9地名
歴史9-1
歴史の抹殺と創造
田上さんは怒る
他県では誰も「たのうえ」と呼んでくれない、と田上さんは嘆く。
しかし「たがみ」とは絶対に呼ばれたくない。それは田上が阿蘇南郷谷田上(たのうえ)の地名を起源とする由緒ある苗字だからである。
そういう事もあって知人の田上さんは福岡で開業するとき、わざわざ平仮名で「たのうえクリニック」として、自分の出自を明らかにした。当然の事である。
それを「今後は全国的に通用する”たがみ”とします」と言ったら、田上さんが怒るのは当然であろう。
以上は苗字についての例え話であるが、地名についても全く同様である。
土地に書かれた歴史
地名は単なる便宜的な符号ではない。
それには歴史的な意味があり「地名そのものが文化財である」と言われる。
地名を見ればその土地の歴史や風景が自ずからわかり、そこに住む人々の息吹が聞こえて来る。
それは祖先から代々受け継がれ、現在の我々に委ねられた文化財であり、我々はそれを忠実に次の世代に受け渡す義務がある。
地名はそこに住む人々にとって限りない誇りと愛着があり勝手に変えることは何人であっても許されない。
いま「平成の大合併」が行われており、それに伴い市町村名や行政区名が話題になる事が多い。それはそれで結構な事であるが、なかには的はずれな議論や感情的な意見もある。熊本日々新聞の記事によれば、合併に伴うもめ事は一に庁舎の位置、二に名称、三に財政格差とある。(九月十日付)
一と三については言う立場にないが二の名称(地名)については大いに関心がある。何故なら地名そのものが文化であるからである。そこで地名について若干基本的な事柄を述べ、のちのち後悔しないようにしておきたい。
地名には意味がある
例を挙げよう。
熊本市に西原中学校というのがある。阿蘇郡にも西原中学校がある。
熊本市は「はにばる」中学校、阿蘇郡は「にしはら」中学校と読む。どっちでもよいではないか思う人がいるかも知れないがそうはいかない。
「はる」は墾(は)る、つまり開墾した土地を意味し、表記するときに麻生原・春田などとした。一方「はら」は原野の意味で大矢野原などと表記した。
したがって勝手に読み替える事はできない。
もう一つ甲佐の例をあげよう
「豊内」は「どい」であって絶対に「とようち」ではない。
どい(土井・土居)は中世の居城に付けられた由緒ある歴史的地名であり、この地では漢字で表記するときたまたま「豊」と「内」を充てたに過ぎない。
いま一つ例を挙げよう。白旗小学校の裏に坂道があり、この坂は緑風苑の側を通り妙見坂に至っている。御船台地を挟んで向こう側に妙見さん、こちらに阿弥陀堂があり地元では「やみだどう坂」と呼んでいた。それを「山大道」と標記したものだから「やまだいどう」という意味不詳の字(あざ)名の行政地名になってしまった。
地名については先ず地名があって、のちに地名を漢字で表記するようになったのが経過であり、その逆ではない。 それを、漢字を読めない無知の民百姓が訛って読んだのだろうと、昔の役人共が勘違いして勝手に振り仮名を付けて読み替えられており、これは文化に対する冒涜である。
近年、郵便局と役所の陰謀によって付けられた効率一辺倒の、例えば○○一丁目などの新地名が”駕町通り”とか ”唐人町”とか旧地名が復権し、新町三丁目となっても「尉山」の電停が残っているのは、心ある人の知恵である。
名は体を表す
もう一つ例を挙げよう。鹿北町では昭和の町村合併に際して鹿北第一小学校・鹿北第二小・・・などとした。それを熊本地名研究会の古川成利氏が教育長になられてから岳間小、岩野小などと旧名に復した。誠に学識のある処置であった。
また、松橋校区には一区から十三区までナンバーで表示される行政区があったが、このたび案内表示板には、例えば四区(港町)と旧地名を表記した。
逆の悪しき例もある。芝原と八丁の間に「江湖」(えご・・・川の入江を指す地形語)という字(あざ)があり、これは旧緑川が吉田と芝原の間を流れていた事を示す貴重な地名であった。これが「元白旗第一」の字名で統一されて歴史上から抹殺されてしまった。
下駄の歯はすり減る
さて、平成の大合併に際して新しい市町村名が報道され、その傾向の一つとして「あさぎり町」などの平仮名の市や町がが誕生して、新鮮な響きを持つものとしてもてはやされている。
しかしちょっと待っていただきたい。地名にはいくつかの原則がある。それを離れて言葉遊びや抽象的な語句で飾っても、やがて陳腐なものとなり、その地名は魅力を失うであろう。
下駄の歯も言葉も使えばすり減る
クマ婆さんもトラ婆さんも名前を付けられた当時は新鮮な響きを持っていた。それが時代とともにすり減って魅力を失ってしまった。今の親は難しい漢字を難しく読ませる命名が流行っている。しかし彼女達が成人する頃には、依葡璃ちゃんも玖菜紗ちゃんもフレッシュさがすり減ってしまい、誠に平凡な何の魅力もない名前になってしまっているであろう。
地名もまた同様である。
かって「○○荘」などは高級感のある命名であったが、いまや安アパートのイメージになってしまい、業者は「××マンション」などと称してきた。しかしそれも魅力がうすれたのか、今や「△△ヴィラ」などが流行っているがこれもやがてすり減ってしまい陳腐なものとなるであろう。
時流に流されない
そういう意味で地名は今後何十年も使うものであり、無機質的な地名や現在大衆受けする地名は決して「ふるさとの地名」として愛着されないであろう。
例えば昨年大宮市が合併して「さいたま市」になり区政を敷いたとき、ある町の土着民は、そこがかって万葉の頃のやまと言葉で水沼(みぬま)と呼ばれていた事もあってそれにちなんだ地名を支持した。新住民は低湿地をイメージするといって反対した。不動産の値上がりを期待して「見晴丘区」や「富士見台区」などの高台のイメージが良いというのであろうか。結局は「見沼区」になったが、それは賢明な選択であった。
甲佐は熊本市の東にはい
熊本市が甲佐の西にある。禅問答みたいであるが、地名を考えるについては先ず誇りと矜持が必要である。
平成十三年に西東京市が誕生した。誠に判りよい市名で、自分の住所を説明するには都合が良かろう。
しかし、ちょっと待っていただきたい。
地名を考えるにあたっては、先ず自分の住んでいる所に視座を据えて、そこから周囲を見回してもらいたい。
かって埼玉県に住んで東京に通勤する者が、東京都政には関心があるが、自分の住んでいる所の地方自治には何の興味も示さず、埼玉都民と揶揄された事があった。
地名を考える場合には、他の場所に視座を据えて自分の住んでいる所を見ないで欲しい。どうしても地方自治が他人事になってしまう。
それからもう一つ。地名に東西南北や上下を付ける事がある。東寒野や上田口の如くにである。ここで考えてもらいたい事は下糸田は糸田の下にあるから下糸田ではなく、上豊内は豊内の上にあるから上豊内ではないという事である。
向島は島の向にあるのではなく、向にある島であるのと同様に、下糸田も糸田の一部であり、糸田のうちの下にある部分を指す地区名である。上豊内も豊内の一部であり、豊内のうち上にある部分を指す地区名である。したがって東西南北や上下を地名に取り入れる場合は安易な考えは禁物である。
ふるさとの地名が恋しい
地名は符丁とは違う。
人々の営みや歴史的背景や自然から遊離しては考えられない。
御船台地に団地を造る時、そこはかって近くに屎尿処理場があったが、「屎尿処理場跡団地」とはせず、「御船インター団地」とした。これは当然のことである。
「昭和の大合併」に際しては合成地名(例えば六嘉と大島が合併して嘉島となる)や、「和」の付く地名(例えば五か村が合併して五和町)などがやたらとはやった。私は当時天草の太多尾という漁村に住んでいたが、この村は新和町となった。今でも「大多尾」と聞くとある種のときめきが心をよぎるが、「新和町」では何の感慨も起きない。無機質な人工的な地名の故であろうか。
例え利便性や効率から考えて命名しても、ふるさとを語るとき、ときめきや熱き想いを持って心の中をよぎる地名には決してならないであろう。
繰り返して言うが、地名は先人が土地に書いたメッセージであり、新しく付ける地名は私たちが後世に残すメッセージとなる。
(熊本地名研究会員)
9-2
くまもと地名あらかると 豊内
もともとは ドイ
鮎で有名な「甲佐の簗(やな)」はここにある。藩政時代は「殿様の御簗」として藩で厳重に管理され茶屋も設けられていた。今は初夏から晩秋にかけて美味や風情を求めて来る人も多く「熊本の奥座敷」の観がある。
もともと豊内はドイと呼んでいた。ここにあった豊内城はドイノウチジョウと呼ばれていた。現在でも上豊内をカミドイ、下豊内をシモドイと呼んでいる。
ここには中世、比高60mの台地の上に「陣の内の館」があった。崖下には緑川が流れていたとされ要害の地であった。
一般に中世の土塁に囲まれた屋敷を「堀の内」とか「土居」(ドイ)とか呼ぶ。
ドイは豊内と記される事もある。益城町の「豊ノ内」(どいのうち)がその例である。
館のあった台地(面の山)は、後背の山地とは長さ300㍍、幅20㍍、深さ5㍍の空堀で仕切られ、掘り上げられた土は高さ6㍍の土塁となっている。
これが地名ドイの起こりである。 その規模からして中世の一土豪の館とはとても思えず、現在館跡の発掘調査が行われており、緑川から運び上げた石列などが大量に出てきている。
なお、甲佐町役場は四年前に国道443号線沿いに移転したが、その所在地は豊内である。
9-3
くまもと地名あらかると 岩下
対岸から持ってきた地名
甲佐町の中心市街地名。町の中を貫流する「大井手」には、加藤清正が緑川に築いた鵜の瀬堰(せき)からの清流が流れている。水車が廻り岸辺の柳が風になびく風情は古き良き時代の街並みを想わせる。
もともとこの地は緑川と津留川(佐俣川・釈迦院川)に挟まれた中州であった。そこへ天正十一年(一五八三)津留川を隔てた左岸の岩下(現美里町)から「計屋と号する伝右衛門」が移住したのが始まりで、その後、加藤清正の河川改修により、緑川の流路を掘り替えて津留川に合流させたので洪水の危険も少なくなり、おいおいと付近の集落からの移住者も増えた。以後「岩下村より出候故岩下町と唱えるべき由改め」(岩下町根元記)たとある。
江戸時代は緑川の水運を利用した物資の集散地として発展し、寛政八年(一六六八)に九の日市が始まった。これが今も続く三月九日を初日とする「甲佐初市」の始まりである。
しかし岩下は常に洪水の危険にさらされ「塘を壁としている村立は、万一塘筋に破損御座候はば、荒地は勿論人命にもかかり申すべき危難の土地」の状況にあった。
明治十年(一八七五)の西南戦争では薩軍の兵站地になった。対岸の堅志田(現美里町)に陣を構えた政府軍と交戦になり、政府軍により放火され、寺院と豪商の二軒を残し街並みの殆どが焼失した。
9-4
くまもと地名あらかると 甲佐
花と緑と鮎の町
昭和30年、緑川中流域の宮内村、甲佐町、竜野村、白旗村、乙女村の5か村が合併して甲佐町となった。緑川が町を貫流し左岸に旧乙女村、右岸には他の4か村がある。
江戸時代、今の市町村に当たる行政区画を手(て)永(なが)といい、甲佐町は甲佐手永と称した。甲佐手永の区域は現在の甲佐町と全く同じである。このように市町村名も区域も江戸時代と全く同じなのは細川藩では甲佐町と津奈木町だけである。
細川氏の入国初期は横田手永と豊内手永の2つに分かれていたが、やがて甲佐手永に統一された。甲佐の地名は肥後国二の宮である甲佐神社に由来する。「甲佐」の初見は保延3年(1137)の阿蘇文書の「除甲佐社定」である。
甲佐の字義については、神功皇后が甲冑を納められたので「甲」佐としたとの説が古文書にあるが、これは後世漢字に引きずられての付会であろう。
甲佐神社の上宮は甲佐岳(753㍍)にあり、その始原を山岳信仰として考えると、「コウ」は神戸、神山、神野の「神」であろう。高千穂では夜神楽を舞う庭を神庭(こうにわ)、高千穂神社のある地区を神殿(こうどの)という。
9-5
くまもと地名あらかると 白旗
今も残る里山の風景
熊本市から県道106号線で甲佐町に入ると、やがて右手に緑川、左手に小高い白旗山(138㍍)が見えてくる。辺場(へば)山ともいい、秋には紅葉が美しい典型的な里山である。旧白旗村の地名はここからとった。
鎮西八郎為朝が木原山から白羽の矢を射たら、この山に刺さったのでこの地名が付いたとも、為朝が白旗を立てて武威を近郷に示したのでこの名があるとも言われている。しかしこれは地名説話の一つで、白旗山の東端に白岩という地名がある事から推察すると「白畑」が起源かも知れない。
天正9年(1581)、御船城主の甲斐宗運は、響ヶ原に陣を敷いた相良義陽を討つために出陣の途中、白旗山の麓にある大武大明神に戦勝を祈願して緑川を渉り合戦に赴いた。
現在、JA上益城本所は白旗山の尾根が緑川に突き出た所にあるが、ここはかって加藤清正が緑川治水の際に床机をおいて指揮した場所であり、そこに植えた「床机の松」は昭和30年頃まで白旗村のシンボルであった。
西南戦争の際には、田原坂や熊本城攻囲から退いた薩軍は、益城から御船に至る長い守備陣を敷いて政府軍を迎え撃つ態勢を整えた。その最左陣の妙見坂の薩軍を討つために、政府軍の一隊は虚に乗じて緑川を渉り白旗山の高台を占領して攻撃したので薩軍は敗走した。
9-6
くまもと地名あらかると 早川
上益城郡甲佐町早川
肥後の司馬遷、渡辺玄察
熊本市から国道443号線で御船町を通過し、トンネルを抜けるとそこが甲佐町早川である。背後に早川山(195㍍)があり、水田地帯に岬のように突き出た所を城山と呼んでいる。加藤清正の緑川改修以前は、緑川はこの真下を流れていたとされ、交通の要衝であるとともに守るに易く攻めるに難い場所であり、鎌倉時代に渡辺秀村がここに早川城を築いた。
天正8年(1580)、早川城主の渡辺吉秀は、御船城主の甲斐宗運に従って隈庄合戦に参加し、舞の原で戦死した。
江戸時代の初め、吉秀の曾孫に渡辺玄察という早川神社の神職がいた。彼は身辺雑記のみならず、政治、経済、世情、天変地異など多くの記録を残した。また、父などから聞いた戦国末期の肥後の状況など詳しく記録していて、江戸初期の肥後の様子を知ることができる一級資料として非常に貴重である。
江戸時代、早川は裕福な村として近隣に知られていたらしく、古文書には裕福の度合いを早川と比較しているのが散見される。
早川の地名の起こりは、緑川の急流によると言われているが、通常は流れの速い川は、ハヤカワといって(反対は淀川)、ソウガワとは言わない。ソウガワの地名は緑川支流の竜野川沿いに「上早川」として続いており、緑川の「大川」に対して、サワガワ(沢川)が転化したものであると考える。
9-7 くまもと地名あらかると 乙女
上益城郡甲佐町
家族づれで賑わう津志田河原
甲佐町は緑川が貫流しているが、その左岸の大部分が旧乙女村である。明治22年の町村制の施行により、津志田など8か村が合併して乙女村になった。地形的には緑川流域、乙女台地、浜戸川流域に分けられる。
乙女台地は城南町の舞の原台地と続いており、戦時中は隈庄飛行場の一部として使用された。
もともと養蚕が盛んな土地であったが、戦後、船津地区で正月用の南天の葉を紅葉させる栽培技術が発見され、樹芸や花卉栽培が盛んになった。
麻生原地区にあるキンモクセイは国指定天然記念物で、秋に2度開花し、その香りは対岸の糸田地区まで届く。開花の時期には地元の人たちのもてなしもある。
近年、津志田地区の緑川河原に自然公園が整備され、熊本市に近い事もあり、小中学生の校外授業や遠足として利用され、休日にはピクニックの絶好の地となり賑わっている。
村名は明治22年の合併のとき、田口地区にある五色山(乙女山ともいい乙女山城があった)に由来する。
9-8 くまもと地名あらかると 田口
太宰府の荘園
甲佐町の緑川右岸にあり、乙女台地と接する。江戸時代は近隣の和田内、下田口を含めて呼ぶ事もあった。
平安時代には太宰府天満宮安楽寺の荘園として田口庄が見える。この庄の鎮守として菅原神社が勧請された。また、田口と接して府領という集落(九州高速道路の緑川パーキングエリアがある場所)があるが、この事の傍証として論じられている。
康治2年(1143)には田口新太夫行季が緑川を隔てて対岸にあった山出の官物などを奪取している。
江戸時代、隣接する乙女台地の畑一部は田口村に属していたが、遠くて耕作するのに難渋していた。嘉永3年(1850)に田口の地侍の守田恒助が自分の荒れ地に井戸を掘ったら水が出たので13戸が移住した。ここは戦後、樹芸産業が盛んになり、田原地区として発展している。その後甲佐町グリーンセンターが開設された。10月から翌年の5月まで日曜日ごとに開かれるセリ市には誰でも参加できるので賑やかである。現在は緑川森林組合が運営している。
9-9 くまもと地名あらかると 糸田
緑川をまたぐ甲佐大橋
近年緑川をまたぐ大きな橋ができたが、そこが糸田である。
もともとこの地は緑川と津留川の間にできた中州であった。戦国末期ななり、洪水時も大丈夫な事がわかると、瓜山(現御船町)などの近隣の者や浪人などが移り住んできた。その後、加藤清正の改修により、緑川の流路が変わり、鵜の瀬堰からの用水も引かれ人口も増えた。
しかし常に洪水の危険にさらされ、ひとたび堤防が切れると流路が変わり川底になった。また用水路の末端にあるため、梅雨や台風で上流の堤防が切れると復旧に手間取り、稲にとって一番大事な時期に水不足になった。
そのようなこともあり、天和3年(1683)年に庄屋と百姓の間で隠田の事で争いが起き、庄屋と百姓7名が処刑されている。
近年では「大正元年の大水」(1912)に堤防が切れ、熊本では珍しい3連の目鑑橋が流れてしまった。
糸田堰は受益面積500㌶余り、その用水は甲佐、御船を潤して余水は御船川に注ぎ、その水を川田堰で受け止め、嘉島町を潤して末端は加勢川の中ノ瀬橋付近まで及んでいる。
9-10
くまもと地名あらかると 宮内
竹崎季長ゆかりの願(がん)成(じょう)桜
甲佐町の旧町村名の一つ。甲佐町の緑川上流の山間部分を占める。明治22年坂谷など4か村が合併して宮内村となった。村名は同村上揚にある甲佐神社の御内郷だったことに由来する。
甲佐神社は肥後国二の宮としてとしてその社領は海東、小川方面に及び最盛期には300町を超えた。元寇の役の際、竹崎季長が甲佐神社に参詣しで祈願したら境内の桜の枝に甲佐大明神が顕われ成就を約束したと「蒙古襲来絵詞」にある。近年、この「願成桜」が整備され、願い事の成就を祈願する参拝客が絶えない。
緑川沿いにある井戸江キャンプ場にはバンガローや炊事場があり、緑川での川遊びも楽しめる。また甲佐岳の麓にある「川平キャンプ場」には宿泊施設もあり、ここから甲佐岳(753m)への登山ルートも開かれている。
坂谷には雨乞いの棒踊り「ボシドラ」があり、現在は子ども会が伝承して行事等でその勇壮な踊りを披露している。
中嶋著作7伝記
人物伝7-1
生涯一教師 佐藤儀次郎伝
昭和三十三年に白旗小学校は創立五十周年を迎えた。
そして何か記念事業をしようという事になった。
そのとき期せずして、佐藤儀次郎先生の遺徳を頌(たた)える碑を建立しようという話が持ち上がった。
儀次郎先生が没せられてから既に十五年、なお先生は教え子の心の中に生き続けて慕われていたのである。
それでは儀次郎先生は、一体何をしたのか。
実は校史に記されるような事は何もしなかったのである。
それでは何故建てたのか。
儀次郎先生こそが、住民が求めている教師としての理想像であったからである。
話は違うが、七月二十四日の熊本日々新聞のコラムに次のような話が出ている。
明治二十八年に某巡査はコレラが発生した村に派遣されたが、その巡査もコレラに罹患し死亡した。村人達はその巡査を神として祀(まつ)り神社を建てた。 その神社の五十年祭に招かれた子孫の言葉がいい。
「神として祀られた叔父が神様か、神として祀っていただいた村人の誠心が神様か・・・・」。
さて、前記の村人の話と全く同様で、佐藤儀次郎先生の遺徳も勿論であるが、それよりも先生の頌徳碑を建てた白旗校区民の心根がいい。
心が健康である。
そのような先輩がかっていたことを誇りに想い、現在の世相と合わせて考えるとき、校区民の心意気に唯々頭が下がるばかりである。
(文中敬称略)
緑壁小学校 ?
先生は明治六年に白旗村早川に生まれた。
前年の明治五年はわが国で初めて「学制」が実施された年である。それまでの「寺子屋」にかえて「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」として、甲佐町でも明治六年に甲佐小学校、明治七年に上揚小学校、同年田口に碧陽小学校、八年坂谷小学校が設立された。
それにともない、宮内の二私塾、甲佐七、竜野四、乙女七、白旗五の合計二十五私塾が廃止された。
上白旗で廃止されたのは早川の渡辺揖人、糸田の宮地一の二私塾である。
明治十二年の記録によると、上白旗では糸田に「人民共立小学校」があり、男三十五名、女二十六名が在籍している。
そして明治十九年になって上白旗に早川尋常小学校、下白旗地区に白旗尋常小学校が設立された。当初は四年制であったがやがて六年制となる。
正史には載ってないが、早川尋常小学校の校名は明治二十三年頃から明治二十六年頃まで緑濱尋常小学校となっていたらしい。
明治二十三年、佐藤儀次郎はその設立されて間もない早川尋常小学校の教壇に立つ。十八歳であった。
その後同校訓導兼学校長に栄進した。
明治四十一年、早川尋常小学校と白旗尋常小学校は合併した。また高等科を併設して、校名も白旗尋常高等小学校となり現在の地に移った。
全部が教え子!!
そして佐藤儀次郎も白旗尋常小学校訓導に転じた。
その後大正十四年に退職するまで十七年間を白旗尋常高等小学校で過ごした。 十七年を同一校に勤務するということは当時としても異例であり、白旗小学校五十年の歴史の中でも十年を越す者はいない。
しかし単に長期間勤務しただけで頌徳碑(しょうとくひ)が建つ訳はない。
それでは何故建てたのか。
この十七年の間、佐藤儀次郎は一年生を続けて担任している。
そうすると、どういう事になるか。
六年目には全校の児童が自分が担任した子どもになる。
また当時は兄弟姉妹が五、六人いるのは普通であったが、十数年も担任すれば一家全員が佐藤儀次郎に教わった事になる。
子どもが佐藤儀次郎を知っているという事は、当然の事ながらその親からも知られる存在であり、かくて校区民全員から熟知される存在になる。
教師が校区民の全員を知り、全校区民がその教師を知って信頼すればこれほど良い教育環境はないであろう。
また、今は制度上求むべきもないが、このような「生き字引的」教師が学校に一人いるという事は、学校運営上からも、また他の教師からもどれほど頼りになった事であろう。
佐藤儀次郎を語るとき、「校区民全員が儀次郎先生の家を知っていた」というエピソードがよく引き合いに出されるが、これもなるほどとうなずける。
しかし、一人の教師が一つの学校に永年に亘り勤務するとるという事は、まかり間違えば学校運営上の障害にもなりかねない。一にその教師の資質いかんにかかっている。
つまり白旗小学校は佐藤儀次郎を必要としたのである。
慈父と慕われる
波瀾万丈の人生を書き残す事はたやすいが、平凡な人生を語るのは容易な事ではない。
しかし、その平凡さのなかに佐藤儀次郎の面目躍如たるものがある。
「真面目」「実直」「人がよい」「和顔」「高徳」「慈父」「人情家」。儀次郎を語るとき誰からも出る言葉である。
このように教え子から慕われた教師であるが故に、故郷を離れた卒業生が白旗に帰ってくると、まず儀次郎の元に訪れたという。
また教え子の一家が生活費に困っているのを見かねて、度々お金を渡していたともいわれている。
儀次郎を語るとき、よく使われる言葉がある。「子どもが好き」「やさしかったのが忘れられん」「先生の大きな手と、そのぬくもりが今でも私の手に残っている」「威厳があって、しかも慈父のようであった」
これこそが校区民が畏敬の念を持ち続けた一番の理由であろう。
一教師として生きる
儀次郎がどのようにして教師の資格を取ったかは、現在となってはいまひとつはっきりしない。
明治四十年の早川尋常小学校の卒業証書には「校長佐藤儀次郎」とあることから考えると、当時の教師がそうしたように、上益城郡教育会が御船に設立した「尋常小学校本科正教員養成所」を修了したことが十分考えられる。
いまひとつ、儀次郎を語るときよく使われる言葉がある。「栄達を求めず」「出世を考えず」。
そうすると白旗小学校では「校長になれなかった」のではなく、前任校で一旦校長になったが、以後「校長にならなかった」のである。
それは何故か。
理由は簡単である。佐藤儀次郎の人生観からして、日々子どもと接することに生き甲斐を感じていたからである。
子どもが好き
通常一年生を担任するのは女教師であろう。それをなぜベテランの、後には老練の男教師が続けて担当したのか。そこには単に「低学年が好きだから」とか「一年生が向いている」とか以上の理由があった。
当時の新入生の教育は現在では考えられない苦労があった。
まず幼稚園や保育園で集団による躾を受けていないのは勿論であるが、「士族」「平民」の身分差や「地主」「小作人」の貧富の差がストレートに教室に持ち込まれ、それらの子どもが机を並べていた。
また弟や妹を学校に連れてきて子守をしながら勉強する風景も珍しくなかった。
それを「子どもと子どもとの関係はすべて平等」という意識を一人一人に植え付けさせなばならない。
そのような子どもを入学後一年間で「学習訓練」をした上で二年生に送り出さなければならない。
そうしてはじめて学校全体が正常な教育が出来るのである。
そのためには先ず教師が全児童を分け隔てなく扱う必要があった。
その点、儀次郎は頌徳碑の銘文にもあるとおり「性格は優しく」、しかも「時には厳父の如く」教育し、「権勢に媚びず」に生きる事を人生観としており最適任であった。
わが人生の指針
さて、昭和三十五年、校区の住民はもとより遠く沖縄や東京からも基金が寄せられて「佐藤儀次郎先生頌徳碑」は完成した。
その石碑は校門を入ったら校庭を隔てて正面にあり、よく目立った。
その碑文には「子弟には慈父として慕われ、父兄には尊父として仰がれた先生の高徳は実に世の木鐸として永劫に輝くであろう」と記してある。
私はその碑を見るたびに、佐藤儀次郎の業績よりも、ただの一教師にすぎない恩師の遺徳を偲(しの)ぼうとして碑を建てた校区民の心根に心打たれた。
そして、このような碑を建てた先輩諸氏を誇りに思い、そのような健全な思想が支配する校区に生まれた事を幸せに思った。
そしてこのような風土では、子どもに郷土愛や愛国心を声高に教えなくても、それらは自然に育つもだと思った。
実際この碑を前にすると、名誉や地位や位階勲等や財産は如何なる意味も持たなかった。
また、この碑と対峙して、自分自身の生き方を恥じるところはないか、自問する事もしばしばあった。いわば私の心の鏡であった。
そしてこのような教え子を育てた佐藤儀次郎の偉大さを改めて感じた。
しかしいつの頃からか、またいかなる理由によるか知らないが、この碑は校庭の一番奥まった所に移転されてしまった。
今では孫にあたる早川の佐藤多恵子さん達がときどき訪れるのみである。
もともとこの碑は先述した通り慰霊碑ではない。この碑は「人生は斯くあるべし」と校区の先輩が私たちに示した「道しるべ」であり、訪れなければならないのは町民であろう。
なお佐藤儀次郎の次男福田幸雄は昭和二十八年に白旗小学校の校長に、孫婿の佐藤学は昭和**年に同小の教頭に赴任している。
誠に「衣鉢を継ぐ」とはこの事であろう。
人物誌7-2
清村 勉
──── コンクリート建築にかけた男
どの建物にも清村の名前が
戦後もアメリカの占領下にあった沖縄は、昭和四十七年に日本に返還された。そして本土復帰に伴う特別措置として学校建築が盛んに行われた。
学校を建てるためには、先ず今ある校舎を解体しなければならない。解体すると、めぼしい校舎の「棟上げ板」の殆どに「設計監督 清村勉」の名前がある。その中には大正十一年に造られたコンクリート建築の小学校もあるではないか。
建築史の示すところによると、学校建築にコンクリートが用いられ始めたのは関東大震災(大正十二年)の後とある。一体何故沖縄の地で、まだ本土でも数少ない時期に六十数棟のコンクリート建築をしたのか。
(ちなみに熊本県における学校の鉄筋コンクリート建築の嚆矢として有名な慶徳小学校は昭和元年、大島小学校(現嘉島西小)は昭和二年である)
その前にそもそも清村勉とは一体何者なのか。
このような事があって戦争をはさんで四十年の空白を飛び越え、昭和五十五年になって、今は静かに余生を送っている一人の老人に注目が集まった。
地元の甲佐では無名に近いが、今なお建築学会では評価が高いその男の仕事をたどり、仕事とは何か、われわれは何をなすべきかを共に考えたい。
(文中敬称略)
請われて沖縄へ
清村勉は明治二十七年に甲佐町豊内に生まれた。甲佐小学校高等科卒業後、地元の大工の弟子入りをしていたが、思うところがあって熊本県立工業学校に入学、建築専攻科を卒業後、鹿児島県加治木工業学校の教師として赴任した。
清村はかねてからコンクリートに興味があり、関係の図書を読みあさる一方、学校前の河原でコンクリートの諸実験を重ねていた。
大正九年、コンクリート研究が縁となり沖縄県国頭郡役所長から請われて郡役所技手として赴任した。
清村は沖縄については殆ど無知であった。そこが先ずやったのは、郡内の地勢・風土・公共施設の現況の調査であった。それに加えてコン
クリート用のバラス・砂・水の塩分含有量などを郡内くまなく綿密に調べた。
また、イギリスから専門書を取り寄せ独学でコンクリート建築を体得した。
当時沖縄の民家は茅葺き屋根が多く、公共施設も台風や白蟻の被害がひどく危険な個所も多かった。二か月の調査を終えて出した結論は、沖縄の建築は台風と白蟻対策のためコンクリート造にすべきだという事であった。
清村は役所の仕事が終わると自宅の庭先で塩水や真水を用いて鉄筋の腐食状況などの比較実験を繰り返した。
まず見本に公営質屋を
赴任して二年、コンクリート造は墓みたいだという村民を説得するために、見本として瀬喜田小学校の便所を造ることになり、学校・父兄の協力で台風や白蟻に強い鉄筋コンクリート建造物第一号が完成した。
当時庶民の金融機関として公益質屋というものがあった。大宜味村公益質屋は改築の時期になっていたが、 清村は村民の貴重な財産を盗難や台風や火事から守るためには鉄筋コンクリート以外にはないと考えて村民を説得した。
次に建てたのが金武小学校である。
便所と公益質屋の建築で、コンクリート建築に対する理解が少しは深まったとはいえ、二階建て十四教室は膨大な経費がかかる。木造が三万三千円なのに対して鉄筋コンクリートは五万二千円にもなる。しかし教育の重要性と鉄筋コンクリートの必要性を十分認識した村議会は村債を四万円とし、残りの一万二千円は寄付金を充てる事を議決した。村長は寄付を募るために、村出身者を頼って遠くハワイ・北米・南米まで出かけたという。ちなみに当時の村予算は四万五千円だったそうである。
南部の首里などだったらとにかく、北部の山原(やんばる)の寒村に沖縄初の鉄筋コンクリート二階建ての堂々たる校舎が完成したものだから、沖縄各地からの見学者がひきもきらなかったという。
なお、この建築の申請書を県庁に持参したとき。建築課の担当者は鉄筋コンクリート建は見聞したことがないと、上級官庁に問い合わせたなどのエピソードが残っている。
清村には子どもが四人おり、長男が中学に進学する昭和十四年に郡役所を辞職して、熊本市に居を構え六師団の経理部に勤務した。
証言1 佐村智幸
(一級建築士・文化協会理事)
清村勉氏の自宅を建築したとき、建築家同志として技術的な問題でやりとりしましたが、専門的な知識もさることながら、建築に対する深い哲学をもっておられる事を感じました。
沖縄でやってこられた事については殆ど話もありませんでしたが、テレビの「We Love九州」に特集番組として「草の根建築家 清村勉・コンクリート建築にかけた男!」という三〇分番組があり、これほどの事をやってこられた方かと驚きました。建築家としてどうあるべきか、学ぶべき事が多々あります。
証言2 清村 守
( 清村勉の甥・文化協会顧問)
沖縄から帰省しても、建築関係の仕事をしていたとの話は聞いたが、仕事の内容や、まして自慢話などは聞いた事がなかった。意志が強く、寒い朝でも井手の氷を割って氷水を頭からかぶっていたそうです。仕事については「今日の仕事は明日に延ばすな」がモットーでした。
沖縄在職二十年、その間に 清村が設計監督した建造物は六十数件といわれる。その中で鉄筋コンクリート造の主なものは大宜味村役場・名護村公益質屋・護佐喜宮・宜野座小学校・伊江小学校・伊是名小学校・塩谷小学校・伊平屋小学校などがある。
注目が集まる
さて、先述した通り、本土復帰に伴い校舎の建て替えがブームになった。
金武町でも、本土復帰特別措置法が期限切れになる昭和五十六年を前に、老朽校舎の金武小学校を改築しなければならないとして、昭和五十五年に町議会は改築を決議し、先ず校舎を半分解体した。
そのような状況下にあって北部工業高校の木下義宜教諭は解体されるめぼしい建物の設計施工法などをチェックしていたが、棟上げ板に頻繁にでている清村勉について調べていくうち、清村が元気で熊本にいるという事がわかり、沖縄と清村の交流や学術的な問い合わせなどが始まった。
そして木下教諭と熊大の木島安史助教授は本格的調査を行い、昭和五十五年に日本建築学会に「 清村勉設計の沖縄における初期コンクリート造り建築」と題して報告している。
同年、「 清村先生を囲む会」が熊本で開催され、大学・建築・沖縄関係者百名が集まり
木島から「 清村先生の業績と時代の背景」、木下から「現地の状況と今後の課題」として報告があり、金武小学校の半分解体時の鉄筋が披露され、五十余年を経過して今なお錆一つない鉄筋を目前にして参加者から感嘆の声が上がった。清村は「沖縄の建築と私の人生」と題して講演をした。
同年、日本建築学会九州ブロック会長より、沖縄の地域に即した建築の推進及び鉄筋コンクリート建築の先駆者としての表彰があった。
文化財として残す運動
一方沖縄では数少ない文化財が次々に取り壊され、また金武小学校も解体されつつあるので、名護市役所の原昭夫建築係長は日本大学の山口廣教授(日本建築学会理事)に保存の必要性を強く訴えた。
山口は聞き取り調査のため二度も清村の自宅を訪れ、また沖縄の現地を訪れ調査をした。
そして金武小学校は貴重な文化財として保存すべきだとして、関係機関へ文書を送付した。
資料1 琉球新報(昭五七・四・七)
数少ない貴重な文化遺産
金武小校舎保存を
山口 廣
・・・しかしここで申し上げたいのは金武小学校が単にその完工年が他より早かったというだけでなく、その設計の質の高さを評価したいのです。東京では関東大震災後百十七校もの鉄筋コンクリート造を設計しましたが、基本的には同じ構造設計をなしています。 もし清村氏の研究が未熟であったならば一見似ていても、現物の校舎そのものは五十余年の風雨に耐えずもう消滅していたでしょう。それが今に残り、多くの児童の学び舎として使命を永く果たしてきた事は、 清村氏の研究の優秀さと、これを支え校舎建築を可能にした村当局の熱意、これに応える誠意ある施工業者・職人など全てを高く評価したいのです。この故に私は金武小学校こそわが国の学校建築史上貴重な文化遺産であることを申し上げたいのです。 (抜粋)
資料2 琉球新報(昭五七・五・二)
学校建築史上貴重な財産
沖縄空港ターミナル会長
大城龍太郎
・・・琉球大の具志教授からも、金武小学校は永久建築物との鑑定を受けている。金を遣うのは金を儲けるよりも難しく、使い方を誤れば大変な不幸を招く。ありあまる町予算や補助金を良いことに五十年の歴史の固まりである大切な文化遺産を壊せば金武町全体の不名誉であることを知るべきである。(抜粋)
金武小学校解体される
デザイン、技法、構造に優れた名建築物として金武小学校の保存運動が起きる一方で、
特別措置法の期限切れを目前にして町議会は、記念として屋上の鐘突き堂や校舎入口のアーチを新校舎に取り付けることで決着し、ついに全校舎が解体された。
先駆的な設計思想
清村は沖縄特有の高温・多湿・台風・白蟻などに適した建築を進めた。そのため清村は風土建築家と呼ばれるているが、いっぽうで別の面からの積極的な評価もあるる。それは沖縄の厳しい自然を前にして屋根を低くして高い石垣をめぐらすという従来の消極的考えから、鉄筋コンクリートで堂々と自然に対して立ち向かったという評価である。革新的建築家といわれる所以である。これらの評価をふまえ、その特色をまとめると
一 北部は飲料水に乏しかった。
清村は小学校建築が瓦屋根の場合は地下水槽を設けて樋で地下タンクに集め飲用水にした。
二 白蟻の木材侵食実験をした
沖縄の高温多湿の気候は白蟻の繁殖に適し、その被害が多かった。 清村は沖縄に育つ松・杉のほか各種の木材を一尺に切って地に埋め白蟻の好む材料のテストをした。殆どの木が白蟻に喰われたが槇の木だけは表面をなめる程度だった。校舎の白蟻対策もこれらを考慮してなされたという。
三 快適な校舎づくりに心がけた
特に沖縄の夏の暑さを考えて防暑対策に心がけた。窓を大きく取り、教室と廊下の間のしきり(ガラリ・無双戸)をつけて、空気の流れを図った。また天井の四隅には換気孔を設けて熱気が抜けるようにした。
四 自然と調和のとれた建築に留意した
やんばるの森の緑・海の藍・空の青にマッチした赤瓦色が、伊是名小学校の卒業生にも伊平屋小学校の卒業生にも強く印象に残っているという事である。伊是名小学校も文化財として残すよう運動が激しかったという。
今なお生きる
清村勉は昭和六十年七月一日死去した。 享年九十一才。
資料3 沖縄タイムス(六〇・七・三)
沖縄の”コンクリート建築の父” 清村勉 さんを偲ぶ
名護市役所 原昭夫
風土建築家清村勉氏はいかにも職人然として謙虚そのものであり、氏の風貌に接して技術者の在り方、生き方という面で大いに教えを受けました。建築のみならず社会の全領域で専門化・分業化が進む今日、氏のような個人の人格の中で気象・生物・土壌・材料・工法・環境などの全てが把握され、それが建築という「モノ」に結実していった姿を見るとき、氏が残された仕事(現在は取り壊されて数少ないが)の中からもっと多く学びたいものである。 (抜粋)
資料4 琉球新報(昭六〇・七・二六)
建築家 清村勉氏を悼む
コンクリート建築を沖縄に初めて導入
美里工業高校 木下義宜
大正末期から昭和にかけてのコンクリート建築について、気候・風土・地勢に適した建築の在り方は今日でも充分参考になるものがある。 清村氏と接することにより建築とは何か、鉄筋コンクリート造の構造的強さのみを求めているような昨今、気候風土に適した建築とは何かを考えさせられた方である。
九割が鉄筋コンクリートに
今から八十年前、一人の若者がセメントという当時のハイテクに出合った。彼は自分は何を成すべきかを悟り、その技術を地域住民の為に心血を注いで生かした。そこには功名も地位も無縁であった。
もし今度沖縄に行かれたら車窓から見える建築に注意していただきたい。そしてそれが、甲佐の今は名もなき先輩の先見の明の結果であることに想いを馳せていただきたい。
そして、仕事とは何かを考えていただきたい。 (甲佐町郷土史研究会)
人物伝7-1
生涯一教師 佐藤儀次郎伝
昭和三十三年に白旗小学校は創立五十周年を迎えた。
そして何か記念事業をしようという事になった。
そのとき期せずして、佐藤儀次郎先生の遺徳を頌(たた)える碑を建立しようという話が持ち上がった。
儀次郎先生が没せられてから既に十五年、なお先生は教え子の心の中に生き続けて慕われていたのである。
それでは儀次郎先生は、一体何をしたのか。
実は校史に記されるような事は何もしなかったのである。
それでは何故建てたのか。
儀次郎先生こそが、住民が求めている教師としての理想像であったからである。
話は違うが、七月二十四日の熊本日々新聞のコラムに次のような話が出ている。
明治二十八年に某巡査はコレラが発生した村に派遣されたが、その巡査もコレラに罹患し死亡した。村人達はその巡査を神として祀(まつ)り神社を建てた。 その神社の五十年祭に招かれた子孫の言葉がいい。
「神として祀られた叔父が神様か、神として祀っていただいた村人の誠心が神様か・・・・」。
さて、前記の村人の話と全く同様で、佐藤儀次郎先生の遺徳も勿論であるが、それよりも先生の頌徳碑を建てた白旗校区民の心根がいい。
心が健康である。
そのような先輩がかっていたことを誇りに想い、現在の世相と合わせて考えるとき、校区民の心意気に唯々頭が下がるばかりである。
(文中敬称略)
緑壁小学校 ?
先生は明治六年に白旗村早川に生まれた。
前年の明治五年はわが国で初めて「学制」が実施された年である。それまでの「寺子屋」にかえて「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」として、甲佐町でも明治六年に甲佐小学校、明治七年に上揚小学校、同年田口に碧陽小学校、八年坂谷小学校が設立された。
それにともない、宮内の二私塾、甲佐七、竜野四、乙女七、白旗五の合計二十五私塾が廃止された。
上白旗で廃止されたのは早川の渡辺揖人、糸田の宮地一の二私塾である。
明治十二年の記録によると、上白旗では糸田に「人民共立小学校」があり、男三十五名、女二十六名が在籍している。
そして明治十九年になって上白旗に早川尋常小学校、下白旗地区に白旗尋常小学校が設立された。当初は四年制であったがやがて六年制となる。
正史には載ってないが、早川尋常小学校の校名は明治二十三年頃から明治二十六年頃まで緑濱尋常小学校となっていたらしい。
明治二十三年、佐藤儀次郎はその設立されて間もない早川尋常小学校の教壇に立つ。十八歳であった。
その後同校訓導兼学校長に栄進した。
明治四十一年、早川尋常小学校と白旗尋常小学校は合併した。また高等科を併設して、校名も白旗尋常高等小学校となり現在の地に移った。
全部が教え子!!
そして佐藤儀次郎も白旗尋常小学校訓導に転じた。
その後大正十四年に退職するまで十七年間を白旗尋常高等小学校で過ごした。 十七年を同一校に勤務するということは当時としても異例であり、白旗小学校五十年の歴史の中でも十年を越す者はいない。
しかし単に長期間勤務しただけで頌徳碑(しょうとくひ)が建つ訳はない。
それでは何故建てたのか。
この十七年の間、佐藤儀次郎は一年生を続けて担任している。
そうすると、どういう事になるか。
六年目には全校の児童が自分が担任した子どもになる。
また当時は兄弟姉妹が五、六人いるのは普通であったが、十数年も担任すれば一家全員が佐藤儀次郎に教わった事になる。
子どもが佐藤儀次郎を知っているという事は、当然の事ながらその親からも知られる存在であり、かくて校区民全員から熟知される存在になる。
教師が校区民の全員を知り、全校区民がその教師を知って信頼すればこれほど良い教育環境はないであろう。
また、今は制度上求むべきもないが、このような「生き字引的」教師が学校に一人いるという事は、学校運営上からも、また他の教師からもどれほど頼りになった事であろう。
佐藤儀次郎を語るとき、「校区民全員が儀次郎先生の家を知っていた」というエピソードがよく引き合いに出されるが、これもなるほどとうなずける。
しかし、一人の教師が一つの学校に永年に亘り勤務するとるという事は、まかり間違えば学校運営上の障害にもなりかねない。一にその教師の資質いかんにかかっている。
つまり白旗小学校は佐藤儀次郎を必要としたのである。
慈父と慕われる
波瀾万丈の人生を書き残す事はたやすいが、平凡な人生を語るのは容易な事ではない。
しかし、その平凡さのなかに佐藤儀次郎の面目躍如たるものがある。
「真面目」「実直」「人がよい」「和顔」「高徳」「慈父」「人情家」。儀次郎を語るとき誰からも出る言葉である。
このように教え子から慕われた教師であるが故に、故郷を離れた卒業生が白旗に帰ってくると、まず儀次郎の元に訪れたという。
また教え子の一家が生活費に困っているのを見かねて、度々お金を渡していたともいわれている。
儀次郎を語るとき、よく使われる言葉がある。「子どもが好き」「やさしかったのが忘れられん」「先生の大きな手と、そのぬくもりが今でも私の手に残っている」「威厳があって、しかも慈父のようであった」
これこそが校区民が畏敬の念を持ち続けた一番の理由であろう。
一教師として生きる
儀次郎がどのようにして教師の資格を取ったかは、現在となってはいまひとつはっきりしない。
明治四十年の早川尋常小学校の卒業証書には「校長佐藤儀次郎」とあることから考えると、当時の教師がそうしたように、上益城郡教育会が御船に設立した「尋常小学校本科正教員養成所」を修了したことが十分考えられる。
いまひとつ、儀次郎を語るときよく使われる言葉がある。「栄達を求めず」「出世を考えず」。
そうすると白旗小学校では「校長になれなかった」のではなく、前任校で一旦校長になったが、以後「校長にならなかった」のである。
それは何故か。
理由は簡単である。佐藤儀次郎の人生観からして、日々子どもと接することに生き甲斐を感じていたからである。
子どもが好き
通常一年生を担任するのは女教師であろう。それをなぜベテランの、後には老練の男教師が続けて担当したのか。そこには単に「低学年が好きだから」とか「一年生が向いている」とか以上の理由があった。
当時の新入生の教育は現在では考えられない苦労があった。
まず幼稚園や保育園で集団による躾を受けていないのは勿論であるが、「士族」「平民」の身分差や「地主」「小作人」の貧富の差がストレートに教室に持ち込まれ、それらの子どもが机を並べていた。
また弟や妹を学校に連れてきて子守をしながら勉強する風景も珍しくなかった。
それを「子どもと子どもとの関係はすべて平等」という意識を一人一人に植え付けさせなばならない。
そのような子どもを入学後一年間で「学習訓練」をした上で二年生に送り出さなければならない。
そうしてはじめて学校全体が正常な教育が出来るのである。
そのためには先ず教師が全児童を分け隔てなく扱う必要があった。
その点、儀次郎は頌徳碑の銘文にもあるとおり「性格は優しく」、しかも「時には厳父の如く」教育し、「権勢に媚びず」に生きる事を人生観としており最適任であった。
わが人生の指針
さて、昭和三十五年、校区の住民はもとより遠く沖縄や東京からも基金が寄せられて「佐藤儀次郎先生頌徳碑」は完成した。
その石碑は校門を入ったら校庭を隔てて正面にあり、よく目立った。
その碑文には「子弟には慈父として慕われ、父兄には尊父として仰がれた先生の高徳は実に世の木鐸として永劫に輝くであろう」と記してある。
私はその碑を見るたびに、佐藤儀次郎の業績よりも、ただの一教師にすぎない恩師の遺徳を偲(しの)ぼうとして碑を建てた校区民の心根に心打たれた。
そして、このような碑を建てた先輩諸氏を誇りに思い、そのような健全な思想が支配する校区に生まれた事を幸せに思った。
そしてこのような風土では、子どもに郷土愛や愛国心を声高に教えなくても、それらは自然に育つもだと思った。
実際この碑を前にすると、名誉や地位や位階勲等や財産は如何なる意味も持たなかった。
また、この碑と対峙して、自分自身の生き方を恥じるところはないか、自問する事もしばしばあった。いわば私の心の鏡であった。
そしてこのような教え子を育てた佐藤儀次郎の偉大さを改めて感じた。
しかしいつの頃からか、またいかなる理由によるか知らないが、この碑は校庭の一番奥まった所に移転されてしまった。
今では孫にあたる早川の佐藤多恵子さん達がときどき訪れるのみである。
もともとこの碑は先述した通り慰霊碑ではない。この碑は「人生は斯くあるべし」と校区の先輩が私たちに示した「道しるべ」であり、訪れなければならないのは町民であろう。
なお佐藤儀次郎の次男福田幸雄は昭和二十八年に白旗小学校の校長に、孫婿の佐藤学は昭和**年に同小の教頭に赴任している。
誠に「衣鉢を継ぐ」とはこの事であろう。
人物誌7-2
清村 勉
──── コンクリート建築にかけた男
どの建物にも清村の名前が
戦後もアメリカの占領下にあった沖縄は、昭和四十七年に日本に返還された。そして本土復帰に伴う特別措置として学校建築が盛んに行われた。
学校を建てるためには、先ず今ある校舎を解体しなければならない。解体すると、めぼしい校舎の「棟上げ板」の殆どに「設計監督 清村勉」の名前がある。その中には大正十一年に造られたコンクリート建築の小学校もあるではないか。
建築史の示すところによると、学校建築にコンクリートが用いられ始めたのは関東大震災(大正十二年)の後とある。一体何故沖縄の地で、まだ本土でも数少ない時期に六十数棟のコンクリート建築をしたのか。
(ちなみに熊本県における学校の鉄筋コンクリート建築の嚆矢として有名な慶徳小学校は昭和元年、大島小学校(現嘉島西小)は昭和二年である)
その前にそもそも清村勉とは一体何者なのか。
このような事があって戦争をはさんで四十年の空白を飛び越え、昭和五十五年になって、今は静かに余生を送っている一人の老人に注目が集まった。
地元の甲佐では無名に近いが、今なお建築学会では評価が高いその男の仕事をたどり、仕事とは何か、われわれは何をなすべきかを共に考えたい。
(文中敬称略)
請われて沖縄へ
清村勉は明治二十七年に甲佐町豊内に生まれた。甲佐小学校高等科卒業後、地元の大工の弟子入りをしていたが、思うところがあって熊本県立工業学校に入学、建築専攻科を卒業後、鹿児島県加治木工業学校の教師として赴任した。
清村はかねてからコンクリートに興味があり、関係の図書を読みあさる一方、学校前の河原でコンクリートの諸実験を重ねていた。
大正九年、コンクリート研究が縁となり沖縄県国頭郡役所長から請われて郡役所技手として赴任した。
清村は沖縄については殆ど無知であった。そこが先ずやったのは、郡内の地勢・風土・公共施設の現況の調査であった。それに加えてコン
クリート用のバラス・砂・水の塩分含有量などを郡内くまなく綿密に調べた。
また、イギリスから専門書を取り寄せ独学でコンクリート建築を体得した。
当時沖縄の民家は茅葺き屋根が多く、公共施設も台風や白蟻の被害がひどく危険な個所も多かった。二か月の調査を終えて出した結論は、沖縄の建築は台風と白蟻対策のためコンクリート造にすべきだという事であった。
清村は役所の仕事が終わると自宅の庭先で塩水や真水を用いて鉄筋の腐食状況などの比較実験を繰り返した。
まず見本に公営質屋を
赴任して二年、コンクリート造は墓みたいだという村民を説得するために、見本として瀬喜田小学校の便所を造ることになり、学校・父兄の協力で台風や白蟻に強い鉄筋コンクリート建造物第一号が完成した。
当時庶民の金融機関として公益質屋というものがあった。大宜味村公益質屋は改築の時期になっていたが、 清村は村民の貴重な財産を盗難や台風や火事から守るためには鉄筋コンクリート以外にはないと考えて村民を説得した。
次に建てたのが金武小学校である。
便所と公益質屋の建築で、コンクリート建築に対する理解が少しは深まったとはいえ、二階建て十四教室は膨大な経費がかかる。木造が三万三千円なのに対して鉄筋コンクリートは五万二千円にもなる。しかし教育の重要性と鉄筋コンクリートの必要性を十分認識した村議会は村債を四万円とし、残りの一万二千円は寄付金を充てる事を議決した。村長は寄付を募るために、村出身者を頼って遠くハワイ・北米・南米まで出かけたという。ちなみに当時の村予算は四万五千円だったそうである。
南部の首里などだったらとにかく、北部の山原(やんばる)の寒村に沖縄初の鉄筋コンクリート二階建ての堂々たる校舎が完成したものだから、沖縄各地からの見学者がひきもきらなかったという。
なお、この建築の申請書を県庁に持参したとき。建築課の担当者は鉄筋コンクリート建は見聞したことがないと、上級官庁に問い合わせたなどのエピソードが残っている。
清村には子どもが四人おり、長男が中学に進学する昭和十四年に郡役所を辞職して、熊本市に居を構え六師団の経理部に勤務した。
証言1 佐村智幸
(一級建築士・文化協会理事)
清村勉氏の自宅を建築したとき、建築家同志として技術的な問題でやりとりしましたが、専門的な知識もさることながら、建築に対する深い哲学をもっておられる事を感じました。
沖縄でやってこられた事については殆ど話もありませんでしたが、テレビの「We Love九州」に特集番組として「草の根建築家 清村勉・コンクリート建築にかけた男!」という三〇分番組があり、これほどの事をやってこられた方かと驚きました。建築家としてどうあるべきか、学ぶべき事が多々あります。
証言2 清村 守
( 清村勉の甥・文化協会顧問)
沖縄から帰省しても、建築関係の仕事をしていたとの話は聞いたが、仕事の内容や、まして自慢話などは聞いた事がなかった。意志が強く、寒い朝でも井手の氷を割って氷水を頭からかぶっていたそうです。仕事については「今日の仕事は明日に延ばすな」がモットーでした。
沖縄在職二十年、その間に 清村が設計監督した建造物は六十数件といわれる。その中で鉄筋コンクリート造の主なものは大宜味村役場・名護村公益質屋・護佐喜宮・宜野座小学校・伊江小学校・伊是名小学校・塩谷小学校・伊平屋小学校などがある。
注目が集まる
さて、先述した通り、本土復帰に伴い校舎の建て替えがブームになった。
金武町でも、本土復帰特別措置法が期限切れになる昭和五十六年を前に、老朽校舎の金武小学校を改築しなければならないとして、昭和五十五年に町議会は改築を決議し、先ず校舎を半分解体した。
そのような状況下にあって北部工業高校の木下義宜教諭は解体されるめぼしい建物の設計施工法などをチェックしていたが、棟上げ板に頻繁にでている清村勉について調べていくうち、清村が元気で熊本にいるという事がわかり、沖縄と清村の交流や学術的な問い合わせなどが始まった。
そして木下教諭と熊大の木島安史助教授は本格的調査を行い、昭和五十五年に日本建築学会に「 清村勉設計の沖縄における初期コンクリート造り建築」と題して報告している。
同年、「 清村先生を囲む会」が熊本で開催され、大学・建築・沖縄関係者百名が集まり
木島から「 清村先生の業績と時代の背景」、木下から「現地の状況と今後の課題」として報告があり、金武小学校の半分解体時の鉄筋が披露され、五十余年を経過して今なお錆一つない鉄筋を目前にして参加者から感嘆の声が上がった。清村は「沖縄の建築と私の人生」と題して講演をした。
同年、日本建築学会九州ブロック会長より、沖縄の地域に即した建築の推進及び鉄筋コンクリート建築の先駆者としての表彰があった。
文化財として残す運動
一方沖縄では数少ない文化財が次々に取り壊され、また金武小学校も解体されつつあるので、名護市役所の原昭夫建築係長は日本大学の山口廣教授(日本建築学会理事)に保存の必要性を強く訴えた。
山口は聞き取り調査のため二度も清村の自宅を訪れ、また沖縄の現地を訪れ調査をした。
そして金武小学校は貴重な文化財として保存すべきだとして、関係機関へ文書を送付した。
資料1 琉球新報(昭五七・四・七)
数少ない貴重な文化遺産
金武小校舎保存を
山口 廣
・・・しかしここで申し上げたいのは金武小学校が単にその完工年が他より早かったというだけでなく、その設計の質の高さを評価したいのです。東京では関東大震災後百十七校もの鉄筋コンクリート造を設計しましたが、基本的には同じ構造設計をなしています。 もし清村氏の研究が未熟であったならば一見似ていても、現物の校舎そのものは五十余年の風雨に耐えずもう消滅していたでしょう。それが今に残り、多くの児童の学び舎として使命を永く果たしてきた事は、 清村氏の研究の優秀さと、これを支え校舎建築を可能にした村当局の熱意、これに応える誠意ある施工業者・職人など全てを高く評価したいのです。この故に私は金武小学校こそわが国の学校建築史上貴重な文化遺産であることを申し上げたいのです。 (抜粋)
資料2 琉球新報(昭五七・五・二)
学校建築史上貴重な財産
沖縄空港ターミナル会長
大城龍太郎
・・・琉球大の具志教授からも、金武小学校は永久建築物との鑑定を受けている。金を遣うのは金を儲けるよりも難しく、使い方を誤れば大変な不幸を招く。ありあまる町予算や補助金を良いことに五十年の歴史の固まりである大切な文化遺産を壊せば金武町全体の不名誉であることを知るべきである。(抜粋)
金武小学校解体される
デザイン、技法、構造に優れた名建築物として金武小学校の保存運動が起きる一方で、
特別措置法の期限切れを目前にして町議会は、記念として屋上の鐘突き堂や校舎入口のアーチを新校舎に取り付けることで決着し、ついに全校舎が解体された。
先駆的な設計思想
清村は沖縄特有の高温・多湿・台風・白蟻などに適した建築を進めた。そのため清村は風土建築家と呼ばれるているが、いっぽうで別の面からの積極的な評価もあるる。それは沖縄の厳しい自然を前にして屋根を低くして高い石垣をめぐらすという従来の消極的考えから、鉄筋コンクリートで堂々と自然に対して立ち向かったという評価である。革新的建築家といわれる所以である。これらの評価をふまえ、その特色をまとめると
一 北部は飲料水に乏しかった。
清村は小学校建築が瓦屋根の場合は地下水槽を設けて樋で地下タンクに集め飲用水にした。
二 白蟻の木材侵食実験をした
沖縄の高温多湿の気候は白蟻の繁殖に適し、その被害が多かった。 清村は沖縄に育つ松・杉のほか各種の木材を一尺に切って地に埋め白蟻の好む材料のテストをした。殆どの木が白蟻に喰われたが槇の木だけは表面をなめる程度だった。校舎の白蟻対策もこれらを考慮してなされたという。
三 快適な校舎づくりに心がけた
特に沖縄の夏の暑さを考えて防暑対策に心がけた。窓を大きく取り、教室と廊下の間のしきり(ガラリ・無双戸)をつけて、空気の流れを図った。また天井の四隅には換気孔を設けて熱気が抜けるようにした。
四 自然と調和のとれた建築に留意した
やんばるの森の緑・海の藍・空の青にマッチした赤瓦色が、伊是名小学校の卒業生にも伊平屋小学校の卒業生にも強く印象に残っているという事である。伊是名小学校も文化財として残すよう運動が激しかったという。
今なお生きる
清村勉は昭和六十年七月一日死去した。 享年九十一才。
資料3 沖縄タイムス(六〇・七・三)
沖縄の”コンクリート建築の父” 清村勉 さんを偲ぶ
名護市役所 原昭夫
風土建築家清村勉氏はいかにも職人然として謙虚そのものであり、氏の風貌に接して技術者の在り方、生き方という面で大いに教えを受けました。建築のみならず社会の全領域で専門化・分業化が進む今日、氏のような個人の人格の中で気象・生物・土壌・材料・工法・環境などの全てが把握され、それが建築という「モノ」に結実していった姿を見るとき、氏が残された仕事(現在は取り壊されて数少ないが)の中からもっと多く学びたいものである。 (抜粋)
資料4 琉球新報(昭六〇・七・二六)
建築家 清村勉氏を悼む
コンクリート建築を沖縄に初めて導入
美里工業高校 木下義宜
大正末期から昭和にかけてのコンクリート建築について、気候・風土・地勢に適した建築の在り方は今日でも充分参考になるものがある。 清村氏と接することにより建築とは何か、鉄筋コンクリート造の構造的強さのみを求めているような昨今、気候風土に適した建築とは何かを考えさせられた方である。
九割が鉄筋コンクリートに
今から八十年前、一人の若者がセメントという当時のハイテクに出合った。彼は自分は何を成すべきかを悟り、その技術を地域住民の為に心血を注いで生かした。そこには功名も地位も無縁であった。
もし今度沖縄に行かれたら車窓から見える建築に注意していただきたい。そしてそれが、甲佐の今は名もなき先輩の先見の明の結果であることに想いを馳せていただきたい。
そして、仕事とは何かを考えていただきたい。 (甲佐町郷土史研究会)
中嶋著作6民俗
民俗誌6-1
民話「おとぼなまず」の背景
あらすじ
①むかし山出に美しい年頃の娘がいた。
②そこへ夜な夜な通ってくる上品な若者がいた。
③その若者はぬめるような肌をしており、去った後生臭いにおいが漂った。
④これはただ者ではないと感じた家人はその正体を暴くべく入口に灰をまいておいた。
⑤その足跡を調べたら何かが這って蛇行したような跡が続いていた。
⑥そこで針を灰の中に立てておいた
⑦翌朝、血が流れてのたうったような跡があり、それを辿って行くと緑川対岸の五色山の麓の池につき、そこにオトボ鯰が死んでいた。
⑧祟りを恐れた山出の村人は幟をたて鉦太鼓をならして緑川を渡り、供養した
⑨以後毎年七月、幟をたて鉦太鼓をならして緑川を渡り供養した。また、山出の村人は以後鯰を食べない。
為朝伝説
この「おとぼなまず」の話は、甲佐に伝わる通常の民話(例えばウサヒコさんの笑い話や飯田山の地名説話など)と違い、何かいわくありげでおどろおどろしており、古来多くの人の関心を引いてきた。
例えば江戸時代の初期、早川に住んでいた早川神社の神職渡辺玄察は次のように考察している。
昔、山出大武明神社の上にある白旗山には鎮西八郎為朝が在城していた。後に為朝は都に召されて再び帰って来なかった。留守居を守っていた御内室(奥方)は「悲嘆止むことなく、昔を偲びつつ遂に詮方なく渕に身を沈め給う」として、その渕を往時の緑川筋のヒナイ神付近に比定している。そして「山出城下の者共はいたわしく思い、その七月彼の渕に至り鉦太鼓を鳴らして念仏踊りをなし、源氏の白旗とて白布を竿頭につるし笹踊りをなして亡霊を弔慰せり。その後、例となり盆毎に山出村よりヒナイ神に詣で踊りをなすにあらずや」としている
この考察は
①江戸時代初期には既に辺場・古閑・八丁・山出の村人が緑川対岸のヒナイ神付近で念仏踊り(鎌倉時代、一遍上人らによって始められた踊り、念仏を唱え鉦・太鼓を打ち鳴らし踊る)をしていた。
②為朝伝説と笹踊り(神事舞の一つで笹を手に持って踊る)とを結びつけて推察している。
③ナマズが出てこない
このように、民話「おとぼなまず」は為朝伝説を背景にしているのであろうか。
それを考察する前に、今では聞きなれない曰くありげな「オトボ」とは何だろうか、また「ヒナイ」とは何だろうか。
おとぼ
甲佐だけではないが一般に語尾の「ウ」は省略される傾向にある。例えば「牛蒡(ごぼう)」をゴボ、「吝嗇坊(けちんぼう)」をケチンボという類である。オトボとはオトボウであることに異論はなかろう。
そうすると、山がオト女山であり池がオト坊であって一対をなしており、緑川を夜な夜な渡って山出にきたのは対岸の男であるという話になるが、これには難点がある。
それはオトボウの伝説は全国に散らばっているからである。
①前橋市の清水川にはオトボウナマズという主が住んでおり、「オトボウ、オトボウ」と言いながら釣り人を追いかけてくるという。
②オトボウ池 群馬県天川大島町のオトボウ池は野中清水といって清水が湧いていた池であった。この池には大きな鯰がいた。ある人が鯰を捕ってザマの中に入れてきたら、その鯰が「オトボウ、オトボウ」と呼んだという。その人はあとで病気になった。
③おとぼ沼 昔、群馬県西片貝町に「おとぼ」と呼ぶ越後の毒消し売りが、この沼に生き埋めにされたという。沼の渕で「おとぼやーい」と呼ぶと、かすかに「おーい」と答えるといわれている。
④ 静岡県の天竜川上流の水窪町に「オトボウ渕」というのがあるが、その由来は「ある金持男が、渕の縁に住んでいた親交のある男に、タブーとされている蓼(たで)汁を飲ませたら、男はもがきながら渕へ転がり落ちてしまった。今まで人間の姿をしていた男は赤い腹をした魚になって、しきりに「おとぼう、おとぼう」と連呼しながら川を流さて行った。
⑤ 熊本県甲佐町坂谷の人がウナギを獲って夜道を帰っていると谷川の渕から「オトボウ、ぬしは何処へ行きよっとかい」と声がした。するとカゴのうなぎが「おれは今夜切り刻まれて殺されるたい」と答えた。それを聞いた坂谷の人は怖くなってウナギを渕に投げ捨てて逃げかえった。
以上、五例をあげたが共通することは
①オトボウは川や沼と関係している。
②おどろおどろしている話である。
それにしてもオトボウとは何であろうか。
柳田國男は「物言う魚」で
岡山県吉野村の釣った鯰が物を言う「まつぼう渕」の例を挙げ「魚には○○坊」という子どもみたいな名を持つ者もあった」と述べている。
上記④の静岡県の天竜川上流の水窪町あたりでは「オトボウ」というのは「父」という事であり、死にかけに父の名を呼んだのではないか(「民族」三巻五号 早川幸太郎)と記している。
「オト(乙)」は古語でオトゴ(末子)の意味があり、実際「阿蘇湯浦平成風土記」(高本高綱)によると「オトゴ 最後に生まれた子・末子」として、現在も使われている。
また、「肥後の昔話」には矢部の川内に伝わる民話として上記⑤(坂谷)に類似した話があり「川底から『おおい、どけ行きよっとかー』って、おめきよる。うなぎの名前を言って」とある。この話にはオトボウという言葉は出ていないが「うなぎの名前」とは坂谷の話に出てくるオトボウという事であろう。
以上の事から考えて、オトボは乙女とは関係なく人格を持った鯰につけられた名前という事になろう。
ヒナイ
つぎにヒナイ神である。これも字義不詳であるが、ヒナイはヒナ・イであろう。ヒナはひなた(日向)の意で用いられ、日向田・日南・朝比奈などと表記される。
イは中世では井手(用水)の意に用いられる事が多い。
上益城郡誌によるとヒナイ神を「船井神」としている。
フナイは一般にはフナ・イであろう。フナは船の形をしている意で、船山・船窪などと用いる。
前記「拾集昔語」には「ヒナイ神という故事は「ヒナ人のカミ池」と言えるにはあらずや」としている。鄙(ヒナ・いなか)人が崇拝する神がおわします池という意味であろうか。しかしこれは当たらない。都からみれば鄙人かもしれないが、村人が自ら自分を鄙人として、その神を鄙人神というはずがない。
いつごろの話か
この民話は「肥後の民話と伝説」(熊本史談会)・「肥後の伝説」(牛島盛光)・「熊本の昔話」(大塚正文)や「甲佐の民話」(甲佐町教育委員会)などに掲載されているが、大事な事を書き落としている。
それは冒頭のあらすじの③④⑤⑥の部分の欠落である。
つまり、地元に伝えられている古い話では「妖怪と思われた」から殺されたのであって、「娘の所に夜な夜な通ってくる」から殺されたのではない。
手懸りはそこにある。
というのは、この話は「婿入り婚」が容認されていた時代の話である。古代は夫が妻の家に通うのが一般的であり、妻が夫の家に嫁入りする「嫁入り婚」が普通になったのは室町時代からである。そうすると移行期も含めてこの話は平安から室町時代の頃の話ということになるのではないか。
もうひとつ手掛かりがある。それは何故わざわざ対岸まで出かけたかという事である。
背景に田口荘と公領山出村との争いが
田口と山出のかかわりをみると
平安時代の康治二年(一一四三)四月三日、田口新太夫行季は一族郎党とともに山出に押しかけ、米稲・大豆・塩・麦・胡麻などの食料を奪い、女六人を掠め取り、役人二人を傷つけ家を焼き払った。(肥後国訴状)
この争いの背景には山出村は国衙の公領地ではあるが、砥川経盛が私領としての特権(税の徴収権・納入の免除)を持っていた。砥川経盛はその山出村を在庁官人の権介季宗に売ったが、経盛の甥の田口新太夫行季はこれを認めために起きた事件である。
当時、古閑・八丁・芝原・吉田の村々はまだなく、山出は豊かな後背地を持つ物資の集散地であったと思われる。
対岸の田口は、かつての大宰府天満宮安楽寺領の荘園であり、それを背景にした田口氏が勢力を持っていた。
「オトボなまず」は、この両氏の抗争や和解を背景に、阿蘇氏の勢力拡大に伴うその眷属である鯰がからんだ話ではなかろうか。
民俗誌6-2
なぜ孟宗竹は短期間に全国に植栽されたか
二百年で全国に
孟宗竹はもともとわが国に自生しておらず、寛文元年(一六六一年)に隠元禅師が中国から持ち帰り京都長岡京市の奥海印寺に移植したのが最初と言われている。
確実な記録としては元文元年)(一七三六)に中国から琉球を経て薩摩藩主に二株贈られたのが最初で、磯公園にその記念碑が建っている。
その後の伝播については、仙台へは宝暦明和(江戸中期)の頃に藩士の中目六左衛門が江州から株を持ち帰ったとか、金沢へは藩士の岡本右太夫が武蔵野から移植したとか、江戸へは海運業者の山路勝孝が移植したとかが文献に散見される。
いずれも株を分けて移植したという点に留意していただきたい。
それが幕末には全国的に分布するに至った。この間たった二百年である。これは異常なことである。例えば、杉は挿し芽で大量に増やせるしヒノキやマツは種子を蒔けばよい。ところが竹を殖やすには株分けをしたり地下茎を切り取って殖やすのが一般的である。
しかも竹は移植した株が成長して、いきなり竹林になるわけではない。
杉や松や檜は年々成長するが、竹は一年で成長が止まる。移植しても一年目は鉛筆位の竹が生えるばかりである。
二,三年目で七夕竹ぐらいの竹が地下茎の他の節から立ち上がり、その後段々と大きな竹が生えるようになり、立派な竹林となるのは十年もかかる。
竹は成長が早く繁殖力が旺盛ではあるしかし例えねずみ算的に株分けしても二百年で日本中に植栽されるには何か必然的な理由があったはずである。
それは何だったのか。
理由にならない
先ず考えられるのが食料としての筍であろう。
確かに孟宗竹のタケノコは商品作物としては優れている。しかし京大阪や江戸近郊ならとにかく、全国的に広まった理由にはならない。田舎には在来種のハチクやコサンチクなどもあり、飢饉にさいなまれている百姓がわざわざ食料として移植する必然性はない。
食用以外の利用としては工芸品があげられる。
竹はザル・カゴなどとして、生活用具や農具・漁具として広くつかわれてきた。樽用のタガや竹箒も必要不可欠な竹の利用であった。
しかしこれらには弾力性に富みしなやかなマダケが用いられた。茶道具にみられるような竹工芸品や和傘・団扇などに至っては需要が限られていて、とても孟宗竹が全国に移植される必然性はない。
「日本における竹林経営」(電子版)には、もう一つ「建築用」として竹の効用をあげている。
まず、建築用材として銘竹(例えば床の間の床柱に使う角竹)がある。これには孟宗竹が適しているが需要が極少である。土壁のエツリカキも考えられが、これはマタケやメダケでもよい。
「土木用」としても草堰や橋の資材として使われる事もあるが、これも孟宗竹でなければならない事はない。
以上、いずれも孟宗竹が急速に広まったであろう理由をあげ、その必然性を否定した。
それでは何故爆発的に全国的なブームとなって植栽されたであろうか。
私たちは江戸時代の中期から明治にかけて孟宗竹を必要とする、ある必然性を見落としていたのである。
その答えは意外なところにあった。
官軍から焼き討ちにされる
明治十年、薩軍に包囲された熊本城を救援するため、政府軍は八代に上陸し薩軍の背後を衝くために進軍して、堅志田に陣を構えた。
そして四月三日、政府軍は緑川を渡り甲佐町の集落に火を放ち一面を焼け野が原にした。特に岩下町と大町、仁田子は殆どの家が消失した。
西南戦争が終わり、焼き討ちにされた住民に対して(見舞金が支払われることになり、焼失家屋の調査が行われた。
その報告書により、私たちは当時の住宅事情を知ることができる。
そして明治初期の家並みは、私たちの持っているイメージと随分異なっている事に気づく。浮世絵や絵巻物に見られるような景観や大正時代に撮られた「古民家」の写真とも全く異なる。
資料一は中程度の家が焼失した例で、母屋の一部が二階建てになっている。母屋は建坪二十四坪あり、そのうち二階部分は瓦(かわら)瓦(かわら)屋根(やね)屋根(やね)で一階部分は藁(わら)藁(わら)屋根(やね)屋根(やね)になっている。下屋(げや)が九坪あるがその内の四坪半は竹屋根になっている。
また小屋一軒も焼失しているが、この小屋は竹屋根である。
資料二は平屋建て十五坪の母屋の例である。十一坪の藁屋根に八坪の下屋がついているが、この下屋は竹屋根である。
資料三は平屋建て十坪半の母屋の例である。本体も下屋も竹屋根で葺かれている。
小屋が一棟焼けているがこれも竹屋根である。
資料四は十八坪の貸家の例である。本体の十坪は藁屋根でそれに八坪の竹屋根の下屋が付いている。
以上四例はいずれも岩下町の例である。
岩下町は緑川流域にあり、江戸時代は「在町」(熊本や川尻などの町と違って在(田舎)にある町として特権や制約があたえられた)の一つとして栄えた。
さて、岩下町で焼失した家は百七十戸のうち判読可能な八十棟を集計したのが次の表一である。
母屋の本体で竹屋根は四棟にすぎない。
しかし母屋の下屋(げや)下屋(げや)となると竹葺き屋根だけで十四%、瓦との併用が十九%、あわせると三棟に一棟が竹屋根であることがわかる。
表二は小屋の屋根の状況である。藁屋根や瓦屋根よりも竹屋根が多く十棟に四棟の割合で竹屋根になっている。
これらの屋根は孟宗竹で葺かれるのが一般的である。
新建材としての孟宗竹
孟宗竹は真竹と比べると耐久性にやや劣るが剛直であり太いために総合すると優れた建材である。
これこそが孟宗竹が二百年で全国に広まった理由であろう。
中世や近世初頭にかけての家屋の絵を見れば解かることだが、「町」の家並みには下屋が葺かれていることもあるが「在」の百姓家には下屋は殆どない。板葺きや檜川葺きが高価であったためと思われる。
そこへ孟宗竹がわが国に持ち込まれた。
新建材として孟宗竹は安価で簡単に葺けるため生活空間が広がり快適なものになる。
これが孟宗竹が全国に急速に広まった理由であるというのが私の推論である。
(アルミサッシが使われるようになった頃を想起すればよい。アッという間にすべての家がアルミサッシの家になった)。
しかし現在では古民家の竹屋根は完全に無視されている。
資料五は単行本「古民家・屋根ものがたり」の目次であるが、茅(がや)茅(がや)屋根から始まって土屋根まで七種類の屋根の図版が出ているが竹屋根の項目はない。
古民家の調査報告や写真集にも竹屋根に関する記載はない。(一例だけあるがそれは後述する。)
何故であろうか。
理由は簡単である。建築物としての「民家」に関心が集まったのは昭和になってからであり、その頃になると竹屋根は瓦屋根に取って代わっていたからである。
表三は三種類の図書に載っている古民家の写真の分析である。大正から昭和にかけて竹屋根は完全に姿を消したことに気づく。
孟宗竹の屋根の耐用年数は七年位であり、経済力が向上するとともに竹の下屋は瓦の下屋に葺きかえられた。
この頃の百姓家は藁屋根に瓦の下屋が一般的な姿であり、これは戦後まで続く。
さて、三尺の下屋を竹屋根で葺くには、まず六尺に切った竹を二つに割って中の節を落とし、中を上に向けて並べる。竹は先が小さいので割った二つをペアにして互いに並べると平行になる。残った先をまた六尺に切り同様にして継ぎ目から雨水が入らないように伏せてかぶせる。
一間(けん)間(けん)に大竹で二十~二五本並べなければならないから、竹の太さにもよるが一間に必要な孟宗竹は十本~十三本位であろう。耐用年数は七年位であるが、竹林の孟宗竹は七年で更新しなければタケノコが立たなくなるのでこのサイクルとも一致する。
このような需要が孟宗竹を瞬く間に全国に広めた理由と考える。
終わりに
編集部から、四ページ分の穴が空いたので明日までに埋めてくれ、というキツイ注文があった。
そこで、かねてから疑問に思っていた孟宗竹の伝播について図書館で資料を引っ張り出して我田引水的にまとめたのが、この文である。
なにしろ学際的であり、歴史学・民俗学・建築史学・植物学などがからみあっており、全く的外れな推論かも知れない。学会誌など専門誌に目を通す時間がなかったので断定的なことは言えないが、このことについて論及したのは他になかった。
ただ、気がかりな事が二つある。
一つは岩下「町」の例を引用したが、同様に焼失した大町や仁田子の「在」には竹屋根が殆どないことである。報告書の作成にあたって何らかの思惑が働いたのであろうか。それとも、このことについては確か火災防止のため「町」での藁屋根葺きの禁令が出ていた記憶があるが、調べる暇がなかった。
二つには竹屋根について唯一述べてある「滅び行く民家」(川島宙水)の記述である。
これには「(竹屋根は)九州の熊本・大分・宮崎などの諸県と京都府の山城地方に多く見られる」とある。
これから見ると、甲佐の例を全国に広げて論じる事には無理があるような気もする。
しかしこの「滅び行く民家」は昭和になってからの観察であり、幕末から明治初期にかけて他の地方に竹屋根がなかったとの証拠にはならない。(例えばマイカー時代が到来するちょっと前にどこの家にもオートバイがあった。どこかの地方で今もオートバイが使われていたとしても、他の地方では最初から自家用車が使われておりオートバイの時代はなかったとの証拠にはならない)
以上、孟宗竹が全国に急速に植栽された理由について述べたが、これは私のモーソーで全く別の理由があったかも知れない。そこは素人の気安さである。ご訂正をお願いしたい。
民俗誌6-3
天保十三年 マイホーム新築事情
(これは一級建築士の佐村智幸氏との共著である)
天保十一年というから、明治維新まで三十年ばかり前の話である。
糸田村の本郷平九郎は自宅を新築しようと思い立った。それも建坪六十七坪の居蔵仕様の母屋を、である。
それから百六十五年、平成十七年になって、御当主の本郷道子さんは佐村一級建築事務所に全面改築を依頼された。その改築の際出てきたのが四十七枚からなる「天保十三年辛丑三月居蔵建築日記帳」である。
(写真1 :居蔵建築日記帳)
「民家の普請帳はたいへん珍しく、資料として貴重である(文化庁)」(「永富家住宅普請帳」鹿島研究所出版会)が、佐村は古文書が読めず、中嶋は図面や建築用語がわからない。
以下は二人で分析した、ハウスメーカーもホームセンターもない頃の建築事情である。
居蔵
ある年配以上の方々にとって「居蔵(いぐら)」は日常語として普通に使われている。しかしこれは方言であり、「居蔵とはどんな家か」と問われると考え込んでしまう。
居蔵
・ 方言(山口県・熊本県上益城郡) かわら屋根の家 (小学館「日本国語大辞典」)
・瓦葺きの家 (注)飯倉か (松野国策「肥後方言調査草稿」)
・瓦葺き土壁漆喰塗りの家 (高本隆綱「阿蘇湯浦平成風土記」)
とあるが「蔵仕様の母屋」と考えるのが一般的であろう。というのは
・肥後では細川氏入国の四年目の寛永十三年(一六三六)七月に、百姓は三間梁(はり)以上の家や座敷の長押(なげし)と縁付(へりつき)の畳などを禁止しているが、火の用心のために瓦葺きは許した。しかし
・文政二年(一八一九)在中瓦葺きは宿町・在町のほか農家は叶い難し。蔵と鍛冶屋は別段。(「在」とは府中(熊本以外)の町や村)
・文政三年一月 在中にて農家の瓦葺きを許さず。只、土蔵は例外。
として百姓が瓦葺きの母屋に住むことを禁止している。
その中にあって本郷家は苗字御免の在御家人(寸志侍)であり、「村人離れ」しているので近所近在にもない居蔵を建てたと思われる。なお、現在でも本郷家は通称(屋号)「居蔵」と呼ばれている。
(写真1: 本郷家の写真)
(図1 : 平面図)
このことがいかに際立っていたかは、これより六十五年前の宝暦五年(一七七五)に八丁村で五軒の母屋が台風で倒されたが、「貫屋(ぬきや)」(床(ゆか)のある家)が二軒、「掘立家」(床のない家)が三軒であったことからもわかる。しかも建坪六十七坪は、下女や名子がいた庄屋でも二十坪に満たない程度であり、際立って大きい。
湯殿
もう一つ、今では死語になっている「湯殿」という言葉が数ヶ所に出てくる。例えば
一 銭十四匁 但し湯殿土台居方 勘助
これは湯殿の基礎工事をした左官の勘助に十四匁の日雇賃を支払った記録である。
・湯殿 方言 便所(徳島県祖谷・熊本県玉名郡) 大便所((広島県高田郡)
(日本国語大辞典)
甲佐でも「湯殿」は昭和初期まで「便所」を意味していた。
それにしても、何故トイレをバスルームと呼んでいたのであろうか。
江戸時代は母屋とは別の場所に、厠と風呂を同じ棟で建てていた
(図2: 湯殿の平面図)
案ずるに、今でも「お手洗いに行く」はトイレに行く事を意味している。と同様に当時は「湯殿に行く」は婉曲的に厠に行く事を意味していたのではないか。それが近代になり、便所だけが母屋に造られるようになっても「湯殿に行く」は便所に行くことであり、湯殿が便所を指す言葉として残ったと思われる。
材木の手配
家を建てるには材木を買わねばならない。建材店や材木屋があるはずもないから、前年の七月に四堂崎の清作を上野村(七滝)に材木の見繕いにやっている。この賃銭は三匁であるから一日の日程であろう。
そして木倉手永の東上野村、大平村、七滝村から杉を九十四本、同じく粒麦(つづむぎ)から松を百本余、雑木を五十本余買い、代金として八百八十目(匁)を支払っている。これらは構造材(柱や梁)に用いられたと思われる。
材木は八月六日より十一日まで延べ五十人を雇って切り倒し、一人当たり賄い付きで四匁を支払っている。これらの村々はいずれも御船川沿いにあり、水運を利用して下すために延べ百四十五人を一人四匁で雇って川下しをし、横野では水揚人夫九人を一人四匁で雇って揚げている。
また、杉丸太百二十四本を山床より横野まで夫役を延べ百四十五人雇い五百八十目の請銭を払って運んでいる。これは九寸角の三間物(二階までの通し柱用)や二間物(柱間の胴差し・平屋の柱用)であり、五寸角で三百十本とれる材木であるので、構造材である。ヒノキは使われていない。
なお、この頃の物価は
大工賃金 一日 三、五匁 ~ 四匁
日雇い 三匁
材木出し 四匁
木挽き 四、五匁
酒 一升 一、三匁 ~ 一、六匁
米 一俵 四十匁程度
である。
ここで出てくる貨幣は銀貨(藩札)である。なお、一〇〇〇匁=一貫目 一匁=十分(ふん:金貨の単位の分(ぶ)ではない) 匁は10単位のときは慣習的に目を使う(例19匁 20目 21匁)。なお肥後では一匁は銭(銅貨)七十文との交換レート(公式)であり、この年は金貨との交換レートは金一両=銀六十匁であった。
なお、賃金や職種別の比率は時代や場所によって異なってくる。原田聡明・北野隆「文政
五年大工木挽星帳について」によれば、この頃の球磨での一日当たりの賃金は、大工、左官共に二匁五分、木挽が一匁六分である(日本建築学会九州支部研究報告第四七号)
勿論、材木はこれだけでは足らないから、諸所より買い入れている。
杉 下鶴82本 田代1本(30目) 小鹿77本 安平 34本
杉丸太60本(垂木)小鹿村 34本 安平村
せんだん 下糸田3本 北早川村6本 糸田村2本 麻生原村2本(80目)
太左衛門より(80目)
センダンはケヤキと見分けがつかない木目をしていて安価なのでケヤキの代わりに使う。また、水に強いので腰板にも用いた。
こうかん 寒野村1本
榎 4本 3人より(百二十目)
樫丸太 2本 寒野村
樫は強くて磨り減らないので、上がり框(かまち)や戸口の敷居に用いる
松 1本5尺廻(32匁) 田代より1本(27匁)
杣取 六十人 木挽 順助 この請負銭 二百七十目 但し一日につき 四匁五分
木挽きと杣取り(そまどり)
材木はワく(方言:材木をのこぎりで挽いて製材する)必要がある。これが大仕事で「木挽きが終れば四分の出来」といわれた。
杣取り(そまどり) この頃は製材で板にする事が出来ないので、木を二つにワき、内面だけ平にして表皮の面はそのままにしておく。根元が根太く先が薄い木材が二本できる。一面だけが平面になるので垂木などに用いる。垂木は平面の方を下にする。上を向いた方に凹凸があるが赤土を乗せて平らにし、その上に瓦を載せる。
(写真2:天井裏の構造材)
一 杉角 百五十二本六合四勺 角六分 この銭 九十一匁五分一厘
一 材木わき方 この請負銭 四百九十七匁二分四厘
材木としてではなく木挽き人が梅木村や横野村、山口などの現地で製品にして運び入れたのもある。
杉五寸角 十一本 二間もの(柱材) 同七本 一丈二尺
平物一丁(七匁五分) 平物十六丁(百四十八匁) 梁二十三本(二十七匁)、
貫(ぬき)三十丁(三十七匁五分)
四分板五坪(三十一匁) 四分板二坪(六匁四分) 材木平物二十八丁(請賃四十五匁) 梁大小打込三十七本(百四十二匁) 四寸貫二十丁(二十一匁) 四寸貫十丁(十一匁) 五寸敷二口(五匁) 四寸敷一口(二匁) 縁板十間分(九十匁) 二寸小割十本(五匁)
玄関戸板二枚 二坪(二十五匁五分)
四分板(三坪三合)
これは縁(えん)の上の土板用。縁には天井板は張らないので見栄えが良いように化粧野地板を張る。天井板のある部屋は竹で編み土をのせるので土板は使わない。
雨戸十二枚(二百三十四匁) 下早川
材木以外の建築用品
大竹二本 五匁 寒野より
これは途方もない値段で、特殊用途(例えば二つに割って節を取り、水を満たしてレベル用にする)に用いたのではないか。天保三年「銭塘手永弐町村潮塘石垣損所御普請出来目録」(永青文庫)によれば五寸竹十本で四匁である。
小竹四十杷(五十二匁五分) 川尻より 八寸竹九十四本(百十七匁五分)
竹百二十五本 辛竹二束 苦竹九束(二十七匁)
縄二十四束(三十一匁二分)
竹は編んでから土板がわりに乗せた。また、エツリカキ(竹を編んで土壁の素地とする)にも用いた。
・金釘代銭 一貫三百目 釘代 五十匁
この頃は釘の確保が大変であった。鍛冶屋に頼むのであるが「釘がなあ」というのが施主のぼやきであった。
・瓦 一万千百枚 一枚につき三分二厘 この代三貫七百七十目
一枚三分二厘は平瓦の値段であろう。鬼瓦は米一俵と言われていた。大工一日の賃金で平瓦一枚の価格(現在は土瓦を三十枚程度買える)
・土台石 八十二間分 六百四十六匁
六寸に八寸角、長さ五間のヒャー石(灰石:凝灰岩)であり、緑川の上流で切り出して四百匁を支払い、川下しに二百四十六匁を支払っている。
双盤石(そうばん石) 四ツ この代 四十匁
玄関の柱の土台石で特殊な装飾が施されている。
大工小屋入り
明けて天保十二年の正月十二日に大工小屋掛けをし、小屋入りをしている。
この頃は毎年正月十二日が仕事始めにあたった。本郷家から五人、加勢人を含めて総勢二十人で大工小屋掛けをしている。
棟梁は間棹(けんざお・長さを測る物差し)を作り、大工は「研ぎ水入れ」(鉋などを研ぐ際の水入れ)を作って明日からの仕事に備える。
小屋入りは施主が普請関係者を招待して、工事の安全と完成を祈願してお神酒あげするものである。費用は施主が負担する。
招待されたのは棟梁の政平ほか大工十名と木挽など四名。ほかに近隣の嘉七ほか三十名が招待されている。苗字のあるのは市下儀太郎、佐藤勝之助、佐藤喜兵衛の三名で、本郷家と同じ在御家人であり、祝儀の額からして縁家と思われる。
施主側を含めると七十人余の祝宴となった。総費用は百五十目八分三厘で、その内訳は
酒 四斗八升 代 八十目
肴品々 代 四十目八分三厘
飯米など 代 三十目
となっている。
肴代四十目に対して酒代八十目は不釣合いで、現在では酒代は肴代の三分の一程度であろう。これは自家製の肴を出したためか、酒の価格が高いこともあろうが、一人平均七合の酒を飲んでおり、当時の百姓の暮らしの反映であろう。
酒は一升が一匁七分にあたり、大工の日当の半日分になる。酒は同村の緒方家からの購入である。揚酒(酒の小売)は在(村)では通常認められなかったが、在御家人で代々庄屋であった緒方家が本手(免許)を受けている。
小屋入りに先立ち居屋敷祓い(地鎮祭)に神主を呼び、供え物代を含めて五十六匁五分を支払っている。
土搗き
三月六日、七日の両日に地元の「惣若衆」を勢子に雇って土搗きをした。
音頭取も四人雇い、礼銭を四十七匁支払っている。土搗き音頭は音頭取が勢子と掛け合いながら謡う労作民謡である。
平助(二十目) 藤七(十五匁)とあり、後の二名は下田口村(七匁) 上田口村(五匁)とあり名を記していない。二十目の平助は「音頭の司」であろう。礼銭としているので日雇として雇っているのではない。
棟上げ
五月十日に棟上げをしている。棟上にかかった費用は一切で四百五十目である。
主賓が庄屋など八人、大工が棟梁の政平ほか九人、木挽が二人、一般客が六十人であった。
呼ばれた者は樽代として二匁から一匁を包むか、酒を一升持参している。
「素手ぶり」の招待客もあるが、これらはこれまでに、例えば親戚は「酒五升に赤飯三升」、「酒二斗に煮しめ、酒粕、縄五束」などを差し入れ、近隣の者は縄一束を持って加勢をしている。
棟上の儀式は
・打手小槌 ・鏡三重 ・白米三升三合 ・赤紙三枚 ・青紙三枚 ・鰹一節 ・扇三本
・水引十二把 ・二百状紙二帖など用いており、餅三百三十を撒いている。
酒九斗(百八十目)、肴(五十五匁)、飯米などに五十目を支払い
祝儀として棟梁に二十目、大工はその段格に従って十五匁二人、七匁五分七人、五匁二人、木挽き二人には十匁をやっている。
内普請
この頃の内普請は非常に簡単で、しかも新築の時一度にするというものでもなく、例えば近々祝儀があるから襖や障子を調える、というような具合であった。
・床(とこ)の間
床板 檜六合(二十目)正椀板(書院板?)一板 ケヤキ 幅一尺五寸(六十目)
床かまち 長さ一丈一本(十二匁)
檜木板 一坪半(五十目) 釘(十匁)
長押、床、障子の取り付けに大工百五十人を要し七百五十目を支払い、玄関作りには材木代三十目を支払い、六人の大工に三十目を支払っている。
是まで合二十貫目
これまで二十貫目を支払っている。
この中には瓦葺きの左官代(一日五匁)を含めて左官賃百二十四匁、これまでの加勢人や大工や左官の酒肴代三貫目が含まれている。(「向こう飯」といって施主が出すのが通例であった)
この二十貫目は現在ではいくら位の価値であろうか。これがなかなかむつかしい。米一俵が四十目であるから米五百俵となり、六百五十万円となる。
また、大工の賃金に換算すると五千七百日分にあたり、それは現在の大工の賃金に換算すると八千六百万円になる。
別に「加勢人千人余」、 「米五十俵、一俵四十匁、この代二貫目」とあるから加勢人と米は別建てであろう。加勢人の所には今後普請の際に人手を出さなければならないし、米は自家の貯えを充てたと思われる。(別に粮米買足しとして十俵(四百十目)を支払っている)
外に
・ 縁(えん)板十間分(百十目) 玄関戸板四枚(百二十五匁)
六分板四間(二十四匁) 八分板十間(百十目) 御船町
六分板と八分板は床(ゆか)板用
・ 釘大小(三十目) 釘千本(五〇匁) 縁(えん)張釘(五十目方)
長押釘三百六十本(三十二匁五分)
また、湯殿、縁、長押には棟梁の政平はじめ延べ百五十五人を雇い四百六十五匁を支払っている。
これらの普請には、せんだん一本、榎一本、杉一本などを用い代金九十六匁を支払っている。
この内の二本は幾右衛門方の木であり、仲介した内蔵助に内払いしたが幾右衛門が別の所に売ってしまったために、面倒な事になった。
民俗誌6-4
伝統漁法
民俗誌6-4
伝統漁法
たかぼうきエビ
ムッカラ帽子に8000円の釣り竿で鮎を釣っていると、向こう岸からポケットのいっぱいついたベストに身をかため、チロルハットを被った優男がカーボンの10m竿を片手で出してくる。
こちらは気後れして、あれは20万円はするな、昔はこうじゃなかったと、ぼやきながら引き下がらざるを得ない。そう、一昔前は漁具さえ使わないで鮎を捕っていた。
笹濁りの後に両手のてのひらを逆八の字に拡げ浅い川底をこするようにして押していくと、鮎がボスボスと掌に入ってくるのを手掴みにする。「ておし」というこの漁法は女、子どもでも容易にできた。
この「さぐり」という技法は先ず幼年の頃の「ゴ-リン」から始まる。鮴(ごり)は早瀬の石の下にいくらでもいたが小さくてすばしこくぬめりがあって捕るのに難渋した。
先年乙女橋の橋桁の修理の際、「ゲジキ」を入れたら絶滅したはずの鮴がたくさん捕れた。甘露煮にしたら寒バエの比ではない。金沢のゴリ料理が名物のはずである。
昔の味を思い出して食べてみたが不味かったのはサエビである。昔は「井手落とし」の夜など、こいつがゾロゾロ上がってきて「上りウケ」に入った。それをやきダゴに入れたり、生干しの大根と一緒に煮染めにすると滅法うまかった。
このサエビが鯛の餌として、今や釣具店で100g1000円である。あまりにも阿呆らしくどこかにいないかと探したら糸田堰にいた。これをショウケで掬い。明日の天草での大漁を夢見ながら持って帰ったら、家族が「明日の鯛より今日のサエビ」と言って天麩羅にしてしまった。パサパサしており、おまけにヒゲがのどをこすぐり少しもうまくない。サエビが旨いというのは、昔いかに不味いものを食っていただけの咄である。
しかしダグマエビは美味しい。今は田口橋付近でガネテボに時々入ることがあるが、以前は捨て石に掃いて捨てるほどいて、ギッチンタビで容易に捕れた。
掃いて捨てるといえば、夕暮れ時、タカボーキで捨て石を2,3回掻き回すと運の悪いダグマやギッチンがヒゲをからませてあがってくるので、それを夕飯のシャーにしたという法螺話もある。
のこぎりなまず
豊饒だったのは川だけではない。井手にも魚がうようよいて、すべて食欲の対象であった。
田植えの水取りの晩はアガンナマズや鮒が水田に入ってくる。その上がり鯰をホーボリやヨギリにいき、松明で照らしながら泥だらけになって追いかけ、錆びて使えなくなった鋸で切り殺すのである。まるで夜盗である。膾になった鯰にとっては「ひょうたんなまず」同様、不条理な話である。
秋になり「井手落とし」の翌日は総出でクリホシをする。井手を仕切りバケツで干し上げると鯰、ハエ、泥鰌、時には鮎などが1人あたりショウケ一杯ほども捕れた。これらは竹串に刺して干しあげ、ムッカラ(麦わら)ツトに刺して吊して「ハザシ」にしておき正月の雑煮のダシになった。
どうしても石垣の穴から出てこないしぶとい魚には、最後の手段として石灰を水で溶いて流し込むと鰻や鯰やアナドグラがのたうちまわって出てくる。
冬には竹や木や藁を沈めてヌクメをつくり、集まった魚をクリホシをして捕った。この漁法は稚魚まで捕ってしまうので、ゴリヒキ同様現在では御法度である。
ちきりあゆ
ゴリヒキは数一〇mの荒縄に石と藁を交互につけ川が浅くて淀んでいる場所を両端を地引き網のように引く。驚いた小魚はあらかじめ沈めてあった帷子や蚊帳の中に逃げ込む。それを引き上げて捕るのであるが、部落総出の夏の日のレクレーションであった。ゴリやシビンタ、ハエゴ、それに縞ドジョウがよく捕れた。川下では貝殻を付けて引いたのでカラカラと呼ばれている。
最後にチキリで鮎を捕る話を一つ。
闇夜にチキリを引いて河原を歩くと、その音が巡査さんのサーベルの音に似ているそうである。密魚者はあわてて対岸に逃げ、智恵者は魚籠とその中の鮎を手中に治めることができるという。
これは官名詐称並びに威力業務妨害及び占有離脱物横領の罪であるが、何とものどかな時代の話である。
西鶴は既に300年前に「本朝二十不幸」で「(孟宗は年老いた母に食べさせようと雪中に筍を探し、姜詩は老母のために苦労して鯉魚を捕ったが、今は)雪中の筍は八百屋にあり鯉魚は魚屋にあり」と「本朝二十不幸」で揶揄しているが、わが甲佐では、鰻を食べたければ先ず裏山に行って竹を切ることから始めなければならない生活が、戦後まで続いていたのである。
民俗誌6-1
民話「おとぼなまず」の背景
あらすじ
①むかし山出に美しい年頃の娘がいた。
②そこへ夜な夜な通ってくる上品な若者がいた。
③その若者はぬめるような肌をしており、去った後生臭いにおいが漂った。
④これはただ者ではないと感じた家人はその正体を暴くべく入口に灰をまいておいた。
⑤その足跡を調べたら何かが這って蛇行したような跡が続いていた。
⑥そこで針を灰の中に立てておいた
⑦翌朝、血が流れてのたうったような跡があり、それを辿って行くと緑川対岸の五色山の麓の池につき、そこにオトボ鯰が死んでいた。
⑧祟りを恐れた山出の村人は幟をたて鉦太鼓をならして緑川を渡り、供養した
⑨以後毎年七月、幟をたて鉦太鼓をならして緑川を渡り供養した。また、山出の村人は以後鯰を食べない。
為朝伝説
この「おとぼなまず」の話は、甲佐に伝わる通常の民話(例えばウサヒコさんの笑い話や飯田山の地名説話など)と違い、何かいわくありげでおどろおどろしており、古来多くの人の関心を引いてきた。
例えば江戸時代の初期、早川に住んでいた早川神社の神職渡辺玄察は次のように考察している。
昔、山出大武明神社の上にある白旗山には鎮西八郎為朝が在城していた。後に為朝は都に召されて再び帰って来なかった。留守居を守っていた御内室(奥方)は「悲嘆止むことなく、昔を偲びつつ遂に詮方なく渕に身を沈め給う」として、その渕を往時の緑川筋のヒナイ神付近に比定している。そして「山出城下の者共はいたわしく思い、その七月彼の渕に至り鉦太鼓を鳴らして念仏踊りをなし、源氏の白旗とて白布を竿頭につるし笹踊りをなして亡霊を弔慰せり。その後、例となり盆毎に山出村よりヒナイ神に詣で踊りをなすにあらずや」としている
この考察は
①江戸時代初期には既に辺場・古閑・八丁・山出の村人が緑川対岸のヒナイ神付近で念仏踊り(鎌倉時代、一遍上人らによって始められた踊り、念仏を唱え鉦・太鼓を打ち鳴らし踊る)をしていた。
②為朝伝説と笹踊り(神事舞の一つで笹を手に持って踊る)とを結びつけて推察している。
③ナマズが出てこない
このように、民話「おとぼなまず」は為朝伝説を背景にしているのであろうか。
それを考察する前に、今では聞きなれない曰くありげな「オトボ」とは何だろうか、また「ヒナイ」とは何だろうか。
おとぼ
甲佐だけではないが一般に語尾の「ウ」は省略される傾向にある。例えば「牛蒡(ごぼう)」をゴボ、「吝嗇坊(けちんぼう)」をケチンボという類である。オトボとはオトボウであることに異論はなかろう。
そうすると、山がオト女山であり池がオト坊であって一対をなしており、緑川を夜な夜な渡って山出にきたのは対岸の男であるという話になるが、これには難点がある。
それはオトボウの伝説は全国に散らばっているからである。
①前橋市の清水川にはオトボウナマズという主が住んでおり、「オトボウ、オトボウ」と言いながら釣り人を追いかけてくるという。
②オトボウ池 群馬県天川大島町のオトボウ池は野中清水といって清水が湧いていた池であった。この池には大きな鯰がいた。ある人が鯰を捕ってザマの中に入れてきたら、その鯰が「オトボウ、オトボウ」と呼んだという。その人はあとで病気になった。
③おとぼ沼 昔、群馬県西片貝町に「おとぼ」と呼ぶ越後の毒消し売りが、この沼に生き埋めにされたという。沼の渕で「おとぼやーい」と呼ぶと、かすかに「おーい」と答えるといわれている。
④ 静岡県の天竜川上流の水窪町に「オトボウ渕」というのがあるが、その由来は「ある金持男が、渕の縁に住んでいた親交のある男に、タブーとされている蓼(たで)汁を飲ませたら、男はもがきながら渕へ転がり落ちてしまった。今まで人間の姿をしていた男は赤い腹をした魚になって、しきりに「おとぼう、おとぼう」と連呼しながら川を流さて行った。
⑤ 熊本県甲佐町坂谷の人がウナギを獲って夜道を帰っていると谷川の渕から「オトボウ、ぬしは何処へ行きよっとかい」と声がした。するとカゴのうなぎが「おれは今夜切り刻まれて殺されるたい」と答えた。それを聞いた坂谷の人は怖くなってウナギを渕に投げ捨てて逃げかえった。
以上、五例をあげたが共通することは
①オトボウは川や沼と関係している。
②おどろおどろしている話である。
それにしてもオトボウとは何であろうか。
柳田國男は「物言う魚」で
岡山県吉野村の釣った鯰が物を言う「まつぼう渕」の例を挙げ「魚には○○坊」という子どもみたいな名を持つ者もあった」と述べている。
上記④の静岡県の天竜川上流の水窪町あたりでは「オトボウ」というのは「父」という事であり、死にかけに父の名を呼んだのではないか(「民族」三巻五号 早川幸太郎)と記している。
「オト(乙)」は古語でオトゴ(末子)の意味があり、実際「阿蘇湯浦平成風土記」(高本高綱)によると「オトゴ 最後に生まれた子・末子」として、現在も使われている。
また、「肥後の昔話」には矢部の川内に伝わる民話として上記⑤(坂谷)に類似した話があり「川底から『おおい、どけ行きよっとかー』って、おめきよる。うなぎの名前を言って」とある。この話にはオトボウという言葉は出ていないが「うなぎの名前」とは坂谷の話に出てくるオトボウという事であろう。
以上の事から考えて、オトボは乙女とは関係なく人格を持った鯰につけられた名前という事になろう。
ヒナイ
つぎにヒナイ神である。これも字義不詳であるが、ヒナイはヒナ・イであろう。ヒナはひなた(日向)の意で用いられ、日向田・日南・朝比奈などと表記される。
イは中世では井手(用水)の意に用いられる事が多い。
上益城郡誌によるとヒナイ神を「船井神」としている。
フナイは一般にはフナ・イであろう。フナは船の形をしている意で、船山・船窪などと用いる。
前記「拾集昔語」には「ヒナイ神という故事は「ヒナ人のカミ池」と言えるにはあらずや」としている。鄙(ヒナ・いなか)人が崇拝する神がおわします池という意味であろうか。しかしこれは当たらない。都からみれば鄙人かもしれないが、村人が自ら自分を鄙人として、その神を鄙人神というはずがない。
いつごろの話か
この民話は「肥後の民話と伝説」(熊本史談会)・「肥後の伝説」(牛島盛光)・「熊本の昔話」(大塚正文)や「甲佐の民話」(甲佐町教育委員会)などに掲載されているが、大事な事を書き落としている。
それは冒頭のあらすじの③④⑤⑥の部分の欠落である。
つまり、地元に伝えられている古い話では「妖怪と思われた」から殺されたのであって、「娘の所に夜な夜な通ってくる」から殺されたのではない。
手懸りはそこにある。
というのは、この話は「婿入り婚」が容認されていた時代の話である。古代は夫が妻の家に通うのが一般的であり、妻が夫の家に嫁入りする「嫁入り婚」が普通になったのは室町時代からである。そうすると移行期も含めてこの話は平安から室町時代の頃の話ということになるのではないか。
もうひとつ手掛かりがある。それは何故わざわざ対岸まで出かけたかという事である。
背景に田口荘と公領山出村との争いが
田口と山出のかかわりをみると
平安時代の康治二年(一一四三)四月三日、田口新太夫行季は一族郎党とともに山出に押しかけ、米稲・大豆・塩・麦・胡麻などの食料を奪い、女六人を掠め取り、役人二人を傷つけ家を焼き払った。(肥後国訴状)
この争いの背景には山出村は国衙の公領地ではあるが、砥川経盛が私領としての特権(税の徴収権・納入の免除)を持っていた。砥川経盛はその山出村を在庁官人の権介季宗に売ったが、経盛の甥の田口新太夫行季はこれを認めために起きた事件である。
当時、古閑・八丁・芝原・吉田の村々はまだなく、山出は豊かな後背地を持つ物資の集散地であったと思われる。
対岸の田口は、かつての大宰府天満宮安楽寺領の荘園であり、それを背景にした田口氏が勢力を持っていた。
「オトボなまず」は、この両氏の抗争や和解を背景に、阿蘇氏の勢力拡大に伴うその眷属である鯰がからんだ話ではなかろうか。
民俗誌6-2
なぜ孟宗竹は短期間に全国に植栽されたか
二百年で全国に
孟宗竹はもともとわが国に自生しておらず、寛文元年(一六六一年)に隠元禅師が中国から持ち帰り京都長岡京市の奥海印寺に移植したのが最初と言われている。
確実な記録としては元文元年)(一七三六)に中国から琉球を経て薩摩藩主に二株贈られたのが最初で、磯公園にその記念碑が建っている。
その後の伝播については、仙台へは宝暦明和(江戸中期)の頃に藩士の中目六左衛門が江州から株を持ち帰ったとか、金沢へは藩士の岡本右太夫が武蔵野から移植したとか、江戸へは海運業者の山路勝孝が移植したとかが文献に散見される。
いずれも株を分けて移植したという点に留意していただきたい。
それが幕末には全国的に分布するに至った。この間たった二百年である。これは異常なことである。例えば、杉は挿し芽で大量に増やせるしヒノキやマツは種子を蒔けばよい。ところが竹を殖やすには株分けをしたり地下茎を切り取って殖やすのが一般的である。
しかも竹は移植した株が成長して、いきなり竹林になるわけではない。
杉や松や檜は年々成長するが、竹は一年で成長が止まる。移植しても一年目は鉛筆位の竹が生えるばかりである。
二,三年目で七夕竹ぐらいの竹が地下茎の他の節から立ち上がり、その後段々と大きな竹が生えるようになり、立派な竹林となるのは十年もかかる。
竹は成長が早く繁殖力が旺盛ではあるしかし例えねずみ算的に株分けしても二百年で日本中に植栽されるには何か必然的な理由があったはずである。
それは何だったのか。
理由にならない
先ず考えられるのが食料としての筍であろう。
確かに孟宗竹のタケノコは商品作物としては優れている。しかし京大阪や江戸近郊ならとにかく、全国的に広まった理由にはならない。田舎には在来種のハチクやコサンチクなどもあり、飢饉にさいなまれている百姓がわざわざ食料として移植する必然性はない。
食用以外の利用としては工芸品があげられる。
竹はザル・カゴなどとして、生活用具や農具・漁具として広くつかわれてきた。樽用のタガや竹箒も必要不可欠な竹の利用であった。
しかしこれらには弾力性に富みしなやかなマダケが用いられた。茶道具にみられるような竹工芸品や和傘・団扇などに至っては需要が限られていて、とても孟宗竹が全国に移植される必然性はない。
「日本における竹林経営」(電子版)には、もう一つ「建築用」として竹の効用をあげている。
まず、建築用材として銘竹(例えば床の間の床柱に使う角竹)がある。これには孟宗竹が適しているが需要が極少である。土壁のエツリカキも考えられが、これはマタケやメダケでもよい。
「土木用」としても草堰や橋の資材として使われる事もあるが、これも孟宗竹でなければならない事はない。
以上、いずれも孟宗竹が急速に広まったであろう理由をあげ、その必然性を否定した。
それでは何故爆発的に全国的なブームとなって植栽されたであろうか。
私たちは江戸時代の中期から明治にかけて孟宗竹を必要とする、ある必然性を見落としていたのである。
その答えは意外なところにあった。
官軍から焼き討ちにされる
明治十年、薩軍に包囲された熊本城を救援するため、政府軍は八代に上陸し薩軍の背後を衝くために進軍して、堅志田に陣を構えた。
そして四月三日、政府軍は緑川を渡り甲佐町の集落に火を放ち一面を焼け野が原にした。特に岩下町と大町、仁田子は殆どの家が消失した。
西南戦争が終わり、焼き討ちにされた住民に対して(見舞金が支払われることになり、焼失家屋の調査が行われた。
その報告書により、私たちは当時の住宅事情を知ることができる。
そして明治初期の家並みは、私たちの持っているイメージと随分異なっている事に気づく。浮世絵や絵巻物に見られるような景観や大正時代に撮られた「古民家」の写真とも全く異なる。
資料一は中程度の家が焼失した例で、母屋の一部が二階建てになっている。母屋は建坪二十四坪あり、そのうち二階部分は瓦(かわら)瓦(かわら)屋根(やね)屋根(やね)で一階部分は藁(わら)藁(わら)屋根(やね)屋根(やね)になっている。下屋(げや)が九坪あるがその内の四坪半は竹屋根になっている。
また小屋一軒も焼失しているが、この小屋は竹屋根である。
資料二は平屋建て十五坪の母屋の例である。十一坪の藁屋根に八坪の下屋がついているが、この下屋は竹屋根である。
資料三は平屋建て十坪半の母屋の例である。本体も下屋も竹屋根で葺かれている。
小屋が一棟焼けているがこれも竹屋根である。
資料四は十八坪の貸家の例である。本体の十坪は藁屋根でそれに八坪の竹屋根の下屋が付いている。
以上四例はいずれも岩下町の例である。
岩下町は緑川流域にあり、江戸時代は「在町」(熊本や川尻などの町と違って在(田舎)にある町として特権や制約があたえられた)の一つとして栄えた。
さて、岩下町で焼失した家は百七十戸のうち判読可能な八十棟を集計したのが次の表一である。
母屋の本体で竹屋根は四棟にすぎない。
しかし母屋の下屋(げや)下屋(げや)となると竹葺き屋根だけで十四%、瓦との併用が十九%、あわせると三棟に一棟が竹屋根であることがわかる。
表二は小屋の屋根の状況である。藁屋根や瓦屋根よりも竹屋根が多く十棟に四棟の割合で竹屋根になっている。
これらの屋根は孟宗竹で葺かれるのが一般的である。
新建材としての孟宗竹
孟宗竹は真竹と比べると耐久性にやや劣るが剛直であり太いために総合すると優れた建材である。
これこそが孟宗竹が二百年で全国に広まった理由であろう。
中世や近世初頭にかけての家屋の絵を見れば解かることだが、「町」の家並みには下屋が葺かれていることもあるが「在」の百姓家には下屋は殆どない。板葺きや檜川葺きが高価であったためと思われる。
そこへ孟宗竹がわが国に持ち込まれた。
新建材として孟宗竹は安価で簡単に葺けるため生活空間が広がり快適なものになる。
これが孟宗竹が全国に急速に広まった理由であるというのが私の推論である。
(アルミサッシが使われるようになった頃を想起すればよい。アッという間にすべての家がアルミサッシの家になった)。
しかし現在では古民家の竹屋根は完全に無視されている。
資料五は単行本「古民家・屋根ものがたり」の目次であるが、茅(がや)茅(がや)屋根から始まって土屋根まで七種類の屋根の図版が出ているが竹屋根の項目はない。
古民家の調査報告や写真集にも竹屋根に関する記載はない。(一例だけあるがそれは後述する。)
何故であろうか。
理由は簡単である。建築物としての「民家」に関心が集まったのは昭和になってからであり、その頃になると竹屋根は瓦屋根に取って代わっていたからである。
表三は三種類の図書に載っている古民家の写真の分析である。大正から昭和にかけて竹屋根は完全に姿を消したことに気づく。
孟宗竹の屋根の耐用年数は七年位であり、経済力が向上するとともに竹の下屋は瓦の下屋に葺きかえられた。
この頃の百姓家は藁屋根に瓦の下屋が一般的な姿であり、これは戦後まで続く。
さて、三尺の下屋を竹屋根で葺くには、まず六尺に切った竹を二つに割って中の節を落とし、中を上に向けて並べる。竹は先が小さいので割った二つをペアにして互いに並べると平行になる。残った先をまた六尺に切り同様にして継ぎ目から雨水が入らないように伏せてかぶせる。
一間(けん)間(けん)に大竹で二十~二五本並べなければならないから、竹の太さにもよるが一間に必要な孟宗竹は十本~十三本位であろう。耐用年数は七年位であるが、竹林の孟宗竹は七年で更新しなければタケノコが立たなくなるのでこのサイクルとも一致する。
このような需要が孟宗竹を瞬く間に全国に広めた理由と考える。
終わりに
編集部から、四ページ分の穴が空いたので明日までに埋めてくれ、というキツイ注文があった。
そこで、かねてから疑問に思っていた孟宗竹の伝播について図書館で資料を引っ張り出して我田引水的にまとめたのが、この文である。
なにしろ学際的であり、歴史学・民俗学・建築史学・植物学などがからみあっており、全く的外れな推論かも知れない。学会誌など専門誌に目を通す時間がなかったので断定的なことは言えないが、このことについて論及したのは他になかった。
ただ、気がかりな事が二つある。
一つは岩下「町」の例を引用したが、同様に焼失した大町や仁田子の「在」には竹屋根が殆どないことである。報告書の作成にあたって何らかの思惑が働いたのであろうか。それとも、このことについては確か火災防止のため「町」での藁屋根葺きの禁令が出ていた記憶があるが、調べる暇がなかった。
二つには竹屋根について唯一述べてある「滅び行く民家」(川島宙水)の記述である。
これには「(竹屋根は)九州の熊本・大分・宮崎などの諸県と京都府の山城地方に多く見られる」とある。
これから見ると、甲佐の例を全国に広げて論じる事には無理があるような気もする。
しかしこの「滅び行く民家」は昭和になってからの観察であり、幕末から明治初期にかけて他の地方に竹屋根がなかったとの証拠にはならない。(例えばマイカー時代が到来するちょっと前にどこの家にもオートバイがあった。どこかの地方で今もオートバイが使われていたとしても、他の地方では最初から自家用車が使われておりオートバイの時代はなかったとの証拠にはならない)
以上、孟宗竹が全国に急速に植栽された理由について述べたが、これは私のモーソーで全く別の理由があったかも知れない。そこは素人の気安さである。ご訂正をお願いしたい。
民俗誌6-3
天保十三年 マイホーム新築事情
(これは一級建築士の佐村智幸氏との共著である)
天保十一年というから、明治維新まで三十年ばかり前の話である。
糸田村の本郷平九郎は自宅を新築しようと思い立った。それも建坪六十七坪の居蔵仕様の母屋を、である。
それから百六十五年、平成十七年になって、御当主の本郷道子さんは佐村一級建築事務所に全面改築を依頼された。その改築の際出てきたのが四十七枚からなる「天保十三年辛丑三月居蔵建築日記帳」である。
(写真1 :居蔵建築日記帳)
「民家の普請帳はたいへん珍しく、資料として貴重である(文化庁)」(「永富家住宅普請帳」鹿島研究所出版会)が、佐村は古文書が読めず、中嶋は図面や建築用語がわからない。
以下は二人で分析した、ハウスメーカーもホームセンターもない頃の建築事情である。
居蔵
ある年配以上の方々にとって「居蔵(いぐら)」は日常語として普通に使われている。しかしこれは方言であり、「居蔵とはどんな家か」と問われると考え込んでしまう。
居蔵
・ 方言(山口県・熊本県上益城郡) かわら屋根の家 (小学館「日本国語大辞典」)
・瓦葺きの家 (注)飯倉か (松野国策「肥後方言調査草稿」)
・瓦葺き土壁漆喰塗りの家 (高本隆綱「阿蘇湯浦平成風土記」)
とあるが「蔵仕様の母屋」と考えるのが一般的であろう。というのは
・肥後では細川氏入国の四年目の寛永十三年(一六三六)七月に、百姓は三間梁(はり)以上の家や座敷の長押(なげし)と縁付(へりつき)の畳などを禁止しているが、火の用心のために瓦葺きは許した。しかし
・文政二年(一八一九)在中瓦葺きは宿町・在町のほか農家は叶い難し。蔵と鍛冶屋は別段。(「在」とは府中(熊本以外)の町や村)
・文政三年一月 在中にて農家の瓦葺きを許さず。只、土蔵は例外。
として百姓が瓦葺きの母屋に住むことを禁止している。
その中にあって本郷家は苗字御免の在御家人(寸志侍)であり、「村人離れ」しているので近所近在にもない居蔵を建てたと思われる。なお、現在でも本郷家は通称(屋号)「居蔵」と呼ばれている。
(写真1: 本郷家の写真)
(図1 : 平面図)
このことがいかに際立っていたかは、これより六十五年前の宝暦五年(一七七五)に八丁村で五軒の母屋が台風で倒されたが、「貫屋(ぬきや)」(床(ゆか)のある家)が二軒、「掘立家」(床のない家)が三軒であったことからもわかる。しかも建坪六十七坪は、下女や名子がいた庄屋でも二十坪に満たない程度であり、際立って大きい。
湯殿
もう一つ、今では死語になっている「湯殿」という言葉が数ヶ所に出てくる。例えば
一 銭十四匁 但し湯殿土台居方 勘助
これは湯殿の基礎工事をした左官の勘助に十四匁の日雇賃を支払った記録である。
・湯殿 方言 便所(徳島県祖谷・熊本県玉名郡) 大便所((広島県高田郡)
(日本国語大辞典)
甲佐でも「湯殿」は昭和初期まで「便所」を意味していた。
それにしても、何故トイレをバスルームと呼んでいたのであろうか。
江戸時代は母屋とは別の場所に、厠と風呂を同じ棟で建てていた
(図2: 湯殿の平面図)
案ずるに、今でも「お手洗いに行く」はトイレに行く事を意味している。と同様に当時は「湯殿に行く」は婉曲的に厠に行く事を意味していたのではないか。それが近代になり、便所だけが母屋に造られるようになっても「湯殿に行く」は便所に行くことであり、湯殿が便所を指す言葉として残ったと思われる。
材木の手配
家を建てるには材木を買わねばならない。建材店や材木屋があるはずもないから、前年の七月に四堂崎の清作を上野村(七滝)に材木の見繕いにやっている。この賃銭は三匁であるから一日の日程であろう。
そして木倉手永の東上野村、大平村、七滝村から杉を九十四本、同じく粒麦(つづむぎ)から松を百本余、雑木を五十本余買い、代金として八百八十目(匁)を支払っている。これらは構造材(柱や梁)に用いられたと思われる。
材木は八月六日より十一日まで延べ五十人を雇って切り倒し、一人当たり賄い付きで四匁を支払っている。これらの村々はいずれも御船川沿いにあり、水運を利用して下すために延べ百四十五人を一人四匁で雇って川下しをし、横野では水揚人夫九人を一人四匁で雇って揚げている。
また、杉丸太百二十四本を山床より横野まで夫役を延べ百四十五人雇い五百八十目の請銭を払って運んでいる。これは九寸角の三間物(二階までの通し柱用)や二間物(柱間の胴差し・平屋の柱用)であり、五寸角で三百十本とれる材木であるので、構造材である。ヒノキは使われていない。
なお、この頃の物価は
大工賃金 一日 三、五匁 ~ 四匁
日雇い 三匁
材木出し 四匁
木挽き 四、五匁
酒 一升 一、三匁 ~ 一、六匁
米 一俵 四十匁程度
である。
ここで出てくる貨幣は銀貨(藩札)である。なお、一〇〇〇匁=一貫目 一匁=十分(ふん:金貨の単位の分(ぶ)ではない) 匁は10単位のときは慣習的に目を使う(例19匁 20目 21匁)。なお肥後では一匁は銭(銅貨)七十文との交換レート(公式)であり、この年は金貨との交換レートは金一両=銀六十匁であった。
なお、賃金や職種別の比率は時代や場所によって異なってくる。原田聡明・北野隆「文政
五年大工木挽星帳について」によれば、この頃の球磨での一日当たりの賃金は、大工、左官共に二匁五分、木挽が一匁六分である(日本建築学会九州支部研究報告第四七号)
勿論、材木はこれだけでは足らないから、諸所より買い入れている。
杉 下鶴82本 田代1本(30目) 小鹿77本 安平 34本
杉丸太60本(垂木)小鹿村 34本 安平村
せんだん 下糸田3本 北早川村6本 糸田村2本 麻生原村2本(80目)
太左衛門より(80目)
センダンはケヤキと見分けがつかない木目をしていて安価なのでケヤキの代わりに使う。また、水に強いので腰板にも用いた。
こうかん 寒野村1本
榎 4本 3人より(百二十目)
樫丸太 2本 寒野村
樫は強くて磨り減らないので、上がり框(かまち)や戸口の敷居に用いる
松 1本5尺廻(32匁) 田代より1本(27匁)
杣取 六十人 木挽 順助 この請負銭 二百七十目 但し一日につき 四匁五分
木挽きと杣取り(そまどり)
材木はワく(方言:材木をのこぎりで挽いて製材する)必要がある。これが大仕事で「木挽きが終れば四分の出来」といわれた。
杣取り(そまどり) この頃は製材で板にする事が出来ないので、木を二つにワき、内面だけ平にして表皮の面はそのままにしておく。根元が根太く先が薄い木材が二本できる。一面だけが平面になるので垂木などに用いる。垂木は平面の方を下にする。上を向いた方に凹凸があるが赤土を乗せて平らにし、その上に瓦を載せる。
(写真2:天井裏の構造材)
一 杉角 百五十二本六合四勺 角六分 この銭 九十一匁五分一厘
一 材木わき方 この請負銭 四百九十七匁二分四厘
材木としてではなく木挽き人が梅木村や横野村、山口などの現地で製品にして運び入れたのもある。
杉五寸角 十一本 二間もの(柱材) 同七本 一丈二尺
平物一丁(七匁五分) 平物十六丁(百四十八匁) 梁二十三本(二十七匁)、
貫(ぬき)三十丁(三十七匁五分)
四分板五坪(三十一匁) 四分板二坪(六匁四分) 材木平物二十八丁(請賃四十五匁) 梁大小打込三十七本(百四十二匁) 四寸貫二十丁(二十一匁) 四寸貫十丁(十一匁) 五寸敷二口(五匁) 四寸敷一口(二匁) 縁板十間分(九十匁) 二寸小割十本(五匁)
玄関戸板二枚 二坪(二十五匁五分)
四分板(三坪三合)
これは縁(えん)の上の土板用。縁には天井板は張らないので見栄えが良いように化粧野地板を張る。天井板のある部屋は竹で編み土をのせるので土板は使わない。
雨戸十二枚(二百三十四匁) 下早川
材木以外の建築用品
大竹二本 五匁 寒野より
これは途方もない値段で、特殊用途(例えば二つに割って節を取り、水を満たしてレベル用にする)に用いたのではないか。天保三年「銭塘手永弐町村潮塘石垣損所御普請出来目録」(永青文庫)によれば五寸竹十本で四匁である。
小竹四十杷(五十二匁五分) 川尻より 八寸竹九十四本(百十七匁五分)
竹百二十五本 辛竹二束 苦竹九束(二十七匁)
縄二十四束(三十一匁二分)
竹は編んでから土板がわりに乗せた。また、エツリカキ(竹を編んで土壁の素地とする)にも用いた。
・金釘代銭 一貫三百目 釘代 五十匁
この頃は釘の確保が大変であった。鍛冶屋に頼むのであるが「釘がなあ」というのが施主のぼやきであった。
・瓦 一万千百枚 一枚につき三分二厘 この代三貫七百七十目
一枚三分二厘は平瓦の値段であろう。鬼瓦は米一俵と言われていた。大工一日の賃金で平瓦一枚の価格(現在は土瓦を三十枚程度買える)
・土台石 八十二間分 六百四十六匁
六寸に八寸角、長さ五間のヒャー石(灰石:凝灰岩)であり、緑川の上流で切り出して四百匁を支払い、川下しに二百四十六匁を支払っている。
双盤石(そうばん石) 四ツ この代 四十匁
玄関の柱の土台石で特殊な装飾が施されている。
大工小屋入り
明けて天保十二年の正月十二日に大工小屋掛けをし、小屋入りをしている。
この頃は毎年正月十二日が仕事始めにあたった。本郷家から五人、加勢人を含めて総勢二十人で大工小屋掛けをしている。
棟梁は間棹(けんざお・長さを測る物差し)を作り、大工は「研ぎ水入れ」(鉋などを研ぐ際の水入れ)を作って明日からの仕事に備える。
小屋入りは施主が普請関係者を招待して、工事の安全と完成を祈願してお神酒あげするものである。費用は施主が負担する。
招待されたのは棟梁の政平ほか大工十名と木挽など四名。ほかに近隣の嘉七ほか三十名が招待されている。苗字のあるのは市下儀太郎、佐藤勝之助、佐藤喜兵衛の三名で、本郷家と同じ在御家人であり、祝儀の額からして縁家と思われる。
施主側を含めると七十人余の祝宴となった。総費用は百五十目八分三厘で、その内訳は
酒 四斗八升 代 八十目
肴品々 代 四十目八分三厘
飯米など 代 三十目
となっている。
肴代四十目に対して酒代八十目は不釣合いで、現在では酒代は肴代の三分の一程度であろう。これは自家製の肴を出したためか、酒の価格が高いこともあろうが、一人平均七合の酒を飲んでおり、当時の百姓の暮らしの反映であろう。
酒は一升が一匁七分にあたり、大工の日当の半日分になる。酒は同村の緒方家からの購入である。揚酒(酒の小売)は在(村)では通常認められなかったが、在御家人で代々庄屋であった緒方家が本手(免許)を受けている。
小屋入りに先立ち居屋敷祓い(地鎮祭)に神主を呼び、供え物代を含めて五十六匁五分を支払っている。
土搗き
三月六日、七日の両日に地元の「惣若衆」を勢子に雇って土搗きをした。
音頭取も四人雇い、礼銭を四十七匁支払っている。土搗き音頭は音頭取が勢子と掛け合いながら謡う労作民謡である。
平助(二十目) 藤七(十五匁)とあり、後の二名は下田口村(七匁) 上田口村(五匁)とあり名を記していない。二十目の平助は「音頭の司」であろう。礼銭としているので日雇として雇っているのではない。
棟上げ
五月十日に棟上げをしている。棟上にかかった費用は一切で四百五十目である。
主賓が庄屋など八人、大工が棟梁の政平ほか九人、木挽が二人、一般客が六十人であった。
呼ばれた者は樽代として二匁から一匁を包むか、酒を一升持参している。
「素手ぶり」の招待客もあるが、これらはこれまでに、例えば親戚は「酒五升に赤飯三升」、「酒二斗に煮しめ、酒粕、縄五束」などを差し入れ、近隣の者は縄一束を持って加勢をしている。
棟上の儀式は
・打手小槌 ・鏡三重 ・白米三升三合 ・赤紙三枚 ・青紙三枚 ・鰹一節 ・扇三本
・水引十二把 ・二百状紙二帖など用いており、餅三百三十を撒いている。
酒九斗(百八十目)、肴(五十五匁)、飯米などに五十目を支払い
祝儀として棟梁に二十目、大工はその段格に従って十五匁二人、七匁五分七人、五匁二人、木挽き二人には十匁をやっている。
内普請
この頃の内普請は非常に簡単で、しかも新築の時一度にするというものでもなく、例えば近々祝儀があるから襖や障子を調える、というような具合であった。
・床(とこ)の間
床板 檜六合(二十目)正椀板(書院板?)一板 ケヤキ 幅一尺五寸(六十目)
床かまち 長さ一丈一本(十二匁)
檜木板 一坪半(五十目) 釘(十匁)
長押、床、障子の取り付けに大工百五十人を要し七百五十目を支払い、玄関作りには材木代三十目を支払い、六人の大工に三十目を支払っている。
是まで合二十貫目
これまで二十貫目を支払っている。
この中には瓦葺きの左官代(一日五匁)を含めて左官賃百二十四匁、これまでの加勢人や大工や左官の酒肴代三貫目が含まれている。(「向こう飯」といって施主が出すのが通例であった)
この二十貫目は現在ではいくら位の価値であろうか。これがなかなかむつかしい。米一俵が四十目であるから米五百俵となり、六百五十万円となる。
また、大工の賃金に換算すると五千七百日分にあたり、それは現在の大工の賃金に換算すると八千六百万円になる。
別に「加勢人千人余」、 「米五十俵、一俵四十匁、この代二貫目」とあるから加勢人と米は別建てであろう。加勢人の所には今後普請の際に人手を出さなければならないし、米は自家の貯えを充てたと思われる。(別に粮米買足しとして十俵(四百十目)を支払っている)
外に
・ 縁(えん)板十間分(百十目) 玄関戸板四枚(百二十五匁)
六分板四間(二十四匁) 八分板十間(百十目) 御船町
六分板と八分板は床(ゆか)板用
・ 釘大小(三十目) 釘千本(五〇匁) 縁(えん)張釘(五十目方)
長押釘三百六十本(三十二匁五分)
また、湯殿、縁、長押には棟梁の政平はじめ延べ百五十五人を雇い四百六十五匁を支払っている。
これらの普請には、せんだん一本、榎一本、杉一本などを用い代金九十六匁を支払っている。
この内の二本は幾右衛門方の木であり、仲介した内蔵助に内払いしたが幾右衛門が別の所に売ってしまったために、面倒な事になった。
民俗誌6-4
伝統漁法
民俗誌6-4
伝統漁法
たかぼうきエビ
ムッカラ帽子に8000円の釣り竿で鮎を釣っていると、向こう岸からポケットのいっぱいついたベストに身をかため、チロルハットを被った優男がカーボンの10m竿を片手で出してくる。
こちらは気後れして、あれは20万円はするな、昔はこうじゃなかったと、ぼやきながら引き下がらざるを得ない。そう、一昔前は漁具さえ使わないで鮎を捕っていた。
笹濁りの後に両手のてのひらを逆八の字に拡げ浅い川底をこするようにして押していくと、鮎がボスボスと掌に入ってくるのを手掴みにする。「ておし」というこの漁法は女、子どもでも容易にできた。
この「さぐり」という技法は先ず幼年の頃の「ゴ-リン」から始まる。鮴(ごり)は早瀬の石の下にいくらでもいたが小さくてすばしこくぬめりがあって捕るのに難渋した。
先年乙女橋の橋桁の修理の際、「ゲジキ」を入れたら絶滅したはずの鮴がたくさん捕れた。甘露煮にしたら寒バエの比ではない。金沢のゴリ料理が名物のはずである。
昔の味を思い出して食べてみたが不味かったのはサエビである。昔は「井手落とし」の夜など、こいつがゾロゾロ上がってきて「上りウケ」に入った。それをやきダゴに入れたり、生干しの大根と一緒に煮染めにすると滅法うまかった。
このサエビが鯛の餌として、今や釣具店で100g1000円である。あまりにも阿呆らしくどこかにいないかと探したら糸田堰にいた。これをショウケで掬い。明日の天草での大漁を夢見ながら持って帰ったら、家族が「明日の鯛より今日のサエビ」と言って天麩羅にしてしまった。パサパサしており、おまけにヒゲがのどをこすぐり少しもうまくない。サエビが旨いというのは、昔いかに不味いものを食っていただけの咄である。
しかしダグマエビは美味しい。今は田口橋付近でガネテボに時々入ることがあるが、以前は捨て石に掃いて捨てるほどいて、ギッチンタビで容易に捕れた。
掃いて捨てるといえば、夕暮れ時、タカボーキで捨て石を2,3回掻き回すと運の悪いダグマやギッチンがヒゲをからませてあがってくるので、それを夕飯のシャーにしたという法螺話もある。
のこぎりなまず
豊饒だったのは川だけではない。井手にも魚がうようよいて、すべて食欲の対象であった。
田植えの水取りの晩はアガンナマズや鮒が水田に入ってくる。その上がり鯰をホーボリやヨギリにいき、松明で照らしながら泥だらけになって追いかけ、錆びて使えなくなった鋸で切り殺すのである。まるで夜盗である。膾になった鯰にとっては「ひょうたんなまず」同様、不条理な話である。
秋になり「井手落とし」の翌日は総出でクリホシをする。井手を仕切りバケツで干し上げると鯰、ハエ、泥鰌、時には鮎などが1人あたりショウケ一杯ほども捕れた。これらは竹串に刺して干しあげ、ムッカラ(麦わら)ツトに刺して吊して「ハザシ」にしておき正月の雑煮のダシになった。
どうしても石垣の穴から出てこないしぶとい魚には、最後の手段として石灰を水で溶いて流し込むと鰻や鯰やアナドグラがのたうちまわって出てくる。
冬には竹や木や藁を沈めてヌクメをつくり、集まった魚をクリホシをして捕った。この漁法は稚魚まで捕ってしまうので、ゴリヒキ同様現在では御法度である。
ちきりあゆ
ゴリヒキは数一〇mの荒縄に石と藁を交互につけ川が浅くて淀んでいる場所を両端を地引き網のように引く。驚いた小魚はあらかじめ沈めてあった帷子や蚊帳の中に逃げ込む。それを引き上げて捕るのであるが、部落総出の夏の日のレクレーションであった。ゴリやシビンタ、ハエゴ、それに縞ドジョウがよく捕れた。川下では貝殻を付けて引いたのでカラカラと呼ばれている。
最後にチキリで鮎を捕る話を一つ。
闇夜にチキリを引いて河原を歩くと、その音が巡査さんのサーベルの音に似ているそうである。密魚者はあわてて対岸に逃げ、智恵者は魚籠とその中の鮎を手中に治めることができるという。
これは官名詐称並びに威力業務妨害及び占有離脱物横領の罪であるが、何とものどかな時代の話である。
西鶴は既に300年前に「本朝二十不幸」で「(孟宗は年老いた母に食べさせようと雪中に筍を探し、姜詩は老母のために苦労して鯉魚を捕ったが、今は)雪中の筍は八百屋にあり鯉魚は魚屋にあり」と「本朝二十不幸」で揶揄しているが、わが甲佐では、鰻を食べたければ先ず裏山に行って竹を切ることから始めなければならない生活が、戦後まで続いていたのである。
