↑先日の記事、アクセス数が凄く多かったです。twitterで少しバズった後だったからだと思うのですが、この内容がこんなに興味を引いた事に驚いています。
↑これ
この記事ではできるだけ私見を挟まずに研究者の著述の内容だけを伝えたつもりです。今回は私見を交えて色々考えてみたいと思います。
↑先日の記事の肝。
「日本刀のルーツは蕨手刀じゃなくて方頭大刀という律令時代の朝廷の制式刀」という考えが、この領域の研究では既に支配的になっている、、、という話。
儀仗用の木柄刀と兵杖用(実用)の共鉄柄刀が存在した。木柄刀が日本刀に、共鉄柄刀が毛抜形太刀に、それぞれ変化していったという話です。
時代の流れでいうと共鉄柄刀から先に形状が変化し、追いかけるように後から木柄刀の形状が変化しています。
なぜ共鉄柄刀は日本から消滅してしまったのか?
毛抜形太刀ははじめは兵仗刀として使用されたと考えられています。しかし、その後完全に儀仗刀と化します。
↑儀仗化した毛抜形太刀と初期の太刀(日本刀)
そして、その儀仗化した毛抜形太刀を木柄刀で模したような形状が初期の日本刀(木柄刀)です。
毛抜形太刀は衛府(ロイヤルガード)の武官の佩用刀として採用された事から「衛府の太刀」と呼ばれました。時代が下ると「衛府の太刀」自体が儀仗化・名目化していきます。そして木柄刀に変わる。
衛府の太刀
コトバンクから抜粋
六衛府の武官が警衛のためにつけた兵仗(ひょうじょう)の太刀。のちに儀仗用の太刀として装飾用になった。柄に毛抜き形の飾りを設けるのを特色とした。柄の毛抜き形は鎌倉初期までは透かし彫りとし、以後は飾り目貫(めぬき)とする。毛抜き形の太刀。平鞘の太刀。革緒の太刀。陽の太刀。野太刀。
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奈良時代には柄に鮫皮(さめかわ)をきせて鞘に漆を塗り,金銀飾の長金物(なががなもの)を入れた唐大刀(からだち)とその略式である唐様(からよう)の大刀が行われ,平安時代になると唐大刀は飾太刀(かざだち)とよばれて儀仗の最高級となり,その略式は細太刀とよばれて帯剣を許された公卿の儀仗となった。兵仗は柄を毛抜形にすかしたのが特色で,衛府(えふ)の武官の常用として衛府(よう)の太刀といい,公卿も非常の際の実用としてこれを野太刀(のだち)ともいった。また儀仗用の太刀の緒の平緒(ひらお)に対して,兵仗用は革緒(かわお)を用いるので革緒の太刀ともいった。
↑衛府の太刀は木柄刀になり、毛抜形の目貫がつけられるようになる
こういう所から見ても、日本刀の成立にいたる過程は兵仗使用というよりも儀仗理由からのものなのでは?と考える次第です。
どういう理由からはわからないけど共鉄柄刀が消滅した。そして儀仗刀として生まれた日本刀が兵仗利用されるようになった。
兵杖利用に不向きな形状だったので、時代が下ると使用しやすいように形状が変化した。鎌倉~南北朝期にかけて柄反りがなくなり腰反りは輪反りになる。目釘穴の位置が鍔寄りに移動するetc...
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現状では蕨手刀が日本刀のルーツという説は否定的にとられているようなのですが、それでも蝦夷の刀剣の影響が日本刀に全く反映されていないのかというと、そこは疑問が残ります。
毛抜形太刀を「俘囚野剣」と呼んでいる記述があるからです。
「寛治二年白河上皇高野御幸記 」
寛治二年=1088年
「左衛門督藤原朝臣(藤原隆季)が俘囚野剣を帯びていたので、人々に奇異の感を抱かせた」という記述
俘囚=蝦夷です。
これが「蝦夷の刀」という意味なのか「蝦夷を殺す刀」というような意味なのかはわかりかねますが、何かしら蝦夷と関係があるのは間違いがない事かと思います。少なくとも、当時の人は毛抜形太刀が蝦夷と関係のあるものだ認識していた。
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旧来説で言われていた「蕨手刀→毛抜形蕨手刀→毛抜形刀→毛抜形太刀」という発展の系譜。共鉄柄の方頭大刀と蕨手刀のデザインが混ざって毛抜形太刀になっていったのかな?などと考えてしまいます。
現在説の「日本刀のルーツは蕨手刀ではない」というのは、形状の事というよりも構造のことだからです↓
↑旧説と新説
「蝦夷との同化」という意味だったり、「蝦夷を完全に併呑した」という意味だったり。なにぶん宗教・政治・軍事・芸術が全て密接かつ不可分だった時代です。刀剣にそのような事をあらわそうとしても不思議とも思いません。これらは古代~中世にかけて世界中で同様な事でもあります。
中央で陰陽師のような宗教官僚がデザインしたものだったのではないか?
大鎧もそのようなフシがあって、どちらにも地域制がない。
武士の起源とされる中央の軍事貴族が都で開発された太刀と大鎧を身に着けた姿。それが最初の武士だったのではないか?
末期の毛抜形太刀・初期の日本刀は実用よりも観念的な理由からの姿ではないのか?
実用よりもデザイン優先で作られた。
だから日本刀の姿は古い時代の物が最も美しく、時代が下ると美しさが低減する。デザイン優先で美しさを求めて生まれたものが、使いやすさを求めて使い方に合わせて変形していった。それが日本刀の歴史なのではないか。日本刀の姿の最終形態が末古刀であり軍刀。
「平安鎌倉期の太刀」と「末古刀・軍刀」
美しさだけでいえばどちらが優れているかは直感的にわかる、、、というか感じると思います。これは多くの愛刀家が経験する感覚なのではないでしょうか。
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日本刀の成り立ちについて、儀仗理由の事を書くと結構反発を受けます。「刀は武器だろ!」という意識が強すぎる人が多いのだと思います。もちろん研究者レベルではそうではないです。
戦前の将校用軍刀は武器ではなくて制服の一部です。法律でそう決まっていました。これは高位身分・指揮官身分の者にとっては古代以来ずっと同じなのです。出土している古代の銅剣のほとんどが祭祀用である事なども合わせて考えて欲しいと思ったりします。刀剣類が兵仗以外の理由で古代からたくさん作られてきたという点。
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最初に書いた通り、今回の記事の内容は完全に私の私見です。素人の妄想です。
それに、1個前の記事で書いたように兵仗理由からも色々考える事ができます。
専門家のさらなる研究が待たれますが、確定的な事がわかるような事はないのだと思います。でも、こうやって色々考えると楽しいよね、、、っていうレベルの話です。
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