中嶋著作5 対談
対談5-1
沖縄 佐喜眞美術館長 佐喜眞道夫さん
甲佐出身の方で、文化の面で全国的な活動をされてる方はまことに少ないですが、そういう中で佐喜眞さんの名前が近頃マスコミに頻繁に登場しますので、ご登場願った訳でございます。
甲佐のお生まれだそうで
ええ、そうです。
戦争の時、家族が沖縄から竜野村に疎開していました。
父は熊本部隊の軍医でした。
沖縄が危ないという事で熊本に疎開してきたのです。
最初は市内に家を借りていたのですが、その内に空襲が始まりました。
父は司令部の巨大な九州地図を前にして、家族を守るのに一番安全な場所として考えたのが竜野でした。
いざという時に九州山脈に逃げ込めて、しかも熊本から近くて交通の便がよいのは竜野村が一番、というわけです。
母と姉三人、兄一人の五人家族でした。 戦後、父は竜野で開業しましたので、私はそこで生まれたのです。下知行の佐藤つや子さんの家でした。 高校を卒業するまで竜野で暮らしました。
どんな思い出が・・・
くんずほぐれつ、じゃれあって遊んだ幼な友達にもいっぱい思い出があるのですが、なんといっても水と緑の豊かな自
然が残る農村そのものがすばらしかった。そこから多くのものを学んだと思います。
春、夏、秋、冬と巡る季節の中で、農道を道草しながら通学をするのですが、当時はみんな野良に出て一生懸命働いていました。
大人たちの農作業の体の動きには全く無駄がなく、美しかった。
あちこちの泉も、コケの生えた水路も、神秘的なほど美しいと思いました。
時々やってくる大水では橋も流され、田畑も河原のように激変しました。その荒れた地で黙々と働く農家の人々。
そんな中で子ども達は無邪気に遊んでいたわけですが、しばらくすると元の美しい姿にもどっている。
何百年もの人々の労働の積み上げられた風景の中で育まれるものは大きかったと思います。
友人の家に遊びに行くと、古い農具や道具がいっぱいある。
疎開家族である私の家には古いものがないんです。新しい物しかない。それは淋しかった。
一九五四年、小学二年のとき沖縄に初めて行ったのですが、ただただ驚きました。父や母がたくさん語ってくれた、美しい沖縄の風景はどこにもありませんでした。
一坪一トンの爆弾が撃ち込まれた沖縄戦で、自然の風景も街も歴史もすべてが吹っ飛び、地表下のサンゴ礁はむきだしになって真っ白でした。
甲佐では立派な人を「あの人は目が涼しか」と言いますが、沖縄の私のおばさんたちも、涼しい目をしてたくましく生きていました。
子どもをたくさん抱えて大地にすっくと立っている伯母たちは、沖縄で生まれそこねた私に情熱を込めてたっぷりと沖縄の話をしてくれました。 その後、私は甲佐の豊かな自然と「沖縄」を比べながら「戦争」というものを考えるようになったのです。
美術館のパンフレットを見ますと「もの想う空間」「お寺のようなやすらぎのある美術館」とありますが
母が早死にしました。
恋女房を失った父の落胆は大変なものでした。
毎月の命日には皓月寺の粟田先生がいらっしゃって、お経と仏教の話をしてくださいました。
その時覚えた正信偈(しょうしんげ)は、今でもあげる事ができます。
高校生になると「歎異抄」と「教行信証」を読みました。
後に、画家の丸木位里さん・丸木俊さんと、とても深いお付き合いが出来たのも、実は仏教のおかげなのです。
お二人は親鸞の思想をしっかり学んだ方でした。
その思想的なつながりが「『沖縄戦の図』を君にまかせる」という事になっていったと思います。
私の仏教への尊敬は甲佐で培われましたが、根元の願いとして「お寺のような場」にしたいと思ったのです。
美術に興味を持たれたのはいつ頃からですか
父は猛烈に忙しい開業医でしたが、絵が好きで、画家の本田景風先生とよく絵画談義をしていました。
小学生の私は、横にチョコンと座って話を聞いていました。
景風先生の漠然とした話は、とても面白かった。
また、父は時々家族を美術館に連れていってくれました。
当時はまだ、県立美術館がなかったですから、福岡県立美術館やブリジストン美術館に行きました。
久留米で見た青木繁のいくつかの作品は私の心の中に強烈に残りました。
この美術館の建物そのものが、沖縄の歴史と風土を感じさせる珠玉の美術品ですね。
美術館の建物で一番大切な事は、その規模でもお金をかける事でもありません。
その土地の歴史や風土としっかりマッチしている事が大事です。沖縄に徹底的にこだわりました。
(「沖縄戦の図」の前での写真)
「佐喜眞」というと珍しい姓ですが、民俗学者で有名な佐喜眞興英とは何か・・・
母方の祖父です。
(中嶋)ああ、あの方のお孫さんですか。柳田国男なども、よく佐喜眞興英の「霊の島々」などを引用していますね。
私は民俗学を少々やりまして、以前「佐喜眞興英全集 」の中の「女人政治考」を読んだ事がありますが、あれを読んで日本史に必ず登場する卑弥呼の「鬼道に仕えてよく衆を惑わす」意味が判ったような気がしました。
(佐喜眞)母は佐喜眞家の一人娘でした。十九歳で父(花崎為康)に嫁ぐとき、祖母が「男の子を二人生んでくれ。長男に花崎、次男に佐喜眞を継がせる」と願ったそうです。
私は次男ですから佐喜眞を継ぐ人間として育てられたのです。
小さい時に「あなたは佐喜眞の養子に行きなさい」という母がうらめしかった。
家族から、自分一人が突き放されたようでショックでした。
しかし二十歳の時、自分で「佐喜眞」姓を継ぐことを決めたのです。
それにしても、なぜ美術館を建てようと思われたのですか
作家の司馬遼太郎は「街道をゆく」で、奈良の道を歩いている時、同行の須田刻太に
「そういえば戦前の首里の街はすばらしかったですね」
と言います。須田は
「『平城』なんか問題にならい。」
と答えています。千年を越える歴史をもった奈良の街よりも沖縄の首里の街が素晴らしかった、と。
私はドキンとしました。戦争ですべて吹き飛ばされた沖縄では、道行く人は電柱の陰でバスを待っている。私はつくづく、沖縄に樹木が欲しい、と思った。心のよりどころとなるものが必要だと思ったのです。
沖縄は、かってすばらしい琉球文化を持った国でした。多くの人々が独自の文化を見たい、とやってくる場所でした。
心のよりどころを吹き飛ばされ、失ってしまった精神を芸術の力で取り戻せるのではないか、と考えたのです。「心の緑陰」をつくりたい、と思いました。
母方は旧家の地主だったのですが、その土地は米軍に占領されて普天間航空基地になってしまいました。沖縄の日本復帰後、返還運動が強くなるのですが米軍はそのまま居座り、見返りとして用地代が出るようになりました。その金を何か形あるものとして残したいと考え、絵画のコレクションを始めたのです。
美術館を建設する場所は、奪われた土地を奪い返して建てよう、と運動をしました。
これには沖縄県民はじめ、市長さんや議会など多くの方々も共感してくれました。そしてついに米軍を動かして、これまで絶対に不可能と思われていた普天間航空基地の一部を返還させる事に成功しました。
それで美術館は基地のフェンス沿いに建っています。
佐喜眞美術館というと、丸木さんの「沖縄戦の図」が有名ですが
日本人の感性はすばらしいものでした。江戸の庶民が創り出した浮世絵は、国内ばかりでなくヨーロッパの画家をも感動させるほど洗練されたものでした。
それで、私たち庶民の文化を豊かにしたのはやっぱり浮世絵だと、二百枚ばかりコレクションしました。
しかし、何しろ原資が米軍用地代ですから、だんだん違和感が出てきました。
そこで、長野県出身の版画家上野誠の原爆をテーマにした作品を百七十点ぐらい、それにドイツの作家ケーテ・コルヴィッツの版画五十点、フランスの作家ジョルジュ・ルオーの版画百七十点ほどを集めました。
コレクションを始めて十年目の頃に丸木ご夫妻と出会いました。
「君に『沖縄戦の図』十四部を全部まかせる」という事になって、今では一〇〇〇点ほどあるコレクションの中で、それらがメインになっています。
三〇年間コレクションをしてきた作品を全体的に見てみますと、大切な命を壊すものへの抵抗の意志をもった作品が多いようです。
「佐喜眞美術館」も「佐喜眞道夫」も、近頃よくマスコミに登場しますね。私立美術館としては全国一ではないですか
会館して十一年目になります。
全国から修学旅行の生徒も多く来ます。
戦争が終わって六十年経ちましたが、沖縄では今なお遺骨も不発弾も発見され続けています。
ここはまだ戦争が終わっていないのです。そういう土地ですから、一年間に四十万を越える中高生が平和学習にやってきます。そのうちの一割強が佐喜眞美術館にやってきます。 「次代の鐘を打つ」(旧甲佐中学の校歌の一節)子ども達ですから、大切に真心を込めて、絵の説明をします。
地上戦という想像を絶する世界を、現代の子どもたちに見聞させるわけですから大変ですが、芸術の力によって戦争の真実が彼等に伝わっていきます。彼等の瞳がどんどん変わっていくのですよ。
私はそうした若者達からエネルギーをもらって仕事をしています。
最後に甲佐へのメッセージを
すべてが破壊された沖縄から見ますと、歴史が積み重ねられた甲佐の風景は貴重なものです。
甲佐の豊かな自然は、これからの時代にますます重要なものになっていくと思います。
豊かな自然というものは、かって私が教えてもらったように、人々を整え、育む力を持っています。
大切にしてほしいと思います。
最後になりましたが、沖縄にお出での節は、是非美術館へも足をお運びください。
(中嶋)昨日インターネットで調べましたら、「佐喜眞美術館」が一七七〇〇件、「佐喜眞道夫」が五二一件もヒットしてびっくりしました。
二、三,読ませてもらいましたが、ほかの美術館にはない反響が多くあり、感動しました。これを機会に、甲佐からも多くの方が来館すると思います。
本日はありがとうございました。
対談5-2
甲佐に住めば大丈夫 谷田末高氏
医者の不養生
問い(中嶋) 先生には甲佐町文化協会の草創の頃から、蔭になり日なたになり大変お世話になり感謝しています。
最近、会員の間から、先生のお姿を拝見する機会がめっきり減ってさびしい。健康を害されていられるのではないかという心配の声を聞きますが・・・、
谷田 一年前に体が不調になりまして精密検査しましたら、脳梗塞の一種と診断されました。
医者が病気になったときは因果な話で、主治医の言う事をなかなか信用しない、指示に従わないなどで快復が遅れていましたが、徐々に元気になりました。
現在は足が若干不自由ですが、週二回午前中病院に出て診察しています。
ヘビースモーカーだったのがい なかったかもしれません。
中嶋 いつか先生から、「医者はい 急患があるかもしれない、その時酒 を飲んでいたら助かる命も助から い、それで好きな酒をピタリと止て、かわりに煙草に手を出した。」とお聞きしたことがあります。
その話をお伺いし、先生の職業倫理の厳しさに思わず襟を正したことがあります。
コレクションの楽しみ
中嶋 先年甲佐町在住の有志の方のコレクションを集めて「お宝・家宝展」をしましたが、先生からは、色鍋島(陶器)や小堀遠州の書(手紙)など、滅多にみらねぬものばかりを出展していただき、改めて美術品に対する造詣の深さを知りました。
これらの美術品にはいつごろから興味を持って集められたのですか。
谷田 下手の横好きで、しかも好奇心旺盛ですので、全国のあちこちで学会の発表会がある度に、会議の合間をみつけて、博物館やら史跡やらを見て廻り好奇心を満足させています。
そういうこともあって自然にいろいろな物が集まりました。
今は自宅に飾って楽しんでいます。
こういうものは医者の専門性とは 関係ないようにみえますが、医者は 日々、人と接するのが仕事でしてそこには幅広い教養と豊かな人間性こ そが、必要不可欠な事だと、近頃特 に痛感しています。
青くなる
中嶋 砥用町のお生まれだそうですね。
谷田 ええ、昭和二年、名越谷で生まれ、そこで育ちました。
御船中学校(旧制)に進みまして、文化協会の会員では新本敬士君(日本吟声流)、本田豊君(日本吟声流)、古閑昭男君(民謡緑川会)、村山信一君(桜友会)、井上昭人君(緑石会)などがが同級生でした。
何しろ戦時中のことで大村に学徒動員に行きましたが、隣の防空壕に爆弾が落ちて、大勢の同級生を失いました。
熊本大学医学部を卒業して、昭和二八年に吉村春次先生の病院跡に開業しました。
もう五〇年近くなりますね。
初日の患者さんは二五名でした。 しかし、みかんの色づく十一月に患者が激減しまして、みかんが黄色くなると医者が青くなるということを実感しました。
往診は自転車とオートバイでした。 このオートバイがまた大変な代物で、坂谷などへ行くときはブラシを用意して、途中でプラグを二~三度を磨いて行きました。
地域に開かれた施設
中嶋 桜の丘に「陶芸館」をつくられましたね。陶芸クラブの「桜友会」をはじめ良く利用されているようですが、どういういきさつで始められたのですか。
谷田 「桜の丘」を開設するにあたって「生きがいづくり」と「文化施設」を考えたわけです。
また、入所者だけでなく地域の皆様にも広く解放して交流の場を提供する目的もありました。
今では沢山の方が利用されるのみならず、作品の質も年々向上しており大変喜んでいます。
また、若者が甲佐の地を誇りに思い、人生の指針にしてもらうために、「甲佐三賢人」として井芹経平先生・永田市次郎先生・西村展蔵先生の生涯と業績を紹介した部屋もありますので、子ども達を是非つれてきてください。
尊敬する人物を持つこどもは、やがて尊敬される人物に育ちます。
郷土には、もっと有名な方や、立身出世された方もたくさんおられますが、青少年の行くべき方向を示した人間として三名を挙げておきました。
甲佐の三賢人
井芹経平先生は、慶応元年甲佐町 の豪商であった東天野屋に生まれま した。三十三歳で済々校の校長にな って以来、二十六年間校長として教 育に尽くしました。その間二三学舎 を設立し甲佐中山白旗等から多くの 人材を入居させ郷土の発展に貢献し ました。
人情に厚く、思いやり深く、人格 円満で識見が高く、その人間性は多 くの人に慕われました。
永田市次郎先生は、明治一五年吉田の大地主の家に生まれました。早稲田大学を卒業して家業の農業を継ぎ、「永田農会」を設立して農道精神を説き、「昭和農道塾」を開いて農業後継者を育てました。
また、貧しくて上級学校に行けない農家の少年のために奨学金を出し て進学させました。
西村展蔵先生は、津志田の長田家に生まれました。熊本師範学校後、二九歳で甲佐小学校の校長になりました。その間、仁田子の西村家に婿養子になりましたが三一歳で校長を退職して製糸業を行い、その後大陸に渡り「亜細亜兄弟運動」を展開しました。
終戦直前は内閣中央委員となって戦争終結に努力しました。一切の私情を顧みず常に天下一家の思想を中心に世界人類の平和と幸福を求める姿は「国士」と呼ばれるにふさわしい人生でした。
この三人の生き方は、人それぞれで時代も違いますが、こどもの心のよりどころとなると思います。
同室には甲佐の人が折角集めた美術品が散逸しないようにコレクションの収蔵もしています。元熊本市助役の下川貞嗣氏が収集された「こけし」も展示していますのでこれも是非見に来てください。
先ず文化会館と図書館を
中嶋 甲佐町の文化的状況をどう思われていますか。
谷田 甲佐町文化協会はよくがんばっておられます。
しかし、文化ホールと図書館がないのが致命的です。
近頃インフラ(社会的生産基盤)の整備がやかましく言われていますが、インフラの整備は何も産業分野や社会分野の専門用語ではありません。
甲佐町民が豊かな暮らしをするためには先ず文化活動のインフラ整備として、ホールと美術館を併せ持つ文化会館と、図書館の建設を最重要課題して取り組むべきです。
佐久病院に学ぶ
中嶋 話は変わりますが、病院の経営理念を見ますと「地域の医療に徹し」とか「地域の健康管理に留意し」など地域医療に貢献する姿勢が一貫して窺えますが、これはどういうことからですか。
谷田 もともと甲佐は医療のメッカでした。しかし戦後、小児科医がいなくて住民が困ったいる事情もあって開業したわけでして、当時から地域医療のありかたについては深く考えるところがありました。
それで「住民のために」をモットーにやってきたわけですが、これでは何かが不足していると次第に思うようになりました。
それが何であるかを求めて研修に行った先が「佐久病院」でした。
ご承知の方も多いと思いますが、長野県佐久平にあるこの病院は、田舎にありながら日本の農村医学・予防医学の最先端を行く病院です。
そこで私が学んだものは、病院は「住民のために」医療をするのではなく、病院は「住民とともに」健康な くらしを構築していくというものでした。
まり、病院は住民に向かいあうのではなく、住民とともに手を携えて健康で幸せな暮らしを求めるということで、これがその後の谷田病院の基本理念になりました。
同様な方針は「桜の丘」にも受け継がれています。「甲佐に住めば大丈夫」の健康と福祉の町を目指しています。
威あって奢らず
中嶋 今日は久しぶりに先生のいつものような飾らぬお話をお伺いしま て、すがすがしい気持ちになりました。
足が少し御不自由なようですが、一日も早くもとの元気な姿になられて地域の医療と文化の振興のために活躍されることをお願いします。
(インタビューを終えて・・・自戒の為に掲げられたという恩師の色紙「威あって奢らず」そのもののお話でした)
対談5-3
「徒空然咄」出版事情
――― 古文書の現代語訳を書こうと思われたきっかけは
中嶋 4年前の台風で八丁部落の旧家の小山田実さんの土蔵が半壊し、その時に発見された古文書が教育委員会に持ち込まれました。このようなものがあるとは聞いていましたが、単に年貢の払いや掛け売りなどを記した「庄屋文書」だと思っていました。しかしそうではなく、甲佐には殆ど残されていない江戸中期の「農民日記」それも肥後藩の歴史の中でも最も重要な「宝暦の改革」の頃の宝暦4年から明和2年(1754 ~ 1765)の記録だったのです。
この文書の持つ意味が直ちに理解できたので「是非研究させてほしい」と申しでました。
「宝暦の改革」を書いた文書はたくさんありますが、百姓が書いた記録はこれまでありませんでした。それで内容はというと意外なことに「宝暦の改革」をほめているのです。
最初は読み下し文(送りがななどを入れた文)にして、数人に配ったところ「これは読めない、意味がわからない」というのです。それで現代語訳にしました。そして年代順でなくテーマごとに並べかえました。
しかしこの現代語訳が難しかったのです。例えば「宿には・・・」とか「当時は・・・」とかあったとします。何気なく読み進める所ですが、この頃は「宿=自宅」「当時=現在」の意味で使っていました。まずそのような広範な知識が必要です。それに日記だから次郎兵衛(著者)の言葉で書かれています。農民の語り口を不自然でないように表現することも非常に困難でした。
史実と違う部分をどう扱うか、という点でも悩みました。次郎兵衛は田舎の人だから情報が正確に伝わってない部分があります。日記だから訂正できないし、苦肉の策として、本文の横(ふりがなの部分)に訂正文を入れました。
――― 著者の次郎兵衛はどんな人ですか。徒空然とは
次郎兵衛はいわゆる貧農ではなく富農ですから農民全体を代表しているわけではありません。しかし非常に心が温かい、そういう面が端々から見てとれます。例えば飢饉の際、配給になった米をみんなが奪い合うさまを見て、その心の貧しさに胸を痛めるのです。
若い頃には甲佐手永会所(手永=町村、会所=役場)に勤めていましたが、大病を患い辞めています。5年後快癒しますが気力も体力も出ずに無為な日々を送ります。このさまを「徒空然とし・・・」と表現しています。徒空然とは広辞苑によれば「なにもしないでぼんやりしているさま」です。
―――郷土史研究の魅力と意義は
推理小説のような謎解きが魅力です。誰も手をつけていない謎を解明することができればそれは大きな喜びとなります。
江戸時代の甲佐の事を書いた文書の殆どは、細川家に伝わる「永青文庫」に残っています。現在では熊本大学や県立図書館で見ることもコピーをとることもできます。ところが甲佐町史(昭和41年発行)が編纂された頃は利用できなかったようです。それで町史には江戸時代の記述が少ないのです。
甲佐町郷土史研究会では町史から抜け落ちている町の近世史(戦国時代から西南戦争まで)の正確な年表を作りたいと思っています。
―――甲佐町文化協会長として伝えたいことは
甲佐の子ども達に「郷土を愛しなさい」という前に、大人が先ず郷土を愛し祖先に尊敬の念を持つことが必要です。
例えば緑川水運を開いた渡辺寛太の碑は倒れたままになっています。これをそのままにしておいて子ども達に「郷土を愛しなさい、緑川を愛護しなさい」とは、とても言えないでしょう。
先人の苦労を知ることが郷土愛につながると思います
(「広報甲佐」18 June 2003)
歴史 4-5
あの穴は何だ
東寒野付近の緑川左岸の改修工事にともない、鵜の瀬堰の石畳(巻石)の上に掘られた穴列に関心が集まった。
穴は二列で計十四個、穴の直径は二十五㎝から十五㎝、深さは二十㎝から十㎝でまちまちである。
橋ではない
先ず誰でも、橋を架けるために掘られた柱穴であろうと考える。
しかし地勢的にはここに橋を架ける必要は全くない。
対岸上流の上揚に行くためにこの橋を利用したとすると、鵜の瀬堰を七〇〇m近くも徒渡り(かちわたり)して斜めにくだって簗にたどりつき、そこから対岸を歩いて上揚まで行かなければならない。
(図1:鵜の瀬堰付近の地図)
(鵜の瀬堰は堰の長さだけで「緑川絵図」によれば百八十五間、「郡村誌」によれば堰長四丁十六間三尺とある)
そんな事をするより少し上流にある「尾北の渡」を渡し船で行けばよい。
ここの渡し船は現在でも町道なみに使われている。徒歩が主な交通手段であった頃にはもっと重要な交通の要衝であった。一つには甲佐神社の社領がここから南に広がっていた事もある。
明治の初めに書かれた「郡村誌」には「尾北渡」として「一等里道に属す。村の東の緑川の上流にあり。深い処十一間、浅い処四間、広さ四間、渡船一艘」と記されている。
それでは対岸下流の豊内に行くにはどうか。ここも鵜の瀬堰を徒渡りせずとも原町往還を日和瀬まで下り「日和瀬渡」で渡ればよい。渡しの川幅は十一間とある。
昔は砥用(原町)行く道は西寒野、東寒野、尾北を通っていた。
つまり、対岸に渡るためには、ここに斜めに橋を架ける必要は全くない。
土橋は冬に掛ける
途中には中州があり、桑畑があった。
そこにに行くために橋が必要だったか。
養蚕が盛んな頃は対岸まで桑摘みに出かけるのは珍しい事ではなかった。例えば吉田の人々は舟で緑川を渡り府領まで出かけていた。
しかし中州の畑は豊内の所有であり東寒野から行く事はない。
たとえあったとしても、緑川は大河であり、しかも交通の要衝でもない所に本格的な桁(けた)のある橋を架けることはないので、もし橋を架けていたとすると、その橋は板橋か土橋ということになる。
かって戦後、津志田と糸田の間に冬場だけ土橋が架けられていた。このような
土橋は夏の洪水で必ず流された。したがって橋を架けたとすると冬場に利用されたという事になる。桑摘みは夏場の仕事であり、中州に行くために架けられたという説はこのことからも成りたたない。
桟橋か
橋だとすると、あとひとつ考えられるのは、舟に積み込むために桟橋として利用した事が考えられる。
甲佐では物資の集散には平田舟を利用していた。年貢を川尻御蔵に運ぶのも緑川の水運に依った。それでは「俵転がし」のような機能を持っていたのであろうか。
しかしここは「鵜の瀬」の地名が示すように「瀬」である。このような急流を船着き場にすることはあり得ない。少し上流か下流に淀渕がいくらでもある。
橋杭の問題
橋を架けるとするとあの場所は確かにに都合がよい。橋杭(橋脚)が立てやすいからである。
昔は大きな橋の杭を立てるときには杭の頂部に架台を組み、その上に土嚢をのせて加重して綱をつけ多人数で杭をゆすってのめり込ませる工法をとった。
また、小さな土橋や板橋は橋脚を堀り立てたり打ち込んだりして固定した。その点で鵜の瀬堰は露出している大石に穴を穿つだけで固定できるので誠に都合がよい。
しかし、あれを橋脚の穴とするには大きな疑問が残る。
下流の穴が小さい
それは穴の位置である。対をなしている二本の橋脚は必ず流れに沿って平行していなければならない。もし乱杭のようになっていたら水流は塞き止められ、洪水時にはゴミがかかり、ひとたまりもない。
図3を見ていただきたい。 このような橋脚の橋は見たことがない。
橋杭の穴跡だとすると、もうひとつ問題がある。
それは対をなしている二本の穴の大きさである。いずれも上流の穴が大きい。
上流の平均は二四、六㎝、下流の平均は一五・七㎝である。
橋脚では絶対にこのような事は起きない。
何か必然的な理由かあるはずであり、これこそが穴の謎を解く鍵である。
草堰か
用水路に水を導くには川を塞き止めてるのが一般的である。強固な堰としては石畳(石巻)がある。しかしこの方法は莫大な労力と費用がいる。
そこで昔は苗代の水取り期に杭を打ち込み、杭と杭とを竹で杭を編んでいく工法をとった。そして隙間には水が漏れないように葦や麦藁やササをウッパメた。 このような作業を「水取クヤク」といい、このような堰を「草堰」といった。 所によっては水漏れを塞ぐに柴を充てる地域もあって、それは「シバゼキ」と呼んだ。
このような堰では水勢を杭だけで支える事は出来ないので、下流方向より支え棒を必要とする。支え棒も別に小さい杭を打って下端を固定した。
戦前まではこのような工法による堰が殆どであった。
橋の遺構としては説明がつかない穴の大小もこれで説明がつく。
何のための草堰か
あの穴が草堰の遺構だとしても問題が残る。一体何の目的で作られたかということである。
いくつかの仮説を立てて見よう。
〔仮説1〕
下流にある水車(くるま・精米、製粉所)への導水のために塞き止めたという事が考えられる。図5は「甲佐町の文化財第二集」による水車の位置である。
「ふな水戸」(筏や舟の通路・周辺の石塁より低くしてある)に導いて水勢を強くしていた事が考えられる。
〔仮説2〕
「刎(はね)」として増水時に左岸を守った事が考えられる。
緑川には護岸のための「石刎」がいたるところにある。ここの左岸には川沿い
に道路があり、民家や水車があった。
それを守るための簡易な「刎」として
〔仮説3〕
第三に柱穴の先にある「ふな水戸」との関係である。
「ふな水戸」を「簗」として使うために鮎を導く「瀬張り」を作ったのではないかとも考えられる。
かって鮎を獲るための「瀬張り」(仕掛けは簗と同じ)は緑川のいたるところで行われていた。
鵜の瀬堰にも現在ある御簗だけでなく「ソト簗」があった。当然対岸にもあったと考えられる。その「瀬張り」の遺構だとも考えられる。
〔仮説4〕
最後に大井手の取水のためのクサゼキが考えられる。
そのためには漏斗口(じょうごぐち・簗に導く水路の入口)まで柱穴を掘らなければならず、その遺構が残っていなければならないが、今はコンクリートに覆われて見ることが出来ない。
しかし昭和十四年の観察記録に次のようなものがある。
「一個一個の石が水の中や水面上に見えていた。石質は凝灰岩で中央に三十㎝位の穴があり、穴には松の丸太が全部打ち込まれている」(「甲佐の文化財・第二集」の一部要約)
これが事実とすると鵜の瀬堰全部にわたり穴が穿った石畳があったことになる。 勿論、この穴は洪水で堰が壊れないために松材で補強するのが目的であったのであろうが、不足する用水を確保するために用いることは簡単にできる。
〔仮説5〕
近頃、書店に行くとボケ防止のための「頭の体操」関係の本がやたらと多い。
この穴の問題はタダでできるのであなたも考えてください。案外それが正解かも知れません
(「ふるさと78号」 2007)
歴史 4-6
徒空然咄序文
平成十一年の台風十七号は熊本県中を荒れ狂い、不知火町に高潮の被害を与えるなどしたが、甲佐町の旧家小山田實氏の土蔵をも半壊した。その中から出てきたのがこの文書である。
これには宝暦四年(一七五四)から明和二年までの十二年間の出来事を、後世に残す意図を持って書かれていた。
この文書を書いた次郎兵衛は甲佐手永八丁村(現熊本県甲佐町白旗)の、富農ではあるが唯の百姓である。しかし江戸中期の百姓にあっては希有の事であるが、四書五経に通じ我が国の古典にも親しむ知識人でもある。
若い頃には手永会所役人にもなったが、まもなく病に冒され、以後は療養と農業経営にいそしみ、また手習いの師匠をしながら世の中の事共を書き留めていた。その中から自身の手で抜粋して後世のためにまとめたのがこの文書である。
肥後藩はこの時期、細川重賢と宰相堀平太左衛門による「宝暦の改革」の最中であった。
「宝暦の改革」については、藩政の視点から「肥後物語」「銀台遺事」等数多く、近くは「非常の才」などもある。また領民の立場からは改革を批判的に捉えた「仁助咄」もある。
これらに対して、この「徒空然咄」は百姓の眼を通して、当時の社会的状況を点描しながらも改革にも眼を向け、善政を悦び、飢饉に心を痛め、村役人の圧制を憤り、百姓の心の貧しさを嘆き、作柄に一喜一憂しながら、揺れ動く世の様を率直に記している。
その根底には「隠遁の身となり寂寞の域に心を澄まし、安静を楽しみ菩提を求め申す覚悟にて門外不出を決め」ている次郎兵衛の姿勢がある。
宝暦の改革は、要するに三百諸侯の中でも最悪といわれた肥後藩の財政の立て直しである。そのため中堅層の藩士を起用し、行政改革を実施して経費を節減し、質素倹約を徹底して封建的身分制度を揺るぎないものにした。また養蚕などの産業を起こす一方で検地を実施し、刑法を策定し、時習館を設立した。
これらの施策は一応成功して藩財政は立ち直った。
しかし、それが領民にとってどうだったかは全くの別問題である。この「咄」はその解答の一つになろう。
表題の「つくねん」は宝暦の改革で揺れ動く世の中にあって、一人世情を憂う次郎兵衛の心情をあらわすものとして「自序」から採った。
歴史 4-7
願成桜
鎌倉時代、元の大軍が二度にわたり日本に攻め寄せてきました。文永の役(一二七三)弘安の役(一二八一)といいます。
当時、甲佐神社は肥後国の二の宮として松橋や小川にいたる広大な社領を有していました。
松橋の竹崎に住んでいた鎌倉幕府の御家人竹崎(たけざき)季(すえ)長(なが)は文永の役に出陣して手柄をたてましたが恩賞からもれてしまいました。
くやしい思いをとしているところへ、夢の中で「甲佐神社に参れ」とお告げあり、甲佐神社に参拝しました。
そのとき境内の東にある桜の枝に甲佐大明神があらわれてお告げがあり、それにしたがって鎌倉に行き直訴しましたら幕府から海東の地を賜わりました。
「弘安の役」が終わり、季長は願いが成ったのも甲佐神社のおかげであると、「蒙(もう)古襲来(こしゅうらい)絵詞(えことば)」を作り甲佐神社に奉納しました。
それから七百年が経ちました。
私たちは、枯れかけている桜を継ぐものとして若桜を植栽し、願いが成就する場にしました。
平成十八年十二月二日
歴史 4-8
糸田村百姓一揆
かくし田がある
江戸時代の初めの事である。熊本に孫兵衛という侍がいた。姓は判らぬ。故あって浪人し糸田村で百姓になった。土地は甲佐手永の惣庄屋(今の甲佐町長にあたる)の横田源左衛門が開いた新地である。
糸田は緑川の中州にある。戦国時代も末になり、近隣からの移住が始まり新地も開けてきた。勿論満足な堤防もなく常に洪水の危険にさらされていた。
孫兵衛の子を里左衛門という。里左衛門の代になって小作米が滞り始めた。惣庄屋も子の甚兵衛の代になった。それを期に甚兵衛は滞納を理由にして貸していた田畑を取り上げてしまった。
腹の虫が治まらないのは里左衛門である。
「恐れながら・・・」と奉行所に訴え出た。隠田があるというのである。
天和三年(一六八三)、村中を騒動に巻き込み「眼前ニ村中ヲ亡所ト成ス」一揆はこのようにして始まった。
談合を重ねる
隠田は重罪である。何しろ小作をしていた里左衛門が言うのだから、これ程確かな証拠はない。おまけに証人には九左衛門がいる。彼は有安村の百姓であるが、糸田村にある惣庄屋の田を「出作り」していた。
年貢を基礎に成り立っている藩にとって、隠田などもっての外であり、惣庄屋が隠田をしたとなれば死罪は免れない。
隠田かどうかは名寄帳などの帳面を見れば判る。その名寄帳は糸田村の庄屋伊右衛門方にある。公事(訴訟)の行方を握るのは伊右衛門ということになった。
そこで惣庄屋側は伊右衛門を鬼丸(惣庄屋の居宅)へ呼び出す事にした。
一方、村人達からは「この公事には公平に証言をしていただきたい。もし惣庄屋側の談合に加わったなら、庄屋も隠田がある、と訴える」と言われていた。
伊右衛門は困った。十八年もの間、庄屋をし、「慈悲深キ人ナリ、貧者ニハ夫々ニ応ジ米ヲ配当シテ村中ニ配ツタリ」したので人望もあった。
しかしそこは封建社会の事でもあり、惣庄屋の呼び出しを断る訳にもいかない。「人目ヲ恐レ夜々我家ヲ忍ビ奥ノ部屋ノ裏戸ヨリ」抜け出して鬼丸へ通い、内談を重ねた。
孫の弥右衛門はこの時八歳であったが、子ども心にもこの時の事を鮮明に覚えている。
「我等構イ申サズバ、モハヤ鬼丸ハ、訴ヘタ里左衛門ノ申ス通リニナリ、先祖以来ネンゴロニシテキタ鬼丸ハ取リ潰サレ、後ニ残ルノハ黒土」のみになるであろう。されど偽証すれば自分の隠田もあばかれる。「イカガ仕リ候ハバ遁ゲ申サレルベキ候ヤ」と夫婦で部屋に籠もり嘆いていたのを覚えている。
帳簿を書き直す
窮地に立った惣庄屋側は、証拠になる帳簿類を「ヒソカニ奥に取リコモリ、古キ紙ヲ改メ古帳ニ似セテ整ヘ直シ」た。書き手は横田の正宗寺の了益である。惣庄屋の叔父にあたる。
また、庄屋伊右衛門の口上書には「御惣庄屋甲佐甚兵衛殿申シアゲラレ候通リ相違少シモ御座ナク候」とした。
緑川の河原を拓いて造った水田は、今のようにきちんとした堤防で守られ区画されたものではなく、水田といえば水田、川床といえば川床と、どちらにもとれる所があった。また、堤防があっても洪水の度に決壊し、その修復には数年もかかった。決壊場所の水田は地床がなくなり、永荒地として届けられ、その後また開田した川成田もあった。
ちなみに糸田を緑川から守っている堤防が完成したのは、この事件から九年後、元禄五年である。
さて、諸帳面と口上書が差し出されてからしばらくして、奉行所より糸田へ出向いて取り調べがあったが「御惣庄屋ガ前モッテ申シ上ゲ置カレ候通リ少シノ相違ナク」惣庄屋側は無罪となった。
里左衛門死刑となる
一方、里左衛門は人を偽って罪に陥れようとしたとして捕らえられ、翌朝熊本へ送られた。証人の九左衛門も捕らえられた。
その結果、里左衛門は「隠田コレナク、言イ掛カリニ相極マリ候ニ付、御在所デ御誅罰仰セ付ケラレ」、隠田があるとされた糸田の新地で誅罰、つまり打ち首ではなく胴切りにされた。
天和三年二月二九日の事である。
なお、この事件については不明な点が多いが、庄屋伊左衛門の孫に当たる弥右衛門が「古今集覧」としてまとめた本の割注に「里左衛門事、十分利ヲ持チナガラ不ビンナ事ト諸人言イタリト申シ伝ヘル也」との書き入れがある。また、惣庄屋の弟も「不届之儀有之」として筑後に追放になった事から考えて「お上を訴える事はまかり成らぬ」という判断が先にあったと思われる。
庄屋も死刑
事件はこれだけに終わらなかった。
糸田村の百姓二十八名が連判で、庄屋の伊左衛門が隠田をしていると訴え出た。また、庄屋にあるまじき悪事非道なふるまいがあるというのである。
年貢は村庄屋が村請けして、それをもとに各百姓に割り付けられる。「御達」や村の申し合わせの順守なども庄屋の匙加減一つである。それに、里左衛門の公事の際に公平な証言をしなかった恨みもある。
訴え出た中心人物は北村の清右衛門である。清右衛門は川原の七郎兵衛と談合するのに道路を通らず藪の中を踏み分け日夜通い同志を集めた。後年この藪の中の踏み分け道を地獄道と呼ぶようになった。
訴え出た二十八名と庄屋の伊左衛門は、奉行所で厳しい取り調べを受け「段々召シ籠メラレ」た。その間、逃れるために床の下に隠れてそのまま死んだり、弟を身代わりに立て逃亡したりする者もあらわれた。
吟味の結果、庄屋の隠田については、寛文九年(事件の起こる十四年前)の洪水で田畑が荒地になり年貢の減免を受けたが、その後復旧したにもかかわらずそのままにしておいたので有罪、悪事非道な振る舞いについては証拠がなく無罪であった。百姓については悪事非道な振る舞いが無いにもかかわらず連判状を出したので有罪、リーダーの五名については隠田もあり死罪となった。
また、先の事件で追放になった有安村の久左衛門は勝手に立ち帰って捕らえられていたので、これも死罪になった。
庄屋・百姓五名・有安村の久左衛門の計七名の処刑は天和三年三月二十九日、糸田村の外川原(いま甲佐大橋が架けられている)で行われた。いずれも誅罰である。
処刑されるとき伊左衛門は「自分は役儀故、無実の罪を受け相果てる。子々孫々まで庄屋役はしてはならない」と言い残したと伝えられる。
新たな年貢が
死罪を免れた他の百姓には過酷な罰が課せられた。
「御誅罰仰セツケラレル筈ノ所ニ御慈悲ヲモッテ」上豊内の石川原で一日一束二荷の縄をなわせた。親も同様な罰を受けたため「悉ク手ノ腹ヲカキ破リ、傷強ク煩イトナリ、ソノ節死ヌル者、数多クアル」。
公事人の子どもには鵜の瀬堰の改修のために大石を担わせた。これが四月より六月まで続いたために麦刈りも田植えもできず、その後滅亡する家も出てきた。
また、糸田の田畑を調べ直したために百三十石の新地が増えて、以後糸田村の百姓は年貢に苦しむ事になる。
騒動の底流
死罪をも覚悟して村役人を訴えたのは何故か。ここにいくつかの手がかりがある。
この頃、隣村の早川厳島神社に渡辺玄察という社司がいた。祖父は渡辺軍兵衛といって戦国時代に活躍した武将である。玄察は身辺の事象について詳細な記録を残している。しかし彼が五十一歳の時に起きたこの事件に関しては誠にそっけない。「糸田村庄屋百姓口舌事申出、公儀より御穿鑿あそばされ庄屋百姓五人御誅罰」とあるあけで何らかの作為が感じられる。
玄察に関したもう一つある。下早川の孫左衛門は、この事件のとき惣庄屋の手代(手永会所(今の役場)の助役にあたる)をしており、惣庄屋側のすべてを取り仕切っていた。それがふとした事で玄察と仲違いになった。玄察が中村庄兵衛(細川家の家臣。下早川は中村氏の知行地)に申し出た事により、筑後国に追放になってしまった。
あと一つある。
この事件と前後して起きた糸田の植木神社の宣明(神主)をめぐって起きたトラブルである。
まず御神体の胸に何者かが釘を打ち付けるという事件が起きた。そして宣明役を勤めていた津志田八幡宮の中村兵部の祭祀の仕方について玄察方からクレームがつき、交代させられるという事態となった。その後、村祭りは古庄屋側の公事方三十一人(死罪になった五人も含む)と、公事に加わらなかった庄屋方三十六人とに分かれて執り行われるようになった。
これらの事から考えると、戦国時代まで早川城主としてこの地に勢力を誇っていた渡辺氏は、当然のことながら目と鼻の先にある糸田は自領だと思っていた。その場所へ佐々・加藤・細川と目まぐるしく変わる御時世に主君を失った人々が移住を始める。糸田には加藤以後、堤防も作られ新田も増加して「村」が形成されていく。あまつさえ洪水で流れ着いた御神体を氏神として祀り、こともあろうに早川神社の真正面から数丁先に境内を造って木を植えて植木神社と称し、宣明は川向こうの津志田八幡宮から呼んでくる。
これらの事に対して、渡辺氏と古庄屋側が手を組んで、惣庄屋・庄屋側と抗争したのが、この事件の底流にあったと考える。
(刑場の「さし札」の写し)(永青文庫蔵)
斬罪人①
益城郡糸田村庄屋
猪右衛門②
此もの隠田をいたす
久左衛門③
傳右衛門④
善兵衛⑤
権右衛門⑥
平左衛門⑦
此の五人庄屋に無実を
申かけ剰(あまつさえ)隠田をいたす
益城郡有安村
久左衛門⑧
此のもの令追放候処に
立帰
右依罪科如此申付者也
天和三年三月二十九日⑨
① 胴切りにした。胴は「望帳」に付け置いた者の中からクジで決め、刀で試切りにした。この日は胴の数が多く「スタリ申シタ」
② 伊左衛門。庄鶴(糸田村が成立する以前の地名の一つ)の名主緒方監物の孫にあたる。なおこの事件を記した「古今集覧」の著者弥右衛門は伊左衛門の孫にあたる。
③と⑦は兄弟で、古庄屋の子。公事の中心人物
④と⑥は兄弟で公事の頭取
⑤兄の清左衛門は公事の頭取であったが逃亡したので善兵衛が身代わりになって誅罰された
⑧惣庄屋と孫兵衛の公事のとき、証人となり追放されたが立ち帰っていた。
(参考「誅罰帳」(永青文庫蔵)・「古今集覧」(緒方昭二氏蔵)「渡辺玄察日記」(熊本県立図書館蔵)
(「ふるさと63号」1999)
歴史 4-9
清正公に米15kg?
いつの事かはっきりしないが、甲佐が加藤清正の領国になってから鵜の瀬堰ができるまでの間と思われるから、多分慶長10年の前後だと思われる。
「甲佐の文化財第二集」に次の記述がある。「(早川井手は完成した)翌年、(加藤清正)が巡検の時、軍兵衛は開田地から穫れた米百合(今の15K)を家来喜六に担がせてその途上で献上しました」
これは「甲佐町史」の「(巡視にきた加藤清正に対して)軍兵衛は開田地から穫れた米百合を下人喜六にかつがせて、その途上で献上しました」からの引用だと思われる。
軍兵衛とは早川神社の社司職である渡邊軍兵衛である。当時は牢浪の身であるが、かつてはは肥後の有力な国人の一人として勢力を誇っていた。
この前年、矢部より間谷を越えて甲佐にやってきた清正に対して軍兵衛は次の進言をした
「早川の前にある耕地は水懸かりが悪く畑になっている。そこへ湯田・鬼丸・立岩・内田の谷水を集め、浅井を掘り割って井手を作り、四堂崎で上早川・宮の尾・目野谷の水を受け込んで早川の前の畑地に注げば立派な水田になるであろう」
この我田引水は浅井の住民にとっては迷惑な話である。しかし開田に力を注いでいる清正は、反対する名主に対して「背中を割り、塩をつけてくれようぞ」と怒ったので、名主は逃げ去ったとある。
(浅井の住民の反対は当然で、このために後年、付近の住民は洪水に苦しむ事になる)
竜野川は天井川になっており、井手と川が交わる所は洪水の度に壊れ、その都度「底井樋」にしたり(川底をくぐらせる、現在がそうなっている)、筧(かけい、川の上を樋で横切る)にしたり色々工面しているが、「下横田・小鶴までも田に水がつかえ、四堂崎は横水が打通し」住民は難儀するようになる。
この井手は程なく完成し、早川の前の畑は水田になった。
翌年清正が早川を巡検したとき、軍兵衛は新田から穫れた米を清正に献上した。それが右の「甲佐町史」の記述である。
それにしても「米百合」とは奇妙な書き方である。
ところで、このことに関しては軍兵衛の孫にあたる渡邊玄察が「拾集物語」として書いている。それにはこうある。
(右の井手首尾いたし候秋御廻国遊ばされ畠成田の籾にて平米を拵え喜六という小者に平米をゆりというわげ物にいれ担がせ前川向こうの大道に罷り出)
「畠成田」とは畠だった土地を水田にした耕地、「平米」は焼米のことで、もともとは未熟な青米を焼いてつぶして祝い事に用いた。矢部では今でも土産物として売っている。「ゆり」とは竹で編んだ楕円形の曲げ物の容器の事で、籾などをゆすって選別したので、この名がある。「わげ物」は杉やひのきを薄くして折り曲げて作った容器である。
甲佐町史の記述と殆ど同じであるが、献上した米がどれだけだったかは書いてない。
とすれば、このことについては別の史料が存在することになる。そこで「甲佐町史」が根拠とした古文書を探していたが、途中で次の事に気がついた。
「拾集物語」のこの部分は「肥後国志略」の一部として出ているが、それには次のようになっている。
翌秋また巡検の眨(そう)軍兵衛百合に平米を盛りて下人喜六に担がせ即ち途中にて清正侯に献上す。乃ち馬上にてこの平米を祝はれ末々迄これを賜り
さすれば、もともと穀物を入れる「ゆり」が翻刻の段階で「百合」となり、町史に編修するとき「ひゃくごう=1斗=15㎏」とされたのではないか、これが私の推論である。
(「ふるさと61号」 1998)
あの穴は何だ
東寒野付近の緑川左岸の改修工事にともない、鵜の瀬堰の石畳(巻石)の上に掘られた穴列に関心が集まった。
穴は二列で計十四個、穴の直径は二十五㎝から十五㎝、深さは二十㎝から十㎝でまちまちである。
橋ではない
先ず誰でも、橋を架けるために掘られた柱穴であろうと考える。
しかし地勢的にはここに橋を架ける必要は全くない。
対岸上流の上揚に行くためにこの橋を利用したとすると、鵜の瀬堰を七〇〇m近くも徒渡り(かちわたり)して斜めにくだって簗にたどりつき、そこから対岸を歩いて上揚まで行かなければならない。
(図1:鵜の瀬堰付近の地図)
(鵜の瀬堰は堰の長さだけで「緑川絵図」によれば百八十五間、「郡村誌」によれば堰長四丁十六間三尺とある)
そんな事をするより少し上流にある「尾北の渡」を渡し船で行けばよい。
ここの渡し船は現在でも町道なみに使われている。徒歩が主な交通手段であった頃にはもっと重要な交通の要衝であった。一つには甲佐神社の社領がここから南に広がっていた事もある。
明治の初めに書かれた「郡村誌」には「尾北渡」として「一等里道に属す。村の東の緑川の上流にあり。深い処十一間、浅い処四間、広さ四間、渡船一艘」と記されている。
それでは対岸下流の豊内に行くにはどうか。ここも鵜の瀬堰を徒渡りせずとも原町往還を日和瀬まで下り「日和瀬渡」で渡ればよい。渡しの川幅は十一間とある。
昔は砥用(原町)行く道は西寒野、東寒野、尾北を通っていた。
つまり、対岸に渡るためには、ここに斜めに橋を架ける必要は全くない。
土橋は冬に掛ける
途中には中州があり、桑畑があった。
そこにに行くために橋が必要だったか。
養蚕が盛んな頃は対岸まで桑摘みに出かけるのは珍しい事ではなかった。例えば吉田の人々は舟で緑川を渡り府領まで出かけていた。
しかし中州の畑は豊内の所有であり東寒野から行く事はない。
たとえあったとしても、緑川は大河であり、しかも交通の要衝でもない所に本格的な桁(けた)のある橋を架けることはないので、もし橋を架けていたとすると、その橋は板橋か土橋ということになる。
かって戦後、津志田と糸田の間に冬場だけ土橋が架けられていた。このような
土橋は夏の洪水で必ず流された。したがって橋を架けたとすると冬場に利用されたという事になる。桑摘みは夏場の仕事であり、中州に行くために架けられたという説はこのことからも成りたたない。
桟橋か
橋だとすると、あとひとつ考えられるのは、舟に積み込むために桟橋として利用した事が考えられる。
甲佐では物資の集散には平田舟を利用していた。年貢を川尻御蔵に運ぶのも緑川の水運に依った。それでは「俵転がし」のような機能を持っていたのであろうか。
しかしここは「鵜の瀬」の地名が示すように「瀬」である。このような急流を船着き場にすることはあり得ない。少し上流か下流に淀渕がいくらでもある。
橋杭の問題
橋を架けるとするとあの場所は確かにに都合がよい。橋杭(橋脚)が立てやすいからである。
昔は大きな橋の杭を立てるときには杭の頂部に架台を組み、その上に土嚢をのせて加重して綱をつけ多人数で杭をゆすってのめり込ませる工法をとった。
また、小さな土橋や板橋は橋脚を堀り立てたり打ち込んだりして固定した。その点で鵜の瀬堰は露出している大石に穴を穿つだけで固定できるので誠に都合がよい。
しかし、あれを橋脚の穴とするには大きな疑問が残る。
下流の穴が小さい
それは穴の位置である。対をなしている二本の橋脚は必ず流れに沿って平行していなければならない。もし乱杭のようになっていたら水流は塞き止められ、洪水時にはゴミがかかり、ひとたまりもない。
図3を見ていただきたい。 このような橋脚の橋は見たことがない。
橋杭の穴跡だとすると、もうひとつ問題がある。
それは対をなしている二本の穴の大きさである。いずれも上流の穴が大きい。
上流の平均は二四、六㎝、下流の平均は一五・七㎝である。
橋脚では絶対にこのような事は起きない。
何か必然的な理由かあるはずであり、これこそが穴の謎を解く鍵である。
草堰か
用水路に水を導くには川を塞き止めてるのが一般的である。強固な堰としては石畳(石巻)がある。しかしこの方法は莫大な労力と費用がいる。
そこで昔は苗代の水取り期に杭を打ち込み、杭と杭とを竹で杭を編んでいく工法をとった。そして隙間には水が漏れないように葦や麦藁やササをウッパメた。 このような作業を「水取クヤク」といい、このような堰を「草堰」といった。 所によっては水漏れを塞ぐに柴を充てる地域もあって、それは「シバゼキ」と呼んだ。
このような堰では水勢を杭だけで支える事は出来ないので、下流方向より支え棒を必要とする。支え棒も別に小さい杭を打って下端を固定した。
戦前まではこのような工法による堰が殆どであった。
橋の遺構としては説明がつかない穴の大小もこれで説明がつく。
何のための草堰か
あの穴が草堰の遺構だとしても問題が残る。一体何の目的で作られたかということである。
いくつかの仮説を立てて見よう。
〔仮説1〕
下流にある水車(くるま・精米、製粉所)への導水のために塞き止めたという事が考えられる。図5は「甲佐町の文化財第二集」による水車の位置である。
「ふな水戸」(筏や舟の通路・周辺の石塁より低くしてある)に導いて水勢を強くしていた事が考えられる。
〔仮説2〕
「刎(はね)」として増水時に左岸を守った事が考えられる。
緑川には護岸のための「石刎」がいたるところにある。ここの左岸には川沿い
に道路があり、民家や水車があった。
それを守るための簡易な「刎」として
〔仮説3〕
第三に柱穴の先にある「ふな水戸」との関係である。
「ふな水戸」を「簗」として使うために鮎を導く「瀬張り」を作ったのではないかとも考えられる。
かって鮎を獲るための「瀬張り」(仕掛けは簗と同じ)は緑川のいたるところで行われていた。
鵜の瀬堰にも現在ある御簗だけでなく「ソト簗」があった。当然対岸にもあったと考えられる。その「瀬張り」の遺構だとも考えられる。
〔仮説4〕
最後に大井手の取水のためのクサゼキが考えられる。
そのためには漏斗口(じょうごぐち・簗に導く水路の入口)まで柱穴を掘らなければならず、その遺構が残っていなければならないが、今はコンクリートに覆われて見ることが出来ない。
しかし昭和十四年の観察記録に次のようなものがある。
「一個一個の石が水の中や水面上に見えていた。石質は凝灰岩で中央に三十㎝位の穴があり、穴には松の丸太が全部打ち込まれている」(「甲佐の文化財・第二集」の一部要約)
これが事実とすると鵜の瀬堰全部にわたり穴が穿った石畳があったことになる。 勿論、この穴は洪水で堰が壊れないために松材で補強するのが目的であったのであろうが、不足する用水を確保するために用いることは簡単にできる。
〔仮説5〕
近頃、書店に行くとボケ防止のための「頭の体操」関係の本がやたらと多い。
この穴の問題はタダでできるのであなたも考えてください。案外それが正解かも知れません
(「ふるさと78号」 2007)
歴史 4-6
徒空然咄序文
平成十一年の台風十七号は熊本県中を荒れ狂い、不知火町に高潮の被害を与えるなどしたが、甲佐町の旧家小山田實氏の土蔵をも半壊した。その中から出てきたのがこの文書である。
これには宝暦四年(一七五四)から明和二年までの十二年間の出来事を、後世に残す意図を持って書かれていた。
この文書を書いた次郎兵衛は甲佐手永八丁村(現熊本県甲佐町白旗)の、富農ではあるが唯の百姓である。しかし江戸中期の百姓にあっては希有の事であるが、四書五経に通じ我が国の古典にも親しむ知識人でもある。
若い頃には手永会所役人にもなったが、まもなく病に冒され、以後は療養と農業経営にいそしみ、また手習いの師匠をしながら世の中の事共を書き留めていた。その中から自身の手で抜粋して後世のためにまとめたのがこの文書である。
肥後藩はこの時期、細川重賢と宰相堀平太左衛門による「宝暦の改革」の最中であった。
「宝暦の改革」については、藩政の視点から「肥後物語」「銀台遺事」等数多く、近くは「非常の才」などもある。また領民の立場からは改革を批判的に捉えた「仁助咄」もある。
これらに対して、この「徒空然咄」は百姓の眼を通して、当時の社会的状況を点描しながらも改革にも眼を向け、善政を悦び、飢饉に心を痛め、村役人の圧制を憤り、百姓の心の貧しさを嘆き、作柄に一喜一憂しながら、揺れ動く世の様を率直に記している。
その根底には「隠遁の身となり寂寞の域に心を澄まし、安静を楽しみ菩提を求め申す覚悟にて門外不出を決め」ている次郎兵衛の姿勢がある。
宝暦の改革は、要するに三百諸侯の中でも最悪といわれた肥後藩の財政の立て直しである。そのため中堅層の藩士を起用し、行政改革を実施して経費を節減し、質素倹約を徹底して封建的身分制度を揺るぎないものにした。また養蚕などの産業を起こす一方で検地を実施し、刑法を策定し、時習館を設立した。
これらの施策は一応成功して藩財政は立ち直った。
しかし、それが領民にとってどうだったかは全くの別問題である。この「咄」はその解答の一つになろう。
表題の「つくねん」は宝暦の改革で揺れ動く世の中にあって、一人世情を憂う次郎兵衛の心情をあらわすものとして「自序」から採った。
歴史 4-7
願成桜
鎌倉時代、元の大軍が二度にわたり日本に攻め寄せてきました。文永の役(一二七三)弘安の役(一二八一)といいます。
当時、甲佐神社は肥後国の二の宮として松橋や小川にいたる広大な社領を有していました。
松橋の竹崎に住んでいた鎌倉幕府の御家人竹崎(たけざき)季(すえ)長(なが)は文永の役に出陣して手柄をたてましたが恩賞からもれてしまいました。
くやしい思いをとしているところへ、夢の中で「甲佐神社に参れ」とお告げあり、甲佐神社に参拝しました。
そのとき境内の東にある桜の枝に甲佐大明神があらわれてお告げがあり、それにしたがって鎌倉に行き直訴しましたら幕府から海東の地を賜わりました。
「弘安の役」が終わり、季長は願いが成ったのも甲佐神社のおかげであると、「蒙(もう)古襲来(こしゅうらい)絵詞(えことば)」を作り甲佐神社に奉納しました。
それから七百年が経ちました。
私たちは、枯れかけている桜を継ぐものとして若桜を植栽し、願いが成就する場にしました。
平成十八年十二月二日
歴史 4-8
糸田村百姓一揆
かくし田がある
江戸時代の初めの事である。熊本に孫兵衛という侍がいた。姓は判らぬ。故あって浪人し糸田村で百姓になった。土地は甲佐手永の惣庄屋(今の甲佐町長にあたる)の横田源左衛門が開いた新地である。
糸田は緑川の中州にある。戦国時代も末になり、近隣からの移住が始まり新地も開けてきた。勿論満足な堤防もなく常に洪水の危険にさらされていた。
孫兵衛の子を里左衛門という。里左衛門の代になって小作米が滞り始めた。惣庄屋も子の甚兵衛の代になった。それを期に甚兵衛は滞納を理由にして貸していた田畑を取り上げてしまった。
腹の虫が治まらないのは里左衛門である。
「恐れながら・・・」と奉行所に訴え出た。隠田があるというのである。
天和三年(一六八三)、村中を騒動に巻き込み「眼前ニ村中ヲ亡所ト成ス」一揆はこのようにして始まった。
談合を重ねる
隠田は重罪である。何しろ小作をしていた里左衛門が言うのだから、これ程確かな証拠はない。おまけに証人には九左衛門がいる。彼は有安村の百姓であるが、糸田村にある惣庄屋の田を「出作り」していた。
年貢を基礎に成り立っている藩にとって、隠田などもっての外であり、惣庄屋が隠田をしたとなれば死罪は免れない。
隠田かどうかは名寄帳などの帳面を見れば判る。その名寄帳は糸田村の庄屋伊右衛門方にある。公事(訴訟)の行方を握るのは伊右衛門ということになった。
そこで惣庄屋側は伊右衛門を鬼丸(惣庄屋の居宅)へ呼び出す事にした。
一方、村人達からは「この公事には公平に証言をしていただきたい。もし惣庄屋側の談合に加わったなら、庄屋も隠田がある、と訴える」と言われていた。
伊右衛門は困った。十八年もの間、庄屋をし、「慈悲深キ人ナリ、貧者ニハ夫々ニ応ジ米ヲ配当シテ村中ニ配ツタリ」したので人望もあった。
しかしそこは封建社会の事でもあり、惣庄屋の呼び出しを断る訳にもいかない。「人目ヲ恐レ夜々我家ヲ忍ビ奥ノ部屋ノ裏戸ヨリ」抜け出して鬼丸へ通い、内談を重ねた。
孫の弥右衛門はこの時八歳であったが、子ども心にもこの時の事を鮮明に覚えている。
「我等構イ申サズバ、モハヤ鬼丸ハ、訴ヘタ里左衛門ノ申ス通リニナリ、先祖以来ネンゴロニシテキタ鬼丸ハ取リ潰サレ、後ニ残ルノハ黒土」のみになるであろう。されど偽証すれば自分の隠田もあばかれる。「イカガ仕リ候ハバ遁ゲ申サレルベキ候ヤ」と夫婦で部屋に籠もり嘆いていたのを覚えている。
帳簿を書き直す
窮地に立った惣庄屋側は、証拠になる帳簿類を「ヒソカニ奥に取リコモリ、古キ紙ヲ改メ古帳ニ似セテ整ヘ直シ」た。書き手は横田の正宗寺の了益である。惣庄屋の叔父にあたる。
また、庄屋伊右衛門の口上書には「御惣庄屋甲佐甚兵衛殿申シアゲラレ候通リ相違少シモ御座ナク候」とした。
緑川の河原を拓いて造った水田は、今のようにきちんとした堤防で守られ区画されたものではなく、水田といえば水田、川床といえば川床と、どちらにもとれる所があった。また、堤防があっても洪水の度に決壊し、その修復には数年もかかった。決壊場所の水田は地床がなくなり、永荒地として届けられ、その後また開田した川成田もあった。
ちなみに糸田を緑川から守っている堤防が完成したのは、この事件から九年後、元禄五年である。
さて、諸帳面と口上書が差し出されてからしばらくして、奉行所より糸田へ出向いて取り調べがあったが「御惣庄屋ガ前モッテ申シ上ゲ置カレ候通リ少シノ相違ナク」惣庄屋側は無罪となった。
里左衛門死刑となる
一方、里左衛門は人を偽って罪に陥れようとしたとして捕らえられ、翌朝熊本へ送られた。証人の九左衛門も捕らえられた。
その結果、里左衛門は「隠田コレナク、言イ掛カリニ相極マリ候ニ付、御在所デ御誅罰仰セ付ケラレ」、隠田があるとされた糸田の新地で誅罰、つまり打ち首ではなく胴切りにされた。
天和三年二月二九日の事である。
なお、この事件については不明な点が多いが、庄屋伊左衛門の孫に当たる弥右衛門が「古今集覧」としてまとめた本の割注に「里左衛門事、十分利ヲ持チナガラ不ビンナ事ト諸人言イタリト申シ伝ヘル也」との書き入れがある。また、惣庄屋の弟も「不届之儀有之」として筑後に追放になった事から考えて「お上を訴える事はまかり成らぬ」という判断が先にあったと思われる。
庄屋も死刑
事件はこれだけに終わらなかった。
糸田村の百姓二十八名が連判で、庄屋の伊左衛門が隠田をしていると訴え出た。また、庄屋にあるまじき悪事非道なふるまいがあるというのである。
年貢は村庄屋が村請けして、それをもとに各百姓に割り付けられる。「御達」や村の申し合わせの順守なども庄屋の匙加減一つである。それに、里左衛門の公事の際に公平な証言をしなかった恨みもある。
訴え出た中心人物は北村の清右衛門である。清右衛門は川原の七郎兵衛と談合するのに道路を通らず藪の中を踏み分け日夜通い同志を集めた。後年この藪の中の踏み分け道を地獄道と呼ぶようになった。
訴え出た二十八名と庄屋の伊左衛門は、奉行所で厳しい取り調べを受け「段々召シ籠メラレ」た。その間、逃れるために床の下に隠れてそのまま死んだり、弟を身代わりに立て逃亡したりする者もあらわれた。
吟味の結果、庄屋の隠田については、寛文九年(事件の起こる十四年前)の洪水で田畑が荒地になり年貢の減免を受けたが、その後復旧したにもかかわらずそのままにしておいたので有罪、悪事非道な振る舞いについては証拠がなく無罪であった。百姓については悪事非道な振る舞いが無いにもかかわらず連判状を出したので有罪、リーダーの五名については隠田もあり死罪となった。
また、先の事件で追放になった有安村の久左衛門は勝手に立ち帰って捕らえられていたので、これも死罪になった。
庄屋・百姓五名・有安村の久左衛門の計七名の処刑は天和三年三月二十九日、糸田村の外川原(いま甲佐大橋が架けられている)で行われた。いずれも誅罰である。
処刑されるとき伊左衛門は「自分は役儀故、無実の罪を受け相果てる。子々孫々まで庄屋役はしてはならない」と言い残したと伝えられる。
新たな年貢が
死罪を免れた他の百姓には過酷な罰が課せられた。
「御誅罰仰セツケラレル筈ノ所ニ御慈悲ヲモッテ」上豊内の石川原で一日一束二荷の縄をなわせた。親も同様な罰を受けたため「悉ク手ノ腹ヲカキ破リ、傷強ク煩イトナリ、ソノ節死ヌル者、数多クアル」。
公事人の子どもには鵜の瀬堰の改修のために大石を担わせた。これが四月より六月まで続いたために麦刈りも田植えもできず、その後滅亡する家も出てきた。
また、糸田の田畑を調べ直したために百三十石の新地が増えて、以後糸田村の百姓は年貢に苦しむ事になる。
騒動の底流
死罪をも覚悟して村役人を訴えたのは何故か。ここにいくつかの手がかりがある。
この頃、隣村の早川厳島神社に渡辺玄察という社司がいた。祖父は渡辺軍兵衛といって戦国時代に活躍した武将である。玄察は身辺の事象について詳細な記録を残している。しかし彼が五十一歳の時に起きたこの事件に関しては誠にそっけない。「糸田村庄屋百姓口舌事申出、公儀より御穿鑿あそばされ庄屋百姓五人御誅罰」とあるあけで何らかの作為が感じられる。
玄察に関したもう一つある。下早川の孫左衛門は、この事件のとき惣庄屋の手代(手永会所(今の役場)の助役にあたる)をしており、惣庄屋側のすべてを取り仕切っていた。それがふとした事で玄察と仲違いになった。玄察が中村庄兵衛(細川家の家臣。下早川は中村氏の知行地)に申し出た事により、筑後国に追放になってしまった。
あと一つある。
この事件と前後して起きた糸田の植木神社の宣明(神主)をめぐって起きたトラブルである。
まず御神体の胸に何者かが釘を打ち付けるという事件が起きた。そして宣明役を勤めていた津志田八幡宮の中村兵部の祭祀の仕方について玄察方からクレームがつき、交代させられるという事態となった。その後、村祭りは古庄屋側の公事方三十一人(死罪になった五人も含む)と、公事に加わらなかった庄屋方三十六人とに分かれて執り行われるようになった。
これらの事から考えると、戦国時代まで早川城主としてこの地に勢力を誇っていた渡辺氏は、当然のことながら目と鼻の先にある糸田は自領だと思っていた。その場所へ佐々・加藤・細川と目まぐるしく変わる御時世に主君を失った人々が移住を始める。糸田には加藤以後、堤防も作られ新田も増加して「村」が形成されていく。あまつさえ洪水で流れ着いた御神体を氏神として祀り、こともあろうに早川神社の真正面から数丁先に境内を造って木を植えて植木神社と称し、宣明は川向こうの津志田八幡宮から呼んでくる。
これらの事に対して、渡辺氏と古庄屋側が手を組んで、惣庄屋・庄屋側と抗争したのが、この事件の底流にあったと考える。
(刑場の「さし札」の写し)(永青文庫蔵)
斬罪人①
益城郡糸田村庄屋
猪右衛門②
此もの隠田をいたす
久左衛門③
傳右衛門④
善兵衛⑤
権右衛門⑥
平左衛門⑦
此の五人庄屋に無実を
申かけ剰(あまつさえ)隠田をいたす
益城郡有安村
久左衛門⑧
此のもの令追放候処に
立帰
右依罪科如此申付者也
天和三年三月二十九日⑨
① 胴切りにした。胴は「望帳」に付け置いた者の中からクジで決め、刀で試切りにした。この日は胴の数が多く「スタリ申シタ」
② 伊左衛門。庄鶴(糸田村が成立する以前の地名の一つ)の名主緒方監物の孫にあたる。なおこの事件を記した「古今集覧」の著者弥右衛門は伊左衛門の孫にあたる。
③と⑦は兄弟で、古庄屋の子。公事の中心人物
④と⑥は兄弟で公事の頭取
⑤兄の清左衛門は公事の頭取であったが逃亡したので善兵衛が身代わりになって誅罰された
⑧惣庄屋と孫兵衛の公事のとき、証人となり追放されたが立ち帰っていた。
(参考「誅罰帳」(永青文庫蔵)・「古今集覧」(緒方昭二氏蔵)「渡辺玄察日記」(熊本県立図書館蔵)
(「ふるさと63号」1999)
歴史 4-9
清正公に米15kg?
いつの事かはっきりしないが、甲佐が加藤清正の領国になってから鵜の瀬堰ができるまでの間と思われるから、多分慶長10年の前後だと思われる。
「甲佐の文化財第二集」に次の記述がある。「(早川井手は完成した)翌年、(加藤清正)が巡検の時、軍兵衛は開田地から穫れた米百合(今の15K)を家来喜六に担がせてその途上で献上しました」
これは「甲佐町史」の「(巡視にきた加藤清正に対して)軍兵衛は開田地から穫れた米百合を下人喜六にかつがせて、その途上で献上しました」からの引用だと思われる。
軍兵衛とは早川神社の社司職である渡邊軍兵衛である。当時は牢浪の身であるが、かつてはは肥後の有力な国人の一人として勢力を誇っていた。
この前年、矢部より間谷を越えて甲佐にやってきた清正に対して軍兵衛は次の進言をした
「早川の前にある耕地は水懸かりが悪く畑になっている。そこへ湯田・鬼丸・立岩・内田の谷水を集め、浅井を掘り割って井手を作り、四堂崎で上早川・宮の尾・目野谷の水を受け込んで早川の前の畑地に注げば立派な水田になるであろう」
この我田引水は浅井の住民にとっては迷惑な話である。しかし開田に力を注いでいる清正は、反対する名主に対して「背中を割り、塩をつけてくれようぞ」と怒ったので、名主は逃げ去ったとある。
(浅井の住民の反対は当然で、このために後年、付近の住民は洪水に苦しむ事になる)
竜野川は天井川になっており、井手と川が交わる所は洪水の度に壊れ、その都度「底井樋」にしたり(川底をくぐらせる、現在がそうなっている)、筧(かけい、川の上を樋で横切る)にしたり色々工面しているが、「下横田・小鶴までも田に水がつかえ、四堂崎は横水が打通し」住民は難儀するようになる。
この井手は程なく完成し、早川の前の畑は水田になった。
翌年清正が早川を巡検したとき、軍兵衛は新田から穫れた米を清正に献上した。それが右の「甲佐町史」の記述である。
それにしても「米百合」とは奇妙な書き方である。
ところで、このことに関しては軍兵衛の孫にあたる渡邊玄察が「拾集物語」として書いている。それにはこうある。
(右の井手首尾いたし候秋御廻国遊ばされ畠成田の籾にて平米を拵え喜六という小者に平米をゆりというわげ物にいれ担がせ前川向こうの大道に罷り出)
「畠成田」とは畠だった土地を水田にした耕地、「平米」は焼米のことで、もともとは未熟な青米を焼いてつぶして祝い事に用いた。矢部では今でも土産物として売っている。「ゆり」とは竹で編んだ楕円形の曲げ物の容器の事で、籾などをゆすって選別したので、この名がある。「わげ物」は杉やひのきを薄くして折り曲げて作った容器である。
甲佐町史の記述と殆ど同じであるが、献上した米がどれだけだったかは書いてない。
とすれば、このことについては別の史料が存在することになる。そこで「甲佐町史」が根拠とした古文書を探していたが、途中で次の事に気がついた。
「拾集物語」のこの部分は「肥後国志略」の一部として出ているが、それには次のようになっている。
翌秋また巡検の眨(そう)軍兵衛百合に平米を盛りて下人喜六に担がせ即ち途中にて清正侯に献上す。乃ち馬上にてこの平米を祝はれ末々迄これを賜り
さすれば、もともと穀物を入れる「ゆり」が翻刻の段階で「百合」となり、町史に編修するとき「ひゃくごう=1斗=15㎏」とされたのではないか、これが私の推論である。
(「ふるさと61号」 1998)
中嶋著作4歴史
歴史4-1
江戸時代の暮らし
私たちの祖先はどのように暮らしてきたのであろうか。
甲佐町にある古文書を現代文に直して日本国憲法と比較しながら、そのいくつかを紹介する。
なお、難解な語句や時代的背景は本文に割り込む形で加筆して理解できるようにした。
日本国憲法二二条 何人も居住、移転の自由を有する
江戸時代 緒方文書(甲佐町糸田・緒方昭二さん所蔵)
糸田村の百姓の子の尋五郎が帰ってきたのでお届け致します。
尋五郎は今から二年前の享保二十年の十一月に突然行方不明になりました。そこで五人組はもとより村中総出で捜しましたけれども見つかりませんでした。
このことについては、その時書状をもって庄屋から御惣庄屋に届けてあります。
ところがこの度突然自宅に帰って参りました。それで厳しく問いただしましたところ、この間は馬見原へ行っていたことがわかりました。
馬見原では日給取り(ひゆうとり) などして渡世していたそうです。しかしそこでの暮らしは極々難儀していたそうで、仕方なく帰ってきたとの事でございます。
もっとも先方でも何ら悪事などはしたことがないそうです。
そこで以前の通り、御慈悲をもって再び糸田村の村人数に入れてくださるようお願いする次第です。
勿論、彼の者は転びキリシタンの子孫でもありません。
したがって、村人数に加えられても何ら村人やその外の者に差し支えが出る事もありません。
よろしく御沙汰くださいますようお願いします。
元文二年六月
糸田村庄屋 久右衛門
同村横目 吉助
同村五人組 清吉
三助
善七
忠右衛門
甲佐手永御惣庄屋 甲佐善之丞 殿
日本国憲法二四条 婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する
江戸時代 小山田文書(甲佐町八丁・小山田実さん所蔵)
冠婚葬祭については、四禮として古より聖人の立ておかれている礼があるが、その礼が末代に至って我が儘のみ多くなってきた。
特に近代になってから縁約(婚約)の儀について、下々では双方の親へも告げず媒酌人も頼まずに銘々が相対に契約する者がいるようである。
親々の仰せにも随わず勝手次第に押し取る事は大方世上の慣わしの様になりつつあるので、宝暦十四年に御改められて御書付を以て仰せ渡された。
この度の仰せ付けは格別に重き御様子で、御惣庄屋殿が村々を打ち廻られて、十五才以上六十才以下の男女を残らず集められ、申し渡された上で判形を仕せられた。
その御書付の写は左の通りである。
一 男女縁約の儀は双方より親が媒酌人を仲立ちにして申し談じる。
親のない者は一家縁類の内で親同然の者を相談して決め、一家親類のない者は五人組で相談して宜しく取り計らうようにすべきである。
縁約が調い次第、上下貴賤にかかわりなく縁約の作法により、相対に夫婦の約束をすることは古よりの聖人の立ておかれている作法である。それに背いて男女でいかに堅く申し置いても、それは密通であり禁じている事である
末々には間々この事を心得違いして、右の密通を実の縁約をしたと思い違いをして、追ってその女の親などが納得しないときは、押し掛けて奪い取るような放埒(ほうらつ)の振る舞をする者もいる。そして終(つい)には口論にもなる。このことはつまるところ親の教えが良くないからで、またその所の役人どもの示し方も行き届かないからである。
そのような所は自然と右の通りの風儀にもなって不届きに至る。今後縁組みする時は作法の通り双方の親か、親のないものは一家親類が相談して媒酌人を立て、以て順熟に縁約を決めるようにすべきである。
万一男女だけで相対に約束する密通が露見したならば、その分にては済まないで有ろう。
右の趣はすべての人々に申し渡し、そして親々が教えることは勿論であるが、その所々の村役人よりも常々示しておくように申し渡された。
覚
男女縁約については御奉行衆より申し渡されて以来、右の御書付の趣に背いた者は勿論であるが、なおまたこの事に荷担した者迄御咎めになるので堅く相守り申すべきである。
平生、親より子供には右の書付の趣を絶えず申し聞かせる事は勿論であるが、庄屋や頭百姓共も銘々が村々の男女が不義なる仕方をしないように仕るべきである。
則、右の御書付を御惣庄屋へ相渡して写し取り、村々においてはそれを八才以上の者共を召し寄せて申し渡すべし。
そして承知奉る趣を人別に判形仕せて御惣庄屋へ差し出すべし。
宝暦十四年八月
上益城御郡代
二 日本国憲法二二条 何人も職業選択の自由を有する
江戸時代 緒方文書(甲佐町糸田・緒方昭二さん所蔵)
私の家は代々上益城郡糸田村で御百姓をしてまいりました。
特に私の親の代からは、糸田村の周辺にあります未開地の開田に心懸け、昼夜となく開墾をしてきました。
このようなことが認められて、次第に藩所有の御新地の開田も仰せ付けられるようになりました。その結果余力も出てきましたので、その貯えで平太船を数隻造る事が出来ました。
この平太船は緑川の水運に欠かせない舟で、特に上下益城郡の御年貢米を川尻に積み下すときに利用されてまいりました。
また、藩の御用船として使われたり、川尻から米の積み出しに必要な時の人馬などを運んだり、緑川の川渡しなどにも召出されてきました。
このような事で、藩の御為にもなってまいりました。
ところが今年の六月十七から十九日にかけて、今までにない大洪水が襲ってきまして、新しく開田したところは勿論、清正公以来の田畑共に打ち流されて荒地になってしまいました。
特に私の屋敷は水当たりが強く家財や農具は勿論、食糧も流失しました。馬や平太船も流れてしまいました。
右のような状況ですので渡世の手だてもなく途方にくれています。
そこで恐れ多くございますが、何とぞ御慈悲をもって徳利酒売りをお許しいただければ有り難く忝なく存じます。
もしお許し頂ければ、糸田村のうちの御船町の往来筋に小屋を懸けて草履や菓子、徳利酒を売りたく思います。
その利益でもって親類をも養い、荒地になってしまった田畑も元通りにし、また前々のように平太船や馬も調えて行く行くは御百姓も務めたく存じます。
この段よろしく御沙汰くださるべくよろしくお願いします。
元文四年九月
歴史4-2
大平堤物語
三賀村(今の南三箇)の百姓は重い年貢に苦しんでいた。
江戸時代も終わりに近い頃の話である。
年貢は村請けといって先ず村に割りあてられ、それを庄屋が各戸に割り振るのであるが、村の請け前が皆済されないと協同責任をとらされる。
この頃甲佐手永(今の甲佐町)で年貢を払えない村は三賀村の外に八丁・山出・府領などがあったが、三賀村は殊のほかひどく「比類稀なる零落所」といわれた。
村人は勤勉で人柄もよく不正直な者は一人もいない。それでいて年貢が払えないのである。
原因はわかっていた。
一つには水田に問題があった。湿田であり稲作のあとに麦作などの冬作が出来ない。
二つには畑の土は白真土(しろまつち)で土性が悪く、日照りが続けば硬くなって鍬も入れられなくなる。
三つにはこれが一番の原因であるが、村高が高すぎる事にある。年貢は村高に応じてかかってくる。その村高に比べて村人が少なすぎるのである。
おおざぱに言ってこれより五十年前の手鑑(てかがみ)によると世持村は石高二百六十石に対して村人百三十二人、中山村は四百十石に対して二百人、ところが三賀村は七百石に対して百七十人であった。
そのため耕作を放棄した荒れ地が畑だけで六町(六ヘクタール)余りもあるが、これにも年貢は容赦なくかかってきた。
まず水田を改良する
すでに沼田を乾田化して二毛作を可能にする試みはなされていた。
先ず文政二年(一八一九)の松汁除井手がそれである。
大平の谷間の水田は両側の松山から流れ出た水により湿田になっていた。当時は松汁は稲作に良くないとされていた。そこで村人は協力して、長さ六五〇間(一一七〇m)の井手を作りそれを掘りさげて下流(今の陽南町鰐瀬)に流した。
そして井手の要所には堰板(せきいた)をはめて水田の用水とした。強雨の節は堰板をはずして松汁を抜き通した。また、冬場は堰板をはずして水田を乾かし裏作ができるようにした。
次にに文政三年(一八二〇)より五ヶ年かけて大平に堤を作った。
大平にある七町余りの水田はわずかの日照りにも干上がってしまい干害がひどかった。 堤の広さは三反あまり、これにより水不足が解消された。、
しかしそれでも村は立ち直らず、年貢の減免も申し出て認められたが、なお村が立ち直るきざしは見えなかった。
畑を水田にする
そこで村人が考えたのは畑に水を引いて水田化する、つまり段々畑を棚田にする事である。畑を水田化すれば生産力が飛躍的に高まる。
しかし問題は用水である。
上流の三賀山は藩の御山藪になっており勝手に薪を取ったり秣(まぐさ)を刈ったりすることも出来ない。しかし上益城と下益城の境にあり、監視の目が十分届かないこともあって「狐狸も住めないような」裸山になっていた。 そのため山の保水力は全くなく日照りが続けば川はたちまち涸れてしまった。
「大きな堤さえあれば」と庄屋の庄助は考えた。
庄助は三賀村の村庄屋になって二十五年、六十九歳になっていた。
「律義者にてそのうえ精農にして、その身を先ず立て勧農相誘い万端親切に心くばり」する男で、そのため村人も「帰服仕り農業に精を出すようになり、村の難渋も少なく」なってきた。これもひとえに「三賀村庄屋の庄助の働きによる」と記録されている。
その庄助が中心になり村人と共に出した結論はこうである。
三賀山の麓に小さな堤がある。この堤は広さ三畝、堤防の長さ十八間、堤防の底幅五間半、上幅一間半である。この堤防を補強して水を溜める。用水は取り入れ口から左右に分配して山裾をめぐらして用水路を作り、右手の井手は途中で尾根にトンネルを掘り、水不足に悩んでいる錦川流域に流し込む。
しかし水田は生産力は上がるが、それに比して年貢を取られるので、折角水田化してもそのままだったら村には何の恩恵もない。そこでその増額された年貢分は藩に上納せず村が取って、それを元手に村が立ち直る。村がもらう期間は二十ヶ年とし、それが過ぎたら通常に年貢を支払う。
このような計画がまとめられ、藩に願い出たら認められて堤の工事に取りかかった。
堤が決壊する
この工事は天保十五年(一八四四)に始まり翌々年に完成した。
堤の広さは七反、堤防の高さ七間、底幅二十二間、上幅二間で堂々たる堤である。
村人の悦びはいうまでもなかった。
ところが完工した翌年の弘化四年(一八四七)の五月に強雨のため山から打ち出した水勢で堤防が打ち流されてしまった。堤防の下に埋め込んであった底井樋(用水路の取り入れ口の石造の導水管)も吹き破れて破損してしまった。
もともとこの地はザレ岩の小石交じりの地床で、その上に堤防を築いても喰い合いが悪く水圧に耐えられなかったのである。
これまでかかった費用は三貫目近くあった。これは米六十俵にあたる値段である。人夫は村人が出るにしても、堤防底の水の取り入れ口の石塁や導水管などの工事は石工を雇わなければならない。
もともと村を立て直すために計画した堤である。破損した個所をそのまましておけば当然新田は出来ず、今までにかかった費用はそのまま村の借財となる。
修繕さえすればよいが、年貢さえ払えないのだから資金の余裕などあるはずがない。村人の落胆と苦悩は大きかった。
再び工事にとりかかる
進退窮まった末、再び村人が出した結論はこうである。
もう一度修復をしてみよう。幸い堤に添って今は放棄された水田がある。この土は水を通さない真土(まつち)なので、これを堤防に刃金土(はがねつち)として入れる。また、堤防の底土と谷の両端の山土は削り取ってそこに刃金土を食い込ませる。
必要な費用は甲佐手永の会所官銭(今でいうと甲佐町役場の経理)から借りてまかなう。
この願いは認められて今までにないような大きな堤が完成した。近隣からの人夫も含めて延べ二万八千人を要した。
そして水が段々畑に引かれ、一町六反余の美田が出来上がった。
嘉永二年(一八四九)年の事である。 村人の悦びようは大変なもので、この年の秋、収穫を感謝すると共に再び決壊しないように堤防上に観音堂が建立された。
重くのしかかる借財
しかし村には借財の返還が重くのしかかってきた。甲佐手永の会所官銭からの借金が四貫百四十目もある。当初は人夫に対する昼飯代も入れるはずであったがそうすれば費用が益々かさむのでこれは計算しないことにしたのにこの金額である。
もともと村の立ち直りのために造った堤である。
計画では新田に掛かる年貢分を藩に上納せず、村の立ち直りの為に使いたかったのであるが、先ずその借入金を返済しなければならない。
新田に新しくかかる年貢は一石三升であり、この年貢分を免除してもらって借金の返済に充てる計画であったが、一俵五十目と計算して一年に返済する事ができるのは百四十目余りである。そうすると借金を返済するのに二十八年かかり、村の立ち直りに使われるのは二十九年目からになってしまう。それでは何のために大平堤を築いたか全く意味をなさなくなる。
四十四ヶ年で返済する
そこで村方へ半分、甲佐会所への返済に半分ずつ分ける事にして願い出したらその通りに認められた。
具体的には四十年間を半分ずつに分け、四十一ヶ年から四十三ヶ年の間は全額甲佐会所へ返還し、四十四ヶ年以降は通常の通り年貢として藩に納める事になった。
これは村の立ち直りに十分な手だてだったかというとそうでもなく、このことがあって六年目に三賀村に対しては再び年貢の減免措置がとられた。
そして大平堤完成から百十年、昭和三十五年になって大平溜池は熊本県の直管工事として大規模改修が行われた。 この時の総工事費は五百万円、受益面積六ヘクタール余、受益戸数六十九戸であった。
また平成元年には南カントリークラブのオープンにともない改修が行われ今日に至っている。
(「ふるさと72号」 2004)
歴史4-3
地蔵峠を越えて
ーー阿蘇古道を往くーー
最後の旅
昭和三〇年秋。早川の若者六名が徒歩で地蔵峠を越えて阿蘇へ旅をした。 古代から近世にかけてのメインロードであ
ったこの峠を、以後、甲佐を徒歩で出発し阿蘇へ至った者は絶えてない。
往古は、甲佐を一番鶏と共に出発して七滝で提灯を消した。吉無田でのどを潤し、地蔵峠で昼飯をとり、夕方地獄温泉に着いたという。
この古道は如何なるものであったろうか。
それよりも果たして一日で行けるものであろうか。以下は今年の夏、全行程を踏破した記録である。
この道の重要性
古代の道路は官道(今の国道三号線に沿って延びていた)がよく知られているが、益城地方ではこれとは別に阿蘇へ行く往還があった。
阿蘇社には一八〇余の末社があり、中でも甲佐・健軍・郡浦は三摂社として勢力を誇っていた。
特に甲佐社は根本神領一〇〇町を基礎に、平安末期には砥用・小北両山の寄進をうけ、南方に勢力を拡大した。また、鎌倉初期には小川・松橋に至る地方が甲佐社領としての特権を確定した。ここにおいて阿蘇家の勢力は甲佐・郡浦をつなぎ不知火海へ至る回廊が完成した。
戦国時代に入り、阿蘇家は武装勢力として矢部を根拠地にしたが、甲佐には阿蘇二十四出城のうち早川・甲佐の二城があり、なお強力な支配下にあった。
およそ道路は権力のあるところに集中する。
阿蘇家へ年貢済物を納め、塩などの海産物を運び、また近世になってからは氏子代表として阿蘇社の「御神札」を受け取りに行くのに、この阿蘇路は極めて重要であった。 また部落で「講」を作り仲間数名と地獄温泉へ湯治へ行く道としてもこの道が使われた。
(今日の常識では考えられないが、昭和初期まで名連川(矢部町)人たちは、熊本市へ出るのに阿蘇下田駅まで歩きそこから汽車に乗った。地理的にも心理的にも阿蘇は近くて重要な場所であった。)
早川神社 → 玉虫 → 下鶴 一時間
往古の旅人がそうしたように、早川神社で旅の無事を祈って出発する。古道は現在の北早川
から玉虫団地を通る道と同じである。
途中で団地を左に見て右折し、玉虫姫の伝説のある塚を過ぎると、すぐ御船川に出る。
古道は玉虫橋の五〇米下流を飛び石で渉っていた。やがて浜線に出る。浜線を矢部に向かって進み下鶴に着く。
下鶴のめがね橋は、明治になり大矢野演習場に行くため架橋されたもので、これから先の道はなかった。
下鶴 → 川内田 → 茶屋元 一時間
めがね橋と発電所を右に見て、坂道を上がって行く。右下に八勢川の清流が光る。この川の源流は旅人が目指す吉無田である。
うぐいすの声がしきりに聞こえる。木立を抜けると突然人里が現れる。川内田である。
今は隠里の風情があるが、当時は交通の要所として重要であったとみえて、猿田彦や立派な社がある。
人家を抜けてしばらく行くと、巨大な橋が眼に飛び込んでくる。糸田の大橋につながる道路の一部である。
古道の両側は、かって元禄嘉永井手の水を取り入れて美田が続いていたが、今はうち捨てられ雑草の生い茂った棚田の跡が無惨である。
やがて古道は木立の天蓋の続く下を通り、日向街道に着く。現在の郡見坂ーー吉無田線である。
茶屋元 → 三間伏 → 吉無田 三時間
古道は茶屋元で二つに分かれる。分岐点には追分け(昔の道路標識)があって、右ひうが、左あそ路とかすかに読める。傍らの地蔵にも同様な字が彫ってあるのは、旅の安全の祈願であろうか。
阿蘇路は、ここから吉無田まで、ずっと元禄嘉永井手にそって進む。一時間余で三間伏(みつまぶし)に着く。
かって、吉無田に行くにはここを直進し、途中で左折した。大矢野に行くこの道は吉無田川沿いの曲折した細道で大型車の通行は無理であった。そこで、昭和四〇年代に現在の矢形川沿いの道路が開通した。
古道はそのいずれでもなく、三間伏からいきなり尾根に上がり尾根をずっと進む。ここはまた元禄井手が通っている尾根でもある。
馬の背のような尾根は、両側の谷からの浸食が進み、狭いところでは幅三m。そこを古道と用水路が通る。三〇〇年間営々として保守してきた先人の苦労を偲びつつ歩を早める。 往古の道は尾根を通っていた。谷沿いの道は地形が複雑で、橋を架けたり隧道を掘ったりしなければならないが、尾根だと辿り着くまでは急坂で大変であるが、一旦尾根に上がれば後は平坦で真っ直ぐな道が続くことになる。(郡見坂が良い例) 吉無田高原の若草を遠望しながら、高原野菜と「ひぐらし窯」を左に見て登り詰めると、西原ーー吉無田の大規模林道に出る。右折して五〇〇mで吉無田水源である。
吉無田 → 十文路 → 地蔵峠 三時間
旅人は、ここの清冽な水で喉を潤し、しばし休憩して鋭気を養ったであろう。
十文字に至る古道は、尾根に上がり今のキャンプ場を左に見ながら行く道と、吉無田川沿いに谷を行く道とがある。 谷沿いの道を進むことにする。胸突き八丁の道が続く。幕末までは雑草の中を進む急峻な道であった。「峠の岩を目当てに進め」といわれていたが、今は美林に覆われて見通しが全然きかない。
小一時間で十文字に着く。矢部から大津に行く道と、御船から阿蘇に行く道がここで交わりこの名がある。近年西原の酪農パークからグリーンピア南阿蘇へ行くグリーンロードが完成し、十文字には駐車場と史跡案内板が整備されている。
ここから地蔵峠までは、古道が「九州自然遊歩道」として整備されており、昔のままの道を歩くことになる。木立の中の緩やかな坂道を、途中で小松姫の塚や展望所に立ち寄りながら約2時間、にわかに視野が展け大阿蘇の大パノラマが展開する。
地蔵峠である。標高一〇八六m。谷から吹き上げる涼風に疲れをいやし昼食をとる。 阿蘇古道一番の難所で、地蔵が幾体も祀ってある。近くは矢部の父子がここで霧に巻かれて果てたという。その地蔵もある。
地蔵峠 → 下田 → 地獄 三時間半
古道は、ここから標高差六〇〇mの外輪山を一気に下る。途中までは、けもの道かと惑うほどで、往古の旅の苦労が偲ばれる。 やがて、駒返り峠から来た道と出合う。矢部の者が利用した道である。グリーンピア南阿蘇が谷を隔てて右に見える。 南郷谷の平地に出ると、古道は屋敷森に囲まれた集落と美田の続くのどかな農村風景の中を縫うようにして進む。
二時間半で阿蘇下田温泉駅に着く。 下田から地獄までは、約一時間。急峻な山路が続く。終日歩き続けた者にとって最後の難関である。地獄温泉で湯治をする者は、米・味噌からわらじにいたるまでの荷物を背負っての旅であったから、夕闇せまる中に硫黄のにおいを嗅ぎつけ旅の宿が近いことを知ったときの喜びはいかほどであったろうか。
最後に
地獄で旅の疲れをいやし、翌日阿蘇山上神社へ参拝し、古いお札を納め新しいお札をいただき帰路に着くことになるが、阿蘇山上まで「車で一五分」の案内板を見て、もはや気力が続かない事を悟り、ここで旅の終わりとした。
さて、興味のある方には十文字から地蔵峠まで、グループでのハイキングをお勧めする。 森林浴をしながら二時間。車二台で出かけ、一台を十文字、一台を地蔵峠の下のグリーンロードの駐車場に置くとよい。
(「ふるさと65号」 2000)
歴史4-4
幕末の「在町」 岩下町
江戸時代、肥後藩は「町」と「在」を厳格に区別した。
「町」は五ヶ町・准町・宿町・在町に区分し、商人の身分や商品を制約した。
「在町」は木山・浜町・堅志田・隈庄など五十余あった。。
岩下はその「在町」のひとつである。
「在」(村)は商札を持っている者の「振り売り」(行商)のみをみとめ「店」は禁止した。
封建社会の矛盾が集約される
幕末の岩下に関する古文書には次のような記述が目につく。
・岩下町の儀、日々渡世難渋のもの 多く
・岩下町の儀、近年零落(年貢未納) につき
・岩下町の儀、不取り締まりにて風儀 よろしからず
・岩下町の儀、町備金とてなく
・岩下町の儀、極々零落所にて諸事不 取り締まり、御年貢や諸出銀は取立 かね候
もともと岩下町は
「五ヶ荘・砥用・矢部・中山通行の御役人の休泊や人馬繋ぎ替え」(幕末に町役宅を建てるための上申書)にみる
ように、交通・物資の集散などの要衝の地であった。
幕末になり貨幣経済が浸透すると、豪商が現れる一方で、その日暮らしの者が増加してきた。
岩下町の往還
下の次の地図を見てみよう。
これは西南戦争が終わった明治十三
年頃の様子であるが、幕末の様子を類推する事ができる。
先ず地図でいうと大井手の手前(大井手の左岸・・・旧役場側)に幹線道路(往還)が描かれてない事に気づく。
熊本から砥用に通ずる往還(原町村道といった。原町・・・砥用の中心地)は現守口屋の所から左折して大井手を渡り横町を通り、右折して本通りになり、現村上種苗店前で甲南橋を渡っていた。その先は仁田子村(現緑町)を通り原町へ通じていた。
なお、大井手を渡る二ヶ所は木橋であったが、幕末に目鑑橋になった。
寛文九年(一六六九)に「町並みに大道を造り替え、上下の門構えを建て、その内部を町民の住所と定める」(岩下根本記)とあるので、この橋の二ヶ所が町の入口となり、上町・横丁・角・下町・横町からなっていた。
天和元年(一六八一)に岩下の戸数が六十竈となり、これ以上町の人口が増えないように、分家や株養子以外の入籍を禁止した。
往還でいまひとつ目に付くのは浜町道(三本松・万坂経由で浜町に行く往還)が、もと「いずみ屋」の所から始まり、現「いこいの家」の前を通り、現「よねむら」の所で現国道を突っ切り、下豊内に突き当たって右折している点である。
現茶屋呉服店から現公民館の前を通り上豊内に行く道はない。
つまり、「えびすさん」のあるあたりが岩下町の要衝で、ここに商売繁盛を願って「市えびす」を勧請した事もうなずける。
なお、この浜町道は簗を右手に見て上揚に入り、甲佐神社から左折して安平の村中を通り、小鹿入口で再び今の県道と一緒になった。甲佐神社から直進しないのは、滝下あたりの通行が困難だったためである。安平経由は坂を登り下りしなければならず、大変な苦労があった。幕末に今の県道が通じた。
往還以外にも裏町などの「小路」(しゅうじ)があったと思われるが、この地図には描かれていない。
どんな店があったか
下の表は安政四年(一八五七八月二十一日)に藩主細川斉護が簗にやってきたとき、甲佐手永御惣庄屋(今の役場)の下代(今の役場職員)の本郷純次が岩下村の町屋から購入した物品とその購入先である。
茶屋( 小筆・九折葛・あんどん紙) 新丸屋( 豆腐・味噌・鮎)
小鹿屋( 酒・生しび・豆腐) 下駄屋( 炭) 芳野屋( 豆腐・酢・玉子)
角芳野屋(干物・豆腐 味噌 竹の皮草履 味噌) 吉田屋( 油・醤油・茶)・
茶碗屋(ぞうり・茶碗) 飴屋(くず・しいたけ) 天野屋( 酒・塩・水引 )
新茶屋( 米・味噌・九年ぼう) 小間物屋(干物)天野や出店(半紙・草履・鰹節)
のだ屋( 揚げ豆腐) 新*屋( ごぼう・人参) なべ屋 ( ろうそく)
萬屋( 海老・こんにゃく・ 六分板) かめ屋 (こんにゃく )
松岡屋( 水田子・七島むしろ)
これらの中には今に続く屋号もある。 先年亡くなられた渡辺敏子さん(明治三十九年生まれ)の記憶によると、これらの屋号の大部分は小路(しゅうじ)にあったとのことで、そうすると本町通りは、旅籠(はたご)や豪商・大店(おおたな)が軒を連ねていたことになる。
なお、「在町」での「店商い」は五ヶ町より制限が厳しく、認められた「商札」は次の品目である。
酒・糀・馬・塩・小間物・豆腐・野菜・苗類・柿・蜜柑・久年母・栗
(寛永十三年の例)
岩下町では文政七年(一八二四)には八十四枚の商札が認められていた。
明治十一年の調査によると、岩下町には「雑業百十一戸」とあるが、この「雑業百十一戸」が小商人にあたるのであろうか。
商札以外にも「本手」(職札)が認められたが、それは次の品目である。
造酒 糀 油 揚酒(酒の小売)
岩下町では文政七年(一八二四)に認められた「本手」は次の通りである
油〆本手二 糀本手一 造酒本手二 鋳物師札一 合薬札二
他に質屋札・左官札
明治十一年には
造酒職二戸 造酢職一戸 鍛冶職五戸 紙漉職一戸 染物職一戸 質屋三戸
絞油職一戸 水車職一戸
の職があった。
この安政四年に藩主が簗にやってきたときは総勢二百名位が岩下に宿泊した。
天保七年より藩主の御簗御出の節の本宿(本陣)は、
渡辺万太郎宅
渡辺猪左衛門宅
井芹忠左衛門宅
となっており、藩主をはじめ、御一門の御家中や御側用人、御女中衆は天野屋や東天野屋や万屋に宿泊したと思われる。
旅籠が十四軒
このとき下級の役人や仲間(ちゅうげん)荒仕子が宿泊した屋号と宿泊者は下の表の通りである。
このうち、綿屋・東紺屋・角紺屋・丸屋・油屋・稲荷屋・橋本屋・大黒屋・舛田屋・河内屋・ い*屋・新米屋は物品を販売していないので、「旅籠屋」の屋号であろうか。
茶屋(御小姓衆6人) 綿屋(御手廻中9人) 東紺屋(傍所横目2人)
角紺屋(歩頭衆付御手付2人) 丸屋(御郡中見締衆13人) 油屋(下横目8人)
稲荷屋 (御手廻衆中14人) 橋本屋 (歩御使番衆3人) 大黒屋 (御駕方7人)
新丸屋 (御用人衆中家来上下22人) 舛田屋 (御医師上下9人)
小鹿屋 (御雇頭家来等9人) 下駄屋 (御馬飼方8人) 芳野屋(御長柄持6人)
河内屋 (御側御小姓衆家来4人) い*屋 (御度方衆3人)
角芳野屋(歩御小姓衆14人)
元治元年(一八六四)には
左記にも宿泊している
新米屋・紺屋・塩屋・宮島屋・坂本屋・染屋・岩見屋
明治十一年の調査によると、岩下町には旅籠が十四戸あった。
どんな家に住んでいたか
西南戦争の折り、堅志田に陣を構えた政府軍は、明治十年四月三日に緑川を渡り甲佐町を焼き討ちした。
政府軍の焼き討ちで焼失した甲佐町の家屋334戸ある。
岩下町は71戸が焼けてしまった。
戦争が終わってから政府は焼失家屋の調査を行った。
それにより当時どんな家に住んでいたかがわかる。
家の程度は上中下に分けてあるのでその代表例をあげると。
ランク 下 全体の60%
岩下町 某
居家一軒 7坪
母屋 4坪半(わら葺き) 下家 2坪半(竹瓦葺き)
ランク 中 全体の24%
岩下町 某
居家一軒 49坪
母屋 31坪(わら葺き) 2階 12坪(わら葺き)
下屋 3坪(瓦葺き) 下屋 3坪(竹瓦葺き)
小屋一軒 10坪(わら葺き)
ランク上 全体の16%
岩下町 某
居家一軒 66坪
?母屋 325坪(わら葺) 二階46坪(瓦葺き) 下屋 17坪(瓦葺き)
土蔵一軒14坪(瓦葺き) 小屋一軒6坪(竹瓦葺き)
小屋一軒 4.5坪(竹瓦葺き)
これを見ると、幕末から明治初期にかけての住居は、わら屋根に竹のゲヤをおろした家に住み、小屋も竹屋根が一般的であったことがわかる。
孟宗竹が中国から日本に入って来たのは、江戸時代の初めといわれているが、幕末には全国に広まった。
このように爆発的に広まった理由は、孟宗竹を新建材として利用されたのではないかと思われる。
八畳に六畳の母屋でも、片側に一間の下屋を下ろして土間と炊事場とし、もう片側に半間の縁側を付けるという簡単な施工で、居住空間は倍近くに広まる事ができた。
どんな暮らしをしていたか
西南戦争が終わってから焼き討ちにされた家にはそのランクに従って 賑恤金(見舞金)が支払われた。
しかし一旦支払われたこの見舞金も、薩摩軍に加勢した者と借家住まいの者には返還を命じられた。
甲佐の住民は殆ど薩軍に加勢しており、また見舞金は家を建てるために支出してしまっていて、もとより返還など出来るはずはなく、まさに泣きっ面に蜂でで悲惨な結果になってしまった。 そこで年賦による返還を願い出たが、その願いには戸長(現村長)の「財産目録の添書」が付いていて、当時の生活の一端を知る事ができる。
財産高調
某
堀立居家 1軒 但1間半梁長3間半
鍋2ツ 茶碗14 古畳5枚 目籠2荷
某
家1軒 但し借家
鍋1ツ 夜具1ツ 茶碗12 桶1ツ 手桶1荷 箱1ツ
勿論これは焼け出された者の調書であり、また見舞金の返還猶予のための証明であるので、割り引いて考える必要があるが、生活の一端を見る事が出来る。
どんな食事をしていたか
日常の食事についての記録は持たないが「おれの村では自慢じゃないが盆と正月は米の飯」の通りであったろう。
先述の安政四年の藩主細川斉護が御簗に河遊びに来たときのメニューがある。
いかりや
御厩の者 7人 計46匁6分
賄代 21匁
酒三升五合 12匁9分5厘
焼鮎14匹 5匁6厘
白焼鮎7匹 4匁
えび 1匁7分
こんにゃく 2匁
(「ふるさと76号」 2006)
歴史4-1
江戸時代の暮らし
私たちの祖先はどのように暮らしてきたのであろうか。
甲佐町にある古文書を現代文に直して日本国憲法と比較しながら、そのいくつかを紹介する。
なお、難解な語句や時代的背景は本文に割り込む形で加筆して理解できるようにした。
日本国憲法二二条 何人も居住、移転の自由を有する
江戸時代 緒方文書(甲佐町糸田・緒方昭二さん所蔵)
糸田村の百姓の子の尋五郎が帰ってきたのでお届け致します。
尋五郎は今から二年前の享保二十年の十一月に突然行方不明になりました。そこで五人組はもとより村中総出で捜しましたけれども見つかりませんでした。
このことについては、その時書状をもって庄屋から御惣庄屋に届けてあります。
ところがこの度突然自宅に帰って参りました。それで厳しく問いただしましたところ、この間は馬見原へ行っていたことがわかりました。
馬見原では日給取り(ひゆうとり) などして渡世していたそうです。しかしそこでの暮らしは極々難儀していたそうで、仕方なく帰ってきたとの事でございます。
もっとも先方でも何ら悪事などはしたことがないそうです。
そこで以前の通り、御慈悲をもって再び糸田村の村人数に入れてくださるようお願いする次第です。
勿論、彼の者は転びキリシタンの子孫でもありません。
したがって、村人数に加えられても何ら村人やその外の者に差し支えが出る事もありません。
よろしく御沙汰くださいますようお願いします。
元文二年六月
糸田村庄屋 久右衛門
同村横目 吉助
同村五人組 清吉
三助
善七
忠右衛門
甲佐手永御惣庄屋 甲佐善之丞 殿
日本国憲法二四条 婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する
江戸時代 小山田文書(甲佐町八丁・小山田実さん所蔵)
冠婚葬祭については、四禮として古より聖人の立ておかれている礼があるが、その礼が末代に至って我が儘のみ多くなってきた。
特に近代になってから縁約(婚約)の儀について、下々では双方の親へも告げず媒酌人も頼まずに銘々が相対に契約する者がいるようである。
親々の仰せにも随わず勝手次第に押し取る事は大方世上の慣わしの様になりつつあるので、宝暦十四年に御改められて御書付を以て仰せ渡された。
この度の仰せ付けは格別に重き御様子で、御惣庄屋殿が村々を打ち廻られて、十五才以上六十才以下の男女を残らず集められ、申し渡された上で判形を仕せられた。
その御書付の写は左の通りである。
一 男女縁約の儀は双方より親が媒酌人を仲立ちにして申し談じる。
親のない者は一家縁類の内で親同然の者を相談して決め、一家親類のない者は五人組で相談して宜しく取り計らうようにすべきである。
縁約が調い次第、上下貴賤にかかわりなく縁約の作法により、相対に夫婦の約束をすることは古よりの聖人の立ておかれている作法である。それに背いて男女でいかに堅く申し置いても、それは密通であり禁じている事である
末々には間々この事を心得違いして、右の密通を実の縁約をしたと思い違いをして、追ってその女の親などが納得しないときは、押し掛けて奪い取るような放埒(ほうらつ)の振る舞をする者もいる。そして終(つい)には口論にもなる。このことはつまるところ親の教えが良くないからで、またその所の役人どもの示し方も行き届かないからである。
そのような所は自然と右の通りの風儀にもなって不届きに至る。今後縁組みする時は作法の通り双方の親か、親のないものは一家親類が相談して媒酌人を立て、以て順熟に縁約を決めるようにすべきである。
万一男女だけで相対に約束する密通が露見したならば、その分にては済まないで有ろう。
右の趣はすべての人々に申し渡し、そして親々が教えることは勿論であるが、その所々の村役人よりも常々示しておくように申し渡された。
覚
男女縁約については御奉行衆より申し渡されて以来、右の御書付の趣に背いた者は勿論であるが、なおまたこの事に荷担した者迄御咎めになるので堅く相守り申すべきである。
平生、親より子供には右の書付の趣を絶えず申し聞かせる事は勿論であるが、庄屋や頭百姓共も銘々が村々の男女が不義なる仕方をしないように仕るべきである。
則、右の御書付を御惣庄屋へ相渡して写し取り、村々においてはそれを八才以上の者共を召し寄せて申し渡すべし。
そして承知奉る趣を人別に判形仕せて御惣庄屋へ差し出すべし。
宝暦十四年八月
上益城御郡代
二 日本国憲法二二条 何人も職業選択の自由を有する
江戸時代 緒方文書(甲佐町糸田・緒方昭二さん所蔵)
私の家は代々上益城郡糸田村で御百姓をしてまいりました。
特に私の親の代からは、糸田村の周辺にあります未開地の開田に心懸け、昼夜となく開墾をしてきました。
このようなことが認められて、次第に藩所有の御新地の開田も仰せ付けられるようになりました。その結果余力も出てきましたので、その貯えで平太船を数隻造る事が出来ました。
この平太船は緑川の水運に欠かせない舟で、特に上下益城郡の御年貢米を川尻に積み下すときに利用されてまいりました。
また、藩の御用船として使われたり、川尻から米の積み出しに必要な時の人馬などを運んだり、緑川の川渡しなどにも召出されてきました。
このような事で、藩の御為にもなってまいりました。
ところが今年の六月十七から十九日にかけて、今までにない大洪水が襲ってきまして、新しく開田したところは勿論、清正公以来の田畑共に打ち流されて荒地になってしまいました。
特に私の屋敷は水当たりが強く家財や農具は勿論、食糧も流失しました。馬や平太船も流れてしまいました。
右のような状況ですので渡世の手だてもなく途方にくれています。
そこで恐れ多くございますが、何とぞ御慈悲をもって徳利酒売りをお許しいただければ有り難く忝なく存じます。
もしお許し頂ければ、糸田村のうちの御船町の往来筋に小屋を懸けて草履や菓子、徳利酒を売りたく思います。
その利益でもって親類をも養い、荒地になってしまった田畑も元通りにし、また前々のように平太船や馬も調えて行く行くは御百姓も務めたく存じます。
この段よろしく御沙汰くださるべくよろしくお願いします。
元文四年九月
歴史4-2
大平堤物語
三賀村(今の南三箇)の百姓は重い年貢に苦しんでいた。
江戸時代も終わりに近い頃の話である。
年貢は村請けといって先ず村に割りあてられ、それを庄屋が各戸に割り振るのであるが、村の請け前が皆済されないと協同責任をとらされる。
この頃甲佐手永(今の甲佐町)で年貢を払えない村は三賀村の外に八丁・山出・府領などがあったが、三賀村は殊のほかひどく「比類稀なる零落所」といわれた。
村人は勤勉で人柄もよく不正直な者は一人もいない。それでいて年貢が払えないのである。
原因はわかっていた。
一つには水田に問題があった。湿田であり稲作のあとに麦作などの冬作が出来ない。
二つには畑の土は白真土(しろまつち)で土性が悪く、日照りが続けば硬くなって鍬も入れられなくなる。
三つにはこれが一番の原因であるが、村高が高すぎる事にある。年貢は村高に応じてかかってくる。その村高に比べて村人が少なすぎるのである。
おおざぱに言ってこれより五十年前の手鑑(てかがみ)によると世持村は石高二百六十石に対して村人百三十二人、中山村は四百十石に対して二百人、ところが三賀村は七百石に対して百七十人であった。
そのため耕作を放棄した荒れ地が畑だけで六町(六ヘクタール)余りもあるが、これにも年貢は容赦なくかかってきた。
まず水田を改良する
すでに沼田を乾田化して二毛作を可能にする試みはなされていた。
先ず文政二年(一八一九)の松汁除井手がそれである。
大平の谷間の水田は両側の松山から流れ出た水により湿田になっていた。当時は松汁は稲作に良くないとされていた。そこで村人は協力して、長さ六五〇間(一一七〇m)の井手を作りそれを掘りさげて下流(今の陽南町鰐瀬)に流した。
そして井手の要所には堰板(せきいた)をはめて水田の用水とした。強雨の節は堰板をはずして松汁を抜き通した。また、冬場は堰板をはずして水田を乾かし裏作ができるようにした。
次にに文政三年(一八二〇)より五ヶ年かけて大平に堤を作った。
大平にある七町余りの水田はわずかの日照りにも干上がってしまい干害がひどかった。 堤の広さは三反あまり、これにより水不足が解消された。、
しかしそれでも村は立ち直らず、年貢の減免も申し出て認められたが、なお村が立ち直るきざしは見えなかった。
畑を水田にする
そこで村人が考えたのは畑に水を引いて水田化する、つまり段々畑を棚田にする事である。畑を水田化すれば生産力が飛躍的に高まる。
しかし問題は用水である。
上流の三賀山は藩の御山藪になっており勝手に薪を取ったり秣(まぐさ)を刈ったりすることも出来ない。しかし上益城と下益城の境にあり、監視の目が十分届かないこともあって「狐狸も住めないような」裸山になっていた。 そのため山の保水力は全くなく日照りが続けば川はたちまち涸れてしまった。
「大きな堤さえあれば」と庄屋の庄助は考えた。
庄助は三賀村の村庄屋になって二十五年、六十九歳になっていた。
「律義者にてそのうえ精農にして、その身を先ず立て勧農相誘い万端親切に心くばり」する男で、そのため村人も「帰服仕り農業に精を出すようになり、村の難渋も少なく」なってきた。これもひとえに「三賀村庄屋の庄助の働きによる」と記録されている。
その庄助が中心になり村人と共に出した結論はこうである。
三賀山の麓に小さな堤がある。この堤は広さ三畝、堤防の長さ十八間、堤防の底幅五間半、上幅一間半である。この堤防を補強して水を溜める。用水は取り入れ口から左右に分配して山裾をめぐらして用水路を作り、右手の井手は途中で尾根にトンネルを掘り、水不足に悩んでいる錦川流域に流し込む。
しかし水田は生産力は上がるが、それに比して年貢を取られるので、折角水田化してもそのままだったら村には何の恩恵もない。そこでその増額された年貢分は藩に上納せず村が取って、それを元手に村が立ち直る。村がもらう期間は二十ヶ年とし、それが過ぎたら通常に年貢を支払う。
このような計画がまとめられ、藩に願い出たら認められて堤の工事に取りかかった。
堤が決壊する
この工事は天保十五年(一八四四)に始まり翌々年に完成した。
堤の広さは七反、堤防の高さ七間、底幅二十二間、上幅二間で堂々たる堤である。
村人の悦びはいうまでもなかった。
ところが完工した翌年の弘化四年(一八四七)の五月に強雨のため山から打ち出した水勢で堤防が打ち流されてしまった。堤防の下に埋め込んであった底井樋(用水路の取り入れ口の石造の導水管)も吹き破れて破損してしまった。
もともとこの地はザレ岩の小石交じりの地床で、その上に堤防を築いても喰い合いが悪く水圧に耐えられなかったのである。
これまでかかった費用は三貫目近くあった。これは米六十俵にあたる値段である。人夫は村人が出るにしても、堤防底の水の取り入れ口の石塁や導水管などの工事は石工を雇わなければならない。
もともと村を立て直すために計画した堤である。破損した個所をそのまましておけば当然新田は出来ず、今までにかかった費用はそのまま村の借財となる。
修繕さえすればよいが、年貢さえ払えないのだから資金の余裕などあるはずがない。村人の落胆と苦悩は大きかった。
再び工事にとりかかる
進退窮まった末、再び村人が出した結論はこうである。
もう一度修復をしてみよう。幸い堤に添って今は放棄された水田がある。この土は水を通さない真土(まつち)なので、これを堤防に刃金土(はがねつち)として入れる。また、堤防の底土と谷の両端の山土は削り取ってそこに刃金土を食い込ませる。
必要な費用は甲佐手永の会所官銭(今でいうと甲佐町役場の経理)から借りてまかなう。
この願いは認められて今までにないような大きな堤が完成した。近隣からの人夫も含めて延べ二万八千人を要した。
そして水が段々畑に引かれ、一町六反余の美田が出来上がった。
嘉永二年(一八四九)年の事である。 村人の悦びようは大変なもので、この年の秋、収穫を感謝すると共に再び決壊しないように堤防上に観音堂が建立された。
重くのしかかる借財
しかし村には借財の返還が重くのしかかってきた。甲佐手永の会所官銭からの借金が四貫百四十目もある。当初は人夫に対する昼飯代も入れるはずであったがそうすれば費用が益々かさむのでこれは計算しないことにしたのにこの金額である。
もともと村の立ち直りのために造った堤である。
計画では新田に掛かる年貢分を藩に上納せず、村の立ち直りの為に使いたかったのであるが、先ずその借入金を返済しなければならない。
新田に新しくかかる年貢は一石三升であり、この年貢分を免除してもらって借金の返済に充てる計画であったが、一俵五十目と計算して一年に返済する事ができるのは百四十目余りである。そうすると借金を返済するのに二十八年かかり、村の立ち直りに使われるのは二十九年目からになってしまう。それでは何のために大平堤を築いたか全く意味をなさなくなる。
四十四ヶ年で返済する
そこで村方へ半分、甲佐会所への返済に半分ずつ分ける事にして願い出したらその通りに認められた。
具体的には四十年間を半分ずつに分け、四十一ヶ年から四十三ヶ年の間は全額甲佐会所へ返還し、四十四ヶ年以降は通常の通り年貢として藩に納める事になった。
これは村の立ち直りに十分な手だてだったかというとそうでもなく、このことがあって六年目に三賀村に対しては再び年貢の減免措置がとられた。
そして大平堤完成から百十年、昭和三十五年になって大平溜池は熊本県の直管工事として大規模改修が行われた。 この時の総工事費は五百万円、受益面積六ヘクタール余、受益戸数六十九戸であった。
また平成元年には南カントリークラブのオープンにともない改修が行われ今日に至っている。
(「ふるさと72号」 2004)
歴史4-3
地蔵峠を越えて
ーー阿蘇古道を往くーー
最後の旅
昭和三〇年秋。早川の若者六名が徒歩で地蔵峠を越えて阿蘇へ旅をした。 古代から近世にかけてのメインロードであ
ったこの峠を、以後、甲佐を徒歩で出発し阿蘇へ至った者は絶えてない。
往古は、甲佐を一番鶏と共に出発して七滝で提灯を消した。吉無田でのどを潤し、地蔵峠で昼飯をとり、夕方地獄温泉に着いたという。
この古道は如何なるものであったろうか。
それよりも果たして一日で行けるものであろうか。以下は今年の夏、全行程を踏破した記録である。
この道の重要性
古代の道路は官道(今の国道三号線に沿って延びていた)がよく知られているが、益城地方ではこれとは別に阿蘇へ行く往還があった。
阿蘇社には一八〇余の末社があり、中でも甲佐・健軍・郡浦は三摂社として勢力を誇っていた。
特に甲佐社は根本神領一〇〇町を基礎に、平安末期には砥用・小北両山の寄進をうけ、南方に勢力を拡大した。また、鎌倉初期には小川・松橋に至る地方が甲佐社領としての特権を確定した。ここにおいて阿蘇家の勢力は甲佐・郡浦をつなぎ不知火海へ至る回廊が完成した。
戦国時代に入り、阿蘇家は武装勢力として矢部を根拠地にしたが、甲佐には阿蘇二十四出城のうち早川・甲佐の二城があり、なお強力な支配下にあった。
およそ道路は権力のあるところに集中する。
阿蘇家へ年貢済物を納め、塩などの海産物を運び、また近世になってからは氏子代表として阿蘇社の「御神札」を受け取りに行くのに、この阿蘇路は極めて重要であった。 また部落で「講」を作り仲間数名と地獄温泉へ湯治へ行く道としてもこの道が使われた。
(今日の常識では考えられないが、昭和初期まで名連川(矢部町)人たちは、熊本市へ出るのに阿蘇下田駅まで歩きそこから汽車に乗った。地理的にも心理的にも阿蘇は近くて重要な場所であった。)
早川神社 → 玉虫 → 下鶴 一時間
往古の旅人がそうしたように、早川神社で旅の無事を祈って出発する。古道は現在の北早川
から玉虫団地を通る道と同じである。
途中で団地を左に見て右折し、玉虫姫の伝説のある塚を過ぎると、すぐ御船川に出る。
古道は玉虫橋の五〇米下流を飛び石で渉っていた。やがて浜線に出る。浜線を矢部に向かって進み下鶴に着く。
下鶴のめがね橋は、明治になり大矢野演習場に行くため架橋されたもので、これから先の道はなかった。
下鶴 → 川内田 → 茶屋元 一時間
めがね橋と発電所を右に見て、坂道を上がって行く。右下に八勢川の清流が光る。この川の源流は旅人が目指す吉無田である。
うぐいすの声がしきりに聞こえる。木立を抜けると突然人里が現れる。川内田である。
今は隠里の風情があるが、当時は交通の要所として重要であったとみえて、猿田彦や立派な社がある。
人家を抜けてしばらく行くと、巨大な橋が眼に飛び込んでくる。糸田の大橋につながる道路の一部である。
古道の両側は、かって元禄嘉永井手の水を取り入れて美田が続いていたが、今はうち捨てられ雑草の生い茂った棚田の跡が無惨である。
やがて古道は木立の天蓋の続く下を通り、日向街道に着く。現在の郡見坂ーー吉無田線である。
茶屋元 → 三間伏 → 吉無田 三時間
古道は茶屋元で二つに分かれる。分岐点には追分け(昔の道路標識)があって、右ひうが、左あそ路とかすかに読める。傍らの地蔵にも同様な字が彫ってあるのは、旅の安全の祈願であろうか。
阿蘇路は、ここから吉無田まで、ずっと元禄嘉永井手にそって進む。一時間余で三間伏(みつまぶし)に着く。
かって、吉無田に行くにはここを直進し、途中で左折した。大矢野に行くこの道は吉無田川沿いの曲折した細道で大型車の通行は無理であった。そこで、昭和四〇年代に現在の矢形川沿いの道路が開通した。
古道はそのいずれでもなく、三間伏からいきなり尾根に上がり尾根をずっと進む。ここはまた元禄井手が通っている尾根でもある。
馬の背のような尾根は、両側の谷からの浸食が進み、狭いところでは幅三m。そこを古道と用水路が通る。三〇〇年間営々として保守してきた先人の苦労を偲びつつ歩を早める。 往古の道は尾根を通っていた。谷沿いの道は地形が複雑で、橋を架けたり隧道を掘ったりしなければならないが、尾根だと辿り着くまでは急坂で大変であるが、一旦尾根に上がれば後は平坦で真っ直ぐな道が続くことになる。(郡見坂が良い例) 吉無田高原の若草を遠望しながら、高原野菜と「ひぐらし窯」を左に見て登り詰めると、西原ーー吉無田の大規模林道に出る。右折して五〇〇mで吉無田水源である。
吉無田 → 十文路 → 地蔵峠 三時間
旅人は、ここの清冽な水で喉を潤し、しばし休憩して鋭気を養ったであろう。
十文字に至る古道は、尾根に上がり今のキャンプ場を左に見ながら行く道と、吉無田川沿いに谷を行く道とがある。 谷沿いの道を進むことにする。胸突き八丁の道が続く。幕末までは雑草の中を進む急峻な道であった。「峠の岩を目当てに進め」といわれていたが、今は美林に覆われて見通しが全然きかない。
小一時間で十文字に着く。矢部から大津に行く道と、御船から阿蘇に行く道がここで交わりこの名がある。近年西原の酪農パークからグリーンピア南阿蘇へ行くグリーンロードが完成し、十文字には駐車場と史跡案内板が整備されている。
ここから地蔵峠までは、古道が「九州自然遊歩道」として整備されており、昔のままの道を歩くことになる。木立の中の緩やかな坂道を、途中で小松姫の塚や展望所に立ち寄りながら約2時間、にわかに視野が展け大阿蘇の大パノラマが展開する。
地蔵峠である。標高一〇八六m。谷から吹き上げる涼風に疲れをいやし昼食をとる。 阿蘇古道一番の難所で、地蔵が幾体も祀ってある。近くは矢部の父子がここで霧に巻かれて果てたという。その地蔵もある。
地蔵峠 → 下田 → 地獄 三時間半
古道は、ここから標高差六〇〇mの外輪山を一気に下る。途中までは、けもの道かと惑うほどで、往古の旅の苦労が偲ばれる。 やがて、駒返り峠から来た道と出合う。矢部の者が利用した道である。グリーンピア南阿蘇が谷を隔てて右に見える。 南郷谷の平地に出ると、古道は屋敷森に囲まれた集落と美田の続くのどかな農村風景の中を縫うようにして進む。
二時間半で阿蘇下田温泉駅に着く。 下田から地獄までは、約一時間。急峻な山路が続く。終日歩き続けた者にとって最後の難関である。地獄温泉で湯治をする者は、米・味噌からわらじにいたるまでの荷物を背負っての旅であったから、夕闇せまる中に硫黄のにおいを嗅ぎつけ旅の宿が近いことを知ったときの喜びはいかほどであったろうか。
最後に
地獄で旅の疲れをいやし、翌日阿蘇山上神社へ参拝し、古いお札を納め新しいお札をいただき帰路に着くことになるが、阿蘇山上まで「車で一五分」の案内板を見て、もはや気力が続かない事を悟り、ここで旅の終わりとした。
さて、興味のある方には十文字から地蔵峠まで、グループでのハイキングをお勧めする。 森林浴をしながら二時間。車二台で出かけ、一台を十文字、一台を地蔵峠の下のグリーンロードの駐車場に置くとよい。
(「ふるさと65号」 2000)
歴史4-4
幕末の「在町」 岩下町
江戸時代、肥後藩は「町」と「在」を厳格に区別した。
「町」は五ヶ町・准町・宿町・在町に区分し、商人の身分や商品を制約した。
「在町」は木山・浜町・堅志田・隈庄など五十余あった。。
岩下はその「在町」のひとつである。
「在」(村)は商札を持っている者の「振り売り」(行商)のみをみとめ「店」は禁止した。
封建社会の矛盾が集約される
幕末の岩下に関する古文書には次のような記述が目につく。
・岩下町の儀、日々渡世難渋のもの 多く
・岩下町の儀、近年零落(年貢未納) につき
・岩下町の儀、不取り締まりにて風儀 よろしからず
・岩下町の儀、町備金とてなく
・岩下町の儀、極々零落所にて諸事不 取り締まり、御年貢や諸出銀は取立 かね候
もともと岩下町は
「五ヶ荘・砥用・矢部・中山通行の御役人の休泊や人馬繋ぎ替え」(幕末に町役宅を建てるための上申書)にみる
ように、交通・物資の集散などの要衝の地であった。
幕末になり貨幣経済が浸透すると、豪商が現れる一方で、その日暮らしの者が増加してきた。
岩下町の往還
下の次の地図を見てみよう。
これは西南戦争が終わった明治十三
年頃の様子であるが、幕末の様子を類推する事ができる。
先ず地図でいうと大井手の手前(大井手の左岸・・・旧役場側)に幹線道路(往還)が描かれてない事に気づく。
熊本から砥用に通ずる往還(原町村道といった。原町・・・砥用の中心地)は現守口屋の所から左折して大井手を渡り横町を通り、右折して本通りになり、現村上種苗店前で甲南橋を渡っていた。その先は仁田子村(現緑町)を通り原町へ通じていた。
なお、大井手を渡る二ヶ所は木橋であったが、幕末に目鑑橋になった。
寛文九年(一六六九)に「町並みに大道を造り替え、上下の門構えを建て、その内部を町民の住所と定める」(岩下根本記)とあるので、この橋の二ヶ所が町の入口となり、上町・横丁・角・下町・横町からなっていた。
天和元年(一六八一)に岩下の戸数が六十竈となり、これ以上町の人口が増えないように、分家や株養子以外の入籍を禁止した。
往還でいまひとつ目に付くのは浜町道(三本松・万坂経由で浜町に行く往還)が、もと「いずみ屋」の所から始まり、現「いこいの家」の前を通り、現「よねむら」の所で現国道を突っ切り、下豊内に突き当たって右折している点である。
現茶屋呉服店から現公民館の前を通り上豊内に行く道はない。
つまり、「えびすさん」のあるあたりが岩下町の要衝で、ここに商売繁盛を願って「市えびす」を勧請した事もうなずける。
なお、この浜町道は簗を右手に見て上揚に入り、甲佐神社から左折して安平の村中を通り、小鹿入口で再び今の県道と一緒になった。甲佐神社から直進しないのは、滝下あたりの通行が困難だったためである。安平経由は坂を登り下りしなければならず、大変な苦労があった。幕末に今の県道が通じた。
往還以外にも裏町などの「小路」(しゅうじ)があったと思われるが、この地図には描かれていない。
どんな店があったか
下の表は安政四年(一八五七八月二十一日)に藩主細川斉護が簗にやってきたとき、甲佐手永御惣庄屋(今の役場)の下代(今の役場職員)の本郷純次が岩下村の町屋から購入した物品とその購入先である。
茶屋( 小筆・九折葛・あんどん紙) 新丸屋( 豆腐・味噌・鮎)
小鹿屋( 酒・生しび・豆腐) 下駄屋( 炭) 芳野屋( 豆腐・酢・玉子)
角芳野屋(干物・豆腐 味噌 竹の皮草履 味噌) 吉田屋( 油・醤油・茶)・
茶碗屋(ぞうり・茶碗) 飴屋(くず・しいたけ) 天野屋( 酒・塩・水引 )
新茶屋( 米・味噌・九年ぼう) 小間物屋(干物)天野や出店(半紙・草履・鰹節)
のだ屋( 揚げ豆腐) 新*屋( ごぼう・人参) なべ屋 ( ろうそく)
萬屋( 海老・こんにゃく・ 六分板) かめ屋 (こんにゃく )
松岡屋( 水田子・七島むしろ)
これらの中には今に続く屋号もある。 先年亡くなられた渡辺敏子さん(明治三十九年生まれ)の記憶によると、これらの屋号の大部分は小路(しゅうじ)にあったとのことで、そうすると本町通りは、旅籠(はたご)や豪商・大店(おおたな)が軒を連ねていたことになる。
なお、「在町」での「店商い」は五ヶ町より制限が厳しく、認められた「商札」は次の品目である。
酒・糀・馬・塩・小間物・豆腐・野菜・苗類・柿・蜜柑・久年母・栗
(寛永十三年の例)
岩下町では文政七年(一八二四)には八十四枚の商札が認められていた。
明治十一年の調査によると、岩下町には「雑業百十一戸」とあるが、この「雑業百十一戸」が小商人にあたるのであろうか。
商札以外にも「本手」(職札)が認められたが、それは次の品目である。
造酒 糀 油 揚酒(酒の小売)
岩下町では文政七年(一八二四)に認められた「本手」は次の通りである
油〆本手二 糀本手一 造酒本手二 鋳物師札一 合薬札二
他に質屋札・左官札
明治十一年には
造酒職二戸 造酢職一戸 鍛冶職五戸 紙漉職一戸 染物職一戸 質屋三戸
絞油職一戸 水車職一戸
の職があった。
この安政四年に藩主が簗にやってきたときは総勢二百名位が岩下に宿泊した。
天保七年より藩主の御簗御出の節の本宿(本陣)は、
渡辺万太郎宅
渡辺猪左衛門宅
井芹忠左衛門宅
となっており、藩主をはじめ、御一門の御家中や御側用人、御女中衆は天野屋や東天野屋や万屋に宿泊したと思われる。
旅籠が十四軒
このとき下級の役人や仲間(ちゅうげん)荒仕子が宿泊した屋号と宿泊者は下の表の通りである。
このうち、綿屋・東紺屋・角紺屋・丸屋・油屋・稲荷屋・橋本屋・大黒屋・舛田屋・河内屋・ い*屋・新米屋は物品を販売していないので、「旅籠屋」の屋号であろうか。
茶屋(御小姓衆6人) 綿屋(御手廻中9人) 東紺屋(傍所横目2人)
角紺屋(歩頭衆付御手付2人) 丸屋(御郡中見締衆13人) 油屋(下横目8人)
稲荷屋 (御手廻衆中14人) 橋本屋 (歩御使番衆3人) 大黒屋 (御駕方7人)
新丸屋 (御用人衆中家来上下22人) 舛田屋 (御医師上下9人)
小鹿屋 (御雇頭家来等9人) 下駄屋 (御馬飼方8人) 芳野屋(御長柄持6人)
河内屋 (御側御小姓衆家来4人) い*屋 (御度方衆3人)
角芳野屋(歩御小姓衆14人)
元治元年(一八六四)には
左記にも宿泊している
新米屋・紺屋・塩屋・宮島屋・坂本屋・染屋・岩見屋
明治十一年の調査によると、岩下町には旅籠が十四戸あった。
どんな家に住んでいたか
西南戦争の折り、堅志田に陣を構えた政府軍は、明治十年四月三日に緑川を渡り甲佐町を焼き討ちした。
政府軍の焼き討ちで焼失した甲佐町の家屋334戸ある。
岩下町は71戸が焼けてしまった。
戦争が終わってから政府は焼失家屋の調査を行った。
それにより当時どんな家に住んでいたかがわかる。
家の程度は上中下に分けてあるのでその代表例をあげると。
ランク 下 全体の60%
岩下町 某
居家一軒 7坪
母屋 4坪半(わら葺き) 下家 2坪半(竹瓦葺き)
ランク 中 全体の24%
岩下町 某
居家一軒 49坪
母屋 31坪(わら葺き) 2階 12坪(わら葺き)
下屋 3坪(瓦葺き) 下屋 3坪(竹瓦葺き)
小屋一軒 10坪(わら葺き)
ランク上 全体の16%
岩下町 某
居家一軒 66坪
?母屋 325坪(わら葺) 二階46坪(瓦葺き) 下屋 17坪(瓦葺き)
土蔵一軒14坪(瓦葺き) 小屋一軒6坪(竹瓦葺き)
小屋一軒 4.5坪(竹瓦葺き)
これを見ると、幕末から明治初期にかけての住居は、わら屋根に竹のゲヤをおろした家に住み、小屋も竹屋根が一般的であったことがわかる。
孟宗竹が中国から日本に入って来たのは、江戸時代の初めといわれているが、幕末には全国に広まった。
このように爆発的に広まった理由は、孟宗竹を新建材として利用されたのではないかと思われる。
八畳に六畳の母屋でも、片側に一間の下屋を下ろして土間と炊事場とし、もう片側に半間の縁側を付けるという簡単な施工で、居住空間は倍近くに広まる事ができた。
どんな暮らしをしていたか
西南戦争が終わってから焼き討ちにされた家にはそのランクに従って 賑恤金(見舞金)が支払われた。
しかし一旦支払われたこの見舞金も、薩摩軍に加勢した者と借家住まいの者には返還を命じられた。
甲佐の住民は殆ど薩軍に加勢しており、また見舞金は家を建てるために支出してしまっていて、もとより返還など出来るはずはなく、まさに泣きっ面に蜂でで悲惨な結果になってしまった。 そこで年賦による返還を願い出たが、その願いには戸長(現村長)の「財産目録の添書」が付いていて、当時の生活の一端を知る事ができる。
財産高調
某
堀立居家 1軒 但1間半梁長3間半
鍋2ツ 茶碗14 古畳5枚 目籠2荷
某
家1軒 但し借家
鍋1ツ 夜具1ツ 茶碗12 桶1ツ 手桶1荷 箱1ツ
勿論これは焼け出された者の調書であり、また見舞金の返還猶予のための証明であるので、割り引いて考える必要があるが、生活の一端を見る事が出来る。
どんな食事をしていたか
日常の食事についての記録は持たないが「おれの村では自慢じゃないが盆と正月は米の飯」の通りであったろう。
先述の安政四年の藩主細川斉護が御簗に河遊びに来たときのメニューがある。
いかりや
御厩の者 7人 計46匁6分
賄代 21匁
酒三升五合 12匁9分5厘
焼鮎14匹 5匁6厘
白焼鮎7匹 4匁
えび 1匁7分
こんにゃく 2匁
(「ふるさと76号」 2006)