日本に製鉄技術が伝わったのは5世紀後半だといわれています。

 

わからない事があります。

 

日本に伝わった「たたら製鉄」は古代ヒッタイト人が3000年以上前に行っていた製鉄技術と大差のないものです。

 

しかし、当時の中国ではそんな原始的な技術は既に廃れていたのです。

 

 

 

↑過去に書いたものですが、、、製鉄法は直接製鉄法と間接製鉄法の2種類に大別できます。

 

 

直接製鉄方法:

たたら製鉄がこれ。固体直接還元という理屈で、鉄を融解させず個体のまま精錬する方法。融解させないので低い温度で精錬可能。ただし「介在物=石などの非金属物:ゴミ」が多量に混入するので、ハンマーで叩いて(鍛錬して)物理的にゴミを排出する必要がある。熱して叩くとゴミが表面に浮き出る。つまり折り返し鍛錬をしないと利用できない。

 

間接製鉄方法:

鉄鉱石を高温で融解して液体にする方法。溶融した鉄に炭素を溶け込ませてて還元する。鋳鉄=鋳物は高炭素なので硬くて脆い。「介在物=石などの非鉄物:ゴミ」は液体の鉄の上に浮くので製鉄段階ですべて取り除ける。

 

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間接製鉄による鋳鉄の製造は中国では紀元前には行われていたのですが、作られる鋳鉄は炭素量が多くて脆くて鉄刀・鉄剣には向かなかった。それが改良されて5世紀までには可鍛鋳鉄というものが製造できるようになっていました。可鍛鋳鉄とは、ざっくりいうと鍛錬して(叩いて)炭素を抜いて柔らかくする事が出来る鋳鉄です。

 

鍛錬は必要ですが、たたら製鉄で作られた鉄材のようにゴミや空気が含まれないので折り返し鍛錬が必要なほど叩かなくてもよくなった。たたら製鉄のような直接製鉄法に比べれば格段に効率の良い製鉄方法です。

 

なぜこちらではなくて日本に伝来して普及したのは原始的な「たたら製鉄」だったでしょう?

 

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↑5世紀の東アジア

 

 

この図を見た時に「たたら=タタール」説の話を思い出しました。

 

タタル(韃靼)とよばれる契丹人が日本に製鉄技術を伝えたという話で、たたらの語源はタタルであるという話。

 

こういう「それらしいお話」は私はあまり好きではないし信じないタチなのですが、、、

 

中国の農耕地域で既に普及していた間接製鉄法ではなくて、遊牧民が行っていた原始的な製鉄方法が伝わって普及した?と考えると、意外とこの「たたら=タタール」説はリアリティがあるような気がしてきました。

 

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↑現在のトルコで生まれて発展した製鉄技術は、遊牧民族スキタイ人によってステップロード経由で東アジアに伝わったというのが定説です。

 

中国で本格的に製鉄が開始されたのは、春秋時代中期にあたる紀元前600年ごろです。この時期までにステップロード経由で中国の農耕地帯に製鉄技術が伝わっていた事は間違いない事なのだと思います。

 

その後中国では製鉄技術が大きく発展していって5世紀の時点では原始的なたたら製鉄のような方法はすっかり廃れてしまっていた。しかし、北方では遊牧民が原始的なたたら製鉄を続けていたようなのです。

 

前時代に匈奴がそのような製鉄を行っていた事が確認されています↓

 

研究成果の概要    
モンゴル国ホスティン・ボラグ遺跡などの発掘調査を実施し、複数の製鉄炉、鉱石焙焼炉や廃棄土坑などを検出した。放射性炭素年代測定から製鉄遺跡の年代は紀元前2世紀~紀元後1世紀であることが明らかとなった。また、炉形や土製羽口の検討や鉄滓の金属学的分析から製鉄技術の特徴の一端を明らかとした。本研究の推進により、紀元前2世紀の匈奴が鉄器生産能力を既に有しており、技術的系譜の一つを南シベリアに求められることが明らかとなった。これは中国の史書にも記載されておらず、これまでの匈奴のイメージを覆す大きな発見であった。

研究成果の学術的意義や社会的意義    
これまで遊牧国家は農耕国家によって記載された歴史書によるネガティブなイメージ(野蛮な殺戮者、文明の破壊者)に支配されてきたため、匈奴の手工業生産は著しく低く見積もられてきた。ホスティン・ボラグ遺跡の発掘成果から匈奴による鉄の独自生産が解明されたことは、これまでの匈奴のイメージを変える大きな発見であった。匈奴はその後の遊牧国家の“原型”とされており、本研究により考古学の立場から新たな遊牧国家像を提示することが可能となった。

 

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5世紀の契丹人の居住地域はかつての匈奴の支配地域と重なります。当然ながら彼らの製鉄技術が受け継がれているでしょう。匈奴はスキタイ人の文化を強く受け継いだといわれています。つまり、日本にいたる製鉄技術は中国の農耕地帯に由来せず「ヒッタイト→スキタイ→匈奴→契丹→日本」こういう伝搬ルートなのかもしれません。

 

契丹人が当時既にタタル(韃靼)と呼ばれていたのかどうかには疑問が残ります。この名が定着したのはもっと後の時代のことではないかとも思われます。そして「たたら」という語がいつから使用されているのかもわかりません。

 

しかし、当時の日本には大陸から多くの集団が移民(難民)として移住してきていますので、抗争に敗れた契丹人の一群が朝鮮半島経由または直接ウラジオストックあたりから船で渡来して住み着いた可能性も低くはないと思います。

 

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厳密には鋳鉄の技術も日本に伝わったようなのですがあまり普及・発展しなかったようです。日本の国情に合わなかったのかもしれません。

 

 

改めて東アジアの5世紀の地図

 

古墳時代の日本は鮮卑系の北魏から文化の影響を強く受けていますし、南の宋とも繋がりが強い。倭の五王が宋に使者を送った話は史書にも残されていて高校の日本史でも習ったかと思います。

 

当時の日本は北魏や宋とも繋がりが深かったわけです。だから「日本の製鉄技術は北魏(中原地域)や宋(江南地域)に由来するものではなくて、契丹人によるものだ!」などと言い切れるようなものでは到底ありません。

 

でも、そういう伝搬ルートもあったのかなと考えると面白いし、それを否定する史料もありません。なにより、先進的な中国王朝の間接製鉄法ではなくて、日本にヒッタイト以来の原始的な「たたら製鉄」が伝わった理由として辻褄が合うと思うのです。

 

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「ヒッタイト→スキタイ→匈奴→契丹→日本」

「たたら=タタール」

 

これらは歴史学の専門家の説として昔からあるものなのでトンデモ系の珍説の類ではありません。

 

以下抜粋↓

 ---- 村上恭通愛媛大教授「鉄と匈奴」シンポ 基調講演より
 この「匈奴」の時代 日本は弥生時代で鉄器時代には入ったものの、まだ 製鉄技術はなく、中国大陸から「鋳造鉄斧」などの鉄器が使われだした時代である。その後 移入鉄器や素材にして鍛冶加工して鉄器作りが進むが、日本で製鉄が始まるのは5世紀後半。
 しかも、中国の先端技術であった溶融鉄還元間接法が広く行き渡っている東アジアの中で、大陸・朝鮮半島と広く交流があったにもかかわらず、唯一ヒッタイトの鉄からつながる塊錬鉄直接製鉄法である≪たたら製鉄≫が始まる。
なぜ、効率よく量産できる溶融鉄還元間接法でなく、塊錬鉄直接製鉄法が伝わり、その後長くこのたたら製鉄が行われ続けたのか???
 東アジアで塊錬鉄直接製鉄法が消えてゆく紀元前2世紀の漢の時代から5世紀にかけて、この塊錬鉄直接製鉄法を受けついできた地域がきっとどこかにあるはずと。いまだにこのたたら製鉄の伝来ルートは謎のままである。
 ところが、中国では溶融還元間接法での量産製鉄をすでに始めていた紀元前3世紀から紀元1世紀にかけての匈奴の時代に、製鉄技術を持たぬと思われていた「匈奴」は塊錬鉄製鉄法で鉄を作り、世界を駆け巡っていた。

 

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ちなみに、タタール人という言葉は現在ではアジア系の遊牧民族全体の総称として使用されています。ヨーロッパ、主にロシアで。ここを混同してはいけません。元々はモンゴル東部に住む遊牧民に対しての呼称です。突厥というテュルク系遊牧民族がモンゴル東部に住むモンゴル系部族を指して使用した語で、その後中国王朝でも彼らに対してタタル(韃靼)の語が使用されるようになったとwikipediaに書かれていました。

 

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