があるのは雌株だけで雄株にはない。
 「てんぐの鼻」の中には小さな種子が入っており、これが飛ばされて子孫を増やしていく。
 山芋が子孫を増やすには今一つ栄養生殖がある。ムカゴがそれである。栄養生殖(クローンといったが解りやすい)は受粉によらずに繁殖する方法で人為的には挿し木などがある。
 カズラは上に向かって伸びるが、カズラが低木にからみつくとそこで行き止まりになる。余った栄養分は葉の付け根に葉腋としてにじみ出て大きくなる。それがムカゴである。したがってムカゴは雌株にも雄株にも着いて、やがて地上に落ちて発芽する。組成は山芋と同一である。
 そのムカゴ取りの時節になると気分が高揚してくる。
 まず釣竿を二本用意する。野鯉用の太棹がよい。
 晩秋の良く晴れた一日、それを積んでドライブに出かける。黄色く色づいた山芋の葉を見つけると、やおら自動車を路肩に止めて一本の竿先に洋傘を開いて括り付ける。一人が洋傘をさしのべ、一人がムカゴをたたき落とす。
 一箇所で一合位は獲れるが、異様な風景となる。何事が起きたかと、物見高いドライバーから好奇の眼差しで見られることを覚悟しなければならない。一升も集めると一冬のビールのつまみには事欠かない。

食する 
・なんといっても「とろろ汁」に優るものはない。
おいしく食べる留意点をいくつか。
 ① 皮をむき、薄い酢水につけてアク抜きをする。
  手がかゆくなる事があるが、これは皮付近に含まれる蓚酸カルシウムのせいで、この  物質は酸に弱い。後で薄い酢水で洗うとよい。
 ②カッターやミキサーですり下ろしてもよいが、最後は舌触りと旨味を出すために、す  り鉢で摺る。表面にアワが出るまで摺る。卵黄を入れてもよい。
 ③冷たい出し汁を入れる
  麦飯にかけるのは、やまいもの中にデンプン分解酵素ジアスターゼが含まれている(大根より多い)からである。この酵素は熱で破壊されるので必ず冷めた汁をそそぐ。

・むかご
 スナックなどではフライパンで煎ったり、ボイルしたムカゴを出される事があるが、あれは駄目である。
 ①洗う。
 ②皿に入れ精製塩(自然塩では駄目)を振りかけてまぜる。
 ③ラップをかけないで電子レンジでチンする。 
④水分が蒸発して、ムカゴに着いた塩が白くなったら出来上がり。
そとからの熱でないのでフックラとふくらんだ、いい塩味のつまみが出来上がる。無農薬有機自然物。これに優る健康食品はない。

・いもがゆ
 芥川龍之介の名作「芋粥」でも判る通り、「とろろ汁」普及したのは鎌倉仏教が盛んになってからで、それまでは「いもがゆ」が中心であった。その作り方をを。
 ①山芋は皮をむいて一センチ角に切る。
 ②山芋と同量の米と一緒に炊飯する。水は米の十倍から二十倍とする。
 ③調味料は入れない。山芋の持つかすかな甘みとほのかな香りは薬膳料理の真髄を堪能できる。(平安時代は甘葛を入れた。)
        (「ふるさと72号」1998)

・ 博物誌 2 

ゆきねり
 サルが投げつけた柿
 白旗小学校を過ぎて少し行くと、右手に柿の巨木が数本見える。寒風吹きすさぶ季節になっても、この柿だけは実をたわわに着けてその威容を誇っている。霜が落ち始めると、なお一層旨味を増す。「雪練り」といわれる所以である。
 実は何を隠そう、あれは不肖中嶋家の柿であります。 清正公さんがこの柿を見上げ「見事な古木である」と感嘆したというのだから樹齢のほども知れようというものである。戦後の甘みに飢えていた時分には友人から随分羨ましがられたが、今はカラスの餌になっている。
 このユキネリは美味であるが商品にはならない。甘柿と渋柿が混じり、しかも一旦甘くなった柿も月夜の晩に再びカヤッテ渋くなるという。
 柿は完全甘柿・不完全甘柿・不完全渋柿・完全渋柿の四種に分類されるが、ユキネリは甘柿と渋柿が混じる不完全甘柿に属する。
 ゴマがなくても甘い「冨有」や「太秋」は完全甘柿、ゴマが多い「元山」「小春」は不完全甘柿である。 
 話は違うが「さるかに合戦」で、サルは高い柿の木に登り、甘い柿は食べ、渋いのは投げつけたとある。またユキネリは主幹の頂部の生長が早く高木となる。そうすると「さるかに合戦」の舞台はユキネリであろう。
 「富有」などの完全甘柿も幼果の時は渋く、それを投げたとも考えられるが、完全甘柿は「枝変わり」を人為的に選別して改良したのであり、昔話に時代には存在しなかった。。

ゴマは甘くない
 それにしてもユキネリにはどうして甘いのと渋いのと両方実るのであろうか。
 先に柿には四種類あると述べるたが、幼果はいずれも渋い。これは当然の事であって、タネの未熟の時から美味であったら子孫を残す事はできない。そこで植物はタネが未熟の間は食べられないように種々なガードをする。
 梅のように酸っぱい果実でタネを守ったり、ウルシのように辛かったり、ニガゴリのように苦かったり、バナナのように渋かったりする。
 シブは皮なめしに使われるが、われわれが渋味を感じるのは舌が皮なめしの状態になった状態である。だから口を濯いでも渋味は取れない。
 渋いのを無理に食べると「渋みのあるいい男」にはならなくて渋滞、即ちクソヅマリになり、苦渋に満ちた顔になる。
 さて、柿は渋いままでは子孫を残す事はできない。動物に食べられてタネを運ばれ、そこで子孫を増やさなければならない。そこでユキネリ、つまり不完全甘柿がとった方法は次の通りである。
 幼果にはタンニン(渋)を含む細胞と糖(甘み)を含む細胞の二種類があって、柿の実が大きくなるにしたがって、この二つの細胞はどんどん肥大していく。六月から八月にかけて甘味と渋味は極限に達するが、渋味の方が刺激が強くこのままでは食べられない。
 そこでタネが成熟すると、タネからエタノール(アルコール)を出す。このエタノールはアセトアルデヒドに変化してタンニンと結びついてゴマとなって固まる。
 (二日酔いで頭痛がするのはこのアセトアルデヒドのせいである。また酔っぱらいの息が熟し柿のような臭いがするのも同様である) 
 つまり、それまで液体だったタンニンが固体となる。われわれが味を感じるのは舌の味蕾であり、これは液体だけを感じとる。固体になったタンニンは渋味が感じられなくなり甘柿となる。
 ゴマはタンニンの固まりで甘くない。
 柿の受粉はミツバチなどでおこなわれるが、うまく受粉しないとタネが結実せず、したがってタンニンの凝固が十分でなく渋味が残る。また、一つの花は四個に分かれ二子室あるので八個のタネが出来る。それで受粉しない子室があると、その部分だけが渋い柿が出来る。
 また、ユキネリは樹勢が強く、秋になっても果実が肥大することがある。そうするとタネからのエタノールの分泌は既に終わっており、その部分は渋柿となる。
 昨年の八月三十日の強烈な台風は、柿の葉っぱをすべて吹き飛ばし、自然の壮大な実験場となった。
 小学五年の理科で習う通り「植物の葉は光合成をしてデンプンを貯える」のであるが、葉がなくなった柿の実は、八月三十日で成長が止まってしまい、その影響でユキネリの果実は全部甘柿になった。この時期までにタネはエタノールを出しきってタンニンは凝固しており、それ以後果実は肥大しなかったからである。
 つまり、ユキネリに渋柿が多く混じるのは、ユキネリが晩成であることから起きる現象であることの証拠となった。同じ不完全甘柿でも元山や小春に渋柿が少ないのは早生だからであろう。

タヌキが落果を防ぐ
 夏から初冬にかけて、タヌキの糞の中には柿のタネが数多く混じっている。翌春になって、いわば肥やし付のタネは発芽して桃栗三年柿八年の通り結実する。
(ついでに言うと、柿八年は実生からの結実であり、甲佐初市の苗木は接ぎ穂なので三年で初成りする。また、サルカニ合戦では「早く芽を出せ柿のタネ、出さぬとハサミでチョンギルぞ」と脅されて柿は芽を出してやがて甘柿が実るが、タネから発芽した柿は「先祖帰り」して渋柿になるのが普通である)
 仮に十年目にその実をタヌキが食べて百メートル先にタメグソをすると、甲佐に落ちた柿は二十万年後には北海道で結実している事になる。
 このようにして柿は分布を広げていく。もともと柿は温暖の地の植物であり、原種は渋柿であった。甘柿は枝変わりである。それで九州では甘柿と渋柿の割合は半々であるが、東北地方では九割が渋柿である。 
 近年路上にタヌキの死骸を多く見かけるようになり、それとともに柿の落果が少なくなった。両者には密接な関係がある。
 柿の落果は二度起きる。六月頃落ちるのは受粉不足・なりすぎ・肥料不足・日照不足による「生理的落果」で、このときはヘタごと落ちる。九月から十月にかけてヘタを木につけたまま落果するのは、ヘタ虫の害によるものである。(木枯しの吹く頃、柿の木を見上げて、ヘタが木についていたらヘタ虫の食害を受けている木である。)
 ヘタ虫の幼虫は果実とヘタの間にもぐり込み(柿の表皮に黒い斑点があるのでわかる)柿の養分を吸い取って生長する。成虫は樹皮にもぐり込んだり、果実とともに落果して越冬し翌春蛾となり産卵する。
 ヘタ虫はこのように樹上と地上を巡回するので、落果した柿を始末さえすれば四~五年で絶滅することができる。
 さて、狸はケモノヘンに里と書くように、もともとは人里に住む動物であった。それが例のカチカチ山の一件以来、タヌキ汁にされるのを恐れて奥山に逃げ込んでいたが、近頃その心配もなくなったのかワンサと山から下りてきた。 柿はタヌキの大好物であり、落果した柿には特に目がない。結果としてタヌキはヘタ虫防除に貢献している事になる。

あおし柿
 秋になるとリヤカーに柿をのせて「あおし柿売り」がやってきた。
 古くから、渋柿を甘くする方法として湯の中に柿を浸す方法が取られてきた。四十度で十五時間浸けておくと渋が抜ける。四十度は風呂の温度であり、あおし柿特有の臭いは、家族の入浴後柿を入れておくからだという風聞が絶えなかった。この方法の欠点は柿がすぐ軟化して日持ちしない点にあり、今ではやる人はいない。
 古語では「さわし柿」という。(醂す(さわす)=さわやかにする)
 近頃は焼酎による渋抜きが一般的である。これはユキネリの脱渋の原理を人工的に起こさせる方法で、外からエタノールを吸収させるのである。ヘタの部分を焼酎に浸しポリエチレン袋に入れて常温で一週間おくと甘柿になるが、軟化しやすい。
 もう一つ、炭酸ガスによる方法がある。私はドライアイスを買ってきて、ゴミ出し袋に柿を入れて掃除機で空気を抜き、煉瓦大のドライアイスを新聞紙に包んで放り込んでいた。
五日位で渋が抜ける。この炭酸ガスを使う方法は「あおし柿」と同じ原理であり、いずれも酸素から柿を隔離して無呼吸状態にし、柿の体内にアセトアルデヒドを発生させる方法である。
 冨有や太秋などの完全甘柿は違った過程を経て甘柿になる。六月頃になるとタンニンを含んだ細胞は肥大しなくなり、糖を含んだ細胞だけが肥大して成果になり、全体として甘味だけを感じる。
 渋柿も熟してくると甘くなる。未熟の柿が堅いのは、セルロースが鉄筋、ペクチンがコンクリートの役割をしているのであるが、熟してくるとペクチンが可溶化してタンニンと複合して渋が抜けて熟し柿になると考えられている。
 熟し柿は美味であるが少々ドケダッカ。熟女と同じである。

もじき竿の意外な効用
 柿は二年目の側枝になる。これが屋敷や畑のクロに植えてある柿が「ナリ年と裏年」の隔年に結実する原因となる。
 柿の枝に実がつくと、それに養分が行き、手前にある芽は伸びないで「陰芽」となる。 翌年になり陰芽は伸びるが花を着けない。その翌年に花を着けて結実する。このようにして、なり年と裏年が起きる。
 これを防ぐのは剪定であるがユキネリのような高木では仕様がない。
 しかしわれわれは気が付かないうちに剪定をしている。普通、果樹は枝ごともぎ取ることはないが、柿だけは「モジキ竿」で柿のなっている枝の五~十センチ手前から折り取る。これは二~三の陰芽を残した剪定にあたる。また、あたりまえの事であるが、実をつけていない枝をモジク馬鹿はいないので翌年は結実する。かくて隔年結実を防いでいることになる。
 
月夜の晩には渋くならない
 「果物」の一般的な概念は「ジューシー」と「フルーティ」であるが、柿にはこれがなく、今の若者には一瞥もされない。
 シブはタネをガードするためにあるから、逆転の発想でいうと、タネがなければ渋くなる必要もない。このようにしてジューシーな「タネなし甘柿」が生まれた。(多くの植物は受粉がないと結実しないが、柿はタネがなくても結実する「単為結果」という現象がある) 
 タネなし柿は尻が少しへこんで扁平になる。
 近頃店頭に並ぶのはこの手の柿である。都会人は、柿は「冨有」のような形をしていると思いこんでいるようで、「サルカニ合戦」の挿し絵で扁平な柿が描かれているが、あの時代はタネなしの完全甘柿は存在しなかったのであり、絵空事である。
 さて、いったん凝固したタンニンは、通常の状態で再び水に溶けることはない。クリの渋皮煮をそのまま水に浸けておいても渋くはならない。コンクリートが再び水に溶けて生コンにならないのと同様である。
 もともと柿渋は漁網を強くするのに用いられていた。もし溶けて渋味が出たら、ゲジキにかかった鮎は渋い顔をして上がってくるはずである。
 それでも疑われる向きがあったら、来民団扇(くたみうちわ)をスワブッテみられるとよい。あれは渋染めだから。
                           (「ふるさと74号」2000)
・ 博物誌 3 
ダラ
 下肥の話ではない。ダランメの話である。
 左様、山菜の王者「タラノ木」である。どういうわけか、甲佐では濁って「ダラノキ」という。
 地元では別名「サンネンウズキ」。こちらの方が学名のような印象を受けるが、「三年疼き」、つまりこのイゲが刺さると三年間疼(うず)きがとれないというのでこの名がある。
 名は体をあらわすというが、春まだ浅い頃全身をトゲに覆われた一本立ちの灰色の姿はどう見ても異様である。
 何故イゲがあるか。
 理由は簡単。木の頂部の芽、つまりタラノ芽があまりにも美味であり、動物から喰われるのを防ぐための自己防御である。 その証拠に幼木が一番トゲが密集しており、高木になるにつれ食べられる心配もなくなり、イゲがまばらになってくる。
 何故ダラノキは山にあるか。
 甲佐の民話はこうである。
 この世の創世記に何をどこに置くか、人間共が神様に伺いをたてた。
 裁定するのは天ノ邪鬼である。
 「イゲ(野茨)は横に広がって私たちに害を与えますが、ダラノキは一本立で迷惑をかけません。それでダラノキを里に、イゲは山に植えたいと思いますが」
 天ノ邪鬼は例のキャラを発揮してご託宣を下した。
 「イゲを里に、ダラを山に植えよ」
 もっともこの話は、この民話全体の序章に出てくるエピソードの一つで、結びはこうである。
 天ノ邪鬼といろいろなやりとりをする中で、天ノ邪鬼には反対の事を言えば良いことを悟った人間共は、最後に尋ねた。
「これは」と異様な物体を示して言った。
[これは額(ひたい)に付けたほうが良いと思いますが・・・」
 天ノ邪鬼は厳かに裁定した。
 「それはマタクラに付けておけ」。
 
 さて、この落葉高木のダラノキは本来陽木であり、日陰を好まない。それで伐採して三年位経った山に行くとダラノキの群生に出合う。
 「これはしめた。宝の山を見つけた」と一人ほくそ笑んでいると、数年で消えてしまう。他の樹木との競争に負けて日陰になったからである。
 ただ、どういう訳か、ヒノキの美林の間には育つ。杉林では樹勢が衰えて消えてしまう。おそらく乾燥地を好む性質の故かも知れない。
 それで山菜採りに行ってダランメを狙うときは二十年生位までのヒノキ林に分け入る。

ポキンともぎ取る
 もう十五年も前の話であるが、毎年春になると阿蘇外輪山の波野高原に友人の数家族でダランメを採りに行くが慣わしになっていた。
 期日も決まっており、五月の連休の始まる前の金曜日である。
 その頃はまだ今のような「山菜ブーム」はなかった。しかし連休が始まると、熊本市内や遠く福岡あたりから「好き者」がやってきた。彼等には「山菜採り」として一応のマナーがあった。
 大きなダラノキは二階の屋根程にもなるが、ダランメはその頂部にチョコンと鎮座ましましている。
 その頂部の芽をもぎ取ると、ポロリとかけて手元に残る。
 手が届かない高木は鎌などで引き下げてもぎ採る。その際、芽鱗(袴・冬に芽を包んでいて、芽が成長するにつれて開く)も一緒に付いてくる。
 このような採取方法は木を痛めず、その下の側芽がすぐ伸びるので、木が枯れるという事もない。
 (五月中旬過ぎに行くと、この側芽が採取できるが、頂芽ほど美味しくない) これは山菜採りの基本的エチケットで、山菜採りの美学である。 
 悪い事にダラノキは柔らかい。「ウドの大木」ほどではないがすぐ折れる。鎌でも簡単に切り倒せる。
 もっとも、山林業者にとってダラノキは厄介な代物で、容易に切り倒す事ができるのは歓迎される事でもある。
 なお、タラノキは「うこぎ科・タラノキ属」に属するが、ウドや朝鮮人参も同属に属する草本である。同属にはトゲの少ないメダラもある。
 「タラノキ属」にはサボニンが含まれており、昔から漢方薬として重宝されてきた。タラノキはその皮や葉を日陰に干して煎じて飲めば糖尿病・胃腸病に効くとされていた。 
連休前の金曜日 
それでは何故金曜日か。
 前の日曜日にはまだ伸びてなかった芽が、五日ほど経ってようやく食べ頃になるからである。
国道五七号線を阿蘇外輪山に乗り上げてしばらく行くと、波野駅入口になるが、そこから入る。適当な所で車を四、五回止めると、雀遊小学校あたりでは肥料袋半分程にもなった。
 当時は例の「オウム真理教」の問題があって人が近づかない所もあり、太った芽がいくらでもあった。 
 その後、山菜ブームが起きた。
 特に民宿や田舎の温泉宿では「タラの芽の天ぷら」は山菜料理の目玉としてもてはやされるようになり、山菜採りの様相が一変してしまった。

似て非なるもの
 趣味でなく山菜採りを生業とする人々にとって、一本一本もぎ取って歩く方法では、どんなに山野を駈けめぐっても採取できる数が限られており、とても商売にはならない。
 そこで冬に頂部を剪定してきて、ノコクズを入れたトロバコに、挿し芽をして発芽させるようになった。これを「ふかし栽培」という。
 この方法が普及して以後、ダランメの宝庫であった波野は、旬の頃に行ってみると鋭利な剪定バサミで頂部が切り取られた無惨な姿だけになってしまった。
 今ではもっとひどくなり、木そのものを切り倒して持って帰り、側芽毎に十㎝位に切り分けして挿し芽をしている。
 このようにして採取したダランメは全く美味しくない。私も数年間やってみたが天然物のとは別物である。
 それは当然の話で、水だけで成長するので味も香りも歯触りも全く違う。強いて言えば小麦粉と米糠ほど違う。
 宿屋で出されるのが美味しくないのはこの「ふかし栽培」を使っているためで、あれを通がって食べている都会人は可哀そうである。

芽は出るが根は出ない
 自生しているダラノキが枯渇しているので、畑や山に栽培しようと思うのは人情であろう。
 幸い、ふかし栽培の終わった挿し木がある。あんなに勢いよく発芽した挿し木だから根が出ていると思うのは当然で、私も試みたが無駄であった。根は全く出ない。
 増やすにはこうする。
 ダラノキの根は地中の浅い所(落ち葉と土の間の柔らかい所)を走っているので掘り採るのは容易である。一年に二メートル位も伸びる。(かぼちゃのツルが伸びる姿を想像していただきたい。あれと同じである)
 三月頃、若い木の根を掘り採る。鉛筆位の太さの根を十五㎝に切り分ける。一本の成木で三十本位の苗木が採れる。それをあたかもサトウキビを植えるが如く植える。
 ただ注意すべきは、先ほど述べた通り、とんでもないスピードで根が走る。
 私の畑に植えたダラは、背丈もある崖を一年でかけ登り、隣の畑がダラのジャングルになってしまい、苦情を言われた事がある。
 畑に栽培して、その木で「ふかし栽培」する方法が普及してきたが、その作業を困難にしているのはトゲである。
 そこで近頃「トゲなしタラノ木」の苗が売られている。これにはトゲの少ない個体を選別して品種改良した「駒みどり」や「新駒」などもある。
 しかし私が以前購入した中には、挿し芽で根が出たのもあるから異種もあるであろう。全く美味しくなかった。
 
王者の味
 さてダランメの料理は「みそ和え」「おひたし」「でんがく」といろいろあるが、何といっても「天ぷら」に優るものはない。
 他の山菜にない独特の香味、苦み、アク。まさに山菜の王者である。
 繰り返して言うが「挿し芽」や「側芽」は駄目。土産店でビニル袋に入れ塩水に漬けて売ってあるのは文字通り駄芽。
 是非、テッペンが親指ほどもあるダラノキの頂上に、仏様が台座に鎮座ましましている姿の頂芽、それも天然物の赤芽の今朝採りを、コロモを薄くして揚げた天ぷらで食べて戴きたい。 
 そしたら、なぜ一日がけで県境まで行って採ってくるのか、わかろうというものである。
 これが田舎暮らしの特典であろう。

・ 博物誌 4 
ガネ
小話を一つ
 矢部から来た客人にガネをもてなして曰く「先ず、ヘコをはずしてから喰ってください。」 客人はおもむろに自分のふんどしをはずし始めたという。
 左様、ガネを喰うには先ずヘコを外さねばならない。外すと何が出てくるか、それはガネも人間も同じである。
 しかし驚くことに奴には二本もある。いや驚くには当たらないかも知れない、足が八本もあるのだから。当然メスもそれに対応してある。
 で、合体するときはそのヘコをだらりと垂らして、つまり上半身の恐ろしく発達したエビを想像していただきたい、八本の足と二本のハサミを絡ませながらナニするのである。 しかもその位置からわかるように、畜生以下の存在でありながら、人間様と同じ正常位である。
ガネの一生
 交尾は緑川鉄橋より下流の、緑川と有明海の水が混じり合う汽水域で行う。いきなり海水に遭うと死んでしまうので先ず数日間浸透圧調整のため川底にじっとして体質を変えたのちに行う。
 受精したメスは有明海まで下り産卵する。 産卵は十万個程度を自分のヘコの下の毛に付着させる。つまり抱卵である。
 二ヶ月で孵化し海中に放出された幼生(プランクトン)は、脱皮を繰り返し一ヶ月でガネの姿になる。
 なお、親はここで一生を終える。
 そして甲羅が一㎝位になると遡上を始める。 以前は、真冬に吉田の堰(築地堰)で、遡上を水流に阻まれた稚ガニが何万匹も壁面いっぱいにへばりついていた。
 なにしろ数回、はたき落とすとポリバケツいっぱいになり、それを無法者が佃煮にしていた。
 一年目は下流域で主に数回脱皮を繰り返し、甲羅がナツマメ程になる。二年目も脱皮を繰り返し、脱皮事に大きくなりながら遡上する。
 この時期は、大水の時糸田堰の壁面を何十匹もの稚ガニが遡上しているのを見ることが出来る。この頃までオスとメスの区別がつかない。三年目も遡上しながら数回脱皮を繰り返しメスはヘコの幅が広くなり始める。
 脱皮は場所を選ばないようで、この時傷ついて死ぬガネも多い。
 甲佐では脱皮したてのガネを「ヤワラガネ」といって食さないが中華料理では高級食材である。
 遡上は矢部の低地辺りが最終地点で、大型のいわゆる「山太郎がね」の棲息する場所となる。 四~五年に数回脱皮してオスはハサミが大きくなり、メスは抱卵のためのヘアがヘコの下からはみ出してきて週刊誌のヌード写真の様になる。ガネミソも充実して二五〇g位になるのもいる。真夏に最後の脱皮をして秋口から降河を始める。
 夜行性であり宵から行動するが、少し濁れば昼でも一斉に下る。そのときのありさまは、あたかも秋に谷川を下る落ち葉のようにひらひらと舞いながら下る。
 下り始めたら一晩に七瀬を下ると云われている。
 先ずメスが降河し、続いてオスが降河する。 それはさながら、夕方になると先ず女が厚化粧をして銀杏通りに出かけて手ぐすねをひいて待ちかまえているところに、ネオン輝く頃になって男どもがいそいそと出かける景色にそっくりである。スナック銀杏のあけみママ、金返せ!
 甲佐では十月頃に大型で成熟したガネミソのいっぱいのメスが捕れ、十一月末になると下(くだ)るのは小形でスカスカのオスばかりになる。
 十一月になっても下りそこねた小形のメスがたまにおり、落ち穂拾いガネとなる。このガネは極上の五年ものレアである。

ガネの捕獲  
 三十年程前までは用水路での下りウケと、落水の夜のヨギリのガネ拾いだけであり本川では捕っていなかった。
 二五年程前からガネカゴが流行し漁法が一変しガネも激減した。
 緑川のガネはボイルした時の色といいその味と香りといい日本一の絶品であるが、このままではいずれ幻のEriocheir japonicus de HAAN(モクズガニ)となるであろう。
 ついでにいうと一匹数千円もする上海ガニは全くの同種である。で、誰でも考える事は同じで、日本に持って来て育てて一儲けを試みる者もいるがうまくいかない。逆に日本のをあちらで育てると大きくなる。どうも風土が関係しているらしい。 
 養殖はこれを克服すれば可能で、甲佐の地域性を生かしたベンチャー企業として成長するであろう。

ガネの下り道
 ガネカゴの餌はサバなどの青物が一番といわれているが、実は川魚に優るものはない。
 私たちが手慣れたうどん屋には食事にいくがイタリア料理店には足が向かないのと同様である。
 その中でもカマツカと鮎が良い。極上はドバミミズであるがこの時期はいない。
 これを入れると下流十mのガネは全部入る。なお、カボチャは蓄養のときに生臭さを消すのには良いが集魚力はない。
 秋口になり、発泡スチロールで目印を付けたガネカゴを川幅いっぱいにいくつも設置しているのを見る事があるが、ガネには下り道があり、それを少し離れたら一匹も入らない。
 下り道は流速(f)と濁度(c)、個体の大きさ(w)、水深(m)が関係しており、ガネカゴの設置場所(P)は一般に 
  P=2/3√f+c/㎡―3/4w
であらわされる。 
 この式は大陸弾道弾(ICBM)を打ち落とす迎撃ミサイル(IBM)の数式と酷似している。
 私はこの数式をパソコンに入れてその日の設置場所を計算していたが、一夜インターネットを通じて何者かが侵入した形跡があり、これは悪名高きアメリカ中央情報局(CIA))が盗みとったに違いないと確信するに至ったのでありまするが、日米親善のため決して言わない事にしているのであります。 

ガネの正しい食べ方
 食事には作法があり、ガネの食い方を知らないのはフランス料理のマナーを知らない以上に恥ずかしい。
① メスを選ぶ事。メスにはガネミソがいっぱい詰まっている。あれは卵巣であってノーミ ソではない。
 メスにノーミソがないのはガネばかりの話ではない。Φδη λαηδ ψζ σλθ γε(女は子宮で考える)
 ただし、甲羅を上にして出してあるが、ひっくり返して見てはいけない。下着を見るのは紳士淑女のやるべきことではない。オスはハサミが大きく毛が密生していて全体に角張っ ているので見馴れればすぐわかる。
② ヘコを外して捨てる。胴に付いている海綿状のものを取って捨てる。これはエラでここで呼吸するためゴミや泥が着いている。
③ 甲羅をはずす。甲羅の中のミソを箸か指で取って食べる。 奥に小梅位のクソ袋があるが、これをはずして周りに着いているミソを、梅を食べる要領で舐める。決して噛みつぶさない。終わったら梅の種を捨てるように捨てる。
甲羅は最後の甲羅酒用に取っておく。
④ 胴を二つに折り、その一方の足を全部持ち、足が一本々々全部バラバラになるまでかぶりつく。
⑤ ハサミを食べる。関節を軽く咬んで割り、手で二つに引き裂きハサミの先で中の身をえぐり出す。
 毛に汁がついているがそれをねぶるような下品な真似はしない。
⑥ 足の一本を手に持ち胴の方の関節をかみ切って捨てる。そのまま口に押し込み第二関節の手前を噛み切るとストローのようになるので、それを吸うとスッポと身だけ吸い出され口の中に残る。美味である。
以上の手順で、ガネ一匹で焼酎の四合ビンは空になる。

秘法ガネのつかみ取り
 これは一子相伝であったが後継者がいないので公開しておく。
 先ずガネ穴を見つける。穴の中の小石を外に出しているのですぐわかる。下流から近づき穴の入口にそっとひさしのように手をかざす。この時水の流れを乱してはいけない。
 小魚を口から番線を入れて固定し、それを穴に入れてガネの足をこそぐる。
 ガネはハサミで掴もうとして前へ出てくる。入口まで出てくるが、ガネは馬鹿だから手でひさしをしているのを穴の中だと思い、のこのこ出てきた所を手で掴み引きずり出す。
 一度餌を挟まれたら最後で、引き合いになり失敗である。(鰻の穴釣りを経験した人はわかる筈である) 
 難しいのはガネがどちらを向いているかを手に伝わってくる微かな信号を読みとる技術である。
前向きに入っているのはすぐハサミでつかむから駄目で、横向きの小指をこそぐる。
 経験と勘だけの勝負で、修得するのに十年はかかる。
一分間の勝負であり、昔は一時間でテボいっぱい捕れた。

水は決して入れない
 ガネ飯を炊くとき苦労するのは、前処理として足の付け根やエラに付着した泥やゴミをどのようにして除去するかである。
 ガネは生で料理してはならない。例え生で食べなくても、まな板などにジストマが付着して病気になることがある。 
 昔から「ガネの生煮え食傷のもとだよ」と云われたように十分ボイルする必要があるがあまり強火だとガネミソなど旨味成分が出てしまうので火加減が肝要である。
 ガネは湯に入れると手足がバラバラにちぎれる。トカゲのしっぽ切りなどにみられるこの行動は、「自切」といって生存のための逃避行動の一つとされる。 それでガネはバラバラにならないように炊きあげる。ガネだけ鍋に入れて、決して水は入れない。水を入れると旨味が出てしまう。
 死んだのを見計らって塩などを振りかけてひと煮する。